
サンタントニオ・アバーテ教会が見える店で昼食を食べます。




お腹一杯になりました。酔い覚ましのブラブラ歩きです。

サン・トンマーゾ・アポストロ教会前で大道芸人が演技中でした。

サン・トンマーゾ・アポストロ教会の存在が1178年に記録に初めて記載されたそうです。

ネオ・ゴシック様式のファサードは1897年に再建されたものです。

浮彫下の碑文は創建時のオリジナルです。

浮彫は19世紀末の新しいものです。


中に入りました。

「磔刑」のフレスコ画(16世紀)

ビール一杯とワイン一本飲んだだけでしたが、かなり効いてます。

直ぐにトイレに行きたくなって困りました。

サン・ぺテルニアーノ聖堂の鐘楼です。

トイレ休憩のため、バールを探します。

トイレを済ませて、ホッとしながら酔い覚ましの散歩です。

比較的見所が多いと思うファーノですが、日本人には全く人気がないようです。

美味しい魚料理に美味しいワインがあるので、もう少し人気が出ても良いと思います。

ウルビーノに簡単に行き来できるファーノです。

ファーノではブランド品は売ってません。

サンガッロ要塞に向かいます。

年を取るということは、友人たちの訃報に接することだ、と痛感してます。

サンガッロ要塞にやってきました。

13世紀末からマラテスタ家の支配を受けるようになったファーノですが、街の防衛力強化を企図したマラテスタ家によって城壁の拡大整備が行われました。

サンガッロ要塞の中に入りました。

マラテスタ家のファーノ支配は、1463年に終わりを告げました。
最後のファーノ候シジスモンド・マラテスタ(ブレーシャ、1417-リミニ、1468)は、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)とフェデリーコ率いる教皇軍に敗れてファーノを放棄したのです。

ファーノは、教皇領となりましたが、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の生存中はフェデリーコの治世下に置かれましたが、フェデリーコ公が没すると教皇庁の支配下になりました。

第219代教皇クレメンテ7世・デ・メディチ(フィレンツェ、1478-ローマ、1534 教皇在位:1513-1534)は、1532年、マルケ地方の防衛構造強化を打ち出し、その一環として新要塞の建設が決定されました。
マルケ地方の防衛力強化について、教皇お抱えの建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ(フィレンツェ、1483-テルニ、1546)が起用され、ファーノ新要塞の設計がアントニオによって行われました。

しかし、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネはアンコーナ要塞などで多忙であり、ファーノ要塞の建設には中々着手出来ませんでした。

新たにルカ・サンガッロが起用され、アントニオ設計に基づき、要塞の建設が開始されました。

1550年の聖年に教皇となった第221代教皇ジュリオ3世(モンテ・サン・サヴィーノ、1487-ローマ、1555 教皇在位:1550-1555)は、要塞の完成を急がせ、ようやく1552年にサンガッロ要塞が完成しました。

サンガッロ要塞の名称は、設計と建設工事を担当した二人のサンガッロに因んでます。

1910年に始まった都市計画によって、城壁と要塞が破壊されるようになりました。

城壁と要塞の破壊は徐々に進められましたが、1970年頃から歴史遺産保存運動が高まりと共に破壊作業が中断され、やがて修復、復元されるようになりました。
2007年にサンガッロ要塞の復元工事が完了しました。

ファーノ駅の駅舎が見えてます。

サンガッロ要塞は駅前にあるのです。

海水浴場として有名なファーノ海岸に向かいます。
駅の直ぐ向こうが海岸です。

ファーノ海岸です。


海に入る人がいたので驚きました。

そうは言っても海水浴客は誰もいませんでした。
(おわり)