ナツィオナーレ通りです。
通りに面して建っているサン・ヴィターレ聖堂です。
ナツィオナーレ通りよりも低い場所に建ってます。長年に渡る土砂の堆積に拠るのか、初期キリスト教会を前身とする教会は現在の地表の高さよりも低い場所に建っていると思います。
正式名称は、Basilica dei Santi Vitale e Compagni Martiri in Foveaとなってます。
4世紀、現在聖堂がある場所に聖ヴィターレの二人の息子聖ゲルヴァシオと聖プロタシオに捧げる礼拝堂が建設されましたが、その礼拝堂が前身です。
4世紀後半、礼拝堂は取り壊され、三身廊のバジリカが再建され、402年、第40代教皇インノチェンツォ1世(在位:401‐417)によって奉献式が執り行われました。
三身廊のバジリカ様式の二代目の建物は、8世紀終わりから9世紀初めにかけてと中世の時代(具体的な世紀は不明)に修復されました。
1475年、第212代教皇シスト4世(在位:1471‐1484)によって再建され、更に1595年、第231代教皇クレメンテ8世(在位:1592‐1602)によって再建されました。修復、再建を繰り返しましたが、二代目の建物の基本部分の一部は今も留めているそうです。
1859年、第255代教皇ピウス9世(在位:1846‐1878)によって、道路から聖堂に下りる階段が追加されると共に内部が大修復されました。
1937年から1938年にかけて入り口などが修復されましたが、現在の姿は、この修復後のものです。
ファサードの柱廊
柱廊の出入り口
初期キリスト教時代の柱廊が今でも残ってます。
柱廊から見た階段
17世紀に制作された木彫りの扉
柱廊の柱の柱頭
この部分は古い造りです。
聖堂内に入ります。
バジリカ様式風ですが、何処となく新しい感じがします。
後陣の構造は初期キリスト教会風で、当初はモザイクがあったと思われます。
1859年に1595年の再建時の姿に復元された内部です。
木の床は1934年のものです。
木の天井も1934年のものです。
主祭壇と後陣
後陣にはモザイクがあったと思います。
後陣のフレスコ画は、アゴスティーノ・チャンペリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)の「聖ヴィターレの殉教」
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)とアンドレア・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)によって描かれたフレスコ画
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)とアントニオ・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)のフレスコ画
アゴスティーノ・チャンペリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)のフレスコ画
アゴスティーノ・チャンペッリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)のフレスコ画
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画
不知の紋章
祭壇画を見て行きます。
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「聖人たちの告解」
アンドレア・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)のフレスコ画
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「殉教聖女たち」
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「無原罪の聖母」
礼拝堂の祭壇
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画
主祭壇と後陣をもう一度見てから外に出ました。
(この項、おわり)