イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:ウンブリア州 > スポレート再び

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Fortilizio dei Muliniから城塞に戻ります。


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エレベーターで下るのは味気ないので、ドゥオーモ経由で徒歩で下ることにしました。


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もう夕方です。


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サン・フィリッポ・ネリ教会です。


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1640年から1671年に建設されたバロック様式の教会です。


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この時は修復工事中で閉鎖されていました。
1997年に地震によって被害が出たので、修復工事のため17年間閉鎖され、2014年に活動が再開されましたが、2016年と2017年のイタリア中部地震で再び被害を受けたようです。


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この教会は知りません。


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銀行の建物です。


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ホテルに戻りました。


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ホテルで一休みしてから、再び外に出ました。


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サン・グレゴリオ・マッジョーレ聖堂です。


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古い作品が幾つかあって、美術ファンにとって見逃せない教会でしょう。


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拝観します。


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中に入りました。


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この聖堂については、既に詳しく触れました。


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日が完全に沈みました。


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マドンナ・デッラ・ステッラ修道院教会です。


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この日も閉まっていました。


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拝観したことが一度もありません。


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フラミニア通りです。


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ローマ時代に敷設された、あのフラミニア街道です。


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テッシーノ川です。


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街歩きはこれにて終了です。


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レストランに向かいます。


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お腹一杯です。


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食後の散歩です。


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人通りが殆どありません。ホテルに戻った方が良さそうです。


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翌朝です。


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徒歩で鉄道駅に向かいました。


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次の目的地ローマに向かいました。
(おわり)

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引き続き、城塞の2つの広場を結ぶアーチの壁に描かれたフレスコ画です。


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もう一つの広場に出ました。城塞に詰める兵士たちが利用していたそうです。


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刑務所だった時代、この場所は囚人用の運動所になっていました。


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閉館時間が近づいてきました。入館者は私を除いていなくなったようです。


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私が外に出るのを待ったいたのでしょう、外に出ると直ぐに扉が閉められました。


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閉館時間まで10分ほどあった筈ですが、係員が家路に急ぎたかったようです。でもイタリアの美術館や博物館は何処も同じです、閉館時間よりも前に閉館します。


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イタリアの閉館時間とは、最後の係員が建物の扉を施錠して家路につく時間を示すようです。すべての入館者を外に出してから着替え、トイレを済ませ、支度を整える訳で、閉館時間の30分前が実質的な閉館時間という訳です。


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次はPonte delle Torriです。


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遠くに教会があります。


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サン・ピエトロ教会です。


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Ponte delle Torriです。


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橋を渡り、更にサン・ピエトロ教会に行くつもりです。


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城塞から外に出ます。


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城塞からの景観


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門を潜って城塞外に出ます。


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橋の下にテッシーノ川が流れてます。


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橋の先にFortilizio dei Muliniがあります。トッリ橋は、城塞とFortilizio dei Muliniを結んでます。


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9つのアーチがあり、長さ230メートル、高さ80メートルの橋です。


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ローマ時代にかけられた水道橋と言われてますが、具体的に誰によって架けられた橋なのか、何時頃架けられたのか、その辺が不明とされてます。
現在の橋は、13世紀頃、橋の再建工事が始められ、14世紀終わりに完成しました。その存在についての初めての記録は、1346年から1367年に書かれた本だそうです。
1390年、スポレート防衛の戦略的理由によって、橋の一部が破壊されました。1639年に石積みで再建され、1845年には煉瓦で大修復されました。


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橋を渡ります。


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この時は渡ることが出来ました。


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橋の安全が懸念されていて、2006年から2008年に耐震性の調査が行われ、一応安全とされていました。
しかし、2016年のイタリア中部地震によって、橋の安全性が担保できないということで、2016年8月に橋の閉鎖が行われました。
イタリア中部地震は余震を含めて2017年まで続きましたが、橋桁の損傷が発見され、現在でも立ち入り禁止になっているようです。


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橋からの景観


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橋の上から見た城塞


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Fortilizio dei Muliniに着きました。
ローマ時代、橋の防御と監視のために既に存在していたとされてますが、具体的な建設時期が不明です。監視塔の他に製粉所がありました。


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中に入ることが出来ません。


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Fontanaがあります。


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周りを少し歩いてみました。


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水道橋の源流でしょうか?


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監視塔です。


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Fortilizio dei Muliniから見た城塞


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Fortilizio dei Muliniからの景観
(つづく)

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引き続き地上階の展示です。


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地上階の展示室から中庭に出ました。


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アーチを潜って、もう一つの中庭に向かいます。


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その前にアーチの壁に描かれたフレスコ画を見ます。


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スポレートの風景画


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(つづく)

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地上階に下りました。


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地上階の展示室に入りました。


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石棺の展示が続きます。


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次の部屋です。


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フレスコ画が僅かに残されてます。床にはモザイクがあります。


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(つづく)

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次の部屋です。


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壁のフレスコ装飾


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普通、聖母子が中央パネルですが・・・・・


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ポリッティコです。


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欠落したパネルは恐らく聖母子と思います。


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クスピデ


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次の部屋です。


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部屋のフレスコ


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部屋の天井


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二階ロッジャに戻りました。


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二階ロッジャからの景観


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(つづく)

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部屋の壁に描かれたフレスコ画です。


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今まで見ていた展示室の全景です。


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次の部屋です。


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天井のフレスコ画


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次の部屋です。


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壁にフレスコ断片(詳細不知)が残されてます。


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次の部屋です。


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(つづく)

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引き続き二階ロッジャの壁に描かれたフレスコ画です。


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ロッジャから部屋に入りました。ここから博物館としての展示が主になります。


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部屋のフレスコ断片


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他の場所にあった剥離フレスコ画


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次の部屋です。


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(つづく)

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次の部屋区画に入ります。


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この区画の壁にもフレスコ画が描かれてます。


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説明プレートは前の区画と同じです。


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二階ロッジャに戻りました。


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二階ロッジャの壁のフレスコ画を見て回ります。


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(つづく)

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引き続き二階ロッジャのフレスコ画です。


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二階ロッジャからの景観


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部屋の中に入ります。


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部屋の中に入りました。


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部屋の名称


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部屋の壁にフレスコ画があります。


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ホールとしての照明がなされた天井


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講演やコンサート会場として使用されてます。


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室内楽のリハーサル


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フレスコ断片


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シノピエ


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次の部屋です。


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フレスコ画があります。


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部屋の説明とフレスコ画の作品帰属


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(つづく)

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次はスポレートの高地に聳えるアルボルノツィアーノ城塞です。


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教皇庁がアビニョンにあった時代の第199代教皇インノチェンツォ6世(フランス、べサック、1282-アヴィニョン、1362 在位:1352-1362)はその権力と威光が薄れていたイタリア中部の教皇領における軍事力を強化して、それを背景に教会の権威を確立しようとしました。
その命を受けた枢機卿エジーディオ・アルボルノス(スペイン、1310-ヴィテルボ、1362)は教皇領各地に軍事要塞を建設しましたが、スポレートのアルボルノツィアーノ城塞はそのうちの一つです。城塞の名称はエジーディオ・アルボルノスに由来します。
建築家マッテオ・ディ・ジョヴァンネッロ・ガッタポーネ通称マッテオ・ガッタポーニ(グッビオ、1300c-1383)の設計と工事監督によって1363年から1367年に建設された城塞です。堅固な要塞という機能に加えて、迎賓館としての住居が加味された建物です。


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城壁の下の道を進みます。


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城門です。


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城塞の城壁の下を進みます。


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こちらは城壁の門でしょう。


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城塞の門を潜ります。


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城塞の四隅に塔が設けられてます。


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16世紀末には軍事的には城塞は不要となり、その重要性は薄れてしまいました。


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教皇庁から派遣された高位聖職者やスポレートを訪れる貴族たちの宿舎として利用されていましたが、不便な高台にあることから、1764年から使用されなくなって、それらの機能を大司教館が担うことになりました。


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1817年から1982年まで刑務所として使用されました。
その後、修復が行われ、2007年にスポレート公国国立博物館として一般公開されるようになり、現在に至ってます。


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建物前の小広場からの景観が楽しめます。


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博物館に入館します。


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中庭に出ました。


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一階と二階にロッジャがあります。


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ロッジャの壁にフレスコ画があります。


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殆どがフレスコで描かれた紋章です。


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一階のフレスコ画から見て行きました。


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次は二階のロッジャのフレスコ画です。


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(つづく)

134
次はサン・シモーネ教会です。


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正式名称をChiesa dei Santi Simone e Guidaという旧教会は1254年にフランチェスコ会修道士によって建設されました。修道院が併設されました。


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ゴシック様式の建物ですが、ロマネスク様式が垣間見えるゴシックとロマネスクの折衷様式と言うべきでしょう。


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ナポレオンのイタリア侵攻が切迫していた時期、スポレートは教皇庁領でしたが、サン・シモーネの複合施設はナポレオン軍に対抗する教皇庁軍の兵舎として転用されることになり、サンティ・シモーネ・エ・ジュダ修道院教会は1796年に閉鎖されたのです。


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しかし、スポレートの教皇領軍は1798年にフランス軍の敗れてしまい、複合施設はフランス軍の兵舎として使用されることになりました。
フランス軍の撤退後、この複合施設における宗教活動は一度も再開されることなく放置されてしまい荒廃が進みました。
1863年、イタリア王国軍の兵舎として使用されることになりましたが、1890年頃に空き家となりました。
その後、改造修復工事が行われ、1893年から1950年頃まで孤児のための寄宿学校になりました。
1980年頃から修復工事が行われるようになりましたが、工事は中々進捗しませんでした。
現在は自治体の所有物件として展示や室内楽、パーティなどの各種催事場として利用されてます。


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後陣


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催事場として使用される時を除いて扉が開くことはないようです。


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地震に弱そうな内部です。


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三廊式、ゴシック様式の内部です。


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修復されたとはいえ、相当イタミがあり危険に思えます。


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柱は補強されているものの、強い地震でもあれば天井が崩落しそうです。


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フレスコ画が一部残されてます。


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シミにしか見えないフレスコ画の痕跡


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フレスコ画の作品帰属や描かれた年代等の詳細が分からないようです。


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聖スコラスティカ


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聖アンサーノ


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聖母子


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キリストの復活


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聖マルコ


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サンティ・シモーネ教会が面してるカンペッロ広場です。


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一見して危険に思えます。


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教会近くの噴水に向かいます。


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これが噴水です。


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かなり有名な噴水です。


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サン・シモーネ教会の外壁にあるので、サン・シモーネの噴水とも呼ばれてます。


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何時頃造られたのかは不明です。


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1428年と1498年に修復された記録が残されてます。


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現在の噴水は1608年に再造されたものです。


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噴水近くからドゥオーモの鐘楼とファサードが見えます。


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(つづく)

121
コッリコーラ広場です。


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コッリコーラ広場に面して建つPalazzo Collicolaです。


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Palazzo Collicolaはサン・ドメニコ教会の直ぐ傍にあります。


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建築家セバスティアーノ・チブリアーニ(シエナ、1660c-ローマ、1738)の設計によって、名門貴族コッリコーラ家の邸宅として1717年から1730年に建設されたPalazzo Collicolaです。


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19世紀、コッリコーラ家の直系家族が途絶えると、相続した同家の傍流家族によって邸宅にあったインテリア家具、絵画、タペストリなどが売却されてしまいました。
1939年、ウンブリア州が建物を購入し、修復工事後、ウンブリア州立美術館がオープンしました。
現在は、スポレート市が建物を所有して、現代美術館と図書館として使用されてます。


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切符売り場です。


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私が苦手の現代絵画と現代彫刻が展示されてます。


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現代美術館としては非常に評価が高いようです。


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そうは言っても閑古鳥が鳴いてます。


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Palazzoの装飾は見る価値があると思います。


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ロココ的なフレスコ画


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暇潰しに最適です。


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次はサン・ロレンツォ教会です。


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サン・ロレンツォ教会です。催事でもやっていれば中に入ることが出来ますが、駄目でした。


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1138年の記録に存在が記載されているロマネスク様式のサン・ロレンツォ教会です。


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1825年にサン・ドメニコ教会に併合され活動が縮小されました。20世紀初めに閉鎖され、建物はホームレスの避難所として使用されることになりました。
1950年頃にスポレート市の所有となりました。現在はSala Pegasusという名称の映画館、催事場になってます。


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鐘楼


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後陣


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映画館として使用される時の内部。


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礼拝堂、祭壇画、フレスコ画が残されてます。


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18世紀の逸名画家作「聖家族とパドヴァの聖アントニオ」


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フレスコ画の礼拝堂


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逸名画家作「バラの聖母と聖ジョヴァンニ・バッティスタとパドヴァの聖アントニオ」(1592)


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16世紀の逸名画家作「聖ピエトロ・マルティーレ」


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16世紀の逸名画家作「聖マリア・マッダレーナ」


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次はサン・シモーネ教会です。


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アーチを潜ります。


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勘を頼りに歩いていたら、サン・シモーネ教会の場所が分からなくなりました。


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地図で自分の居場所を調べました。


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小さな映画館がありました。


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サン・シモーネ教会は活動を停止した旧教会なので、地図に教会名が記載されていなかったのです。


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Piazza del Mecatoの噴水です。


131
市庁舎に行って、旧教会の場所を聴きました。


132
持っていた地図にサン・シモーネ教会がある場所に印をつけてもらいました。


133
すぐに行くことが出来ました。


p1063
旧サン・シモーネ教会は要塞の下にあります。


p1064
1250年から1260年に建設されたサン・シモーネ教会です。


p1062
1698年にパドヴァの聖アントニオの聖遺物(頭蓋骨)を収容することになった由緒正しき教会でした。
(つづく)

p1001
壁の所々に残されたフレスコ画を見ます。


p1002
左側壁のフレスコ画です。


p1033
このフレスコ画の作品帰属が明らかにされてます。


p1003
バルトロメオ・ダ・ミランダ(トーディ、?-スポレート、1449以降没)に帰属する「シエナの聖カテリーナの聖体拝領」(15世紀)


p1004
15世紀の逸名画家作「聖母子」


p1005


p1013
15世紀の逸名画家作「ピエタ」


p1006
司教聖人


p1007



p1019


p1008
15世紀の逸名画家作「聖母子」


p1010
右側壁のフレスコ画です。


p1030
壁龕の聖母子


p1009


p1015


p1011
司教座の聖トンマーゾ


p1012


p1014
聖バルトロメオ


p1016
聖母子(15世紀)


p1017
ピエタ


p1018
聖ステファノと聖ピエトロ・マルティーレ


p1020
三位一体


p1021
聖ピエトロ・マルティーレ


p1022
聖ジョヴァンニ・バッティスタ(左)


p1023


p1024


p1025


p1026
聖母子が多い。


p1027



p1028
聖母子と天使たち


p1029
ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ通称ロ・スパーニャ(スペイン、1450c-スポレート、1529c)の「磔刑」


p1031


p1032


p1034
じっくり見ると時間がかかります。


p1035


p1036
名残惜しいが時間が切迫しているので、次に向かいます。


p1037
ファサード前のサン・ドメニコ広場です。


105


118
サン・ドメニコ広場に面して建つ小学校の建物です。


119
(つづく)

p1019
次はクリプタです。


p1020
クリプタはサン・ピエトロ・マルティーレ教会とも言われてます。


p1021
14世紀に描かれたフレスコ画と15世紀に描かれたフレスコ画が残されてます。


p1022
フレスコ画の作品帰属は不明です。


p1023
慈悲の聖母


p1024
玉座の聖母子と二聖人


p1025


p1026
祭壇画を見て回ります。


p1030
カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ、1640)の「ラファエッロ作『キリストの変容』の複製画」


1042
こちらがラッファエッロ作の「キリストの変容」です。ローマのヴァティカン美術館にあります。


p1031
ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1582-ローマ、1647)の「天上の聖母子と聖アンナと三聖女」(1630c)


p1032
三聖女は、左からシエナの聖カテリーナ、中央がアレッサンドリアの聖カテリーナ、右の十字架を手にしているのはが聖エレーナです。


p1033
フランチェスコ・レフィーニ(スポレート、1615/1620-1692c)の「天上の聖母と聖ジャチントと聖ブリツィオ」


p1034
17世紀の逸名画家作「天上の聖母子と聖人たち」


p1035
ルドヴィーコ・グリッロッティの「ベアート・レオポルド・ダ・ガイケ」(1893)
Ludovico Grillottiという画家は全く知りません。


p1036
マルカントニオ・デル・フォルノに帰属する「キリストの逮捕」
Marcantonio del Fornoという画家も全く知りません。


p1037
ラヴィニア・フォンターナ(ローマ、1552-1614)に帰属する「天上の聖母子と聖ジャチント」(17世紀前半)



p1038
逸名画家作「パオラの聖フランチェスコ」


p1039
タッデオ・コッリコーラの墓(1643)


p1049
カルロ・ニーニの墓(1692)


p1041
サン・ピエトロ・マルティーレ礼拝堂です。
Maestro di Fossaの「磔刑像」


p1042
次はサンタ・マリア・マッダレーナ礼拝堂です。


p1043
フレスコ画で覆われているサンタ・マリア・マッダレーナ礼拝堂です。


p1044
1973年に修復復元が行われた礼拝堂のフレスコ画です。


p1045
Maestro dei Calvari(ウンブリア、14世紀末-15世紀初頭活動)によって15世紀初めに描かれたフレスコ画です。


p1046
フレスコ画のテーマは聖マリア・マッダレーナの生涯です。


p1047
聖マリア・マッダレーナがキリストの妻だった有力説がありますが、それに従って描かれたフレスコ画です。


p1048


p1050


p1051
我に触れるな


p1052
祝福するキリスト


p1053


p1054


p1055


p1056


p1057
場違いに思えますが・・・・・


p1058


p1059


p1060


p1061
(つづく)

099
次はサン・ドメニコ教会です。


p1000
サン・ドメニコ教会のファサード前に門があり、閉まってますが、教会は広場に面して建っているので門が閉まっていても問題ありません。


p1002
サン・ドメニコ広場です。


104
元々の名称はサン・ドメニコ教会でしたが、現称のサン・ドメニコ教会は正式名称の略称です。


117
現在の正式名称は、サンティ・ドメニコ・エ・フランチェスコ教会です。そのように呼ばれることになったには訳があります。
創建以来、ドメニコ会の教会でサン・ドメニコ教会と呼ばれていました。
20世紀初めに修復工事が行われることになりましたが、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂で行われた修復を参考にして、Frati Minori(フランチェスコ会)の修道士が主導して修復が行われました。それを機に、この教会を管理する修道士会がFrati Domecani(ドメニコ会)からFrati Monoriに変更されたのです。つまり、フランチェスコ会の教会となり、奉献する聖人がそれまでの聖ドメニコに加えて聖フランチェスコが追加され、二人になったので、教会名が変更されたのです。


p1001
この地にサン・ピエトロ・ディ・フェレンティッロ(ヴァッレのサン・ピエトロ修道院)の修道士によって建設されたサン・サルヴァトーレ修道院教会がありました。
13世紀前半、スポレート定住を希望していたFrati Domenicaniでしたが、1247年、漸くを願いが叶い、定住地としてサン・サルヴァトーレ修道院教会が与えられました。
サン・サルヴァトーレ教会の一部を利用しながら、1248年から1259年に建設されたのが現在の建物の原形です。
修道院は、サン・サルヴァトーレ修道院を増築整備する形で建設され、1288年に完成しました。


p1003
元々はゴシック様式でしたが、外観と内装の一部は17世紀にバロック様式に改造されました。更に20世紀前半、元の姿に戻され現在に至ってます。


103
ファサード側の入り口扉です。装飾が殆どなく簡素な造りです。


102
ファサードに向かって右側壁にサイドポータルがあります。


100
サイドポータル上ルネッタにフレスコ画があります。


101
ペリーノ・チェーザレイ通称ピエリーノ・ダ・ペルージャ別称ペリーノ・ダ・ペルージャ(ペルージャ、1530c-スポレート、1602)の「救世主」(1591)


p1004
ピエリーノ・ダ・ペルージャは、ステファノ・ダ・ヴェローナ(ヴェローナ、1379-1451)の信奉者で模倣者でもありました。


p1005
鐘楼


p1006
鐘楼に時計がついてます。


p1007
地元産の二色の石を使って外壁が造られてます。


106
中に入りました。


p1008
1934年にバロック様式から元の姿に戻された内部ですが、その改造工事前に撮られた写真です。この写真によって、バロック様式の礼拝堂があったことが分かります。


p1009
単廊式、ロマネスク・ゴシック折衷様式の内部です。


p1010
木組みの天井は21世紀のものです。
1997年の地震によって大きな被害を受けたので、2000年から2002年に再建されたのです。


p1011
塗り直された白壁が目立ちます。


p1029



p1012
後陣のステンドグラス


116
カウンターファサード


p1013
カウンターファサードのステンドグラス


p1014
ステンドグラスは、創建時のものではないようです。


p1015
新しいPresbiterio


p1027


p1028


112
オルガンについては詳細不知です。


p1016
聖職者席は20世紀のものです。


p1017
それでも内部の見所は豊富です。


p1018
Presbiterio上の木製磔刑像(14世紀)


108
殆どの壁に描かれたフレスコ画は塗り潰されましたが、それでもフレスコ画の宝庫と言えるでしょう。


107
13世紀から16世紀に制作されたフレスコ画ですが、制作者は分かってません。


109
壁という壁、柱など全面にフレスコ画があったとされてますが、16世紀と17世紀に行われた改造と修復工事の際に殆どが塗り潰されとされてます。


111
断片的にしか残されていません。


113
それでも見る価値は十分にあるフレスコ画です。


114


115


110
祭壇画もあります。
(つづく)

076
次はラルゴ・クレメンティの噴水です。


077
ドゥオーモ通りを下ります。


078
アーチを潜ります。


079
ドゥオーモ通りを更に下れば、旧市街で最古の場所に出ます。


080
突き当りがLargo Clementiです。


p1097
Fontana di Largo Clementiです。


081
16世紀中頃に造られた噴水ですが、Palazzo Mauriの庭にありました。


p1096
Palazzo Mauriから1894年から1896年に現在地に移設されたのです。


082
Palazzo Zacchei Travagliniです。


083
Via Filitteriaからの景観


084
ドゥオーモの鐘楼と城塞が見えました。


085
次はサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会です。


086
この辺は特に古い建物が多いようです。


087
教会だった建物のようです。調べましたがよく分かりません。


p1098
サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会です。


p1100
11世紀に建設された建物を12世紀に改造してロマネスク様式の教会にしたと言われてます。


p1102
1174年に奉献式が執り行われました。


p1101
側壁に古いフレスコ画が残されてます。


p1103
13世紀から14世紀に制作されたフレスコ画


p1105
現在は閉鎖されており、特別な時を除いては中に入れないようです。
フレスコ画が残されてます。


p1106
ピエルマッテオ・ジーリ(スポレート、1533-?)のフレスコ画
ピエルマッテオは、ヤコポ・シチリアーノ(ジュリアーナ、1490-リエーティ、1544)の模倣者でした。


1107
聖トーマス・ベケットの殉教


p1108
聖ジョヴァンニと聖パオロの殉教


p1109
磔刑


p1110
授乳の聖母


p1104
既に宗教活動を停止した教会でしょうか?


088
次はサン・ニコロ修道院教会です。


093
サン・ニコロ教会です。


p1111
バーリの聖二コラ(トルコ、270c-マイラ、343)の死の直後に、この地に建設されたサン・二コラ・ディ・バーリ礼拝堂(4世紀頃)が前身とされてます。


p1112
1089年に文書にサン・二コラ・ディ・バーリ教会の存在が初めて記録されたそうです。
1264年、教会はサンタゴスティーノ修道士に与えられました。
1304年から修道院と教会が改めて建設されました。


p1113
後陣


p1114
1745年、スポレートはスペインに占領され、修道院はスペイン兵の兵舎に転用されてしまいました。また、1767年の地震によって建物の一部が崩壊してしまいました。18世紀末には抑圧令によって閉鎖となりました。
1823年からは倉庫に転用されましたが、1849年に火災によって消失してしまいました。1873年に修道院は完全に取り壊されました。


094
ファサードの入り口扉上ルネッタにフレスコ画


095
鐘楼が微かに見えます。


096
身廊外壁


097
1960年から修復と再建の工事が行われました。


098
現在、再建された修道院と修復された教会は市の所有となっており、各種文化イベントの会場や文化センターになってます。


089
複合施設のキオストロ


092


090
再建された修道院


091
(つづく)

P1690527
左第四礼拝堂です。


p1083
Cappella di Sant’Antonio di Padovaです。


P1690528
祭壇はジュゼッペ・ヴァラディエ(ローマ、1762-1839)によって制作されました。


P1690529
左第三礼拝堂です。


p1084
Cappella della Presentazioneとも呼ばれてます。


P1690532
アントニオ・カヴァッルッチ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1752-ローマ、1795)の「聖母の神殿奉献」(1790c)


P1690533


P1690534
左第二礼拝堂です。


p1085
Cappella di Sant’Andrea Apostoloとも呼ばれてます。


P1690536
ガエターノ・ガンドルフィ(サン・マッテオ・デッラ・デチーマ、1734-ボローニャ、1802)の作品説がある「聖母子と聖アンドレア・アポストロとパオラの聖フランチェスコとパドヴァの聖アントニオ」です。


P1690538
ヤコポ・アレッサンドロ・カルヴィ(ボローニャ、1740-1815)の作品説も有力です。


P1690484
左第一礼拝堂です。


p1086


P1690486
詳細不知


p1087
Cappella di Santa Rita da Casciaです。


P1690488
ウンブリアの逸名画家作「聖母子と教皇聖人とベアート・グレゴリオ・ダ・モンテルーコ」(16世紀)


P1690493


p1088
聖水盤(1484)


p1089
Cappella di Sant’Annaです。


p1090
1477年と1590年に描かれたフレスコ画


p1091
非公開で中に入ることが出来ません。


P1690541
床のタイルなどの装飾を見ます。


P1690330


p1092


p1093


p1094


p1095


P1690539
左側廊


P1690540


P1690542
地味な天井


P1690543
右側廊


201


P1690333
リッピの遺作をもう一度見てから外に出ます。


P1690560


064
外に出ました。


065
ドゥオーモの上にある要塞です。


072
階段を上り、道を左方向に進みます。


073


074


075
(つづく)

P1690456
Absidiola Sinistraです。


P1690482
1583年から1632年に造られたCappella del Santissimo Sacramentoです。


P1690459
フランチェスコ・ジョヴァンネッリ・ダ・ヴォルテッラ作と言われている祭壇


P1690461
ピエトロ・ラブルッツィ(ローマ、1739-1805)とリボリオ・チョチェッティ(フォリーニョ、1739-ローマ、1816)による「父なる神」と「受胎告知」


P1690462
フレスコ画とスタッコで装飾された天井


P1690483
天井のフレスコ画は、フランチェスコ・レフィーニ(スポレート、1615/1620-1692)によって制作されました。


p1077
ジョヴァンニ・ダ・フォリーニョによって再作されたスタッコ彫刻


P1690473
キリストの受難のシンボルと手にした天使像がありますが、私には制作者が分かりません。


P1690474


P1690475


P1690464
6点の祭壇画があります。


P1690466
ピエトロ・ラブルッツィとリボリオ・チョチェッティによって描かれたと思うのですが、私には作品帰属の情報がありません。


P1690468


P1690472


P1690477


P1690481


p1078
左側廊第六礼拝堂です。


P1690495
Cappella delle Reliqueと呼ばれてます。


P1690518
磔刑像があります。


P1690516
詳細不知の磔刑像


p1079
聖フランチェスコがレオーネ兄弟に宛てて書いた自筆の手紙です。


P1690519
その説明書き


P1690496
ジョヴァンニ・アンドレア・ディ・セル・モスカートとダミアーノ・ディ・マリオットによって1548年から1554年に制作さされた木工キャビネット


P1690497
預言者たちと女預言者たちは、フランチェスコ・ナルディーニ(16世紀中頃活動)によって1553年から1554年に制作されました。


p1080


p1081
Cappella delle Relique天井のフレスコ画は、フランチェスコ・ナルディーニの「聖母の物語」(1553-60)です。


P1690500
聖母の神殿奉献


P1690503
ご訪問


P1690505
預言者たち


P1690506
聖母の誕生


P1690499
聖霊降臨


P1690510


P1690511
聖母被昇天


P1690513


P1690514


P1690517


P1690520
左第五礼拝堂です。


p1082
Cappella degli Angeliとも呼ばれてます。ジュゼッペ・ヴァラディエ(ローマ、1762-1839)による祭壇(1792)


P1690525
ピエトロ・ラブルッツィ(ローマ、1739-1805)の「守護天使」(1790c)


P1690526
(つづく)

P1690385
他の礼拝堂を見て行きます。


p1058
右側廊第二礼拝堂です。


P1690388
ドメニコ・コルヴィ(ヴィテルボ、1721-ローマ、1803)の「十字架降下」(1792)


P1690390


P1690391
右側廊第三礼拝堂です。


p1059


P1690395
アントニオ・コンチョ―リ(ぺルゴラ、1739-ローマ、1820)の「聖アンドレア・アヴェッリーノの死」(1792)


P1690396
ベルナルディーノ・ノッキ(ルッカ、1741-ローマ、1812)の作品説もあるようです。


P1690398
右側廊第四礼拝堂です。


p1060


P1690399
ジョヴァンニ・アルベルティ(ボルゴ・サン・セポルクロ、1558-ローマ、1601)の「ご訪問」(1597c)


P1690405


P1690416


P1690417
右側廊第五礼拝堂です。


p1061
ジュゼッペ・ヴァラディエ(ローマ、1762-1839)によって制作された祭壇
この聖堂内の殆どの祭壇がジュゼッペ・ヴァラディエによって制作されました。


P1690420
ピエトロ・ラブルッツィ(ローマ、1739-1805)の「スポレートのベアート・グレゴリオに顕現する天使」(1792)


P1690424


p1062
右側廊第六礼拝堂です。


P1690428
アルベルト・ソティオ(スポレート、1100-1187)の「彩色磔刑像」(1187)
この磔刑像については既に紹介しました。


P1690430
右翼廊の礼拝堂です。


p1063
Cappella della Madonna della Manna d’Oroです。


P1690546
フィリッポ・リッピの墓があります。


P1690432
アンニーバレ・カッラッチ(ボローニャ、1560-ローマ、1609)の「黄金のマナの聖母と聖フランチェスコと聖ドロテア」(1599)


p1064


p1074
アンブロージョ・バロッチの「ジョヴァン・フランチェスコ・オルシーニの葬儀記念碑」(1499-1500)


p1066
ジョヴァン・フランチェスコ・オルシーニの葬儀記念碑


P1690435
Absidiola Destra


P1690436
Cappella della Santissima Iconaです。


P1690437
ジョヴァンニ・バッティスタ・モーラ(コルドレリオ、1585-ローマ、1665)によって制作された祭壇


p1065
聖母のイコン(11-12世紀)


p1067
アレッサンドロ・アルガルディ(ボローニャ、1598-ローマ、1654)の「ダヴィデ」


p1068
アレッサンドロ・アルガルディ(ボローニャ、1598-ローマ、1654)の「ソロモン」


p1069
天井の装飾


p1070
天井のフレスコ画(制作者不知)


p1071
アレッサンドロ・アルガルディ(ボローニャ、1598-ローマ、1654)の「アンドレア・マウリの胸像」


P1690438


p1073
ベルニーニの作品があります。


p1072
ジャンロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598-ローマ、1680)の「教皇ウルバーノ8世の胸像」(1640-44)


p1075
オルガン


p1076
(つづく)

P1690354
次はCappella dell’Assuntaです。


P1690352


185
壁の殆どがフレスコ画で装飾されてます。


P1690356
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノ(ジュリアーナ、1490-リエーティ、1554)の「昇天した聖母を見上げるフランチェスコ・エローリ司教」(1500-50c)
フランチェスコ・エローリ(ナルニ、15世紀後半-スポレート、1540)は1500年から1540年の40年間、スポレート司教を務めました。


P1690357
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノ(ジュリアーナ、1490-リエーティ、1554)の磔刑(1550-50c)


P1690359
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノ(ジュリアーナ、1490-リエーティ、1554)の聖人たち(1500-50c)


P1690361
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノ(ジュリアーナ、1490-リエーティ、1554)の聖人たち(1500-50c)


186
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノ(ジュリアーナ、1490-リエーティ、1554)の聖ジローラモ(1500-50c)


P1690372
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノのフレスコ画


P1690373
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノのフレスコ画


P1690375
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノのフレスコ画


P1690378
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノのフレスコ画


P1690381
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノのフレスコ画


P1690382
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノのフレスコ画


P1690383
ジャコモ・サントロ別称ヤコポ・シチリアーノのフレスコ画


187
Cappella dell’Assuntaの天井です。


P1690363
Cappella dell’Assunta天井フレスコ画は、ジョヴァンニ・ダ・スポレート(スポレートで1516年活動記録)とトンマーゾ・ダルカンジェロ・ベルナベイ通称パパチェッロ(コルトーナ、1505-1559)によって16世紀前半に制作されました。


P1690364
場面毎の作品帰属が不明です。


p1046


p1047


p1048


p1049
次はCappella Eroliです。


P1690341
ピントゥリッキオのフレスコ画で有名なCappella Eroliです。


P1690334
ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454-シエナ、1513)によって1497年に制作されたフレスコ画です。


188


P1690346
父なる神


P1690347
聖母子と二聖人


p1050
聖母子


p1051
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


p1052
聖ステファノ


p1053


p1054


P1690349
祭壇に描かれたピエタのキリスト


P1690350


P1690342
天井のフレスコ画もピントゥリッキオによって描かれましたが、殆ど落剝してます。


p1056
勝利


p1055


P1690343


p1057
フランチェスコ・エローリ司教(ナルニ、15世紀後半-スポレート、1540)の紋章


P1690544
(つづく)

222
次はドゥオーモです。


057
ドゥオーモ広場に向かって階段を下ります。


P1690555
ドゥオーモのファサードに向かって左側にサンテウフェミア聖堂の後陣があります。


059
スポレートのドゥオーモです。スポレート₌ノルチャ大司教区のサンタ・マリア・アッスンタ大司教座教会です。


061
スポレート大聖堂については、既に書いたので、ご興味のある方はそちらをご参照願います。


062
写真左の建物は大司教館です。


068
大司教館のクーポラ


063
この場所に存在していた最初の教会については、殆ど明らかになっていないようです。


066
二番目の教会は、1067年に建設されたサン・プリミアーノ司教座教会でした。
12世紀、スポレートはフェデリック・バルバロッサ(1122-1190)軍の攻撃と略奪によって荒廃してしまいましたが、その際、サン・プリミアーノ司教座教会も荒らされてしまい、継続使用が困難となってしまいました。
1151年に創建され、1227年に一応の完成を見た建物が現在の原形です。1198年に奉献式が執り行われ、活動が開始されましたが、それを機に教会名称が現称に変更されました。


069
13世紀に建設された鐘楼です。


p1032
鐘楼の下部はローマ時代の遺跡と中世初期の教会の建物の一部から成ってます。


183
ファサードは13世紀に建設されましたが、その後、改造と修復を経て現在の姿になってます。


067
ファサードのモザイクとバラ窓


p1033
Maestro Solsternoの「祈るキリストと聖母と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタのモザイク」(1209)
Solsternoの名前と制作年がモザイクに書かれてます。


p1034
ファサードの彫刻


p1035


p1036


p1039
説教壇


p1040
ピエタのキリスト


070
ファサード下に柱廊が設けられてます。


071
アントニオ・バロッチ(ミラノ、1471から活動-1520没)の設計によって15世紀に追加された柱廊です。


p1037
入口扉横のライオン像


p1038


184
聖堂内に入りました。


189
多くの見所があって目移りしてしまいます。


203
フィリッポ・リッピに敬意を表して、彼の墓から見て行きます。


P1690551
右翼廊にある、フィリッポ・リッピ(フィレンツェ、1406c-スポレート、1469)の墓


P1690552
スポレート大聖堂後陣のフレスコ画の注文を受けたフィリッポ・リッピは、妻子、弟子とともに1467年にスポレートに移り住み、制作に励んでいましたが、その途中で没しました。


p1041
リッピの死因ですが、毒殺説が有力です。


204
Presbiterio


p1042
フィリッポ・リッピの遺作となった後陣のフレスコ画です。


P1690332
未完成でフィリッポ・リッピが没してしまいましたが、その後、弟子と息子によって完成したのです。


200
フレスコ画のテーマは聖母の物語です。


p1043
受胎告知


p1044
聖母戴冠


P1690455


P1690442
聖母の死


P1690452
ご誕生


P1690425
アルベルト・ソティオ(スポレート、1100-1187)の「彩色磔刑像」(1187)


p1045
(つづく)

P1680840
ネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1419c-1492)の作品です。


P1680841


P1680907
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)の作品


P1680908


P1680920
アレッサンドロ・アルガルディ(ボローニャ、1598-1654)の「聖フィリッポ・ネリの胸像」(1650c)


P1680921


P1680922
ジャンロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598-ローマ、1680)の「教皇ウルバーノ8世の胸像」(1640-44)


P1680923


P1680924
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の帰属作品


P1680926


P1680927
大司教館の礼拝堂です。


P1680936


P1680928
礼拝堂の天井


214
次はサンテウフェミア聖堂です。


215
三廊式、ロマネスク様式の内部です。


p1018
新しく見えるのは、1907年に復元されたからでしょう。


p1019
天井


216
左側廊


218
主祭壇


p1020
主祭壇に置かれるものが、訪れる毎に異なるのは何故でしょうか。この磔刑像も前の写真の磔刑像と違うものです。
美術館なので、その辺に全く拘りがないようです。
実はオリジナルの主祭壇画が存在していて、この美術館の展示室で展示されてます。それを主祭壇に置くのが自然と思います。


P1680776
バルトロメオ・ダ・ミランダ(トーディ、1437から記録-1449以降没)のトリッティコが主祭壇を飾っていました。


p1021
「聖母の死」が置かれている時もありました。


p1022
詳細不知の「聖母の死」


p1023
後陣のフレスコ画


p1024
逸名画家作「聖エウフェミア」(16世紀初頭)
後陣は1558年までフレスコ画で覆われていたそうです。


p1025
フレスコ画が僅かに残されてます。


p1026


217
この時は聖堂内に置かれていました。


219


220


p1027
展示作品、作品の展示場所が変わるので要注意です。


p1028
創建時の祭壇


p1029
1907年に復元された柱頭


p1030
1907年に復元された柱


p1031
2015年頃に修復工事が行われていたので、変わっているかも知れません。


P1680975
修復工事中(2015年頃)


213
外に出ました。


212
フィリッピーノ・リッピ、ベルニーニ、アンドレア・ダ・カルダローラなどの作品が秀逸です。


221
サンテウフェミア聖堂はメイン扉から入りたかった。


211
大司教館を後にしました。


210


209
(つづく)

P1680643
写真左の建物は大司教館です。


P1680638
壁にフレスコ画がある建物が大司教館です。


P1680640
サンテウフェミア聖堂はここから入ります。


P1680641
大司教館の一部と旧ベネデット会修道院だった建物の一部、それにサンテウフェミア聖堂だった建物に教区美術館が置かれてます。


P1680642


P1680647
大司教館の入り口です。


P1680648
入口上部の外壁に描かれたフレスコ画


P1680649
アーチの天井に描かれたフレスコ画


056
アーチを潜ってベネデット会修道院の中庭に出ます。


052
サンテウフェミア聖堂です。


055
確実な記録が残されておらず、建設された時期が不明とされてます。
スポレート公国があった10世紀以前に存在していたとの記録が残されてます。8世紀から9世紀頃には既に存在していたとする有力説があります。


p1014
10世紀に修道院が併設されました。12世紀にサンテウフェミア聖堂は新たに建設された大司教館に囲まれました。


p1015
サンテウフェミア聖堂は大きな建物でしたが、ドゥオーモの建設(1151年から1227年)に伴い、規模が縮小され、当初の半分ほどの大きさにされてしまいました。


058
サンテウフェミア聖堂の後陣です。


P1690300
後陣は、ドゥオーモに下る階段の左手にあります。


P1680635
ドゥオーモに下る階段です。


p1016
サンテウフェミア聖堂の後陣は、当初、ドゥオーモに下る階段の右の方にあったようです。


p1017
既に活動を停止した旧教会となってます。


054
修道院回廊


053
教区美術館の入り口です。


P1680659
入館しました。
教区美術館に付いては既に紹介しました。ご興味のある方はそちらをご参照願います。


P1680664
天井のフレスコ画です。


P1680729


P1680734


P1680723


P1680728


P1680717


P1680722


P1680778
バルトロメオ・ダ・ミランダ(トーディ、1437から記録-1449以降没)の帰属作品


P1680789


P1680806
次の部屋です。


P1680808
天井のフレスコ画


P1680810
ドメニコ・ベッカフーミ(モンテアペルティ、1486-シエナ、1551)の作品


P1680813


P1680814
ジョヴァンニ・アンドレア・デ・マジストリス別称アンドレア・デ・カルダローラ(カルダローラ、1510?-1573以降没)の作品です。


P1680820


P1680824
ほぼ同時代の同姓同名の画家ジョヴァンニ・アンドレア・デ・マジストリス(コモ、1460-1532)がいるのをご存知でしょうか。
技量は圧倒的にカルダローラ生まれの方が上であり、有名ですが、紛らわしいので困ります。美術本でも時々混同している記述を散見します。


P1680835
フィリッピーノ・リッピ(プラート、1457-フィレンツェ、1504)の作品


P1680836


P1680834
(つづく)

043
Piazza Mercatoにやってきました。


p1001
この広場は、ローマ時代の交易と商業の中心地だったフォロ広場があった場所です。


045
広場に面して古い建物が建ち並んでます。


P1690055
建物の壁に描かれたフレスコ画


P1690056


044
正面の建物は1600年頃に建設されたもので、現在は分譲アパートになってます。


047
Fontana di Piazza del Mercatoです。


p1002
一見教会のように見えますが、それは当然で、サン・ドナート教会のファサードです。
ロマネスク様式のサン・ドナート教会は、16世紀後半に荒廃してしまい放棄されました。


p1003
13世紀に、サン・ドナート教会の前に噴水があったことが知られてます。
1626年、カルロ・マデルノ(カポラーゴ、1,556-ローマ、1,629)の設計によって、放棄されたサン・ドナート教会ファサード前にFontanaが設けられました。


p1004
1746年、カルロ・マデルノ設計の噴水が取り壊され、コンスタンティーノ・フィアスケッティの設計によって、改めて噴水が造られることになりました。


p1005
そうして、1746年から1748年に造られた三代目のFontanaが現在のものです。


p1006
サン・ドナート教会ニッチのフレスコ画が僅かに残されてます。


P1690050
これが残されたフレスコ画です。


046
Fontana横の建物に日時計があります。


P1690067


P1690057


P1690027
次は市庁舎です。


P1690031
市庁舎はローマ時代の邸宅の上に建設されてます。


048
市庁舎の最古の部分は塔です。13世紀に建設された塔です。


050
日時計があります。


P1690036
日時計が比較的多い街です。


049
現代ものに弱い私ですが、イタリアでは大人気です。


p1007
ニーノ・フランキーノ(パルマノーヴァ、1912-ローマ、1987)の「スポレート’62」の彫刻


P1690046
市庁舎の装飾


p1008


P1690048


P1690038
市庁舎に絵画館 Pinacotecaがあります。
絵画館は写真不可だったので私の写真がありませんが、外部サイトから作品画像を拝借して掲載します。


p1009
グエルチーノ工房作「アルフォンゾ・パレット―ニの肖像」(1623)


p1010
パオロ・アントニオ・バルビエリ(チェント、1603-ボローニャ、1649)の「アルフォンゾ・パレット―ニ?」(1637c)
パオロ・アントニオ・バルビエリはグエルチーノの弟です。


p1011
ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ通称ロ・スパーニャ(スペイン、1470/1480-スポレート、1528)の「聖母子と聖人たち」(1514-16c)


P1690039


P1690043
ローマ時代の邸宅の上に市庁舎の建物が建ってますが、そのローマ時代の邸宅が発掘されて一般公開されてます。


P1690024
これがあるので簡単に見つかります。


P1690023
この時は無料でしたが、今はどうでしょうか?


P1690022
中に入ります。


p1012
市庁舎の下にローマ時代の邸宅があることは予め分かっていたようですが、それを気にせずに遺跡を埋め立て建物を建設したそうです。


P1690002
20世紀に発掘調査が行われました。


P1690007
発掘は土地所有者の義務であり、その費用を負担しないといけないので、知らん顔を決め込む土地所有者がいるようです。


P1690011
モザイクがある床が多いと思います。


p1013


P1690019
邸宅遺跡からの発掘物


P1690014
(つづく)

P1690160
次はクリプタです。


P1690123
通常のクリプタと異なり、下部教会と言うべき存在です。


P1690125
前述のように、11世紀から12世紀に建設されたサンティザッコ教会がクリプタになってます。


p1028
採光が良いクリプタです。


P1690127
三廊式、ロマネスク様式の内部です。


p1029
聖イザッコの石棺があります。


P1690151
聖イザッコの石棺です。


P1690155
しかし、これは本物ではなく複製です。


P1680243
これが本物の聖イザッコの石棺です。


P1680245
本物は国立スポレート公国博物館で展示されてます。


P1680244
モンテルーポのサン・ジュリアーノ教会にありました。


P1690141
クリプタの見所は古いフレスコ画でしょう。


P1690142
フレスコ画はローマ派画家の影響を受けた地元の逸名画家によって11世紀から12世紀に制作されたとされてます。


P1690146
最後の晩餐


P1690149
複数の画家によって制作されたのは明らかですが、親方とその工房の弟子たち、或いは協力者と、または複数の画家によって制作時期が異なるか等の詳しいことは不明です。


P1690156


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p1031


p1032


p1033


p1034
スポレートの歴史が分かるクリプタでした。


P1690161
本堂に戻りました。


P1690163
左側壁


P1690162
右側壁


P1690164
天井


P1690165
外に出ました。


040
教会の横に門があります。


041
Arco di Druso e Germanico


042
紀元23年に設けられた門です。


p1035
フラミニア街道の出入口でした。


p1036
高さはもう少し高かったとされてます。


p1038



p1039
教会とArcoに間にローマ時代の寺院の遺跡が発掘されました。


p1037


p1040
(つづく)

027
リベルタ広場です。


p1016
Palazzo Ancajani


028
リベルタ広場に面して建っているPalazzo Ancaianiです。


p1017
13世紀にスポレートに移住してきた高貴なアンカイアーノ家が17世紀後半に建設した建物です。


030
現在は中世初期研究のためのイタリアセンターが置かれてます。


029
フレスコ画で装飾されている部屋があるらしいが、非公開です。


031
Porta di Monteroneに向かいます。


032
Piazza Fontanaです。


p1018
広場の名称は、この噴水に由来します。


p1019
Fontana dei Maccabeiは、別の場所にありましたが、1800年にこの広場に移設されました。


P1690167
1800年、広場の名称も変更されたのです。


P1690166
暑い日ではありませんでしたが、物凄い薄着で歩いている人がいました。


P1690168


P1690078
門が見えてきました。


033
Porta di Monteroneです。


034
紀元前241年に築かれた城壁の門です。


p1020
ローマに通じる道路の門だったので、行き来する人が沢山いたそうです。


p1021
元々の門の高さは3メートルでしたが、現在の高さは2.1メートルだそうです。


P1690083
数度の改修を経てます。


P1690084
非常に古い、Porta di Monterone横のアーチです。


P1690085
Porta di Monteroneの直ぐ傍に教会があります。


035
サンタンサーノ教会です。


P1690086
坂に建設されてます。


037
かなり古い教会とされていましたが、建設された時期の具体的な記録がなかったので不明とされてきました。


p1022
教会に隣接する場所にローマ時代の遺跡があることは昔から知られていましたが、資金不足のため、発掘調査が進みませんでした。漸く1955年になって本格的な発掘調査が行われた結果、この教会の歴史が全て明らかになったのです。


p1023
ファサードに向かって左下に発掘された遺跡があります。


p1024
紀元1世紀に建設された異教の寺院だった遺跡です。
6世紀前半、寺院を初期キリスト教会に改造されましたが、それが前身です。


p1025
11世紀から12世紀にかけて、初期キリスト教会が取り壊され、その上にサンティザッコ教会が建設されました。
16世紀にサンティザッコ教会をクリプタにして、その上に新築されたのがサンティ・アンサーノ・エ・イザッコ教会です。その後、奉献する聖人としてパドヴァの聖アントニオが加えられ、教会名がサンティ・アンサーノ・エ・アントニオ教会に変更され、聖イザッコに捧げるクリプタになりました。
現在の新古典様式の建物は、ミラノの建築家アントニオ・ドッティの設計によって、18世紀末に建設された三代目となるものです。


p1026
ファサードに浮彫があります。


036
アントニオ・チンベッリ(スポレート、1865-1927)によって制作された浮彫(20世紀前半)


038
中に入りました。


p1027
美術的には、この礼拝堂の剥離フレスコが最大の見所と言ってよいでしょう。


039
ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ通称ロ・スパーニャ(スペイン、1470/1480-スポレート、1528)の「聖母子」


P1690121


P1690099


P1690103
主祭壇


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主祭壇画は、アルチータ・リッチ(ウルビーノ、1560-1635)の「聖アンサーノの殉教」


P1690113
アルカンジェロ・アクゥイリーニ(イエージ、1562-スポレート、1611)の「ピエタ」


P1690117
ウンブリアの逸名画家作「聖ロレンツォの殉教」(17世紀)


P1690109
ピエトロ・ガリアーティ(ローマ、1809-フラスカティ、1890)の「無原罪の御宿リ」


P1690122
次はクリプタです。
(つづく)

スポレートは、人口37,948人(2020年5月31日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。
古代に築かれた古い町ですが、さらに570年、ロンゴバルド人によって建国され、1198年まで続いたスポレート公国の首都だったことから見所豊富です。
001
前泊地はアンコーナでした。列車でスポレートに向かいました。


P2680078
車中は空いてました。


007
ほぼ定時にスポレートに到着しました。


006
駅名だけを記した表示です。


027
スポレート駅の駅舎


008
徒歩で、この日のお宿に向かいました。


024
この日のお宿です。お気に入りのホテルです。


009
大きな荷物をホテルに預かって貰い、身軽になって外出しました。旧市街の中心までエスカレーターで上るのが簡単ですが、この日は徒歩にしました。


010
Via Porta Fugaを進みます。


p1003
Porta Fugaです。


011
紀元前3世紀には存在していた門です。現在の門は12世紀末に再建されたものです。


012
門の上に碑文があります。
紀元前217年、ハンニバルに率いられたカルタゴ軍が門を破壊して町に侵入しようとした時、門の上から高温に熱された油をカルタゴ兵士に投じて、町を防いだことが碑文に記されてます。


014
門を潜りました。


013
門の近くに塔があります。


p1001
高さ45.5メートルの油の塔 Torre dell'Olioです。


p1002
1155年の記録に、その存在が記されているそうです。現在の塔は、13世紀に再建されたものです。
塔は民有で非公開となってます。


p1004
15世紀から16世紀に建設されたPalazzo Vigiliです。


015
広場に出ました。


016
Piazza Torre dell’Olioです。


017
広場から塔が見えます。


p1005
Torre dell’Olioは現存する塔では、町で最も高い塔です。


018
狭い道を通ります。


019
狭い道に面している店。



020
劇場です。


p1006
1854年から1864年に建設されたTeatro Nuova Gian Carlo Menottiです。


021
この日の公演はなし。


022
ジュストロ通りです。


023
通りのアーチを潜ると街角の聖母子がありました。


024
ローマ時代の遺跡です。


025
ローマ劇場を中心に国立考古学博物館となってます。


p1013
サンタガタ教会です。


P1690277
サンタガタ修道院だった建物が国立考古学博物館になってます。


p1010
サンタガタ教会の隣に博物館の入り口があります。


p1007
入館しました。


p1008
ローマ劇場


p1009
国立考古学博物館については既に紹介済です。


p1012
考古学博物館としての定番展示物です。


p1011
サンタガタ修道院だった建物にあるフレスコ画ですが、その詳細が分かりません。


p1014


p1015


026
(つづく)

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