イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:トスカーナ州 > ポッジボンシ

引き続きサン・ドメニコ教区教会です。
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フランチェスコ・ボッティチーニ(フィレンツェ、1446-1497)の「無原罪の御宿リ」


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戦後に行われた修復工事の際に発見されたフレスコ画です。


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トスカーナの逸名画家作「授乳の聖母」(14世紀)


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この祭壇画の詳細が分かりません。


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支払い記録が教会の方で残っていれば、制作者や制作年が分かると思います。


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ネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1419-1491)の「トレンティーノの聖二コラ」


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詳細不知


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詳細不知


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外に出ました。


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鉄道線路の先のスタッジャ地区に向かいます。


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Piazza Imre Nagy


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ヴィットリオ・ヴェネト通りを進みます。


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鉄道線路の下を潜ってスタッジャ地区に向かいます。


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Largo Dino Bellucciにある磔刑像です。


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スタッジャは、現在ポッジボンシに組み入れられてますが、10世紀から11世紀に建設されたスタッジャ要塞を囲んで、13世紀に城壁が築かれた町です。


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城壁、要塞、古い教会などが取り壊され、殆ど見どころが無いスタッジャ地区です。


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トスカーナ名物の糸杉


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Confraternita di Misericordiaの建物です。


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教会の機能も兼ねてます。


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サンタ・マリア・アッスンタ参事会教会の鐘楼が見えてます。


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スタッジャ地区からポッジボンシの旧市街に戻ります。


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トレント通りです。


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トレント通りを真直ぐ進めば駅に出ます。


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Via Giovanni Montorsoliです。


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ホテルに戻りました。


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この日は、これで終わりです。


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翌朝です。


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朝の散歩に出ました。


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そろそろサン・ジミニャーノ行きのバスの出発時間です。


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駅前のバスターミナルに向かいました。


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バスターミナルでバスを待ちました。
(おわり)

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サヴォナローラ広場です。


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広場の名称は、勿論フィレンツェで神権政治を行い、刑死したジローラモ・サヴォナローラに因んでます。


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フィレンツェのサン・マルコ修道院の院長だったジローラモ・サヴォナローラ(フェッラーラ、1452-フィレンツェ、1498)は、フランス軍の侵攻を予想していましたが、1494年、実際にフランス王シャルル8世(アンボワーズ、1470-1498)によって率いられたフランス軍がイタリアに侵攻したことによって、サヴォナローラの権威が確立され、フィレンツェでサヴォナローラによる神権政治が始まりました。


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前置きが長くなりましたが、サン・ロレンツォ教区教会がサヴォナローラ広場に面して建ってますが、広場の名称は、1495年、サン・ロレンツォ教区教会でフランス王シャルル8世とサヴォーナローラが面会したことに由来してます。


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扉が未だ閉まってます。
イギリス・カンタベリーからローマを結ぶVia Fracigenaが、カステルフィオレンティーノ、チェルタルド、ポッジボンシ、シエナに到達するようになった12世紀頃に初代の建物が建設され、直ぐに教区教会になりました。Via Fracigenaは一本の道路ではなく、幾つかのルートがありました。


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現在の建物は、14世紀初頭に再建された二代目となるものです。


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しかし、700年に時を経るうちに幾度となく改装、修復が繰り返さされ、14世紀初頭の創建時の姿とはかなり異なるようです。


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これは第二次世界大戦で爆撃される以前に撮られた写真です。


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扉が開きました。


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戦後に部分的に再建された建物が現在の姿になってます。


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後陣


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鐘楼


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鐘楼は後陣右に立ってます。


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右側壁


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外から見えるステンドグラス


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中に入りました。


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三廊式です。建築様式は、改装を経ているので、部分部分で異なります。ロマネスク、ゴシック、バロック、ネオ・ゴシック様式が混在しています。


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木組みの梁天井


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左側廊


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右側廊


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後陣を見ます。


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左後陣の礼拝堂です。


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木製磔刑像が有名です。


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ジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ(シエナ、1310c-1348)の「磔刑像」(14世紀前半)


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磔刑像の横にある碑文


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次にPresbiterioを見ます。


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Presbiterio


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Presbiterioの磔刑像(詳細不知)


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後陣の聖ロレンツォのステンドグラス


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詳細不知のステンドグラス


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聖水盤


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次は右後陣の礼拝堂です。


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右後陣の礼拝堂


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16世紀のトスカーナの逸名画家作「グラツィエの聖母」(16世紀)


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詳細不知


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フランチェスコ・ボッティチーニ(フィレンツェ、1446-1497)の「キリストの復活」(1496c)


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(つづく)

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Poggio Marturiの丘から下ります。


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2つの丘の間にある駐車場です。


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更に丘を下ります。


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旧城壁東端至近の城壁外に当たります。


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イタリアに限らずヨーロッパのリンゴは総じて実が小さい。


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イタリアに行くのは当分ダメですね。写真の在庫が残り少なくなってきたので、このままでは、あと1年ほどでブログの継続が難しくなりそうです。


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僅かに残されている城壁の先に参事会教会の時計塔(鐘楼)が見えます。


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次は参事会教会の拝観ですが、少し遠回りをして向かいます。


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道を一旦上ります。


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道は下りに転じます。


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道の突き当りがカヴール広場になります。


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シエナがフィレンツェの支配下に入るまで、ポッジボンシはシエナとフィレンツェ間の係争の地でした。


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写真正面の建物はサン・ロレンツォ教会です。


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カヴール広場(写真右)に戻りました。


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サンタ・マリア・アッスンタ参事会教区教会、ポッジボンシのドゥオーモです。


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カヴール広場のFontana Mancataです。


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第155代教皇ニッコラ2世(ニコラウス2世)(ブルゴーニュ、980c-フィレンツェ、1,061 在位:1058-1061)に拠る教会建設の認可に基づき、1075年頃に建設されました。


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1155年、第169代教皇アドリアーノ4世(1100c-1159 在位:1154-1159)によって教区教会となりました。


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1314年に拡大されると共に改装されました。
18世紀末、建物の劣化が進み危険と判断されて、1787年に大規模な修復工事が行われましたが、1806年の地震によって被害を受けて、更に改装修復が行われました。


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ところが1863年の大地震によって屋根が崩落したので、最初の建物を取り壊して、その上に新しい建物が建設されることになりました。
そうして、1863年から1870年にかけて再建された新古典様式の建物が現在の姿となってます。


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鐘楼は、14世紀に建設されたものです。


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鐘楼の時計は、1896年に追加されました。


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中に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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2003年から2012年にかけて、内部の大改装工事が行われました。


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装飾が殆どなく、スッキリした天井です。


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左側廊


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見どころに乏しい教会です。


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右側廊


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右側廊からの眺め


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詳細不知


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ジュゼッペ・コリニャーニの礼拝堂天井のフレスコ装飾(19世紀後半)


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右側壁


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左側壁


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Presbiterioを見ます。


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主祭壇


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後陣のステンドグラス


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フランチェスコ・ボッティチーニ(フィレンツェ、1446-1497)の「聖心」


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アレッサンドロ・フランキ(プラート、1838-シエナ、1914)の「光悦の聖フランチェスコ」


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詳細不知


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アウレリオ・ローミ(ピサ、1556-1624)の「嘆きの聖母」


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詳細不知


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ジュゼッペ・コリニャーニのフレスコ画(19世紀後半)


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カウンターファサード


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カウンターファサードにオルガンがあります。
(つづく)

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ポッジョ・インぺリアーレのメディチ要塞から下ります。


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Fonte delle Fateです。


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メディチ要塞守備兵の兵舎でした。


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現在は民営となってます。


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向かいの丘 Poggio Marturiの上にバディア城が見えてます。


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Via San Luccheseです。


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道を下ります。


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かなりの急坂です。


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一旦道を下って、Poggio Marturiの丘に向かいます。


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バディア城は見る価値がないと思います。


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バディア城を無視しても良いのですが、単なる暇潰しのために一応見ることに。


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時計塔はサンタ・マリア・アッスンタ参事会教会の鐘楼です。


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左折してバディア城に向かいます。


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Poggio Marturiの丘上にあるバディア城です。


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この場所に、10世紀頃に建設されたサン・ミケーレ・アルカンジェロ修道院がありました。
10世紀末、スポレート公爵ウゴリーノ・ディ・トスカーナ(?、951/953-ピストイア、1001)が修道院の防衛力を増強すると共に城を築きましたが、その全体がバディア城です。


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1478年、フィレンツェのドゥオーモで、パッツィ家陰謀事件が起き、それに続いてフィレンツェと教皇庁・ナポリ王国の間でパッツィ家戦争が起きました。


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それに乗じて、シエナがフィレンツェに対して攻撃をはじめ、1479年、バディア城はシエナ軍に占領されてしまいました。


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それに対して、フィレンツェ軍は、向かいのポッジョ・インぺリアーレの丘からバディア城に爆撃を行い、シエナ軍は撤退しました。その爆撃によって城と修道院の大部分が破壊されました。


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シエナ、フィレンツェ間の戦争によって修道士全員が去り、修道院と城はそのまま放置されました。
その後、個人が城と修道院の遺跡を保有していましたが、遺跡の一部を取り壊し、1886年、その上にネオ・ゴシック様式で城のような建物が再建されました。それが現在の「バディア城」となってます。


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バディア城からサン・ジミニャーノが見えます。


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現在、「バディア城」の建物はホテルとアパートになってます。


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10世紀末に建設され、その後に増築されたパッツィ戦争以前の破壊される前の城の姿は分からないようです。
19世紀第4四半期に再建された城は、文化遺産としては、あまり評価されていないようです。それは当然ですが。


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次はバディア城の東先にあるサン・ルッケージ修道院聖堂です。


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サン・ルッケージ修道院聖堂の入り口です。


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修道院聖堂はスタッジョ川の丘上にあります。


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1010年、フィレンツェの攻撃によってフィエーゾレは莫大な被害を受けましたが、フィエーゾレを逃れてポッジョ・インぺリアーレの丘に定住したフィエーゾレ難民がいました。直ぐにフィエーゾレ難民によって、現在地に建設されたサンタ・マリア・デ・ヴィーコ・カマルドゥーリ教会が前身です。


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1220年、サンタ・マリア・デ・ヴィーコ・カマルドゥーリ教会は、ベアート・ルッケージ・ダ・ポッジボンシ(ガッジャーノ、1180/1182-ポッジボンシ、1251)に引率されたフランチェスコ兄弟会に与えられました。
1236年から1268年にかけて、教会は拡大されると共に修道院が建設されました。ベアート・ルッケージ・ダ・ポッジボンシの死後、何時しかサン・ルッケージ修道院教会と呼ばれるようになりました。
14世紀から16世紀にかけて修道院教会は更に拡大されましたが、フィレンツェ軍とシエナ軍の戦争によって度々被害を受け、修復と改装が繰り返されました。
1810年、抑圧令によって修道院が閉鎖され、1817年に民有不動産となりました。
1930年に大掛かりな改修、改装工事が行われました。


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第二次世界大戦中に爆撃され被害を受けたので、1948年に修復されました。現在の教会の姿は1987年に行われた改装後のものです。
1938年、第259代教皇ピオ11世(1857-1939 在位:1922-1939)によってBasilica Minoreに格付けされました。


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修道院だった建物です。


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キオストロ


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キオストロ回廊


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聖堂内です。


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単廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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Presbiterio


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主祭壇


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オルガン


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バルトロ・ディ・フレディ(シエナ、1330c-1410)の「聖アントニオの殉教」


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バルトロ・ディ・フレディ(シエナ、1330c-1410)の「バーリの聖二コラと三人の少女」


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ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1469-1529/1530)の「聖母子と聖人たち」(1517)


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シエナ派?の逸名画家作「ベアート・ルッケージ・ダ・ポッジボンシ」
(つづく)

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要塞の外壁です。


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要塞守備兵舎を通り過ぎます。現在は民家となっているようです。


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聞こえるのは鳥の鳴き声だけでした。


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人の気配が全くありません。


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修復工事中でした。


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工事が終わったという情報があったのですが、がさネタでした。


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鳥の鳴き声が聞こえるだけで、人の気配が全くありません。


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工事が中断されていたと思います。


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工事中断の理由が分かりません。


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要塞に近付くことが出来ません。


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予定では、1年前に修復工事が終了している筈でした。


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折角来たからには、要塞の周りを一周してみることにしました。


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しかし、これでは見る価値がないな、と思いながら歩きました。


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道が通行止めとなっていました。


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仕方がないので、戻ることにしました。
以下は修復工事後の姿です。


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城から見た要塞 Fortezza Medicea di Poggio Imperialeです。


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ポッジョ・インぺリアーレのメディチ要塞です。


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要塞の外壁です。


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ルクセンブルグのエンリコ7世(1275-1313)は、1312年、ローマ皇帝に戴冠しましたが、ポッジボンシの丘上に街と要塞の建設を考えていましたが、その翌年の1313年に没してしまい、その計画は実現しないで終わりました。


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1293年以降、ポッジボンシはフィレンツェの支配下にありました。


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要塞の建設を決めたのは、ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ通称ロレンツォ・イル・マニーフィコ(フィレンツェ、1449-カレッジ、1492)でした。


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1478年、パッツィ家の陰謀事件によって、フィレンツェのドゥオーモで暗殺されそうになり、弟ジュリアーノを失ったロレンツォ・イル・マニーフィコでしたが、それに続く対教皇庁・ナポリ王国との戦争、所謂パッツィ戦争に懲りたことから、フィレンツェ領土防衛強化策を採りました。


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その一環として、ポッジョ・インぺリアーレと呼ばれた丘上に要塞の建設が下命されました。ポッジョはポッジボンシ、インぺリアーレはエンリコ7世に因んでます。


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そうして、建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(フィレンツェ、1445-1516)が起用されました。


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ジュリアーノ・ダ・サンガッロの設計と共にジュリアーノの弟アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ(フィレンツェ、1455-1534)が参画して、1488年から1511年に建設された要塞です。


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難攻不落の要塞として有名でしたが、トスカーナ大公国の衰退とともに徐々に軍事的な重要性が失われました。


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Porta Calcinaiaです。


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要塞内から見たPorta Calcinaiaです。


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次の門です。


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Porta del Giglioです。


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要塞内から見たPorta del Giglioです。


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Porta della Fonteです。


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要塞内から見たPorta della Fonteです。


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要塞内のPorta della Fonte付近です。


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名無しの小さな門


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Porta San Francescoです。


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Porta San Francescoの内側です。


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城壁内のCasseroです。


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Casseroとは、天守閣、格間、本丸という意味です。
(つづく)

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街の中心をぶらぶら歩きをします。


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バールのテーブルと椅子


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共和国通りです。


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Via Sandro Pertini


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フラテッリ・ロッセッリ広場です。建物は警察署です。


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パスポートと運転免許の警察署です。


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ジョヴァンニ・モントルソリ通りです。


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未だ駅の近くです。


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城壁が残されていませんが、この辺は城壁内の西に当たります。


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Largo Antonio Gramsci


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旧市街を横断する共和国通りです。


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ドン・ミンツォーニ広場にやってきました。


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見所が多いとは言えないポッジボンシです。


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古い建物が残っている一角です。


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空襲を免れた区域は僅かです。


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アメンドーラ広場です。


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アントニオ・フリッリ通りです。


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見所は、3つの教会と要塞の四か所でしょう。


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アントニオ・フリッリ通りを更に進みました。


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マッテオッティ広場です。


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イタリア統一の英傑が通りや広場の名称になってます。


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この辺は旧市街の西端に当たります。


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見どころが無さそうなので、カヴール広場に一旦戻ります。


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サンドロ・ぺルティーニ通りです。


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写真右の、手前から二番目の建物は17世紀に建設されたペーロ邸です。


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ガッルーリ通りを右折します。


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カヴール広場に出ます。


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市庁舎 Palazzo Comunaleです。


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Palazzo Pretorioです。


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要塞に向かいます。


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要塞は、城壁外東方のスタッジョ川の丘上にあります。


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通りの先が旧市街の東端に当たります。


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Via di San Lucchse


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道は緩い上り坂になってます。


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緑が深くなってきました。


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写真左の丘上にカステッロがあります。


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更に道を上ります。


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物悲しく鳴いているニャーゴがいたので遊んでやりました。


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(つづく)

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前泊地はチェルタルドでした。


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中々良いホテルで快適に過ごすことが出来ました。


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濃霧の中での出発でした。


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フニコラーレに乗って下の町に下ります。


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下の町が霧の中に隠れていました。


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ドゥオーモの扉が閉まっていました。


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駅に向かいます。


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チェルタルド駅です。


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鉄道でポッジボンシに向かいます。


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車内は非常に空いていました。


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ポッジボンシ駅に到着しました。
S.G.は、サン・ジミニャーノの略です。駅名がポッジポンシ単独から何時しかサン・ジミニャーノが付け加えられました。この駅がサン・ジミニャーノの最寄り駅であることは事実ですが、この駅からサン・ジミニャーノまでバスで20分ほどかかります。


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駅近くのホテルに行きます。


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この日のお宿です。


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チェックインを済ませて、街歩きに出発しました。


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サン・ロレンツォ教会です。


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美術的に必見の教会ですが、扉が閉まっていました。毎日扉が開くので、後程拝観することにしました。


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ヴィットリオ・ヴェネト通りです。


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カヴール広場に出ました。


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カヴール広場が街の中心です。


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カヴール広場にあるFontana Mancataです。


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サンタ・マリア・アッスンタ参事会教会です。


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ポッジボンシのドゥオーモです。


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Via della Repubblica


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ポッジボンシは、人口28,959人(2019年12月31日現在)のトスカーナ州シエナ県にあるコムーネです。


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Palazzo Pretorioです。


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13世紀後半から14世紀初頭に建設されたPalazzo Pretorioです。1862年に新市庁舎で業務が開始されるまで、この街の政治の中心でした。


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写真左手前がドゥオーモ、写真右の建物が現市庁舎です。


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1818年から1871年に建設されたPalazzo Comunaleです。


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カヴール広場に面して建ってます。


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現代アートが展示されている部屋もあります。


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Via della Repubblicaを少し東に進みました。


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Vicolo delle Chiavi


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振り返って撮った写真です。


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ポッジボンシは、陸上交通の要衝だったことから第二次世界大戦における攻撃拠点と見做され、何度も爆撃を受けたので、古い建物があまり残っていません。


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写真左はプレトリオ宮です。


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街の中心の古い建物の多くは戦後に修復されました。


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掲げられている旗は夏祭りのものです。


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(つづく)

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