イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:マルケ州 > イエージ

189引き続きイエージの城壁です。


190


191


193
ドゥオーモの鐘楼が見えます。


192
次はヴァッレ門です。


194
Ports Valle


196
鉄道駅に最も近い門です。


195


197


198


1011
Ports Valle近くの城壁がかなり低いようです。


1012
稜堡


1013
1920年代に道路拡張のために城壁が取り壊された部分


1014
西側の城壁


1015


1016


1017
城壁が低い部分


1018


1019
次はガリバルディ門です。


1020


1021
ガリバルディ門です。


1022
イタリア統一以前は、サン・フロリアーノ門と呼ばれていました。


1023
城壁内から見たガリバルディ門


1024


206
ヴァッレ門から城壁内に戻りました。


207
ヴァッレ門の内側は一部破壊されてます。


208
サン・ピエトロ・アポストロ教会に向かいます。


209
夕刻を迎えて、人出が増えてきました。


210
階段を上ればサン・ピエトロ・アポストロ教会に出ます。


211
サン・ピエトロ・アポストロ教会です。


213
ロンゴバルド時代に建設された、この街で最古の教会の一つです。13世紀頃、ゴシック様式で再建されましたが、1720年に火事のため、天井が崩落してしまいました。


214
碑文
現在の後期バロック様式の建物は、1746年から1784年に建設された三代目となるものです。


212
扉が閉まっていました。


215
これで大体見終わったようです。


216
一旦ホテルに戻ります。


319
夕食を食べるために外出しました。


318
この日の公演はありません。


321


320


323


322


324


024
翌朝です。駅に向かいました。


025
列車で次の目的地に向かいました。
(イエージ編 おわり)

164
Porta Bersaglieriから城壁外に出ました。


1000
イエージの城壁は、マルケ州で最も保存状態が良いものの一つです。


1001
Porta Bersaglieri


1002
Porta Bersaglieriの碑文


1003
城壁外から見たPorta Bersaglieri


165
台形の旧市街を囲む城壁は、周囲約1.5キロメートルあります。


166
先ほど潜ってきたPorta Bersaglieriです。


167
イエージは、ローマ時代に築かれたCastrum(ローマ軍の駐屯地)が前身です。
大半のCastrumと同じように、イエージのCastrumは長方形の形をしていて、その周囲に堀が巡らされ、城壁で囲まれていました。


168
イエージの街の発展に伴い、人口が増えると共に、市域が拡大され、城壁も少しづつ広がりました。


169
13世紀から14世紀にかけて、街の防衛力向上のために、城壁内を拡大して城壁が要塞化され、整備されました。


170
15世紀になると、さらなる防衛力向上の必要性が高まり、建築家で特に軍事要塞を得意にしていたバッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)に城壁整備が委嘱されました。
バッチョは、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂を設計したことで有名です。


171
防衛塔と角塔が点在してます。


1004
バッチョ・ポンテッリが多忙のため、要塞整備が中々進捗しませんでした。
そのため、同時期に活躍していた建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)にも城壁建設が委嘱されました。


1006
後にイエージは教皇領となりましたが、17世紀以降、徐々にその軍事的な重要性が薄まりました。それに従って、城壁や砦などの軍事的重要性を薄めるための改竄や、城壁を利用した高架住宅の建設が行わるようになりました。


1007
防衛上の中心だったRoccaは、1890年に取り壊されました。


172
モンティロッツォの塔です。


173
バッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)の設計と工事監督によって、1454年に建設されたモンティロッツォの塔です。


1008
街のシンボルとなっているモンティロッツォの塔です。


1009


174
道路整備のために、1920年代に城壁の一部が取り壊されました。


175
城壁内の最高点が海抜96メートル、最低部が海抜66メートルあります。


176
旧市街は、高低差が30メートルある台形なので、防衛上の理由から、城壁の形状と高さが土地の高低によって異なります。


177
防御力がありそうな高い壁


178
ロトンドの塔に向かいます。


179
城壁が保存されているので、城壁内外との行き来が制限されてしまいます。


182
この辺の壁を取り壊して出入口を造っても良さそうに思えます。


180


181


183
ロトンドの塔です。


185


184


1010


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186


188
(つづく)

221
よく見えませんが「聖母子」の祭壇画があります。


1022
マルケの逸名画家作「聖母子」(15世紀)


222

フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-マチェラータ、1603)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」(1590c)


1023


1024


1025


1026


224
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)または、コンカ周辺の画家による「聖母子と二聖人」


227
クリストフォロ・ウンターペルガー(カヴァレーゼ、1732-ローマ、1798)の「聖体拝領」(1782)


1027


228


1028


1029
次はサン・ロレンツォ礼拝堂です。


229
ガエターノ・ラピス通称イル・カッラッチェット(カーリ、1706-ローマ、1773)の「聖ロレンツォの殉教」(1745c)


232


1030


233
ジョヴァンニ・オダッツィ(ローマ、1663-1731)に帰属する「聖ビアージョ」


1031
オダッツィはエッチングが得意でした。


1032
洗礼盤


1033
アンジェロ・リパンティの墓


1034
聖書置台


230
クーポラの四隅にフレスコ画が描かれてます。


231
1750年頃にプラチド・ラッザリーニ(ペーザロ、18世紀活動)によって描かれた「四福音書記者」です。


1035
「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


1036
「聖ルカ」


1037
聖マルコ


1038
聖マッテオ


1039
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「聖セッティミオ」(1937)


238
外に出ました。


155
Porta Bersaglieriに向かいます。


156
城壁外に出て、城壁を見る予定です。


157


158
Palazzo Marcelliです。


160
18世紀半ばに建設されました。


159
後期バロック様式のPalazzo Marcelliです。


161
Porta Bersaglieriです。


162
15世紀に建設されました。


1040
門を潜って城壁外に出ました。


163
(つづく)

154引き続きフェデリーコ2世広場です。


135
Palazzo Ripanti Vecchioです。
フェデリーコ2世広場に面して、リパンティ家の所有する建物が2つありました。区別するために古い方のPalazzo Ripanti はPalazzo Ripanti Vecchioと呼ばれてます。Museo Diocesanoが置かれている建物がPalazzo Ripanti Nuovoです。


1001
Palazzo Ripanti Vecchioは、15世紀に建設されたサンタ・ルチア病院でした。


1002
18世紀前半、サンタ・ルチア病院は他の建物に引っ越すことになりました。1724年、エミリオ・リパンティ伯爵は空き家となった旧病院を購入し、同家の住居にしました。それ以降、建物名称が減少に改められました。


136
19世紀初めに後期バロック様式に改造され、現在の外見となりました。


1003
19世紀後半、リパンティ家の直系子孫が途絶えてしまい、同家が所有していた2つのPalazzo Ripanti が空き家となりましたが、イエージ司教によって買収されました。


1004
Palazzo Ripanti Vecchioは司教館になりました。


1005
司教館の入り口


1006
中庭があります。


1007
司教館の階段


1008


1009


134
次はイエージのドゥオーモです。


146
イエージのサン・セッティミオ司教座聖堂です。


1010
1969年にBasilica Minoreに格付けされました。ということで正式名称は、Basilica Minore e Cattedrale di San Settimioと呼ばれます。


149
現在地には、ローマ時代の異教の寺院があり、キリスト教がイエージで広まりを見せると、やがて初期キリスト教会に転用されるようになりました。
4世紀初頭、サン・セッティミオ・ディ・イエージ(ドイツ、3世紀後半-イエージ、307)が初代イエージ司教に任じられると、聖セッティミオは司教座を一時的にその初期キリスト教会に置くことにし、Cattedrale di Santissimo Salvatoreと命名しました。初期キリスト教会だった建物を取り壊し、その上に新しい建物を建設することを考えていたからです。


147
新しい建物の建設が始まりましたが、307年9月5日、サン・セッティミオ・ディ・イエージは、斬首され、殉教しました。キリスト教が禁教だった時代だったので、新しい建物の建設時期は分からないようです。
Basilica di Santtisimo Salvatoreの存在が初めて公式文書に記録されたのが1119年のことでした。
1469年、聖セッティミオの遺体が発見されました。


1011
1208年、三廊式、ロマネスク・ゴシック折衷様式の三代目の建物が建設されました。
1227年、ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)の設計によってファサードが完成しました。
1469年、大改造工事が行われ、単廊式、ルネサンス様式の建物に変わりました。


1012
現在の後期バロック様式の建物は、フィリッポ・バッリジョーニ(ローマ、1672-1753)の設計によって1732年に創建され、1741年に完成した四代目となるものです。


217
ファサードは19世紀に完成しました。


1013
ルイージ・ヴァンヴィテッリ(ナポリ、1700-カゼルタ、1773)の設計によって、1782年から1784年に建設された鐘楼です。


148
ファサードを見ます。


150
入口扉


153


151


152
拝観します。


220
聖堂内に入りました。


235
単廊式、ラテン十字形、後期バロック様式の内部です。


234
三代目の建物にあった作品が一部残されてます。


237
聖水盤が三代目の建物にありました。


1014
ヴェローナ産の赤大理石が使われてます。


1015
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって左側の聖水盤(1227c)


1016
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって右の聖水盤(1227c)


1017
派手とは言えない天井装飾


1018
祭壇画などを見て回ります。


1019
Presbiterio


223


226
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「贖い主」(1937)


225


1020
主祭壇の浮彫は、逸名彫刻家によって17世紀に制作された「ロレートの聖母」です。


1021
後陣左右のオルガンは、17-18世紀に制作されました。
(つづく)

117Piazza Colocciに面して建っている建物です。


1001
Palazzo Bisaccioniです。


118
1992年からCassa di Risparmio di Jesiの建物となってます。


1002
同財団が所有する美術品を展示する部屋があります。


119
この日は休館でした。


1003
ヴァザーリ、グエルチーノなどの作品が展示されてます。


120
この建物右に門があります。


122
写真右が門です。


121
Palazzo Chislieri Scalamontiの門です。


124


123
Palazzo Chislieriはフェデリーコ2世広場から見た方が分かりやすいと思います。


125
Palazzo Honoratiです。


127
16世紀に建設されました。


126
フェデリーコ2世広場に入ります。


128
フェデリーコ2世広場に来ました。


132
先ほどの門を潜って中に入ると、この建物に出ます。


133
Palazzo Chislieriです。


138
フェデリーコ2世広場に面して建っているPalazzo Ripanti Nuovoです。


140
扉が閉まっていました。


141
教区美術館が置かれているPalazzo Ripanti Nuovoです。


1004
開いていればなあ。落胆しました。


1005
展示されている作品が充実しています。


1006
教区美術館は開いていたり、閉まっていたり。


1007


129
写真左の教会に向かいます。


143
サン・フロリアーノ教会です。


1008
12世紀に建設されたロマネスク様式の建物が初代です。


1009
1512年から1532年に再建されました。再建された時は、ルネサンス様式でしたが、1743年に改造され、現在のバロック様式のたてものになりました。


137
未完成のファサードです。
1860年に宗教活動が停止され、イエージ市当局の所有不動産になりました。市立図書館、市立絵画館として建物が利用されましたが、図書館と絵画館は別の建物に移り、現在は劇場になってます。


144
劇場の入り口


1010
鐘楼


1011
旧サン・フロリアーノ教会のファサード前にオベリスクがあります。


130
オベリスクの噴水です。


131
元々ここにあったものではなく、他の場所から移設されたのです。


1012
1844年に完成したオベリスクは共和国広場に設置されました。1949年に現在の場所に移設されました。


1014
旧サン・フロリアーノ教会の斜め横に立っている建物です。


142
Palazzo Balleaniです。


145
12世紀頃からイエージに定住するようになったバッレアーニ家が住居として、1720年から1722年に建設させたロココ様式のPalazzo Balleaniです。


1013
ファサードの彫刻が特徴です。


1015
(つづく)

100スポンティ―ナ広場です。


101
スポンティ―ナ広場に面して建つ古そうな建物です。賃貸物件になっているようです。


102
フェデリーコ2世広場の方向に進みます。


103
Arco della Casa dei Verroni


106


104
ジョヴァンニ・ディ・ガブリエーレ・ダ・コモによって1513年に制作されました。


1001
勿論、通ることが出来ます。


107
Arco della Casa dei Verroniの隣にある建物


108
Piazza Colocciに向かいます。


1002
Piazza Colocciです。


1003
広場に面して歴史的建造物が建ってます。


113
サンタゴスティーノ教会、その隣(写真右端)の建物がPalazzo Colocciです。


1004
先ずサンタゴスティーノ教会です。


114
サン・ルカ教会とも呼ばれてます。


115
12世紀にベネデット会によって建設されたサン・ルカ教会(修道院の教会)です。


116
1400年、アゴスティーノ会の所有になり、程なく名称が変更されました。


1005
18世紀に行われた改造の際、ファサードが煉瓦造りとなりました。
現在は活動を停止た旧教会になってます。


1006
サンタゴスティーノ修道院教会のキオストロ


1007
次はサンタゴスティーノ教会に隣接するPalazzo Colocciです。


1008
広場の名称は、Piazza Colocciを所有していたColocci家に由来します。


1009
1435年の文書に、現在地にColocci家の邸宅があったことが記されているそうです。


1010
1513年、当時のColocci家の当主で、教皇レオ10世の秘書アンジェロ・コロッチ(イエージ、1474-ローマ、1549)がイエージ当局に対して、邸宅の拡大工事申請を提出しました。直ちに申請が認められ、拡大工事が開始され、1596年に完成したルネサンス様式の建物が現在の姿の原形になってます。


1011
1735年、ローマの建築家ピエル・パオロ・アルフィエーリの設計によってバロック様式に改修されました。現在の姿はその改修後のものです。


1012
Piazza Colocciの入り口


1013
コロッチ家の紋章


1014
現在はMuseo di Palazzo Colocciとして一般公開されてます。


1015
邸宅内の階段


1016
バロック様式の装飾


1017
家族の食堂


1018
コロッチ家の収集物


109
次はPiazza Colocciに面して建っている、この建物です。


112
Palazzo della Signoriaです。


111
この場所は、ローマ時代に建てられたローマ劇場の跡地でした。


110
13世紀頃には、政庁舎のプリオーリ宮がありました。


1019
15世紀後半、当時イエージを支配下に置いていたウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)によって、プリオーリ宮を取り壊し、新しい行政庁の建物建設の指示が出され、それに基き1486年から1498年に建設されたルネサンス様式の建物が現在の姿の原形となってます。


1020
1586年にイエージは教皇領となり、教皇庁から派遣されたMagistrato Pontificioの政庁舎となり、その状態がイタリア統一まで続きました。


1021
1616年に建物の一部が改造されました。


1022
1860年、イエージはイタリア王国に併合され、それ以降、この建物は裁判所、刑務所として使用されるようになりました。
1930年から1939年に復元工事が行われました。
現在は市立図書館として使用されてます。


1023
ファサードのイエージ市の紋章


1024
鐘楼


1027
中庭から見た鐘楼


1026
中庭にある井戸


1025
(つづく)

066共和国広場近くに門があります。


067
Porta Mazziniです。


068
16世紀に造られた門です。


069
門を潜って城壁外に出ました。


070
城壁の下の景観。この先に鉄道駅があります。


071
Museo Diocesanoに向かいます。


072
昼下がりは人通りが少ない時間です。


073
Palazzo Bettiniです。


075
17世紀末から18世紀初頭にかけて建設されました。


074
Palazzo Bettiniの一部はB&Bになってます。


077
Palazzo Bettiniの中庭


076
B&Bになっている一角


078
9月15日通り
私は〇月〇日通りが苦手です。9月でも日にちが異なる通りやら広場があるので、覚えていませんから。


079
城壁の下の景観


080
城壁


081
要塞化された城の外壁になります。


083
監視塔


082
門を潜ります。


084
共和国広場に戻りました。


087
Palazzo Magagniniです。


086


085


088
Arco del Magistrato


089
アーチを潜ってPiazza Indipendenzaに出ました。


090
Palazzo Comunaleです。


098


096
Piazza Indipendenzaは、イエージの最高地に当たります。


097
ファサードにガリバルディ像があります。


1005
最高地なので、1282年に要塞が建設されましたが、防御力増強のため、1423年に破壊されて再建されることになり、新要塞が1433年に建設されました。


1007
しかし、イエージの防衛上の重要性が薄れてきたので、新要塞は1527年に解体されたのです。


1006
その解体された要塞の跡地に、16世紀終わりに建てられたのがPalazzo Comunaleです。


092
Palazzo Comunaleのアーチ


091
Palazzo Comunaleの隣に建っている建物です。


093
Palazzo Ricciです。


094
リッチ家の邸宅として、1544年から1547年に建設されました。


1002
1773年に大改修を受けましたが、現在の姿は、この大改修工事後のものです。


1003
外壁の形状からPalazzo Diamantiとも呼ばれてます。


1004


099
Piazza Indipendenzaに記念碑があります。


095
戦争犠牲者記念碑のライオン像


1000
(つづく)

045共和国広場に面して建つPalazzo Magagniniです。(写真右端の建物)


1001
建築家マッティア・カッポーニ(イエージ、1720-1803)の設計によって、1787年に建設されたPalazzo Magagniniです。


044
共和国広場の模様


061
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。次はサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。


062
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。サン・フィリッポ教会とも呼ばれてますが、その理由は後述します。


063
神聖ローマ帝国皇帝フェデリーコ2世(イエージ、1194-フィオレンティーナ・ディ・プーリア、1250)の命によって、現在サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会が建っている場所に建設されたフォンテ・アヴェッラ―ナ修道院が前身です。同修道院は、1221年の文書に、その存在が初めて記載されたそうです。


020
聖アゴスティーノ騎士団の修道士たちによって、1590年、現在地に教会の建物が再建され、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会と命名されました。


021
1659年、聖アゴスティーノ騎士団は教会から去ることになり、当時のイエージ司教が聖フィリッポ・ネリ修道士会に教会の管理を委嘱しました。


064
現在のバロック様式の建物は、Frati Filippiniによって1694年に建設された三代目となるものです。


1002
そのため、サン・フィリッポ・ネリ教会とも呼ばれてます。寧ろ、サン・フィリッポ教会と呼ばれることが通常のようです。


065
ファサードの「キリストの洗礼」(16世紀)(制作者不詳)


023
「キリストの洗礼」の下に、Frati Filippiniの紋章があります。


022
扉が開いたので拝観します。


002
中に入りました。


1003
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


018
左側壁


019
右側壁


1004
説教壇


1005
裕福なFrati Filippiniだったので、装飾に金をかけました。


013
スタッコ彫刻とサン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の装飾は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。


014
フレスコ画は、アルカンジェロ・アクィリーニ(イエージ、1562-スポレート、1552)の作品です。


1006


1007


1008


1009


017
祭壇画を見て回ります。


003
逸名画家作「天上の聖母子と聖人たち」(16世紀前半)


006
ジャチント・ブランディ(ポーリ、1621-ローマ、1691)の「無原罪の御宿リ」(1679)


005
ローマの逸名画家作「グイド・レーニ作『聖フィリッポ・ネリの幻視』(1614-15)のコピー画」(1666)


1010
サン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の彫刻は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。


007
リミニの逸名画家作「Sange Giusto」(14世紀)


1011


008
ジャンジャコモ・ドゥーティの「我に触れるな」(1602)


009
ジャンジャコモ・ドゥーティの「キリストとサマリア女」


010
ジャンジャコモ・ドゥーティの「最後の晩餐」


1012
主祭壇画


012
ジョヴァンニ・ペルッツィーニ(アンコーナ、1629-ミラノ、1687)の「天上の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1687)


1013


015
詳細不知


1014
1887年制作のオルガン


001
外に出ました。
(つづく)

025Corso Giacomo Matteottiに面して建っている建物です。


026
病院と教会の建物です。


028
Ospedale Fatebenefratelli e Chiesa di San Giovanni di Dio


027
18世紀に建設されました。現在は市民病院となってます。


029
Arco Clementino


1019
バロック様式の凱旋門です。


030
建築家で画家でもあったドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の設計によって1734年に建設されました。


031
Arco Clementinoの手前に歴史的建造物があります。


033
旧孤児院の建物です。


034
サン・ウバルド教会もありました。


032
この場所には古い修道院がありましたが、それを取り壊して、その上に孤児院が建設されました。


035
この近くにある門に行きます。


1020
Porta Farina


1021
市域が拡大され、1524年に建設されたPorta Farinaです。


036
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。


037
この道を真直ぐ進めば、教区博物館に行けます。


038
教区博物館はフェデリーコ2世広場にありますが、その前に見逃せない広場があるので、その広場を経由します。


039
先ず共和国広場に向かいます。


041
共和国広場にやってきました。


042
共和国広場に面して建つペルゴレージ劇場です。


1023
1790年に建設された市立劇場です。


043
この日の公演はなし


1024
共和国広場に面して教会が建ってます。


060
Chiesa dell’Adorazione Eucaristica Perpetura(永遠の聖体崇拝教会)、略してChiesa dell’Adorazione(崇拝の教会)とも呼ばれてますが、Chiesa della Morteとも呼ばれてます。


046
初代の建物はConfraternita dei Poveriによって1585年に建設されました。


1025
1744年、Collegiata(参事会教会)に昇格したので、それを機に拡大再建されることになり、1755年に完成した後期バロック様式の二代目の建物です。


1028
鐘楼


040
拝観します。


048
中に入りました。


1026
単廊式、後期バロック様式の内部です。


057
左側壁


058
右側壁


049
祭壇画、彫刻を見ます。


1027
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖家族と聖アンナとパドヴァの聖アントニオ」(1742)


056
「ピエタ」(詳細不知)


052
後陣


054
主祭壇画は、ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖母誕生」(1742)


050


055
詳細不知


051
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「羊飼いの礼拝」


059
外に出ました。
(つづく)

239
外に出ました。


240
ロレンツォ・ロットの作品4点が素晴らしかった。


024
次はマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。


016
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。


015
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域のファサード前に広場がありますが、その広場に「ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ記念碑」があります。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(イエージ、1710-ポッツォ―リ、1736)は、「奥様女中」などのオペラ作曲家です。有望なオペラ作家として将来が嘱望されていましたが、僅か26歳の若さで夭逝してしまいました。


019
ペルゴレージ生誕200年を記念して、アレッサンドロ・ラッツェリーニ(カッラーラ、1860-1942)に制作依頼された作品(1910)です。


017
この建物の直ぐ近くにサン・ニコロ教会があります。サン・ニコロ教会近くに農家がありましたが、14世紀末、その農家の壁にリッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1360-1410)が「聖母」のフレスコ画を描きました。リッポの「聖母」は次第に近隣の人々の信仰を集めるようになりました。
1448年、「聖母」を収容するために小さな礼拝堂が建設され、Oratorio di Santa Maria Assuntaと名付けられました。


1001
オラトリオが完成した当時、ペストが流行してましたが、1456年頃に流行がようやく終息しました。


018
ペスト流行の終息を記念して、オラトリオを収容して新たに聖域を建設することになりました。そうして、1456年に創建され、1509年に完成したのがマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。
1486年、Frati Carmelitaniの所有となりました。
カルメル会によって、修道院が1550年から1621年に建設されました。



014
リッポ・ディ・ダルマシオによって描かれた「聖母」は、農家の外壁にあったため、経時劣化が顕著でした。そのため、地元の画家アンドレア・ディ・バルトロによって1470年に制作された「慈悲の聖母」が「聖母」の代わりにされました。
同名のシエナ派の有名な画家がいますが、「慈悲の聖母」の制作者は全くの別人です。


302
18世紀前半、初代の建物は地震と経時劣化によって危険になったため、破壊して、その上に新しい建物の建設が決まりました。
地元の建築家Nicola Maiolatesiに設計、建築が委嘱され、1751年から1756年に再建された後期バロック様式の建物が現在の姿になってます。


304
中に入りました。


1002
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


308
主祭壇画を見ます。


313
主祭壇画は、二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「聖母子と聖人たち」(1759)です。


317
ルイージ・ランチ(ファブリアーノ、1769-イエージ、?)の「天井フレスコ画」(1795-98)


310
暗くてよく見えません。


306
マドンナ・デッレ・グラツィエ礼拝堂です。


1003
Oratorio di Santa Maria Assuntaが前身とされてます。


1004
元々は、リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」があったとされてます。


1005
アンドレア・ディ・バルトロ(イエージ、15世紀後半活動)の「慈悲の聖母」(1470)
リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」は痛みが激しかったので、1470年にこの作品に差し替えられたそうです。


1006
他の作品を見ます。


305
アンジェロ・ソーナの「磔刑像」(1843)


314
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「我に触れるな」(1850)


316
二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「受胎告知」(1759)


303
外に出ました。


020
次はサン・ニコロ教会です。写真左端に写っている建物がサン・ニコロ教会です。


1008
サン・ニコロ教会は、ペルゴレージの記念碑近くにあります。


021
サン・ニコロ教会のファサードです。イエージ最古の教会の一つとされてます。


022
12世紀後半に建設されたロマネスク様式のサン・ニコロ教会です。
1219年の文書に、その存在の記録が初めて記載されたそうです。14世紀に一部ゴシック様式に改造されました。


1007
テンプル騎士団の教会でしたが、後にカラメル会の教会になりました。


1009
1798年、ナポレオンの抑圧令によって閉鎖され、フランス軍の倉庫に転用されました。
ナポレオン軍の撤退後、一時期宗教活動が再開されましたが、間もなく閉鎖され、軍関係の倉庫として使用されました。


1010
第二次世界大戦後、荒廃した建物が修復され、イエージ市の所有物件になりました。現在は、展示会、会議室などに使用されてます。


023
身廊外壁


1011
後陣


1012
第二次世界大戦後に修復された後陣


1014


1013


1015
サン・二コラ教会の内部


1016
フレスコ画が僅かに残されてます。


1017


1018
(つづく)

292アレッサンドロ・ティアリーニ(ボローニャ、1577-1668)の「磔刑」(17世紀前半)


1001


294
フィリッポ・リッチ(フェルモ、1679-1764)の「天上の聖母子と聖アポロニアと聖ルイージ」


287
展示室天井の装飾


288
プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画


289
私には彫刻の制作者が分かりません。


290
ロココ様式の建物はイタリアでは少ないと思います。


1002


1003
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「羊飼いの礼拝」


1004
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「聖母子と聖人たち」(1710)


1005
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「三位一体」(1710)


1010
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「聖痕を受ける聖フランチェスコの祭壇画」(1528)
裾絵が付いてます。


1011
聖痕を受ける聖フランチェスコ


1012
裾絵の砂漠の聖ジローラモ


1007
裾絵のご誕生


1006
裾絵のマギの礼拝


1008
裾絵の聖セバスティアーノと聖ロッコ


1009
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「三聖人(聖フランチェスコ、パドヴァの聖アントニオ、シエナの聖ベルナルディーノ)」


1013
17世紀前半のマルケの逸名画家作「磔刑と聖フランチェスコと聖ドメニコ」(1610c)


1014
逸名画家作「火刑される聖ルチア」(1800-10c)


1015
エミリアの逸名画家作「授乳の聖母と聖ジョヴァンニーノ」(17世紀後半)


1016
フィレンツェの逸名画家作「光悦の聖フランチェスコ」(17世紀)


1017
ドメニコ・グイディ(カッラーラ、1625-ローマ、1701)の「十字架降下」(17世紀後半)
彫刻家として名高いドメニコですが、大変珍しい絵画です。


1018
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「洗礼を施す聖フィリッポと聖ピエトロ」


1019
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「イリ―デとモーゼ」


1020
ジョヴァンニ・バッティスタ・ランゲッティ(ジェノヴァ、1625-ヴェネツィア、1676)の「聖アグネスの殉教」


1021
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「騎馬戦」(1840c)


1022
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「砲撃」


1023
アントニオ・ヴィヴィアーニ通称イル・ソルド・ディ・ウルビーノ(ウルビーノ、1560-1620)の「聖フランチェスコ」


1024
二コラ・ディ・マエストロ・アントニオ・ディ・アンコーナ(アンコーナ、1465-1511)の「死せるキリストを支える二天使」(1490c)


1025


1026


1027


1028
ベネデット・テーセイ(イエージ、1898-1953)の「自画像」(1935)


1029
フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)の「四つの肖像画」(1863)


1030
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「自画像」(1837)


1031
ジョヴァンニ・ファツィ(クプラモンターナ、1838-ローマ、1926)の「幼児の肖像」(1890c)


1032
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「ファーティマ」(1888)
ファーティマはムーア人の姫です。


1033
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「アラブの戦士」(1887)


1034
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「静物画」
(つづく)

272ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「ご訪問と受胎告知の祭壇画」(1531-32)


1001
イエージのサン・フランチェスコ・アル・モンテ教会のロッキ家礼拝堂にありました。


1002
受胎告知


1003
ご訪問


1004
聖ザッカリア


1005
聖エリザベッタ
聖ザッカリアと聖エリザべッタの子供が聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)です。


1006
聖母マリア


1007


1013


1008
聖母マリアの姉妹


1010


1011


1009


1012


274
ロット作品がある展示室の天井装飾を見ます。


265
フレスコ画が描かれてます。


266
カルロ・パオルッチ(ウルビーノ、1738-ペーザロ、1803)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画です。


267


276
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)またはグエルチーノ工房による「聖マリア・マッダレーナと二天使」(17世紀)


1014
グエルチーノ工房作が定説となってます。


278
ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ通称イル・サッソフェッラート(サッソフェッラート、1609-ローマ、1685)の「祈る聖母」


1015


283
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1578-1660)の「Teodora Passeri Griziに顕現するパドヴァの聖アントニオ」(1611)


1016
イエージのサン・フロリアーノ教会のグリツィ家礼拝堂にありました。
テオドーラ・パッセリは、詩人アンニーバレ・グリツィ(イエージ、1550-1612)の妻です。


284
ピエル・シモーネ・ファネッリ(アンコーナ、1641-チンゴリ、1708)の「天上の聖母子とアンティオキアの聖マルゲリータ」


286
ミケーレ・ロッカ通称イル・パルミジャニーノ・イル・ジョーヴァネ(パルマ、1670c-ヴェネツィア、1751)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(18世紀後半)


1017


279
展示室天井の装飾


280
フレスコ画は、プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されました。


281
私には彫刻の制作者が分かりません。


282


1018
ピーテル・パウル・ルーベンス(ジーゲン、1577-アントウェルペン、1640)の「ヘラクレスとネッサス」(1636c)


1019
カルロ・チニャ―リ(ボローニャ、1628-フォルリ、1719)の「慈愛」


1020


1021


1022


1023
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552-ローマ、1626)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1609)


1024
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「聖母子と三聖人(聖アンナ、アレッサンドリアの聖カテリーナ、司教聖人)」


1025
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「天上の聖母子と三聖人(聖セバスティアーノ、トレンティーノの聖二コラ、聖ロッコ)」(1628)


1026
(つづく)

260ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「聖ルチアの祭壇画」(1523-32)


262
プレデッラ


263
異時同図法によって描かれている珍しいプレデッラです。


264


1001
イエージのサンタ・ルチア同信会がロレンツォ・ロットに注文した作品です。同信会とロットの間で、1523年12月11日に制作契約が結ばれたそうです。契約書が残っているようです。
サン・フロリアーノ教会のサンタ・ルチア礼拝堂に置かれていました。サン・フロリアーノ教会は、1870年に閉鎖され、この作品はマルケ州の所有となりました。1981年のイエージ市立博物館のオープンに合わせて、現在の場所で展示されるようになりました。


1002
執政官(裁判官)の前の聖ルチア


1003
執政官(裁判官)


1004
反駁する聖ルチア


1005
聖ルチア


1006
子供を抑えようとするメイド


1007
聖ルチアを引き留める男たち


1008
聖ルチアを引き留める男たち


1010



1009
主画面とプレデッラがほぼ同じ主題となってます。


1013
向かって左のプレデッラ


1011
母の平癒を祈る聖ルチア


1012
聖アガタの墓に祈る聖ルチア


1014



1015


1016


1018
執政官の前の聖ルチア


1017
刑(売春宿に連行)の宣告をする執政官


1019
売春宿に連行される聖ルチア


1020
牛の力による聖ルチアの連行


1021


1022


1023


1024
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「イエージの受胎告知」(1525)


1025
受胎告知する大天使ガブリエーレ


1026


1027


1028
受胎告知される聖母


1029


270
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「サン・フランチェスコ・アル・モンテの祭壇画」(1525-27)


1030
イエージのミノリ・リフォルマーティ教会(Chiesa di Minori Riformati)にありました。同教会は、1866年に閉鎖され、この作品はマルケ州の財産となりました。
本市立博物館のオープンに伴い、1981年から展示されてます。


1031
聖フランチェスコと聖キアラ


1032
聖ジュゼッペ


1033
聖母


1034
聖ジローラモ


1035
制作年の1526年と記されてます。


269
(つづく)

296廊下です。


297
スタッコ、フレスコで装飾されてます。


298
華美華麗なロココ様式の装飾です。


299


300
全長76メートルの廊下です。


1001
1767年から1770年に制作されたスタッコです。


1002
フレスコ画は、1771年から1779年に制作されました。


1003


1004


1005


1006


1008


1009


1010


1011
絵画の展示室です。


252
ジュリアーノ・ぺレスッティ通称ジュリアーノ・ダ・ファーノ(ファーノ、1490c-アンコーナ、1557)の「天上の聖母子と聖ルチアと聖マリア・マッダレーナ」(16世紀第二四半世紀)


1012


254
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470c-クポラモンターナ、1540c)の「玉座の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタとパドヴァの聖アントニオ」(1528)


1013


1014


1015


1016


1017


255
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470c-クプラモンターナ、1540c)の「砂漠の聖ジローラモ」(1500-30c)


1018


1019


256


1020
ロレンツォ・ロットの作品が展示されている部屋です。


1021


258
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「十字架降下」(1512)


1022


1023


1024


1025


1026


1027


1028


1029


1030


257
(つづく)

019前泊地はフォリーニョでした。


275
次の目的地がイエージでした。


279
フォリーニョ駅に向かいます。


001
フォリーニョ駅です。


007
アンコーナ行き快速列車でイエージに向かいます。


026
車内は非常に空いてました。


203
イエージ駅に到着しました。


204
イエージは、人口39,082人(2021年8月31日現在)のマルケ州アンコーナ県にあるコムーネです。


205
イタリアの歴史上、重要な街です。


008
神聖ローマ帝国皇帝フェデリーコ2世(イエージ、1194-フィオレンティーノ・ディ・プーリア、1250)の生誕地として知られてます。


p1001
私にとってのイエージはロレンツォ・ロットに尽きます。
ロレンツォ・ロットは少し前まで私が好きな画家の一人でした。しかし、年を取るに従ってロットの悲しい生涯が気が滅入るようになって、ロット熱が冷めるようになりました。ティツイアーノに匹敵する画才を発揮し、華やかで脚光浴びていたティツィアーノよりもニヒルなロットに肩入れをしていたのでした。


009
イエージの旧市街は城壁によって囲まれてます。


202
駅周辺は店がなく、見所も全くありません。


201
列車の車窓から旧市街がよく見えますが、駅からは見えません。この交差点から旧市街が見えるようになります。


199
城壁と旧市街が見えます。


200
この日のお宿は、城壁の北端にあって駅から少し遠かったので、タクシーでホテルに向かいました。


010
この日のお宿です。


011
街歩きに出発しました。


013
目抜き通りのVia Matteottiです。


012
ロレンツォ・ロット作品が展示されている市立博物館に向かいました。


p1002
市立博物館が置かれているPalazzo Pianettiです。


241
イエージ貴族のピアネッティ侯爵夫人がピアネッティ家の邸宅として建設されたパラッツォです。


242
マルケのカルド―ロ・マリア・ピアネッティの原案に基づき、地元出身の建築家で画家でもあったドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の設計によって、1748年から1786年に建設されたロココ様式の建物です。


243
1859年に大規模な改修工事が行われ、現在の姿になりました。


301
博物館の入り口


p1003
宮殿と庭園の玄関ホール


p1004


244
中に入りました。


246
大改修工事後、ピアネッティ家は次第に財政悪化に陥り、1891年にパラッツォの一部を賃貸するようになり、それでも財政が改善するには至らず、1901年にTesei家に売却しました。
新たに所有者となったTesei家も財政に苦しみ、パラッツォの一部をイエージ市当局に売却しました。市当局のパラッツォ所有部分は年を経る毎に増え、分割売却が約40年ほど続きました。そうして、1970年代にはイエージ市がパラッツォ全部を所有することになりました。
改修工事を経て、1981年に市立博物館がオープンしました。


245
展示室に入る前に庭園を見ました。


p1005
ロココ様式の庭園です。


p1006
庭園には見るべきものがありません。


247
玄関ホールに戻りました。


248
階段下にイエージ旧市街の模型が置かれてます。


p1008
展示室に向かいます。


p1009
展示室は階上にあります。


p1010
階段の踊り場に浮彫があります。


250
ミケランジェロの浮彫


251
ダンテの浮彫


p1007
ピアネッティ家の紋章
(つづく)

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