イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:マルケ州 > ファーノ

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サンタントニオ・アバーテ教会が見える店で昼食を食べます。


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お腹一杯になりました。酔い覚ましのブラブラ歩きです。


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サン・トンマーゾ・アポストロ教会前で大道芸人が演技中でした。


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サン・トンマーゾ・アポストロ教会の存在が1178年に記録に初めて記載されたそうです。


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ネオ・ゴシック様式のファサードは1897年に再建されたものです。


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浮彫下の碑文は創建時のオリジナルです。


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浮彫は19世紀末の新しいものです。


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中に入りました。


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「磔刑」のフレスコ画(16世紀)


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ビール一杯とワイン一本飲んだだけでしたが、かなり効いてます。


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直ぐにトイレに行きたくなって困りました。


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サン・ぺテルニアーノ聖堂の鐘楼です。


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トイレ休憩のため、バールを探します。


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トイレを済ませて、ホッとしながら酔い覚ましの散歩です。


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比較的見所が多いと思うファーノですが、日本人には全く人気がないようです。


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美味しい魚料理に美味しいワインがあるので、もう少し人気が出ても良いと思います。


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ウルビーノに簡単に行き来できるファーノです。


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ファーノではブランド品は売ってません。


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サンガッロ要塞に向かいます。


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年を取るということは、友人たちの訃報に接することだ、と痛感してます。


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サンガッロ要塞にやってきました。


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13世紀末からマラテスタ家の支配を受けるようになったファーノですが、街の防衛力強化を企図したマラテスタ家によって城壁の拡大整備が行われました。


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サンガッロ要塞の中に入りました。


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マラテスタ家のファーノ支配は、1463年に終わりを告げました。
最後のファーノ候シジスモンド・マラテスタ(ブレーシャ、1417-リミニ、1468)は、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)とフェデリーコ率いる教皇軍に敗れてファーノを放棄したのです。


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ファーノは、教皇領となりましたが、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の生存中はフェデリーコの治世下に置かれましたが、フェデリーコ公が没すると教皇庁の支配下になりました。


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第219代教皇クレメンテ7世・デ・メディチ(フィレンツェ、1478-ローマ、1534 教皇在位:1513-1534)は、1532年、マルケ地方の防衛構造強化を打ち出し、その一環として新要塞の建設が決定されました。
マルケ地方の防衛力強化について、教皇お抱えの建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ(フィレンツェ、1483-テルニ、1546)が起用され、ファーノ新要塞の設計がアントニオによって行われました。


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しかし、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネはアンコーナ要塞などで多忙であり、ファーノ要塞の建設には中々着手出来ませんでした。


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新たにルカ・サンガッロが起用され、アントニオ設計に基づき、要塞の建設が開始されました。


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1550年の聖年に教皇となった第221代教皇ジュリオ3世(モンテ・サン・サヴィーノ、1487-ローマ、1555 教皇在位:1550-1555)は、要塞の完成を急がせ、ようやく1552年にサンガッロ要塞が完成しました。


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サンガッロ要塞の名称は、設計と建設工事を担当した二人のサンガッロに因んでます。


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1910年に始まった都市計画によって、城壁と要塞が破壊されるようになりました。


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城壁と要塞の破壊は徐々に進められましたが、1970年頃から歴史遺産保存運動が高まりと共に破壊作業が中断され、やがて修復、復元されるようになりました。
2007年にサンガッロ要塞の復元工事が完了しました。


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ファーノ駅の駅舎が見えてます。


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サンガッロ要塞は駅前にあるのです。


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海水浴場として有名なファーノ海岸に向かいます。
駅の直ぐ向こうが海岸です。


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ファーノ海岸です。


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海に入る人がいたので驚きました。


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そうは言っても海水浴客は誰もいませんでした。
(おわり)

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次は、Arco d'Augusto アウグストゥス門を詳しく見ます。


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紀元前220年、監察官ガイオ・フラミニオ(ガイウス・フラミニウス)(ローマ、紀元前265-トラジメノ、紀元前217)によって、ローマからリミニを結ぶフラミニウス街道(フラミニア街道)が敷設されました。


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ファーノは、フラミニウス街道の重要な拠点の港町でした。
起点であるローマのポポロ広場からアペニン山脈を越え、ここファーノでアドリア海に達し、更にペーザロ、リミニへと向かう、北に向かう重要な街道における交易においても、軍事的にも重要な拠点だったのです。


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ガイウス・フラミニウスがフラミニウス街道を敷設した際に、門を築いたとされてますが、ファーノのフラミニウス街道上の具体的な場所は不明のようです。


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ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの治世下の時代、各街道の整備が行われましたが、フラミニウス街道(フラミニア街道)だけは皇帝アウグストゥス自ら整備を指揮しました。
当時、ファーノは、アドリア海に入ってから上陸してローマに向かう外敵に対する軍事拠点と、アドリア海における重要な貿易拠点とされており、街道だけではなく、街全体が特に念入りに整備されました。
その記念として、西暦9年頃に建設されたのがアウグストゥスの門です。


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凱旋門だったという説が有力です。


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門の構造図


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20世紀初頭のアウグストゥスの門です。
かなり荒廃していたことが分かります。


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1931年の写真


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1940年の写真
アウグストゥスの門は辛うじて第二次世界大戦の爆撃被害がなかったようです。


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サン・ミケーレのロッジャ側から見たアウグストゥスの門です。


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サン・ミケーレ教会ファサードの右側にあるアウグストゥスの門の浮彫です。


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Porta Maggioreを見ます。


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市域の拡大によって、14世紀から15世紀にマラテスタ家によって、アウグストゥスの門の先に新たな城壁が築かれましたが、その際、フラミニウス街道(フラミニア街道)からファーノの市域に入る門がPorta Maggioreです。


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軍事的色彩が強い門です。


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城壁外は見所があまりないので、元に戻ります。


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アウグストゥスの門を潜って旧市街に入ります。


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マルティーノ通りです。通りに面して教会があります。


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サンタ・マリア・デル・スッフラージョ教会です。


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1592年に建設されたサンタ・トリニータ教会が前身です。1618年、所有者が変わって、サンタ・マリア・デッル・スッフラージョ教会に改称されました。


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入口扉上の紋章


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鐘楼(1692c)


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教会の内部


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スタッコ彫刻による装飾が多いと思います。


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ジュゼッペ・マリア・マッツァ(1653-1741)の「永遠なる父」(1710)


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主祭壇画の「磔刑」(16世紀)


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モンテヴェッキオ通りを進みます。


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振り返るとサンタ・マリア・デル・スッフラージョ教会の鐘楼が見えました。


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旧サンタゴスティーノ修道院の壁です。


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サンタゴスティーノ教会のファサードです。


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修道院は閉鎖されましたが、教会の方は現役です。


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キオストロ回廊のフレスコ画が見物とされてますが、劣化が著しく感心しません。


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教会の方も閉鎖されたと思います。


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裏通りから賑やかな所に出ます。


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昼食を食べなくては。


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(つづく)

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次はアウグストゥス門とサン・ミケーレ教会です。


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アウグストゥス門です。門に向かって左側にロッジャがあります。


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サン・ミケーレ修道院教会のロッジャです。


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アウグストゥス門を潜って、門の左側、門に向かって右にサン・ミケーレ教会があります。


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ロッジャ、修道院、門、教会が一体化されて建ってます。


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比較的新しく見えるのは、1926年に殆ど再建に近いような大修復をされたからです。


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ロッジャに入ってみましたが、特に見所がないようです。アウグストゥス門を潜って城壁外に出ます。


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アウグストゥス門を潜って城壁外に出ました。


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アウグストゥス門に向かって右側にサン・ミケーレ教会があります。


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15世紀中頃、サン・ミケーレ同信会は新教会の建設を決めましたが、当時、ファーノはシジスモンド・マラテスタの支配下にありましたが、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが率いる教皇軍に包囲されて身動きできない状況にありました。
1463年、シジスモンドは敗れて、ファーノはフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の支配下に置かれました。サン・ミケーレ同信会は、新領主のフェデリーコに願い出て、アウグストゥス門と、その近くの破壊された城壁とローマ時代の遺跡の石などを利用して、現在の場所に教会を建てることが許されました。


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そうして、サン・ミケーレ修道院教会が1469年から1490年頃に建設されました。


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1797年、ナポレオンの抑圧令によって、修道院教会は閉鎖され、その後、倉庫などの転用されましたが、1870年頃に放棄され、建物は荒廃する一方になりました。


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これらの写真は、修復工事が着工される前の20世紀初め頃に撮られたものです。


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現在の建物は、修復工事が完了した1926年後のものです。


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ファサードの入り口上の彫刻が有名です。


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ベルナルディーノ・ディ・ピエトロ・ダ・コロナの「大天使聖ミケーレと受胎告知」(1511-12)


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ファサードの、向かって左にあるアウグストゥスの碑文


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ファーサードの、向かって右側


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大天使聖ミケーレのシンボル


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サン・ミケーレ修道院教会は、普段開いていないのですが、この日は特別に中に入ることが出来ました。
現在はMuseo della Via Flaminiaとして一般公開されてます。


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宗教施設ではないので、信者席などは設けられておらず簡素です。


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左側壁


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主祭壇


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後陣にフレスコ画断片があります。
逸名画家作「聖セバスティアーノ」(15世紀末)


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主祭壇画は、ラッファエッリーノ・デル・コッレ(ボルゴ・サン・セポルクロ、1495-1566)の「受胎告知と聖ピエトロ・マルティーレと聖バルバラ」


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ローマ時代の遺跡が教会内にあります。


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遺跡を見て回ります。


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修道院です。


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キオストロです。


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ロッジャからキオストロに行けますが、この日はロッジャの扉が閉まったままでした。


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キオストロ回廊の一階(日本の二階)に上りました。


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キオストロを見下ろしました。


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復元された柱廊です。


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フレスコ画の痕跡


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教会から見たアウグストゥス門です。
(つづく)

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次はドゥオーモです。


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ドゥオーモは、Via Arco D'Augustpのアウグスト門近くになります。


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ファーノのドゥオーモ、Basilica Minore e Cattedrale di Santa Maria Assunta、ファーノ₌フォッソンブローネ₌カーリ₌ぺルゴラ司教区の司教座教会です。
1953年、第260代教皇ピオ12世(ローマ、1876-カステル・ガンドルフォ、1958 在位:1939-1958)によってBasilica Minoreに格付けされました。


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8世紀半ばに建設されたサンタ・マリア・マッジョーレ教会が前身です。そのため、別名サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂と呼ばれてます。


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8世紀半ばに建設された最初の建物は、1124年の火災によって消失してしまいました。
二代目のロマネスク様式の建物が1135年に創建され、1159年に完成しました。屋根が欠けられた1140年に奉献式が執り行われました。


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煉瓦と砂岩で出来た現在のファサードは、1928年に行われた修復工事の際に、元のロマネスク様式に復元された新しいものです。二代目の建物のファサードは、数度改造されていたのです。


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1944年8月に第二次世界大戦のドイツ軍の爆撃によって破壊されたので、戦後に再建された現在の鐘楼です。


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爆撃前の鐘楼です。


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爆撃で破壊された鐘楼の土台部分が残されてます。土台部分は8世紀半ばに創建された教会の洗礼堂だったそうです。


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左外壁


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ファサードの柱頭


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ファサードの柱頭


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入口扉上の装飾


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ロマネスク様式の彫刻


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入口扉


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改造、修復の結果、かなり新しく見える聖堂内部です。


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美術的には幾つかの見所があります。


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アンドレア・リッリ(アンコーナ、1570-ローマ、1631)の「聖母被昇天」(1606)


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Cappella dei Santi Protettoriの祭壇画は、ルドヴィーコ・カッラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「天上の聖母と聖オルソと聖エウセビオ」


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Cappella Nolfiです。


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Cappella Nolfiは、ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)のフレスコ画「聖母の物語」(1618-19)があるので必見です。


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の誕生」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の神殿奉献」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の結婚」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「受胎告知」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「ご訪問」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「ご誕生」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「神の母性」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「マギの礼拝」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「キリストの神殿奉献」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「割礼」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「エジプトへの逃避」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の死」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母被昇天」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母戴冠」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「悲しみの聖母」(1618-19)


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説教壇


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説教壇の彫刻


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聖母の礼拝堂


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セバスティアーノ・チェッカリーニ(ファーノ、1703-1783)の「天上の聖母子とファーノを守護する四聖人」(1750)
(つづく)

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旧市街の中心9月20日広場に向かいました。


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9月20日広場は青空市の真っ最中でした。


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これでは広場に面して建つ歴史的建造物の写真が撮れません。


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テントの後方に写っているのはサン・シルヴェストロ教会です。


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12世紀に遡るサン・シルヴェストロ教会は、1606年に現在の姿に改造されました。


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中に現代のフレスコ画があります。


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美術的な見所としては、主祭壇画だけと思います。


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主祭壇画です。


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ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566-1643)の「Madonna del Ponte」


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現代のフレスコ画


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9月20日広場のFontana della Fortuna


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Fontana della Fortunaの上にあるブロンズ像は、ドンニーノ・アンブロージ(ウルビーノ、16世紀後半-17世紀初頭活動)の「フォルトゥーナの女神」(1593)


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非常に賑わっている青空市でした。


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1299年に建設されたPalazzo del Podestaです。


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鐘楼がありましたが、第二次世界大戦後に市民の塔と呼ばれる時計塔にとってかわられたそうです。


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Palazzo del Podestaを見ます。ファサードの有名な三聖人のトリッティコがあります。


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三聖人(聖パテミアーノ、聖フォルトゥナート、聖エウセビオ)のトリッティコ


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Palazzo del Podestaファサードの下に柱廊があります。


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その柱廊に劇場の入り口があります。
19世紀、建築家ルイージ・ポレッティ’モデナ、1792-ミラノ、1869)の設計によって、Palazzo del Podestaは劇場に改造されました。


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9月20日広場からPalazzo Malastianaに入ります。


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Palazzo Malastianaは市立美術館になってます。


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Palazzo Malastianaです。


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ファーノのマラテスタ家支配は、ガレオット1世・マラテスタ(リミニ、1300c-チェゼーナ、1385)がマラテスタ家当主だった1357年に始まりましたが、ファーノ領主に相応しい宮殿として1357年にPalazzo Malastianaの建設が開始されました。
ガレオット1世の息子パンドルフォ3世・マラテスタ(ファーノ、1370-1427)は、父が建設した宮殿が気に入らず、一部を改造するとともに増築しました。
パンドルフォ3世の息子シジスモンド・マラテスタ(ブレーシャ、1417-リミニ、1468)は、1440年頃に建築家マッテオ・ヌーティ通称マッテオ・ダ・ファーノ(コルフィオリート、1405-ファーノ,1470)に対して、Palazzo Malastianaの改修とさらなる増築が命じられ、1463年に完成しました。
1463年、ファーノは、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)の支配下に置かれるようになりました。
ファーノの領有権が変わる毎にPalazzo Malastianaの所有者が変わりました。


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Palazzo Malastianaは、一時期Municipioとして使用されました。


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Museo Civicoとして使用されるようになったのは、1898年からです。


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Palazzo Malastianaの柱廊にも展示物が置かれてます。


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入館します。


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モザイクの展示


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この時は、写真不可でした。


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Maestro di Roncaietteの「Polittico Chiesa di Roncaiette di Ponte San Nicolo」


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ミケーレ・ジャンボノ(ヴェネツィア、1400-1462)の「聖母子と聖人たちのポリッティコ」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「エジプトへの逃避途中の休息」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「帯の聖母」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「病人を治す聖ピエトロ」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「ヴィッラノーヴァの聖トンマーゾに顕現する聖母子」
(つづく)

先ずサン・ぺテルニアーノ教会の続きです。
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ジュスト・チェスピ(ファーノ、1867-1954)の「グエルチーノ作『聖母の結婚』のコピー画」


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主祭壇


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バルトロメオ・モルガンティ(ファーノ、1493-1538)の「天上の聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナと聖ルチアと聖アガタと聖アグネス」(1530c)


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クラウディオ・リドルフィ通称クラウディオ・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1570c-コリナルド、1644)の「聖母子と聖セバスティアーノと聖カルロ・ボッロメオ」(1620c)


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外に出ました。


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Via del Lecciにある学校 Liceo Artistico Apolloni Adolfoです。


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サン・ピエトロ・イン・ヴァッレ教会にやってきました。


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778年に建設されましたが、何度も地震の被害を受けて荒廃してしまい、12世紀頃に放棄され廃教会となってしまいました。


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16世紀末、Congregazione dei Padri dell' Oratorio di San Filippo Neriによって、廃墟の上に教会の再建が決定され、17世紀初めに建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・カヴァーニャ(ローマ、1545c-ロレート、1613)に建築が委嘱されました。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・カヴァーニャの設計によって、1610年に創建されましたが、工事途中の1613年、カヴァーニャが没してしまいました。1617年にマルケ・バロック様式の建物が完成し、同年、奉献式が執り行われました。


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この教会には有名画家の作品が数点ありましたが、フランス軍によって強奪されてから戻されていません。


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中に入りました。一見して現役?の教会ではないと思いました。


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教会の構造図です。


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主祭壇です。
グイド・レーニの主祭壇画「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」がありましたが、1797年、ナポレオンのイタリア侵攻の際、フランス軍によって強奪されフランスに持ち去られてしまいました。
現在は、グイド・レーニ作品のコピー画が主祭壇に置かれてます。


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グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」(1626)
本物は、フランスからイタリアに戻されることなく、ルーブル美術館で展示されてます。


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マルコリーニ礼拝堂です。


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ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の「磔刑像」


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クーポラ


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アントニオ・ヴィヴァリーニ(ウルビーノ、1560-1620)による天井フレスコ画(1618-20)


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説教壇


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華美で派手な装飾が自慢のようです。


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オルガン


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ファサードの裏です。


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外に出ます。


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サン・ピエトロ・イン・ヴァッレ教会の右側壁を通り過ぎ、旧サン・フランチェスコ教会に向かいます。


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サン・フランチェスコ修道院教会です。


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この日は施錠されていて、中に入ることが出来ません。


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1255年に創建され、1323年に完成した最初の建物は、度重なる地震によって荒廃してしまいましたが、1696年に火災に遭い、建物が危険になったものの、それでも修道院活動が行われていました。
しかし、18世紀半ばを過ぎると非常に危険になったので、最初の建物を取り壊し、その上に再建が決まり、建築家フランチェスコ・マリア・チャラッフォーニ(ファーノ、1,720-アンコーナ、1802)の設計、建築工事監督によって1763年から1774年に再建されました。
しかし、ナポレオンの抑圧令によって活動が停止され、倉庫、厩舎、兵舎などに転用されました。1912年、建物の老朽化によって放棄されることになりました。
1916年と1924年に地震によって大きな被害を受けたものの、修復工事は行われないまま、非常に危険な建物と判断され、1930年に屋根が破壊されました。
1950年、貴重な文化遺産と判定され、立ち入りが可能になるように修復されることになりました。


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柱廊に幾つかの墓があります。


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柱廊にあるパオラ・ビアンカの墓


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マッダレーナ・フェッロ―ニの墓


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ボッカッチ家の紋章


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礼拝堂に残されている天使像


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夏季は野外劇場などに使用されてます。
(つづく)

ファーノは、人口60,728人(2019年12月31日現在)のマルケ州ペーザロ₌ウルビーノ県にあるコムーネです。ローマ時代に重要な役割を果たした歴史ある街です。
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前泊地は、マルケ州のセニガッリアでした。


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セニガッリアからファーノに向かいます。


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朝の通勤通学時間帯で混雑が予想される上に、大きな荷物があったので、一等車に乗りました。流石に空いてました。


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ファーノ駅に到着しました。


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ファーノ駅の駅舎です。
ファーノ海岸は白砂の海水浴場で有名です。夏場は海をとずれるヴァカンス客で大混雑します。ホテルは一週間以上止まらないと予約を受け付けない所が多いので、一泊しか止まらない私は夏場を避ける一手です。この時、季節は中秋、10月でした。


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駅前に高い城壁が聳えてます。


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サンガッロ要塞とファーノの城壁です。


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サンガッロ要塞の見学は後にして、この日のお宿に向かいます。


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城壁の高さは4メートル以上あります。


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要塞と城壁沿いのVia Mura Malastianaをホテル方向(リミニ方向)に進みます。
ファーノのホテルは海水浴向けの海岸沿いに数多くありますが、旧市街には良いホテルがありません。已む無く城壁沿いの道を歩いて城壁外のホテルにしました。


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直ぐにマラテスタ要塞が見えてきます。要塞の先に、この日のお宿があります。


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ファーノ領主だったシジスモンド・マラテスタ(ブレーシャ、1417-リミニ、1468)の命によって、建築家マッテオ・ヌーティ通称マッテオ・ダ・ファーノ(コルフィオリート、1405c-ファーノ、1470)が起用され、マッテオの設計によって1438年から1452年に建設されたマラテスタ要塞です。


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1463年まで拡張工事が続きました。


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さらに16世紀前半、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ(フィレンツェ、1484-テルニ、1546)によって増強改修されました。


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長年の風化劣化と第二次世界大戦の爆撃によって、マラテスタ要塞は荒廃してしまいました。1972年になって漸く復元工事が行われるようになり、2017年に現在の姿に蘇りました。


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この日のお宿です。
チェックインを済ませてから街歩きに出発しました。


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城壁内に入り、Piazza Fratelli Rosselliから街歩き開始です。


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サンタントニオ・アバーテ教会です。


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9世紀頃にこの場所にあった地元の人が祈りを捧げる祠が前身です。


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15世紀に教会の建物が建設され、現在の姿は18世紀に再建された二代目のものです。


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6つの礼拝堂に区切られた、ほぼ円形の内部です。


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この教会の作品については全く知りません。


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次は、サン・ぺテルニアーノ修道院教区教会です。


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サン・ぺテルニアーノ教区教会です。


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5世紀半ばにガッラ・プラチディアによって建設された修道院が前身です。


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修道院に礼拝堂がありましたが、付属教会を建てることになり、12世紀に最初の建物が建設されました。現在の建物は1566年に再建された二代目のものです。


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サン・ぺテルニアーノ修道院のキオストロです。


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キオストロ回廊


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回廊の壁にフレスコ画があったと思われますが、残されていません。


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教会内に入りました。


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主祭壇


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「父なる神」(フレスコ画)(詳細不知)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ラガッツィーニ(ラヴェンナ、1520-1591)の「天国」


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バーリの聖二コラ礼拝堂


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Cappella del Santo


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(つづく)

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