イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:エミリア・ロマーニャ州 > フェラーラ再び

P1020638イタリアの春と秋は雨期のようで、雨男の私は雨に恵まれてます。


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エステンセ城にはあとで行きます。


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土産を何か買わなくては。


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ドゥオーモの右側壁下のアーケードに行きました。


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このお店で土産を買いました。


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エステンセ城に向かいました。


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怪僧サヴォナローラ


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城内のフレスコ画


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サン・カルロ・ボッロメオ教会です。


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フェラーラでは珍しいバロック様式の教会です。


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写真右端にサン・カルロ・ボッロメオ教会が写ってます。この写真で教会の位置関係がお分かりになると思います。


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この場所には、14世紀頃に建てられたサンティ・フィリッポ・エ・ジャコモ祈祷所がありました。サヴォイアのカルロ・エマヌエーレ・ピオ枢機卿の指示によって、祈祷所を取り壊して教会が建てられることになりました。
建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)が起用され、アレオッティの設計によって1612年から1623年に建設されました。


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2012年のエミリア地震によって被害を受け、今なお立ち入り禁止となっているようです。


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道を挟んで、サン・カルロ・ボッロメオ教会の斜め向かいにも教会があります。


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サンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会です。


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建築家ルカ・ダネーゼ(ラヴェンナ、1598‐チェント、1672)の設計によって1619年に創建され、1653年に完成した教会です。


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ファサードは未完成のまま現在に至ってます。


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2012年のエミリア地震によって被害を受け、立ち入り禁止措置が続いているようです。


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この教会のミサは別の場所で行われているようです。


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グエルチーノの作品がありますが、暫く見たことがありません。


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Palazzo Magnaniniです。


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ロヴェッラ宮とも呼ばれてます。


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アルフォンゾ1世・デステ公爵の秘書だったグリエルモ・マニャニーニが自分の邸宅として1508年に建設しました。


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ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)が設計したと言われてます。


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大体見終わりました。


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ホテルを経由して駅に向かいました。


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(おわり)

P1020602道の突き当りに写っている建物はサン・フランチェスコ教会です。


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サン・フランチェスコ教会のサイド・ポータル


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写真右は中世期の節税対策がされた建物です。


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サン・フランチェスコ教会のファサード側に回ります。


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サン・フランチェスコ教会のファサード


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2012年のエミリア地震によって被害を受けて、この時は立ち入り禁止でした。


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現在でも修復工事が行われていると思います。中の大部分が拝観できないと思います。


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旧市街の中心に向かいました。


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街角のタベルナコロ


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また雨が落ちてきました。


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写真右に教会風の建物が写ってます。


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教会のファサード風の造りの建物です。


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教会とすれば、この教会のことは全く分かりません。


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宗教関係の建物でしょうか?


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キリストのモノグラムがあります。


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Palazzo Bevilacqua-Costabiliです。


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べヴィラクゥア家が邸宅として1430年に建設しました。


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1830年、コスタビリ・コンタイニ家の所有となりました。
1916年、フランチェスコ・マッツァ伯爵(リヴァナッツァーノ、1841‐トリノ、1924)が買収して女子寄宿学校として使用されるようになりました。


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1930年から1979年まで、様々な用途に分割賃貸されましたが、1988年にフェラーラ市当局が買収して、修復工事を行いました。
1997年、フェラーラ市は、フェラーラ大学に対して建物の99年間無料提供を開始しました。現在はフェラーラ大学の経済経営学部が置かれてます。


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ポータルの装飾


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アリストテレス


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ヘラクレイトス(古代ギリシャの哲学者)


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詳細不知


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ファサードの装飾


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突き当りの建物はドゥオーモです。


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聖母子のタベルナコロ


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ドゥオーモの左側壁です。


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ドゥオーモ広場に出ます。


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アーチを潜ればドゥオーモのファサードです。


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ドゥオーモのファサード前から見たPalazzo Comunaleです。


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(つづく)

P10205829月20日通りです。


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サンタ・フランチェスカ・ロマーナ教区教会にやってきました。


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聖ベネデット会修道院の会衆であるCongrezione Olivetanaが1569年に建設したサン・ジョルジーノ修道院と教会の複合施設が前身です。


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1608年、第233代教皇パオロ5世(ローマ、1552‐1621 教皇在位1605‐1621)によってフランチェスカ・ロマーナ(ローマ、1384‐1440)に列聖されましたが、それを機に1建物を拡大して聖フランチェスカ・ローマに捧げる教会とするべく、1619年にアルベルト・スキアッティ(フェラーラ、?‐1622)の設計によって再建工事が着工されましたが、スキアッティの体調が悪くなったので、ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)に引き継がれ、1622年に完成しました。


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1872年から1874年にかけてさらに拡大拡張工事が行われました。


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現在のファサードは1929年から1931年に改造されたものです。


1458
現在は毎日開く教会です。
しかし、2012年のエミリア地震で被害を受けて、その修復工事のため長らく閉鎖されていました。


1459
修道院だった建物


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鐘楼


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ファサードの装飾


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メインポータル
この教会の美術的見所は2点の祭壇画です。


1465
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555‐1619)の「磔刑とリンボの長老たち」


1464
カミッロ・リッチ(フェラーラ、1580‐1618)の「聖母子の文書を受け取る聖フランチェスカ・ロマーナ」


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9月20日通りを進みます。


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かなり有名な映画館に向かいました。


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ポルタ・サン・ピエトロ通りに入りました。


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チーネマ・ミニョン Cinema Mignon(小さな映画館という意味)です。


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教会の建物のように見えますが、その通りで、サン・ピエトロ教会、別称サンティ・ピエトロ・エ・パオロ教会だった建物が映画館として利用されてます。


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前述のようにフェラーラの古い旧市街は、現在のPo di Valanoの対岸のボルゴ・サン・ジョルジョにありましたが、経済の発展と人口増によってPo di Valanoの北側に街の中心が移動して現在の旧市街が形成されました。
それに伴って新しい旧市街における最古の教会の一つが980年頃に創建されたサン・ピエトロ教区教会でした。


1474
1010年の文書に、この教会の存在が記録されたそうです。


1475
創建以来、建物は何度か改造改修されました。


1473
創建以来1530年頃までは、ファサードは現在と反対側の西向きでしたが、1530年頃に現在の東向きのファサードに改造されたそうです。


1467
サン・ピエトロ教会の右側壁です。


1468
教会の碑文


1466
1797年、ナポレオンによって抑圧され、教会は閉鎖されましたが、フランス軍の撤退後、活動が再開されました。
この教会の隣には、食肉処理場がありましたが、その臭気と喧騒のため、次第に信者が減少して19世紀初頭に活動を停止しました。


1469
その後、建物は売却されて、倉庫、体育館、ダンスホール、売春宿に使用されました。その間、食肉処理場は市郊外に移転しました。


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1941年に映画館として使用されることになり、改造改修工事が行われました。


1470


1477
中は完全な映画館使用になっており、教会の面影は全くありません。


1476
この教会の中にガロファロの傑作がありました。


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ベンヴェヌート・ティージ通称イル・ガロファロ(カナーロ、1476/1481‐フェラーラ、1559)の「聖ピエトロ」
1912年にこの教会からドゥオーモに移されました。


1471
ガロファロの「聖パオロ」
1912年にドゥオーモに移されました。


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教会だった建物が映画館に転用されるのは、イタリアでは珍しくありません。


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傑作映画Nuovo Cinema Paradiso ニュー・シネマ・パラダイスでも教会の建物で映画が上映されていました。


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あの映画はパラッツォ・アドリアーノのマリア・サンティッシマ・デル・カルメロ教会で撮影されたそうです。


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教会だった建物を破壊して、新しい映画館を建てる発想がないイタリアが羨ましいと思います。


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街角のタベルナコロ


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(つづく)

P1020559城壁にやってきました。


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フェラーラの城壁は、ポー川の河岸と寄港する船を防御するために6世紀頃にビザンチン帝国によって建設されたと言われてます。
野蛮人の侵攻を避けるために街の中心は現在のボルゴ・サン・ジョルジョ付近(Basilica di San Giorgio fuori le muraが建っている場所)に移っていきましたが、ブレーシャの伯爵で、後にモデナ、フェラーラ、マントヴァの伯爵を兼ねたテダルド・ディ・カノッサ(?‐1012)によって、10世紀にボルゴ・サン・ジョルジョを取り囲む城壁が追加されました。


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ボルゴ・サン・ジョルジョ付近は、ポー川の低地であり湿地でもあったので、度重なるポー川の洪水に苦しんでいました。また、街の繁栄に伴い、人口が増大しましたが、次第にポー川の対岸の北方向に街の中心が移っていきました。
それに従って、現在の司教座教会が建設されました。新しく築かれた街、現在のフェラーラを取り囲む城壁が12世紀に建設されました。
1314年には、城壁はPo di Valanoの対岸だけとなり、さらに拡張されました。
ボルゴ・サン・ジョルジョ付近は城壁外となったのです。


1457
フェラーラの城壁図です。
15世紀から16世紀に改造された城壁が現存しています。当時の要塞は周囲約13kmでしたが、都市計画や道路敷設などによって要塞の一部が取り壊され、現在は約9kmの城壁が残されてます。


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サン・ジョヴァンニの塔です。


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南に位置するパオラ門です。


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こちらは門の裏側です。


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パオラ門のファサード
パオラ門付近の城壁の一部は19世紀末に取り壊されました。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)の設計によって1612年に建設されたパオラ門です。


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城壁の北にあるPorta degli Angeli


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16世紀に築かれた見張り塔です。


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Torrione del Barco


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城壁内に戻りました。


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フェラーラの城壁をすべて回るのは大変です。


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友人とPalazzo Costabiliで待ち合わせしているので、それまでに軽食を食べておく必要があります。


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この辺は食べるところがありません。


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なんとか見つけて、腹に押し込みました。


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不味かったが、その辺は仕方がない。


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この付近は街はずれなので、そもそも適当な店がありません。


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Palazzo Costabiliにやってきました。


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彼は専門家なので、じっくりと話を聞くことが出来ました。


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外に出ます。


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(つづく)

P1020543引き続き城壁外のサン・ジョルジョ聖堂の聖堂内部です。


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サン・ベネデット礼拝堂の左側壁です。


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フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」です。


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サン・ベネデット礼拝堂の右側壁です。


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フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」


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フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」


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フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」


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サン・ベネデット礼拝堂の天井フレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)によって描かれました。


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Presbiterio


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Presbiterioの左側壁にロレンツォ・ロヴェレッラのモニュメントがあります。


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ロレンツォ・ロヴェレッラのモニュメントです。
ロレンツォ・ロヴェレッラ(?、?‐フェラーラ、1474)は、1460年にフェラーラ司教に任じられ、1474年に没するまで、その任にありました。


1429
アンブロージョ・バロッチ通称アンブロージョ・ダ・ミラノ(ミラノ、15世紀前半‐ウルビーノ、15世紀後半)と、おそらくアントニオ・ロセッリーノ(セッティニャーノ、1427‐フィレンツェ、1479)によって1475年に制作されたモニュメントです。


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上部の聖母子


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聖人たち


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ロレンツォ・ロヴェレッラ司教の墓


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主祭壇画(詳細不知)


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フランチェスコ・フェッラーリの後陣フレスコ画


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フランチェスコ・フェッラーリの後陣フレスコ画


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後陣右側壁にフランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の2つの作品があります。


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フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の「マギの礼拝」


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フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の「割礼」


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フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「べアート・ベルナルド・トロメイに顕現する聖母子」


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最後にコズメ・トゥーラ(フェラーラ、1433c‐1495)の「ロヴェレッラの多翼祭壇画」について触れておきましょう。
ロレンツォ・ロヴェレッラがフェラーラ司教に任じられたことを祝し、兄のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿がコズメ・トゥーラに注文して、1470年から1474年に制作された多翼祭壇画です。
完成後、聖堂の主祭壇に置かれていましたが、1709年に起きた聖堂内の爆発によって損傷を受け、主祭壇から撤去されました。損傷を受けなったパネルは取り外され、後に恐らく売却されて、各パネルは世界中の美術館で展示されてます。
上の写真は、多翼祭壇画の完成直後の記述をもとに作られた全体図です。


1445
メインパネルの「玉座の聖母子と音楽天使たち」
ロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。


1446
上部にあった「ピエタ」
ルーブル美術館にあります。


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「聖マウレリオと聖パオロと注文主バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿」
ローマのコロンナ宮にあります。


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裾絵の「エジプトへの逃避」
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。


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裾絵の「聖マウレリオの逮捕」
フェラーラのディアマンティ宮の国立美術館にあります。


1451
裾絵の「聖マウレリオの殉教」
フェラーラの国立美術館にあります。


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外に出ました。
(つづく)

P1020553拝観します。


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聖堂内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


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右側廊方向


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交差ヴォールト


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壁の殆どがフレスコ画によって埋められてます。


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フレスコ画は、フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)によって1682年から数年かかって制作されました。


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フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオ別称フランチェスコ・コスタンツォ・カッタネオ(フェラーラ、1602‐1665)の「荊刑のキリスト」(1636)
フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオは画家ジュリオ・チェーザレ・カターニオの息子です。フランチェスコ・コスタンツォは、幼少期に父から手ほどきを受けた後、スカルセッリーノに師事しましたが、父によってボローニャに送られ、グイド・レーニに師事しました。1627年、フェラーラに戻ると、カルロ・ボノーニの作品に感銘を受け、やがてカルロ・ボノーニ工房に入ってカルロから学びましたが、ルドヴィーコ・カラッチとカラヴァッジョの影響を受けた画風になりました。


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「荊刑のキリスト」はフランチェスコ・コスタンツォ・カターニオの代表作です。


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磔刑の礼拝堂


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制作者情報等不知の「磔刑と聖母と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


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フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオ別称フランチェスコ・コスタンツォ・カッタネオ(フェラーラ、1602‐1665)の「キリストの鞭打ち」(1636以前)


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ベネデット・ジェンナーリ・イル・ジョーヴァネ(チェント、1633‐ボローニャ、1715)の「聖マウレリオと天使」
この作品はグエルチーノ作品の複製です。


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ベネデット・ジェンナーリ・イル・ジョーヴァネは、ベネデット・ジェンナーリ・イル・ヴェッキオ(チェント、1633‐1610)の孫です。イル・ヴェッキオはグエルチーノの最初の師匠でした。


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フランチェスコ・フェッラーリのフレスコ画


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サン・マウレリオ礼拝堂です。


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サン・マウレリオ礼拝堂の祭壇画は、フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖マウレリオの殉教」です。


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サン・マウレリオ礼拝堂のフレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリによって描かれました。


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サン・マウレリオ礼拝堂の天井フレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリによって描かれました。


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フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖体を授ける聖マウレリオ」


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フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570c‐1630c)の「聖ベネデットの施し」


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これはグイド・レーニ作品のコピー画です。


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聖母礼拝堂です。


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「聖母子」(詳細不知)


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フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570c‐1630c)の「悪魔を追放する聖ベネデット」


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この作品はルドヴィーコ・カラッチ作品のコピー画です。


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洗礼盤


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カウンターファサード


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サン・ベネデット礼拝堂です。


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サン・ベネデット礼拝堂の祭壇画は、ドメニコ・マリア・カヌーティ(ボローニャ、1625‐1684)の「聖ベネデットと天使」


1421
ドメニコ・マリア・カヌーティは、グイド・レーニ工房にいましたが、後にグエルチーノに師事しました。


1422
(つづく)

P1020491フェラーラの城壁です。


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城壁外のボルゴ・サン・ジョルジョにやってきました。
サン・ジョルジョ橋の四隅に四体の聖人像があります。


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ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖マウレリオ」


1390
ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖人」
聖人は特定出来ないようです。


1391
ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖ロッコ」


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ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖ジョルジョ」


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サン・ジョルジョ橋の下を流れるPo di Valanoです。


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Po di Valanoは、ポー川のデルタ支流です。
中世以前はポー川の本流でしたが、度重なる氾濫によってポー川の流れが変わり、現在は支流となってます。


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城壁外のサン・ジョルジョ聖堂 Basilica di San Giorgio fuori le muraの鐘楼です。


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城壁外のサン・ジョルジョ聖堂はボルゴ・サン・ジョルジョに建ってます。
フェラーラの起源は、今日のフェラーラの南東約10km離れたVoghenzaでしたが、4世紀にヴォゲンツァは司教区に昇格しました。


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7世紀から8世紀にかけてヴォゲンツァは異教徒の野蛮人の侵略を受けて荒廃してしまいました。ヴォゲンツァの住民は、城壁外のサン・ジョルジョ聖堂が建っているボルゴ・サン・ジョルジョに移住しましたが、それと共に司教座も移され、7世紀に創建されたサン・ジョルジョ教会が司教座教会となりました。


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ところがポー川右岸にあるボルゴ・サン・ジョルジョは、湿地であり、しかも度重なる洪水によって経済的な発展には限界がありました。経済発展によって増大した人口はやがてポー川左岸の現在のフェラーラに移り、城壁が築かれました。
それに伴って新サン・ジョルジョ司教座教会が建設されました。


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現在のサン・ジョルジョ司教座教会です。市域の中心の移動によって建設されました。1135年に司教座がこの教会に移されました。


P1020498
現在の姿は、ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)の設計によって15世紀に再建された建物がその原形となってます。


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1581年、建築家Alberto Schiatti(フェラーラ、?‐1586)によってファサードが改造されましたが、現在のバロック様式のファサードは建築家Andrea Ferreri(ミラノ、1673‐フェラーラ、1744)によって18世紀前半の建設されました。


1393
鐘楼はビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)の設計によって1485年に建設されました。


1407
鐘楼のモニュメント


1394
フェラーラ戦争(1482‐1484)の平和のモニュメント


1395
平和のモニュメント上の彫像


1402
後陣


P1020554
毎日開く教会です。


P1020554
ファサードを見ます。ファサード上部左右に彫像があります。


1397
フェラーラ司教の聖マウレリオ


1398
聖ロレンツォ


1399
竜を退治する聖ジョルジョ


1400


1401
ファサードに向かって右側に修道院だった建物があります。


P1020544


P1020545
サン・ジョルジョ修道院の入り口です。


1403


1404


P1020546
修道院の入り口から中に入りました。


P1020547
キオストロ回廊に出ます。


P1020548


P1020549
回廊壁にある浮彫


P1020550
中庭に井戸があります。


1405


1406


P1020556
キオストロ回廊から外に出ました。


P1020551
ファサード側に回ります。


P1020557
(つづく)

P1020481引き続きPalazzo Costabiliです。


1357
Sala Dei Tesoroのフレスコ画です。


1358
ガロファロの傑作です。


1359
考古学の展示よりも、こちらのフレスコ画の方が断然良いと思います。


1360
考古学博物館の展示は、どこも同じような展示ですから。


1361
Sala delle Storie di Giuseppeです。


1362
Sala delle Storie di Giuseppeの天井にフレスコ画があります。


1363
Sala delle Storie di Giuseppeのフレスコ画はガロファロの弟子によって制作されました。


1364


1365


1366


1367


1368


1369
部屋の調度品


1370


1371


1372
休憩室


1373


1374
礼拝堂


1375


1376
次は考古学博物館の展示です。


1377
考古学博物館の展示品は、どこの博物館でも大体同じです。


1379
副葬品(紀元前300‐紀元前250)


1378
副葬品(紀元前300‐紀元前250)


1380
古代ギリシャの壺(紀元前450‐紀元前250)


1381


1382


1383


1384


1385


1386


1387


1388


P1020483
宮殿から外に出ました。


P1020485
展示物よりもPalazzo Costabiliのフレスコ画などの方が印象深いものがありました。


P1020484
道の突き当りに門があります。


P1020486
18世紀に建設されたPorta Romanaです。


P1020487
市域が拡大されるとともに城壁が外へと広がりましたが、フェラーラ最後の城壁に設けられた門です。


P1020490
Porta Romanaを潜りました。


P1020489
城壁外に出ました。


P1020488
(つづく)

P1020479引き続きPalazzo Costabiliです。


1317
庭園です。


1318


1319


1320


1321


1322


1323


1324


1325
宮殿の建物内に入ります。


1330
階段の装飾


1327
振り返って庭園の方を見る。


1328
階段踊り場の柱


1329
階段踊り場の柱の柱頭


1326
更に階段を上ります。


1331
階上の廊下


1332
展示室


1333
遺跡の発掘場所を示した地図


1334
天井の装飾


1335
ガロファロの弟子たちによるフレスコ画


1336
次はSala dei Profetiの装飾です。


1337
Sala dei Profetiのフレスコ画はガロファロの弟子たちによって描かれました。


1338


1339
モーゼ


1340


1341


1342
次はSala Dei Tesoroの装飾です。


1343
Sala Dei Tesoroはフレスコ画によって装飾されてます。


1344
フレスコ画は、ベンヴェヌート・ティシ・ダ・ガロファロ通称イル・ガロファロ(カナーロ、1476/1481‐フェラーラ、1559)によって制作されました。
Sala Dei Tesoroのフレスコ画はガロファロの代表作の一つです。


1345
Sala Dei Tesoroのフレスコ画は、2度渡って描かれました。


1346
色彩鮮やかに描かれている部分は、マントヴァのサン・ジョルジョ城のCamera degli Sposiに描かれたアンドレア・マンテーニャ(イーゾラ・ディ・カルトゥーロ、1431‐マントヴァ、1506)のフレスコ画(1465‐1474)を参考にして、1503年から1506年に制作されました。


1347


1348


1349
モノクロの部分は、ガロファロがフェラーラに戻った1517年頃に制作されたとされてます。


1350
モノクロ部分のテーマは「エロスとアンテロースの物語」です。


1351


1352


1353
写真上部が1503年から1506年に制作されたもので、写真下部は1517年頃に制作されたものです。


1354


1355


1356
(つづく)

P1020481次は旧サンタ・アポッロニア教会に隣接するPalazzo Costabiliです。


P1020482
コスタビリ宮殿、またはイル・モーロ宮殿と呼ばれてます。


1280
1491年、ミラノ公爵ルドヴィーコ・マリア・スフォルツァ別称ルドヴィーコ・イル・モーロ通称イル・モーロ(ヴィジェーヴァノ、1452‐フランス、ロシュ、1508)は、ベアトリーチェ・デステ(フェラーラ、1475‐ミラノ、1497)と結婚しました。
ベアトリーチェ・デステは、エルコーレ1世・デステ公爵の娘で、イサベッラ・デステの妹です。


1281
予てから休息の地を求めていたイル・モーロは、妻の生まれ故郷フェラーラに休息のための宮殿建設を決めました。
宮殿建設の責任者としてイル・モーロの秘書アントニオ・コスタビリ(?、1450?‐フェラーラ、1527)を起用しました。アントニオ・コスタビリは、エステ家と親密であり、エルコーレ1世・デステの友人でした。


1282
アントニオ・コスタビリは、エステ家お抱えの建築家ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)に宮殿建築を委嘱しました。
そうして、ビアージョ・ロセッティの設計によって1495年に創建され、1504年に完成したのがPalazzo Costabiliです。
しかし、イル・モーロは、1499年にミラノを去り、ルイ12世に敗れて、やがて捕らわれの身となり、獄中で没しました。
Palazzo Costabiliは完成したものの、注文主であるイル・モーロは訪れることがなかったのです。
どのような経緯があったのか、私には詳しい事情が分からないのですが、完成した宮殿はアントニオ・コスタビリが所有することになりました。
その後、約200年間はコスタビリ家の邸宅として使用されましたが、売却され、所有者が何度も変わりました。所有者が何度も変わるうちに宮殿は劣化が進みました。


1289
フェラーラ県にコマッキオというコムーネがありますが、19世紀末、コマッキオ近郊で行われた土木工事の際、紀元前2世紀に放棄されたスピーナという街の遺跡が発見されました。スピーナは、ポー川が流れ、アドリア海に近い湿地にありましたが、度重なる洪水と夥しい蚊の発生に苦しみ、放棄されたそうです。
スピーナ遺跡からの発掘物を展示するために場所としてPalazzo Costabiliが選択され、1920年に国が買収しました。1932年から博物館としての改修工事が行われ、1935年にフェラーラの国立考古学博物館がオープンしました。


P1020480
国立考古学博物館の入り口です。


1283
国立考古学博物館の展示よりも宮殿自体の方が見所豊富に思えます。


1284
中に入ります。


1290


1285
中庭から見た宮殿


1286


1287
ロッジャがあります。


1288


1291
ロッジャの上部


1292
ロッジャの柱頭


1293


1294


1295


1296


1297


1298


1299


1300
宮殿装飾断片


1301


1309
コートヤードに入ります。


1302
Corte d’Onore


1303
Corte d’Onoreから隣接する旧サンタ・アポッロニア教会が見えます。


1304


1305


1306


1307
Corte d’Onoreの柱頭


1308


1310


1311


1312


1313


1314


1315


1316
(つづく)

P1020455とうとう雨が降ってきました。
イタリアのゴミ出しは、家毎に出すのが普通です。


P1020456
南の方に進みました。


P1020459
廃墟となったサンタンドレア教区教会だった建物です。


P1020458
1000年頃に創建されたサンタンドレア教区教会でした。1177年の文書にその存在が詳しく記載されたそうです。


P1020457
13世紀後半、サンタンドレア教区教会(修道院が併設されていた複合施設でした)はFrati Eremitani di Sant’Agostinoによって運営されていましたが、フェラーラ、モデナ、レッジョのシニョーレ(支配者)だったアッツィ7世・デステ(フェラーラ、1263‐エステ、1308)の娘ベアトリーチェはFrati Eremitani di Sant’Agostinoの修道女になりました。それを機に、アッツィ7世・デステはサンタンドレア教区教会の拡張を命令しました。それ以降、サンタンドレア教区教会はエステ家の庇護のもとにおかれ、1501年までにさらに拡張されました。


P1020460
1796年、ナポレオンによって抑圧され、修道士は追放され、建物は没収され、フランス軍の兵舎に転用されました。


1265
1806年、サンタンドレア教区教会は再開されましたが、併設の修道院は閉鎖されたままでした。


1266
1823年、第252代教皇レオ12世(1760‐1829 在位:1823‐1829)は、イエズス会修道院をフェラーラに建設すること命じましたが、その資材をサンタンドレア教区教会の修道院から調達するように指示しました。そうして修道院だった建物は資材調達のため破壊されたのです。


1267
1866年、教区教会は閉鎖されました。閉鎖後、建物は放置して、1938年に屋根の一部が崩落、1969年に屋根の殆どが崩落したので、建物は破壊されることになりました。


P1020462
サンタンドレア教区教会の建物はそのごく一部が残されているにすぎません。


P1020461
南を流れるポー川に向かって進みました。


P1020463
道の左奥に城壁があります。


P1020464
次はサンタ・テレーザ教会です。


P1020465
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会にやってきました。


P1020466
この場所に地元の人たちが詣でる信仰の小さな祠がありましたが、1739年頃から跣足カルメル会のサン・ジローラモ修道院の修道女5人が小さな祠に毎日通って信仰を捧げました。


1269
やがて信仰の輪が広がり、18世紀後半になると教会建設の話が持ち上がり、具体化の運びとなりました。


1268
フェラーラの建築家ガエターノ・バルビエーリ(フェラーラ、1711‐1797)の設計によって、1781年から1788年に建設されました。


1272
しかし、建設されてから9年後の1797年にナポレオンによって抑圧され、閉鎖されてしまいました。
1821年に活動が再開されました。


1270
修道院だった建物の外壁


1271
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会の左側壁


P1020467
毎日開く教会です。


P1020469
Via Carlo Mayr


P1020470
Via Borgovadoを通ってサンタ・アポッロニア教会に向かいました。


P1020471
Via XX Setembreに入りました。サンタ・アポッロニア教会はこの通りに面して建ってます。


P1020472
サンタ・アポッロニア教会です。


P1020477
Confraternita della Morte(死の同信会)によって15世紀に建設された小さな教会が前身です。


P1020474
15世紀末には手狭になったので、フランチェスコ・マッツァレッリの設計によって1612年から1668年に再建された八角形の建物が現在の姿の原型です。


P1020476
1975年に教会は閉鎖されました。つまり旧サンタ・アポッロニア教会というわけです。


P1020473
閉鎖されて数年後に建物の一部が解体されたそうです。


P1020479
旧サンタ・アポッロニア教会に隣接して、フェラーラの国立考古学博物館があります。


P1020475
今世紀になると、国立考古学博物館の一部として旧サンタ・アポッロニア教会の建物を転用する計画が具体化しました。
そのための修復工事が行われていましたが、2012年のエミリア地震によって被害を受けたようで、その後、計画が進捗した話が聞こえてこなくなりました。
コロナ禍以降、イタリアに行ったことがないので現在の最新状況については知らないのです。


1275


1274
ポータル


1276
ポータルの彫刻


1273
サンタ・アポッロニア修道院だった建物


1277


1278
城壁近くに閉鎖された旧教会が多いように思います。


1279


P1020478
(つづく)

P1020432スキファノイア宮殿からMuseo Lapidarioに向かいました。
ラピダーリオとは、碑文、碑銘、石に刻んだ、という意味です。


P1020433
1470年に建設されたサンタ・リベラ教会です。サンタ・マリア・でっれ・グラツィエに捧げられた教会です。


P1020444
1796年、ナポレオンの抑圧によって聖職者が追放されるとともに宗教活動が禁じられました。その後、サンタ・リベラ教会だった建物は、倉庫、厩舎、工房などに転用されました。


P1020434
旧サンタ・リベラ教会の建物を博物館に転用する計画が具体化し、1979年、フェラーラ市が建物を買収しました。
建物は改装され、1984年に市立博物館がオープンしました。


1239
中は完全に改装されて、教会だった面影は後陣の構造に僅かに認められるだけです。


P1020451
後陣の天井


P1020453


P1020450


P1020449


P1020446
石棺、石碑、土器などが展示の中心です。


P1020447
この博物館の見どころは、アウレリオの石棺と新生児の石棺と言われてます。


P1020452


P1020454


1240
博物館は、通りを挟んでスキファノイア宮殿の斜め後方向かいにあります。スキファノイア宮殿の切符で入館可能だったと思いますが、近年無料公開という情報がありますが、どうでしょうか?


1241
碑文(1世紀後半)


1242
石碑(1世紀)


1243
アウレリオの石棺(3世紀)


1244
ラヴェンナで造られたアウレリオの石棺


1245


1246


1247


1248


1249
アウレリオの石棺は、この博物館で最重要の作品とされてます。


1250
碑文(2世紀)


1251
キリスト教徒の石棺(13世紀)


1252


1253


1255
アンニア・ファウスティーナの石棺(225‐250c)


1256


1257


1258
アンニア・ファウスティーナの石棺の裏面


1259
新生児の石棺(190‐220c)


1260
石碑(50)


1261
石碑(1-2世紀)


1262
石碑(紀元前27‐紀元後68)


1263
石碑(190‐210)


1264
石碑(1世紀)


P1020445
外に出ました。
(つづく)

P2520905次の部屋です。Sala della VirtuまたはSala degli Stucchiと呼ばれてます。


1211
スタッコ彫刻とテラコッタによる装飾で有名です。


1212
スタッコ彫刻とテラコッタによる装飾は、彫刻家ドメニコ・ディ・パリス通称ドメニコ・ディ・カヴァッロ(パドヴァ、1456‐1503記録)と画家ブオンジョヴァンニ・ダ・ジェミニアーノ(フェラーラ、1446‐1476記録)によって1516年頃に行われました。


1213
フレスコ画断片が残されてます。


1214
壁一面にフレスコ画があったと言われてます。


1215
フレスコ画は、フェラーラ派画家たちによって1468年頃に描かれたとされてますが、それ以上の具体的なことは分からないようです。


1216


1217


1218


1219


1220


1221


1222


1223
Fortiduto


1224
Temperanza


1225
Spes


1226
Fides


1227


1228


1229


1230


1231


1232


1233


1234


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1238


P2520879


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P2520889


P2520893


P2520895


P2520900


P2520902


P1020432
外に出ました。
(つづく スキファノイア宮殿の項はこれで終わりです)

P2520771次は9月です。


1183
9月のフレスコ画は、エルコーレ・デ・ロベルティ(フェラーラ、1451‐1496)によって1468年から1470年頃に描かれました。


P2520773
9月の上段です。


1184
上段のテーマは「ウルカヌスの勝利」です。


1185


1186


1187


P2520775
9月の中段です。


1188
中段は「9月の寓意」です。


1189


1190


1191


1192


1193


1194
次は下段です。


1195


1196


1197


1198


1199


1200


1201


1202


1203


1204


1205


P2520770
次は10月です。


1206
落剝、退職が著しい10月です。


P2520767
11月です。


1207
11月もダメです。


P2520766
12月です。


1208
上段だけが何とか見るに値するでしょうか?


1209
12月の上段です。


1210
12月の横に色鮮やかなフレスコ画があります。


P2520762
これです。


P2520764


P2520842


P2520844


P2520846


P2520849


P2520851
(つづく)

P2520848フレスコ画の保存状態が悪い箇所がかなりあります。


P2520864
次は7月(左)です。右は6月です。


P2520794
7月です。


1160
7月は、Maestro dagli Occhi Spalancatiによって1469年から1470年頃に描かれました。


1161
Maestro dagli Occhi Spalancatiは、15世紀に活動したコズメ・トゥーラ派の画家でした。


P2520789
7月の上段は「ジュピターの勝利」です。


P2520795
中段は「7月の寓意」です。


1162


1163


1164


1165


P2520800
7月の下段です。


1166


1167


1168


1169


1170


1171


1172


1173


P2520861
左側が9月、右側が8月です。


P2520779
次は8月です。


1174
8月は、Maestro dell’Agostoまたはゲラルド・ディ・アンドレア・フィオリーニ・ダ・ヴィチェンツァ(1424‐1485/1486活動記録)によって1469年から1470年頃に描かれました。


P2520782
8月の上段です。


1175
上段のテーマは「ケーレスの勝利」です。


P2520784
中段です。


1176
中段は「8月の寓意」です。


1177


P2520786
8月の下段です。


1178


1179


1180


1181


1182
(つづく)

P2520816次は5月です。


P2520817
フランチェスコ・デル・コッサ(フェラーラ、1436‐ボローニャ、1478)と弟子によって1470年頃に制作されました。


1131
下段が殆ど落剝しています。


1132
上段は「アポロの勝利」です。


1133


1134


1135


1136


1137


1138


P2520820
中段です。


1140
中段は「5月の寓意」です。


1141


1142


P2520822
5月の下段です。


1144


1145


1146


1147


1148


1149


P2520864
左から7月と6月です。


P2520801
次は6月です。


1150
6月はMaestro dagli Occhi Spalancatiによって1469年から1470年頃に描かれました。


P2520804
Maestro dagli Occhi Spalancatiは15世紀に活動したコズメ・トゥーラ派の画家です。


1151


P2520806
6月の中段は「6月の寓意」です。


1152


1153


P2520808
6月の下段です。


1154


1155


1156


1157


P2520867
(つづく)

P2520862引き続きSalone dei Mesiです。


1096
4月のフレスコ画です。


1097
中段のフレスコ画


1098
4月のフレスコ画は、フランチェスコ・デル・コッサ(フェラーラ、1436‐ボローニャ、1478)によって1469年から1670年ころに描かれました。


1100


1099


1101


1102


1104


1103


P2520832
4月の下段です。


1105


1106


1107


1108


1110


1111


1112


1113


1114


1115


1116


1117


1118


1119


1120


1121


1122


1123


1124


1125


1126


1127


1128


1130


1129


P2520758
次は5月です。


P2520756
(つづく)


P2520753Sala dei Mesiです。


P2520858
15世紀で最も重要なフレスコ画の一つと言われてます。



1057フレスコ画の状態ですが、劣化が進んで何が描かれているか判然としない部分と修復の結果、鮮明に蘇った部分に分かれてます。
その理由は、スキファノイア宮殿の歴史を知ると簡単に分かると思います。



1058長らくフェラーラを支配してきたエステ家は、1598年にフェラーラを放棄しましたが、それを機に宮殿はマッサ・カッラーラ侯爵のチーボ家の所有となりましたが、1703年にタッソー家に売却されました。
1797年、ナポレオンのイタリア侵攻で宮殿はフランス軍に没収されましたが、ナポレオンの失脚後、宮殿は民間人に売却されました。
所有者が何度も変わるうちにフレスコ画の劣化が徐々に進みました。


1060
イタリア統一後、政情が安定すると、貴重な文化遺産であるスキファノイア宮殿の重要性が認識され、公的機関によって宮殿を買収して、修復を行ってから博物館として一般公開する案が浮上しました。s資金難のために計画は中々具体化しませんでしたが、1897年にフェラーラ市が買収し、翌1898年に博物館として一般公開されるようになりました。
2012年のエミリア地震によって被害を受け、閉鎖の後、部分オープンされていましたが、2021年5月から全面的にオープンされたそうです。
さて、Sala dei Mesiのフレスコ画ですが、天文学者であり、建築家のPellegrino Prisciani(フェラーラ、1435c‐1518)がボルソ・デステ侯爵(フェラーラ、1413‐1471)から依頼を受け、ペッレグリーノの立案に基づき、フェラーラ派画家たちに注文して制作されました。
ペッレグリーノは、レオネッロ・デステ侯爵(フェラーラ、1407‐ヴォギエーラ、1450)とボルソ・デステ侯爵の個人アドヴァイザーでした。
ペッレグリーノから注文を受けてフレスコ画を制作したのはフェラーラ派の画家たちで、具体的にはフランチェスコ・デル・コッサ(フェラーラ、1436‐ボローニャ、1478)、エルコーレ・デ・ロベルティ(フェラーラ、1451‐1496)、バルダッサーレ・デステ(レッジョ・エミリア、1443‐フェラーラ、1504)などの画家たちでした。
18世紀半ば、当時の高名な美術史家によって、この部屋のフレスコ画制作者がコズメ・トゥーラ(フェラーラ、1433c‐1495)と断定されましたが、現在は否定されており、この部屋のフレスコ画制作にはコズメ・トゥーラは参画していないとされてます。
フレスコ画は、一年の各月毎に描かれ、各月は三段に渡って描かれ、上段が神話、中段が各月の占星、下段がボルソ・デステ侯爵の生涯のエピソードとなってます。



10591月です。
何が描かれていたのか判別不能です。



10612月です。
保存状態が悪く、何が描かれていたのか判別不能です。



10663月です。


1062
保存状態が良い3月のフレスコ画です。



10643月はフランチェスコ・デル・コッサ(フェラーラ、1436‐ボローニャ、1478)によって1469年から1470年ころに描かれました。


1065


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3月の中段です。


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3月の下段です。


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左から5月、4月、3月です。


1085
次は4月です。


1086
4月は、フランチェスコ・デル・コッサ(フェラーラ、1436‐ボローニャ、1478)によって1469年から1470年ころに制作されました。


1088


1089
4月の上段です。


1090
上段は「ヴィーナスの勝利」です。


1091


1092


1093


1094


1095
(つづく)

P1020435次はスキファノイア宮殿です。


P1020436
フェラーラ観光における目玉というべき必訪のスキファノイア宮殿です。


1026
スキファノイア宮殿については既に取り上げました。


1027
二番煎じになりますが、改めて触れておきましょう。


1028
通りに面して扉が二か所ありますが、こちらはPortal Minoreです。


P1020437
こちらはPortal Maggiore、メイン扉です。


P1020438
大理石彫刻による装飾が見事です。


1029
ピエトロ・ディ・ベンヴェヌート・デリ・オルディーニ(フェラーラ、1448から記録‐1483没)のデザインによって、アンブロージョ・ディ・ジャコモ・ダ・ミラノとアントニオ・ディ・グレゴリオ(帰属作品説が有力のようです)が1470年に制作しました。


1030
一見に値する門です。


1031
ポータル上部の紋章


1032
エステ家の紋章とは違うようです。


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1046
中に入ります。


1053


1054
中庭


1055


P1020443
切符売り場


P1020442
この時、公開されていたのは日本の2階(イタリアでは1階)だけでした。


P1020440
高い階段です。


P1020439
この時は写真不可でした。
写真がないと紹介不能なので他のサイトから写真を拝借します。


P1020441
ボルソ・デステ像


1048


1049
Giacomo Zilocchi(ピアチェンツァ、1864‐フィレンツェ、1943)が1927年に制作したコピー彫刻です。


1050
金庫または保管庫(16世紀)


1051


1052


1056
Sala dei Mesi
(つづく)

P1020361次はサンタ・マリア・イン・ヴァード聖堂です。


P1020363
サンタ・マリア・イン・ヴァード聖堂はスキファノイア宮殿近くにあります。


P1020420
行ったり来たりで、かなり歩きました。


P1020421
天気予報が外れたようで、時々日差しがありました。しかし、それは午前中だけで、昼頃から降り出して、やがては豪雨になりました。


P1020422
Via Borgovado?


P1020423
サンタ・マリア・イン・ヴァード聖堂の直ぐ傍まで来ました。


P1020424
サンタ・マリア・イン・ヴァード聖堂です。Vadoとは浅瀬という意味ですが、教会が建っている場所は中世初期までポー川浅瀬近くの湿地でした。


P1020429
5世紀頃、聖母を祀る祠があり、地元の人たちが訪れていました。具体的な世紀は不明とされていますが、ポー川南岸にあるドゥオーモに行かずに済むように、聖母を祀る祠を廃して小さな教会が建設されました。


P1020426
1171年3月28日のイースターの日、小さな教会の祭壇で聖体の奇跡が起こり、それ以来、小さな教会は巡礼の目的地となり、多くの信者を集めました。


P1020428
やがて小さな教会は手狭になると共に、建物の老朽化が進み、15世紀初めには再建の必要が出てきました。しかし、再建計画は少しも進捗しませんでした。


P1020430
1494年、エルコーレ1世・デステ侯爵(フェラーラ、1431‐1505)が再建の命令を下し、お抱えの建築家ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)が起用され、ロセッティの設計によって1495年に再建工事が着工されました。


P1020425
ロセッティの没後の1518年に工事が完了し、同年、奉献式が執り行われました。


P1020427
毎日夕方にミサが行われます。午前中は扉が開かないようです。(現在は不明)


1001
2012年のエミリア地震で被害を受けました。


1000
ファサードの扉


1002
ファサードの丸窓


1003
ファサード上部の天使像


1004


1005
サイドポータル
こちらの扉が開くことが多かった。


1006
三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


1007
美術的に見どころ豊富な聖堂です。


1008
カルロ・ボノーニの作品で有名な身廊天井です。


1010
Presbiterio


1009
主祭壇画


1011
カミッロ・フィリッピ(フェラーラ、1500-1574)の「受胎告知」


1012
後陣のフレスコ画は、カルロ・ボノーニ(フェラーラ、1569?-1632)の「神の名の高揚」


1013
ジュゼッペ・アントニオ・ゲディーニ(フィカローロ、1645‐フェラーラ、1707)の「天使のコンサート」


1014
オルガンの蓋に描かれた「受胎告知」(製作者不知)


1015


1016


1018
カルロ・ボノーニ(フェラーラ、1569?-1632)の「聖母戴冠」


1017


1019
カルロ・ボノーニ(フェラーラ、1569?-1632)の「不信の司教](1616-17)


1020
フィリッポ・ポッリの「聖母子」(16世紀)


1021
ドメニコ・モーナ(フェラーラ、1550‐パルマ、1602)の「聖母被昇天」(1580-81)


1022
「ご訪問」(製作者情報不知)


1023
沢山の作品があります。


1025
キオストロ


1024
キオストロ回廊


P1020431
(つづく)

P1020350コルプス・ドミニ修道院の建物に隣接してコルプス・ドミニ教会が建ってます。


P1020354
1406年、ベルナルディアーナ・セダッツァーリによって女子修道院が建設されました。
1419年、第206代教皇マルティーノ5世(1369-1431 在位:1417-1431)は、Monastero del Corpus Domini delle francescane clarissの設立を認可し、コルプス・ドミニ修道院となりました。
後を継いだ第207代教皇エウジニオ4世(ヴェネツィア、1383‐ローマ、1447 在位:1431-1447)の指導によって修道院は拡大されました。


P1020353
1483年、ジョヴァンニ・ロメイの遺言によって、隣接するCasa Romeiが修道院に遺贈されました。それを機に、フェラーラを支配するエステ家との関係がより深まり、エステ家の人々が修道院に埋葬されるようになりました。


P1020351
教会のようなファサードは1770年に追加建設されました。


2049
1665年に火災に遭い、その後大修復工事が行われました。


2050
ニッコロ3世・デステに仕えていたサンタ・カテリーナ・ダ・ボローニャ(ボローニャ、1413‐1463)は、1426年、コルプス・ドミニ修道院に入り、1432年に修道女になりました。


2051
コルプス・ドミニ修道院の入口


P1020352
教会の入口


2052
教会の入口は大体閉まってます。観光客は修道院経由で教会に行くことが出来ます。


2053
修道院内の教会も1665年の火災で大きな被害を受けました。


2054
火災で焼失したので、古い作品は残されていません。


2055
美術的な見どころがやや欠けるように思います。


2056


2058
主祭壇


2057
主祭壇画は、ジャンベッティーノ・チニャローリ(ヴェローナ、1706‐1770)の「聖人たちの聖体拝領」


2059


2060
天井のフレスコ画は、ジュゼッペ・ゲディーニ(フィカローロ、1707‐フェラーラ、1791)の「栄光のサンタ・カテリーナ・ダ・ボローニャ」です。


2062
Sala del Coro


2061
Sala del Coroにエステ家の人々の墓があります。


2063


2064
アルフォンゾ1世・デステ公爵(フェラーラ、1476‐1534)と妻ルクレツィア・ボルジア(スビアーコ、1480‐フェラーラ、1519)の墓
二人は1502年に結婚しました。


2065


P1020355
次はサンティッシマ・アンヌンツィアータ祈祷所です。


P1020356
Via Borgo di Sotto


P1020357
サンティッシマ・アンヌンツィアータ祈祷所です。Oratorio della Morteとも呼ばれてます。


P1020360
1366年、Confraternita della Buona Morteが設立され、サンタ・マリア・ノヴェッラ病院が建設されましたが、病院付属の祈祷所して1370年に建設されました。


P1020358
ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)の設計によって建設されたファサードです。


P1020359
祈祷所内は絵画の宝庫です。


2066
2012年のエミリア地震によって大きな被害を受け、危険と判断されて閉鎖されていました。2021年頃に修復工事が完了して、今は時々扉が開くとの情報がありますが、どうでしょうか。


2067
私の写真がありません。
ここはフェラーラ派画家たちによる「聖十字架の物語」があるので有名です。


2068
Maestro GZ(フェラーラ、15世紀前半消息)の「キリストの復活」


2069
ジョヴァンニ・フランチェスコ・スルキ(フェラーラ、?‐1590)の「死にゆくアダム」


2070
ジョヴァンニ・フランチェスコ・スルキ(フェラーラ、?‐1590)の「聖なる木と崇拝するシバの女王」


2071
ニッコロ・ロセッリ(フェラーラ、1556から活動記録‐1580没)の「埋められる十字架の木」


2072
カミッロ・フィリッピ(フェラーラ、1500-1574)の「コンスタンティヌス帝の勝利」


2073
セバスティアーノ・フィリッピ通称イル・バスティアニーノ(フェラーラ、1528c‐1602)の「キリストと十字架の木」


2074
バスティアニーノ派逸名画家の「コンスタンティヌス帝の洗礼」


2075
バスティアニーノ派逸名画家による「聖十字架の発見」


2076


2076
バスティアニーノ派逸名画家の「復活の奇跡の前の聖エレーナ」


2077
ニッコロ・ロセッリ(フェラーラ、1556から活動記録‐1580没)の「キリストの復活」


2078
Maestro GZ(フェラーラ、15世紀前半消息)の「十字架降下」


2079
グレゴリオ・ボアーリ(フェラーラ、1795-1865)の「受胎告知」


2080
ランベルト・ファン・ヌールト(ベルギー、1520-1571)の「聖母被昇天(チントラの聖母)」
(つづく)

P1020362サン・ジローラモ教会に向かいます。


P1020343
サン・ジローラモ教会です。


P1020316
14世紀後半、当時、フェラーラを治めていたニッコロ2世・デステ侯爵(フェラーラ、1338-1388)は、設立されて間もないイエズス会騎士団に現在地を与えました。イエズス会騎士団は修道院を建設すると共に、1378年、修道院に隣接して礼拝堂を建設しましたが、それが現在の教会の全身です。


P1020315
イエズス会修道士で、フェラーラ司教のジョヴァンニ・タヴェッリ・ダ・トッシニャーノ(コドリニャーノ、1386‐フェラーラ、1446)は、礼拝堂ではない、しっかりした教会の建設に乗り出し、1428年にサン・ジローラモ教会が建設されました。


P1020344
1671年、イエズス会騎士団が抑圧され、サン・ジローラモ教会修道院は閉鎖され、その後、破壊されてしまいました。


2034
1658年、フェラーラを訪れた後の第239代教皇クレメンテ10世(ローマ、1590‐1676 教皇在位:1670‐1676)(当時は枢機卿)は、Padri Carmelitani Scalziに対して修道院教会用地として現在地を与えました。


2035
ジュリオ・パニッツァの設計によって、1703年から1712年にかけてサン・ジローラモ修道院教会が再建されました。


2036
ナポレオンのイタリア侵攻に伴い、1797年、修道院教会は閉鎖され、修道士は追放されました。
フランス軍の撤退後、1821年に教会だけが活動再開されました。


P1020317
教会内に入りました。


P1020319
単廊式、ギリシャ十字形、バロック様式の内部です。


P1020318
黄色っぽい照明が使用されてます。


P1020321
Presbiterio


P1020341
私的には美術な見どころが乏しい教会に思います。


P1020342
後陣天蓋のフレスコ画


P1020339


P1020327
磔刑の礼拝堂


P1020328
磔刑の礼拝堂天井


2037
磔刑の礼拝堂祭壇下にジョヴァンニ・タヴェッリ・ダ・トッシニャーノ司教の遺骨が納められてます。


2044


2045


P1020330
ピエトロ・ベナーティの「アヴィラの聖テレーザ」


P1020329


P1020331


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P1020336


2039
説教壇


2040
聖歌隊席


2041


2042


2043


2046


P1020340
外に出ます。


P1020345
次はCorpus Dominiです。


P1020346
エステ家の人々の棺が納められてます。


P1020347
他人の墓にはあまり興味がありません。


P1020348
夕方のみ公開されてます。


P1020349
この時間は閉まっています。


2047
外壁の碑文


2048
(つづく)

P1020309引き続きCasa Romei(写真右手前の建物)です。


2000
ロンバルドの逸名彫刻家作「アグリッパ」(1590)


2001
ロンバルドの逸名彫刻家作「アントニオ・ピウス」(1590)


2002
逸名画家作「大天使ガブリエーレと聖人」(13世紀)


2003
アントニオ・アルベルティ別名アントニオ・ダ・フェラーラ(フェラーラ、1390/1400‐ウルビーノ、1442/1449)の「割礼」(1400‐20c)


2004


2005
アントニオ・アルベルティ別名アントニオ・ダ・フェラーラ(フェラーラ、1490/1400‐ウルビーノ、1442/1449)の「聖根を受ける聖フランチェスコ」(1400‐20c)


2006
アントニオ・アルベルティ別名アントニオ・ダ・フェラーラ(フェラーラ、1390/1400‐ウルビーノ、1442/1449)の「三聖人」(1400‐20c)


2007
ボローニャ?の逸名画家によるフレスコ画(14世紀後半)


2008
ボローニャ?の逸名画家作「騎兵」(14世紀後半)


2010


2011
ボローニャ?の逸名画家作「司教聖人と修道士たち」(14世紀後半)


2012
ポー川流域の逸名画家作「悪天使を退治する天使](1390c)


2013
ポー川流域の逸名画家作「殉教」(1390c)


2014
ポー川流域の逸名画家作「博士たちとの問答」(1390c)


2015
ポー川流域の逸名画家作「教会博士たち」(1390c)


2016


2017
リミニの逸名画家作「園の祈り」(1350c)


2018
ゴシック様式のシノピエ(1450c)


2019
「聖母子」(詳細不知)


2020
Casa Romeiのフレスコ画(詳細不知)


2021
「ピエタ」(詳細不知)


2026
フェラーラの逸名画家作「モンテファルコの聖キアーラとアレッサンドリアの聖カテリーナ」(1510c)


2022


2023
ボローニャの逸名画家作「磔刑](1510c)


2024
フェラーラの逸名画家作「受胎告知される聖母」(13世紀)


2025
フェラーラの逸名画家作「修道女聖人」(16世紀)


2027
フェラーラの逸名画家作「マルカの聖ジャコモと聖アゴスティーノ」(16世紀)


2028
ポー川流域の逸名画家作「園の祈り(シノピエ)」(14世紀後半)


2029
リミニの逸名画家によるフレスコ画断片(15世紀初頭)


2030
ヴェネトの逸名画家作「磔刑」(14世紀中頃)


2031
セラフィーノ・デ・セラフィーニ(フェラーラ、1324-1393)の「聖母の昇天](1360-80c)


2032
陶器も展示されてます。


2033
部屋の天井フレスコ画


P1020308
道を隔ててCasa Romeiの向かいにある建物です。


P1020311
この辺は歴史的建造物ばかりです。


P1020312


P1020314
(つづく)

P1020305サヴォナローラ通りを進んでCasa Romeiに向かいました。


P1020306
写真右の建物がCasa Romeiです。


P1020310
フェラーラの大商人ジョヴァンニ・ロメイ(フェラーラ、1402-1483)が15世紀半ばに建設した邸宅です。


P1020307
1468年頃(1451年と言う説もあります)、ジョヴァンニ・ロメイは、Polissena d’Esteを後妻に迎えることになりましたが、それを機に邸宅は拡大され、装飾されました。
Polissena d’Esteは、ニッコロ3世・デステ侯爵の孫娘で、メリアドゥーゼ・デステ修道院長の非嫡出子です。


1694
1483年、ジョヴァンニ・ロメイは没しましたが、Casa Romeiは、隣接するコルプス・ドミーニ女子修道院に遺贈されました。
16世紀後半、イッポリート2世・デステ枢機卿によって改造され、ほぼ現在の姿になりました。
1898年、Casa Romeiは国によって買い上げられました。1953年、Museoとして一般公開されるようになり、現在に至ってます。


1695
外壁の銘板


1696
中庭


1697


1698


1699
中庭を囲んでロッジャがあります。


1700


1715
ロッジャのライオン像


1701


1702
ロッジャのフレスコ画


1703


1708


1704
階上のロッジャ


1706


1707


1705


1710
柱頭


1709
部屋への入口


1711
部屋の壁に描かれたフレスコ画、部屋に置かれた家具や彫刻、フェラーラの他の場所から集められた彫刻や絵画などが見所です。


1712


1713


1714


1716
逸名彫刻家作「聖母子」(15世紀)


1717
ジュゼッペ・マリア・マッツァ(ボローニャ、1653-1741)に帰属する「授乳の聖母」(1700-20c)


1718
逸名彫刻家作「聖母子と司教」(1390c)


1719
逸名彫刻家作「聖母子」(1560)


1720
逸名彫刻家作「聖母子」(15世紀)


2021
ミケーレ・ダ・フィレンツェ(フィレンツェ、1385-1455)に帰属する「聖母子」


2022
ドナテッロ派逸名彫刻家作「聖母子」(1460c)


2023
ヴェネトの逸名彫刻家作「聖母子」(1408)


2024
ヴェネトの逸名彫刻家作「聖母子」(15世紀)


2025
アルフォンゾ・ロンバルディ(フェラーラ、1497-ボローニャ、1537)に帰属する「十字架降下」


2026
アルフォンゾ・ロンバルディ(フェラーラ、1497-ボローニャ、1537)に帰属する「トレンティーノの聖二コラ」


2027
逸名彫刻家作「ローマ皇帝」(16世紀)


2028
ロンバルドの逸名彫刻家作「この人を見よ」(16世紀)
(つづく)

P1020366ドメニコ・モーナ(フェラーラ、1550-1602)の「トリッティコ」(1580-83)


P1020384


P1020381
向かって左パネルの「十字架降下」


P1020379
中央パネルの「キリストの昇天」


P1020383
向かって右パネルの「キリストの復活」


P1020378


P1020367
カウンターファサードのオルガン


P1020368
ジョヴァンニ・ヴァンゲンべス(フェラーラで17世紀活動)の「聖家族」
ヴァンゲンべスはフランドル出身で主にフェラーラで活動した画家でした。


P1020370
レオネッロ・ボノーニ(フェラーラ、1649活動記録)の「聖母の結婚」
レオネッロ・ボノーニは、カルロ・ボノーニの甥でカルロに師事しました。


P1020372


P1020371


P1020373
アンジェロ・ピオ(ボローニャ、1690-1770)の「無原罪の聖母」(1767)


P1020376
礼拝堂天井のフレスコ画


P1020374
ジョヴァンニ・バッティスタ・コッツァ(ミラノ、1676-フェラーラ、1742)の「聖母子と聖カテリーナ―・ヴィーリ」


P1020375
フランチェスコ・パロリーニ(フェラーラ、1703-?)の「聖母子と聖人たち」(1789)


P1020377


P1020385
アントニオ・ボンファンティ通称イル・トッリチェッラ(フェラーラ、1600-1633活動記録)の「教会博士たちとの問答」
アントニオ・ボンファンティはグエルチーノの弟子でした。


P1020388
アントニオ・ボンファンティ通称イル・トッリチェッラ(フェラーラ、1600-1633活動記録)の「キリストの神殿奉献」


P1020387


P1020390
天井のフレスコ画


P1020389


P1020397


P1020395
「聖母子」(13世紀)


P1020396


P1020398


P1020400


P1020401
次の礼拝堂


P1020402


P1020404


P1020405


P1020406


P1020407


P1020408


P1020409


P1020410


P1020411


P1020412


P1020413
詳細不知


P1020414
左側廊の礼拝堂にガロファロなどの作品があります。


P1020414
しかし、2012年のエミリア地震後、左側廊にはアクセスが禁止されてます。


P1020419
外に出ました。
(つづく)

P1020286この日の天気予報は曇りのち雨でした。


P1020287
イタリアの天気予報は大雑把です。朝、日中、夜の天気予報が出ているだけ。日中と夜が雨マークでしたが、何時頃から降るかが分からない。


P1020288
アーチを潜ればPiazza del Municipioに出ます。


P1020289
Piazza del Municipioです。


P1020290
お馴染みのドゥオーモ


P1020291
サン・フランチェスコ聖堂に向かいました。


P1020292
Via Voltapaletto


P1020293
写真左の白っぽい建物は歴史的建造物です。


P1020294
1430年に建設された古い建物です。


1678
現在、フェラーラ大学の経済経営学部の学舎として使用されてます。


1679
Palazzo Bevilaqua-Costabiliの入り口上の装飾


P1020295
サン・フランチェスコ聖堂はもう直ぐです。


P1020296


P1020297
サン・フランチェスコ聖堂です。


P1020298
1232年、フランチェスコ会修道士によって現在地に小さなサン・フランチェスコ教会が建設されました。


P1020299
修道士、信者が多くなると最初の建物では狭くなったので、恐らく1341年に二代目の建物が再建されましたが、正確な年については確認文書が残されていないので分からないとされてます。


1680
15世紀末、フェラーラ公爵エルコーレ1世・デステ(フェラーラ、1447-1505)は、お抱えの宮廷建築家ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447-1516)に命じて、サン・フランチェスコ教会の拡大改修を行わせることにしました。
1494年に工事が開始され、ロセッティが没する1516年頃にほぼ完成しました。


1681
しかし、1570年のフェラーラ地震によって屋根が崩落、その後に大修復工事が行われ、1594年に奉献式が執り行われました。


1682
19世紀に一部改造されて、現在の外観となりました。
1957年、Basilica Minoreに格付けされました。


1683
メインポータル
2012年のエミリア地震によって被害を受け、身廊中央が危険となったので、ファサード側の扉は閉じられてます。


1684
ファサードの装飾


1686


1685
丸窓


1693


1687
鐘楼


P1020300
右側壁


P1020301
右側壁後方に進みます。


P1020302
右翼廊に入り口が設けられてます。


P1020304
2012年のエミリア地震後、右翼廊の入り口から聖堂内に入ります。


P1020303
この日も扉が開いていました。


P1020364
聖堂内に入りました。


P1020365
右側廊です。


1688
2012年のエミリア地震後、当面アクセス出来るのは右側壁だけです。


1689
エミリア地震後、中央身廊が使用できなくなったので、信者席が撤去されました。


P1020392
右翼廊の礼拝堂でミサが行われます。


P1020416
主祭壇


1690
Presbiterio


1691
Presbiterioのトリッティコが必見です。


1692
ドメニコ・モーナのトリッティコです。
(つづく)

P1020248雨の中をあちこち歩いたので流石に疲れました。


P1020249
この後、城壁外に足を延ばす予定でしたが、気力がなくなったので断念です。


P1020251
写真左の建物はPalazzo Turchi di Bagnoです。


P1020250
Palazzo Turchi di Bagnoの奥に植物園があります。


P1020252
Corso Ercole 1 d’Esteをエステンセ城方向に戻ります。


P1020253
切り上げてホテルに戻ります。


P1020254
雨が一旦上がりましたが、天気予報に拠れば夜は雨とのこと。


P1020255
雨の中を夕食で外出する気が失せました。


P1020256
水たまりが多い道なので、車が来るとヒヤヒヤです。


P1020257
適当に食べ物を買って、ホテルの自室での夕食が無難です。


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食料とワインを調達しました。


P1020260


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ホテルに戻ったら、雨が再び降り始めました。


P1020263
自室での夕食は正解でした。


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夕食で飲み干したワイン


P1020265
翌朝です。


P1020272
雨が降っていないものの、雲が低く垂れこめた鬱陶しい寒い日でした。


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サン・ベネデット寺院の右側壁です。ファサード側に回ります。


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サン・ベネデット寺院 Tempio di San Benedettoです。


P1020270
ベネデット会は近くのポンポーザ修道院がその活動拠点でしたが、低湿地にあったので蚊の発生とマラリアに悩まされていました。15世紀後半、遂にポンポーザ修道院を放棄して別の場所への移転已む無しが決定され、そうして1496年から1553年に建設されたのがサン・ベネデット寺院です。


P1020269
1797年、ナポレオン軍によって抑圧され、フランス軍の軍事病院に転用されました。1812年に活動が再開されました。


1675
1944年の1月と6月にイギリス軍の爆撃を受け、建物が大きく破壊されてしまいました。


1676


P1020271
現在の建物は戦後に再建されたものです。


P1020273
コズメ・トゥーラ通りの突き当りに旧教会があります。


P1020274
サンティ・ピエトロ・エ・パオロ教会です。


P1020276
1563年から1566年にかけて建設されました。


1677
ナポレオン軍によって抑圧され、一時閉鎖されましたが、フランス軍の撤退後に活動が再開されました。


P1020275
信者の多くが貧しかったため、教会は常に財政問題に苦しんでいました。1974年に閉鎖され、建物が放置されるようになりました。


P1020277
どうしても同じ場所を歩いてしまいます。


P1020278
行くつもりはないけれどサン・ドメニコ教会を経由します。


P1020279


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写真右奥にサン・ドメニコ教会が建ってます。


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サン・ドメニコ教会です。


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この日も扉が閉まったまま


P1020283
突き当りがエステンセ城です。


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P1020285
(つづく)

P1020207Piazza Torquato Tassoを横切ります。


P1020208
Corso Ercole 1 d’Esteに出ました。


P1020210
左に行けばエステンセ城ですが、右の方に進みます。


P1020211
右方向に真直ぐ歩きました。


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Palazzo Giulio d’Esteです。


P1020214
また雨が降ってきました。


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P1020217
特徴があるディアマンティ宮です。


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ディアマンティ宮の向かいにある建物です。


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警察の建物です。


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P1020223
ディアマンティ宮に国立絵画館があります。


P1020224
フェラーラに来れば必ず国立絵画館に入館します。


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国立絵画館については既に触れたので省略します。


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切符売り場


P1020237
絵画館の入り口


P1020230
退館します。


P1020239
外に出ました。


P1020240
国立絵画館は何時もながら非常に良かった!


P1020241
もう夕方です。


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P1020243


P1020247
(つづく)

P1020199雨が上がってホッとしました。


P1020201
雨が上がっても建物から水が落ちてきます。


P1020200
Via Borgo del Leoniです。
写真右奥に教会があります。


P1020203
ジェズ教会です。


P1020206
1570年、イエズス会によって建設されたルネサンス様式の教会です。


P1020205
1773年、イエズス会の抑圧の結果、教会はPadri Somaschiの所有となりました。


P1020204
1944年、第二次世界大戦でドイツ軍の爆撃を受け、損傷しました。現在の姿は、爆撃による大修復工事が戦後に行われましたが、工事後のもので、創建時の姿とは少し異なるようです。


1645
1933年、当時のフェラーラ大司教によって教会名がサン・ミケーレ・ネル・ジェズ教会に改称されましたが、1986年に元の名称であるジェズ教会に戻されました。


1646
イエズス会の紋章が入口上にあります。


P1800673
ジェズ教会は毎日扉が開きます。


1647
単廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


1648
Presbiterio


1649
主祭壇後方に墓のモニュメントがあります。


1671
フランチェスコ・カセッラ(1570-1591活動記録)の「バルバラ・ダウストリアの墓碑」(1591)


1672
バルバラ・ダウストリア(ウィーン、1539-フェラーラ、1572)は、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド1世の娘で、アルフォンゾ2世・デステ公爵の2番目の妻でした。


1673
フランチェスコ・テルツィ(テルツィオ)(ベルガモ、1523-ローマ、1591)の「バルバラ・ダウストリア公爵夫人の肖像」


1674
エステ家の廟に墓が無いのが不思議です。


1650
磔刑像(16世紀)
制作者は不明のようです。


1651
磔刑像の上にある「父なる神」は、ジュゼッペ・マッツゥオーリ通称イル・バスタローロ(フェラーラ、1536c-1589)の作品です。


1652
右側の最初の礼拝堂に有名な「受胎告知」があります。


1653
バスタローロの「受胎告知」(1585c)


1654


1655
ジュゼッペ・マリア・クレスピ(ボローニャ、1665-1747)の「聖フランチェスコ・サヴェリオ(フランチェスコ・ザビエル)の奇跡」(1729)
右側の3番目の礼拝堂にあります。


1656


1657


1658
ジュゼッペ・マリア・クレスピ(ボローニャ、1665-1747)の「聖ルイージ・ゴンザーガと聖スタニスラオ・コストカ」(1727)


1659
詳細不知の「ご誕生」


1660
テラコッタの「嘆き」があります。


1661
グイド・マッツォーニ(モデナ、1450-1518)の「嘆き」(15世紀)


1662
サンタ・マリア・デッラ・ローザ教会にありましたが、1933年に行われた展示会に出品され、展示会終了後にジェズ教会に移されたそうです。


1663
サンタ・マリア・デッラ・ローザ教会は、第二次世界大戦中に爆撃され、崩落してしまいました。修復不能と判断されて、1950年に破壊され現存しません。


1664
展示会後、サンタ・マリア・デッラ・ローザ教会に戻されたとすると、この「嘆き」も現存しなかっただろうと言われてます。


1665


1666


1667


1668


1669


1670


P1020202
ジェズ教会前のPiazza Torquato Tassoです。


P1020209
(つづく)

P1020158サント・ステファノ教会前の柱廊です。


P1020165
ホテル・サント・ステファノを通り過ぎます。


P1020167
Via degli Spadariを左折します。


P1020168
Via Capo delle Volteに入りました。


P1020176


P1020169
Volto della Torre del Turno


P1020170
アーチを潜りました。


P1020171
この先に塔が見えます。


P1020172
Porta RenoとTorre dei Leutiです。


P1020180
Torre dei Leutiです。


P1020173


P1020174
Porta Reno


P1020178


P1020175


P1020179
歴史的建造物が建ち並ぶ通りです。


P1020181
Corso Porta Renoに戻りました。


P1020182


P1020183


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P1020185


P1020186
市庁舎のブロンズ像を見ます。


P1020187
ボルソ・デステ公爵(フェラーラ、1413-1471)のモニュメント


1638
ここにあるブロンズ像は、Giacomo Zilocchi(ピアチェンツァ、1862-フィレンツェ、1942)によって1927年に制作された複製です。
オリジナルは、レオン・バッティスタ・アルベルティ(ジェノヴァ、1404-ローマ、1472)とニッコロ・バロンチェッリ(フィレンツェ、?-フェラーラ、1453)によって15世紀中頃に制作されました。


1639
説明碑文


1640
ボルソ・デステ像の柱頭


1641
向かって右に騎馬像があります。


P1020189
ニッコロ3世・デステ侯爵(フェラーラ、1383-ミラノ、1441)のモニュメント


1642
ここにあるのは、ボルソ・デステ公爵のモニュメントと同じく、彫刻家Giacomo Zilocchi(ピアチェンツァ、1862-フィレンツェ、1942)によって1927年に制作された複製です。


1643
オリジナルは、レオン・バッティスタ・アルベルティとニッコロ・バロンチェッリによって15世紀中頃に制作されました。


1644
ニッコロ3世・デステのブロンズ像下の柱頭


P1020190


P1020191


P1020188


P1020192
国立絵画館に向かいます。


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P1020194


P1020195


P1020196


P1020198


P1020197
(つづく)

P1020125写っている鐘楼はドゥオーモのものです。


P1020126
この日のお宿に向かってました。


P1020127
ドゥオーモの鐘楼です。


P1020128
振り返って撮った写真


P1020130
「〇〇再び」をやってますが、傑作美術品が数多くある街に繰り返し何度も行っているからです。


P1020131
同じ町に何度も足を運ぶのは面白くないと思って、小さな村などを重点的に行った時期がありましたが、私がイタリアに行く最大の目的が傑作美術館の鑑賞であると再認識した2013年頃から同じ街に毎年、または旅毎に必ず行くようになったのです。


P1020132
フェラーラは傑作美術品が多い街です。


P1020133
Palazzo Roverellaです。


1633
アルフォンゾ1世・デステ公爵の秘書だったガエターノ・マニャニーニが建築ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c-1516)を起用して1508年に建設したマニャニーニ家の邸宅です。
18世紀にフェラーラの有力貴族ロヴェッラ家に売却され、Palazzo Roverellaと呼ばれるようになったそうです。


1634
ロヴェッラ家の紋章


P1020134
エステンセ城を通り過ぎました。


P1020136
鉄道駅方向に進みます。


P1020137
この日のお宿に戻りました。


P1020138
お宿の自室からの眺めです。
濡れた靴と靴下を脱いで、一休み。


P1020139
再び外出しました。これは県庁舎の建物です。


P1020135
エステンセ城を経由してサン・ドメニコ教会方向へと進みました。


P1020140
サン・ドメニコ教会です。


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2012年のエミリア地震で被害を受けて、この時は活動停止していました。


P1020144
勿論閉鎖中でした。


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P1020146


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P1020147
サン・ドメニコ広場です。


P1020142
雨が上がりました。


P1020148


P1020151


P1020149
市場の方に進みました。


P1020150


P1020152
Via degli Spadari


P1020153


P1020154
Mercato Comunaleです。


P1020155
次はサント・ステファノ教会です。


P1020156
急に強い雨が降ってきたので、柱廊に逃げ込みました。


P1020160
サント・ステファノ教会です。


P1020159
正式名称はChiesa di Santo Stefano Protomartireと言います。


P1020162
960年頃に建設された、フェラーラで最古の教会の一つです。


P1020163
1135年までに修道院と教会が拡大され、フェラーラで最大の複合施設の一つとなりました。


P1020157
1570年の地震によって最初の建物が崩落したので、16世紀後半に再建されましたが、現在の外観はこの再建後の姿が原形となってます。


P1020166
1657年から「サン・フィリッポ・ネリ会衆の父」の教会となりました。


1635
ファサードの彫刻


1636


1637


P1020161
ゴシック様式の鐘楼
(つづく)

P1020106Via Carlo Mayrです。


P1020107
通りの右側に教会があります。


P1020110
サンティ・コズマ・エ・ダミアーノ教会です。


P1020108
建築家フランチェスコ・マッザレッリ(フェラーラ、18世紀活動)の設計によって1710年から1738年に建設されました。


P1020109
1933年に閉鎖され、倉庫として使用されてきました。
2012年のエミリア地震によって被害を受けました。


1611
2015年、ルーマニア正教会が建物を購入し、復元工事が行われました。


1612
ルーマニア正教会の教会として、2020年に宗教活動が再開されたという情報がありますが、本当でしょうか?


P1020111
次はサンタグネーゼ教会です。


P1020112
広場が駐車場になってます。


P1020113
歴史的な街の旧市街は駐車場に苦労しているようで、広場が駐車場と言うところが結構多く見かけます。


P1020114
サンタグネーゼ教会です。


P1020115
12世紀初めに建設されました。1114年にParrocchiaになった記録が残されているそうです。
また、1159年の文書にベネデット会僧侶の牧師館を備える教会と記録されているそうです。


1613
15世紀初め、現在の姿に改造されました。


1614
1806年に抑圧され、閉鎖され建物が放置されました。
20世紀になってフェラーラ大学の教会として復元されることになり、1927年に復元工事が開始され、1936年からフェラーラ大学の付属教会となりました。


P1020116
Via Giuoco del Palloneです。


P1020117
Palazzo Paradisoです。


P1020118
アルベルト5世・デステ侯爵(フェラーラ、1347-1393)が自宅として1391年に建設したルネサンス様式の宮殿です。


P1020121
現在、アリオステア市立図書館になってます。


P1020120
17世紀に、建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546-フェラーラ、1636)の設計によって時計塔と大理石のポータルが追加されました。


1615
1567年にフェラーラ大学の本拠地としてPalazzo Paradisoが使用されるようになり、1963年までフェラーラ大学が置かれました。
1753年にフェラーラ大学図書館が市民にも公開されるようになりました。


1616
Palazzo Paradisoにある詩人ルドヴィーコ・アリオスト(レッジョ・エミリア、1474-フェラーラ、1533)の墓です。


1617
ルドヴィーコ・アリオストの墓はサン・ベネデット教会にありましたが、1801年にPalazzo Paradisoに移されました。


1618
1963年にフェラーラ大学の本拠地が移転しましたが、それを機にPalazzo Paradisoはアリオステア市立図書館として発足しました。その名称はこの詩人に由来します。


1619


1620


1621


1622


1623
Palazzo Paradiso内のSala dei Falconiです。


1624
1391年から1410年頃に制作されたフレスコ画が残されてます。


1626
フレスコ画の制作者は不明のようです。


1627


1628


1625


1629
18世紀に制作された天井のフレスコ画です。


1630


1631


1632


P1020122
雨が小降りになってきました。


P1020123
靴と靴下が濡れて鬱陶しいので、一旦ホテルに戻って靴と靴下を変えることにしました。


P1020124
(つづく)

P1020089Corso Porta Renoに入りました。


P1020090
写真右端に広場があり、広場に面してサン・パオロ教区教会が建ってます。


P1020091
サン・パオロ教区教会です。


P1020095
10世紀に建設された修道院と教会の複合施設です。
1295年にカルメル会托鉢修道会の兄弟たち(Ordine della Beata Vergine del Monte Carmelo)の所有となりました。


P1020093
最初の建物は1570年の地震によって倒壊してしまい、修復不能と判断され再建が決まりました。現在の後期ルネサンス様式の建物は、アルフォンゾ2世・デステ公爵(フェラーラ、1533-1597)の支援を受けて、建築家アルベルト・スキアッティ(フェラーラ、?-1586)の設計によって1575年から1611年に建設された二代目となるものです。


P1020092
1797年、ナポレオンのイタリア侵攻に伴って修道院教会は抑圧されて閉鎖、フランス軍に接収されました。ナポレオンの失脚後、教会は活動再開されましたが、修道院は刑務所に転用され、その後、活動が再開されることはなく現在に至ってます。
1912年に刑務所が閉鎖され、倉庫などに使用されていましたが、第二次世界大戦中に爆撃を受け、建物が危険となって放置されました。その後、修復されて、1968年から市役所の一部に転用されるようになりました。


P1020094
2012年に地震によって大きな被害を受けて、修復工事のために長らく閉鎖されました。


1588
美術的に幾つかの見るべき作品があります。


1589
キオストロ回廊への入り口です。


1590
修道院への入り口で、ここも2012年の地震によって長らく閉鎖されていました。


1591
キオストロ回廊です。キオストロが2つあり、こちらは第一キオストロに当たります。


1592
柱頭


1593
回廊の壁に描かれたフレスコ画(14世紀)


1594
第2キオストロの古井戸


1595
修復工事中の教会内部


1596
セバスティアーノ・フィリッピ通称イル・バスティアニーノ(フェラーラ、1536c-1602)の「受胎告知」


1597
セバスティアーノ・フィリッピ通称イル・バスティアニーノ(フェラーラ、1536c-1602)の「キリストの復活」


1598
セバスティアーノ・フィリッピ通称イル・バスティアニーノ(フェラーラ、1536c-1602)の「割礼」


1599
スカルセッリーノ(フェラーラ、1550c-1620)のフレスコ画


1600
ドメニコ・モーナ(フェラーラ、1550-パルマ、1602)の「マギの礼拝」


1601
フランチェスコ・カセッラ(クレモナ、16世紀活動)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


1602
フランチェスコ・カセッラ(クレモナ、16世紀活動)の「聖ジローラモ」


1603


1604


1605
クーポラ


1607
天井の装飾


1606


1608


P1020096
サン・パオロ教区教会の鐘楼は少し離れた場所にあります。


P1020097
Torre dei Leutiです。


P1020098
Torre dei Leutiはサン・パオロ修道院教会の鐘楼です。


1609
サン・パオロ教区教会から少し離れた場所にあり、独立した塔のように見えます。


1610
それだけ修道院だった建物が大きかったということでしょう。


P1020099
革靴を履いていたので、靴下がびしょ濡れ。


P1020100
寒かったので、足元が冷えました。


P1020101
税金対策の建物


P1020102
馬車の車輪除けが残ってます。


P1020103


P1020105
アーチを潜ります。


P1020104
(つづく)

P2530326引き続きドゥオーモ博物館です。


1535


P2530126


1536


P2530128


1537


P2530130


1538


1539
聖フィリッポと聖アントニオ・アバーテ


1540


P2530135


1541


P2530133


1542


P2530140


1543
聖ピエトロ、聖ジョヴァンニ・バッティスタと寄進者


P2530141


P2530142


P2530143


P2530144


1544
聖ジャコモ・アポストロ、聖マウレリオ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ


P2530151


P2530152


P2530149


P2530150


P2530147


P2530148


1545


1546


1547


1548


1549


1550


1551


1552


1553


1554


1555


1556


P1020088
外に出ました。
(つづく)

P2530302次はタペストリです。
「聖マウレリオの斬首」


P2530304


1519


P2530305
「聖ジョルジョの斬首」


P2530307


1520


P2530308
「聖ジョルジョの祈り」


P2530311


1521


P2530312
「ミサの奇跡」


P2530314


1522


1523


P2530315
「聖ジョルジョの辛抱」


P2530317


1524


P2530318
「聖マウレリオと民衆」


P2530320


1525


P2530322
「弟子を加冠する聖マウレリオ」


P2530323


1526


P2530324
「竜を退治する聖ジョルジョ」


P2530325


1527


1528
「聖母子」


P2530106


1529
「聖コズマ」と「聖ダミアーノ」


P2530110


P2530108


1530


P2530112


1531


P2530114


1532


P2530116


1533
ドゥオーモの鐘楼の模型


P2530122


1534


P2530124
(つづく)

P2530219「弓兵」


P2530221


P2530222
「山羊」


P2530224


P2530225
「百合」


P2530227


P2530234
「カインとアベル」


P2530235


P2530236
「寺院への出現」


P2530238


1505


1506


P2530239
「救世主の十字架」


P2530241


1597


P2530242
「純粋な子羊」


P2530244


1508


P2530246
「人生の寓意」


P2530247


1509


P2530248
「農民?と兵士」


P2530250


1510


P2530251
「葡萄の収穫」


P2530253


1511


1512


1513


1514


1515


P2530254
「荘厳のキリスト」


P2530256


1516


P2530292
「フランチェスコ・サクラ―ティの墓の記念碑」


P2530293
ベルナルド・ロッセッリーノ(セッティニャーノ、1409-フィレンツェ、1464)とアントニオ・ロッセッリーノ(セッティニャーノ、1427-フィレンツェ、1479)兄弟の彫刻です。


1517


1518


P2530289
聖フランチェスコと注文主


P2530287
聖母子


P2530286
聖ドメニコ


P2530285
聖パオロ


P2530291
聖ジョルジョ
(つづく)

P2530180「聖母子」


P2530179
ヤコポ・デッラ・クエルチャ(クエルチェグロッサ、1374c-シエナ、1438)の傑作です。


P2530298
制作者の名前が彫られてます。


1491
数多有る聖母子像の中で最高傑作と言えると思います。


1492
気高い聖母の顔が出色です。


1493


1494


1495


1496


1497


1498


1499


1500


1501


P2530170
「聖母の顔のモザイク」


P2530172


1502


1503


P2530136
「聖ジャコモ・マッジョーレ」


P2530138


1504
「3月と4月の寓意的彫刻」


P2530186
1年の各月を彫刻で表現してます。


P2530187
2月


P2530189


P2530190
1月


P2530192


P2530193
7月


P2530195


P2530196
8月


P2530198


P2530199
9月


P2530201


P2530205
5月


P2530207


P2530208
11月


P2530210


P2530211
頭の欠けたフラグメント彫刻


P2530213


P2530216
果物とエビ


P2530218
(つづく)

P2530257「玉座の聖母子と2寄進者」


P2530261
ドメニコ・パネッティの作品です。


1466


1467


1468
ポー川とフェラーラの街が描かれてます。


P2530263
「聖ジョルジョ」


P2530264
ガロファロの作品です。


1469


P2530266
「聖母子」


P2530268
ガロファロの作品です。


1470


P2530269
「聖マウレリオ」


P2530272
ガロファロの作品です。


1471


P2530274
次はコズメ・トゥーラの大作です。


P2530275


P2530277


P2530279


P2530281


P2530282


1472
ドゥオーモのオルガンの蓋として描かれました。


1473
4枚から成りますが、1枚の大きさは高さ363cm、横幅170cmと巨大です。


1476
蓋が閉じられると、受胎告知が繋がります。


1474
受胎告知する大天使ガブリエーレ


1475


1477
受胎告知される聖母


1478


1479


1481


1480


1482
救出される王女


1483


1484


1485
竜を退治する聖ジョルジョ


1486


1487


1488


1489


P2530173
「聖家族」


P2530175
カヴァリエール・ダルピーノの作品です。


1490
(つづく)

P1020061ドゥオーモから外に出ました。


P1020068
Palazzo Municipaleです。


P1020058
エステ家の公邸でした。


P1020070
Palazzo Municipaleの中庭です。


P1020071
雨が一段と強くなってきました。


P1020072
雨宿りを兼ねてドゥオーモ博物館に入館した方が良さそうです。


P1020073
Corso Porta Renoに出ました。


P1020074
ドゥオーモ広場です。


P1020076


P1020069


P1020075
時計塔


P1020081
サン・ロマーノ教会です。


P1020084
ベネデット会によって990年頃に建設された複合施設です。


1445
エステ家によって保護され、規模が大きくなりました。


1446
1796年、イタリアに侵攻してきたナポレオン軍によって、抑圧接収され、活動が抑圧されてしまいました。その後、一度も宗教活動が再開されることなく現在に至ってます。つまり、旧サン・ロマーノ教会と言う訳です。
フランス軍の撤収後、建物はフェラーラの公的建造物となり、一時期刑務所として使用されました。19世紀前半、建物は民間企業に転売され、様々な用途に使用されました。


P1020082
1970年、再びフェラーラ市当局の所有となり、修復工事が行われ、市の展示場などに利用されるようになりました。


P1020083
2000年、大聖堂博物館として建物が使用されるようになり、現在に至ってます。


1444
素晴らしい展示物に恵まれ、美術ファン必訪の博物館です。


P1020085
入館しました。


P1020086
先ずキオストロ回廊に出ます。


P1020087


1447
柱廊の柱の柱頭


1449


1450


1451


1452


1453


1454
展示室内に入りました。


1455
交唱聖歌集の展示です。


1458
手描きです。


1460


1456


1457


1459


1461


1462


1463


1464


1465
(つづく)

P1020033スカルセッリーノの作品


1426
スカルセッリーノ(フェラーラ、1550-1620)の「聖ロレンツォと聖フランチェスコと信者」(1610-15c)


P1020035
受胎告知


P1020036
聖グレゴリオ・マーニョ


P1020037
聖ベネデット


P1020039
制作者情報不知の「聖ジュゼッペの死」


P1020040
天井の装飾


P1020041
「グラツィエの聖母」


1428
Presbiterioにフレスコ画があります。


P1020042
セバスティアーノ・フィリッピ通称イル・バスティアニーノ(フェラーラ、1528c-1602)の「最後の審判」


1427


1429


P1020044


P1020045


P1020048


P1020046
詳細不知の彫刻


1430
次の礼拝堂です。


P1020047
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖ロレンツォの殉教」(1629)


1431


1432


1433


P1020049


P1020051
Presbiterio


P1020050
Presbiterio前から見たカウンターファサード方向です。


P1020053


1434


P1020052
フランチェスコ・フランチャの「聖母戴冠」


P1020054
詳細不知


1435
セバスティアーノ・ティージ通称ガロファロ(フェラーラ、1481-1559)の「祈る聖母」


1436
ジョヴァン・フランチェスコ・スルキ通称イル・ディエライ(フェラーラ、?-1590)の「三位一体とアレッサンドリアの聖カテリーナ」


1437
次の礼拝堂です。


P1020055
ジャコモ・パオリーニ(フェラーラ、1665c-1733)の「最後の晩餐」(1720)


1438


P1020056
詳細不知


P1020057
詳細不知


1439


1440


1441


1442


1443
(つづく)

P1020021次はフレスコ画、祭壇画、彫刻などです。


1406
べンヴェヌート・ティージ通称ガロファロ(フェラーラ、1481-1559)の「聖パオロ」


1407
天使の聖水盤


P1020022


1408
天使の聖水盤


1409
べンヴェヌート・ティージ通称ガロファロ(フェラーラ、1481-1559)の「聖ピエトロ」


P1020009
詳細不知


P1020010
詳細不知


P1020011
ガロファロの祭壇画です。


1410
べンヴェヌート・ティージ通称ガロファロ(フェラーラ、1481-1559)の「玉座の聖母子と聖人たち」


1411
聖マウレリオ、聖シルヴェストロ、聖ジローラモ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ


1412


P1020012
「聖ジョルジョの斬首」


1413
エルコーレ・グラツィアーニ・イル・ジョーヴァネ(ボローニャ、1688-1765)の「聖ジョルジョの斬首」


P1020013
「聖母の結婚」(1570c)


1414
ニッコロ・ロセッリ(フェラーラ、1556から活動記録-1580没)の「聖母の結婚」(1570c)


P1020014
大天使聖ミケーレ


P1020015


P1020016
聖マッテオ


P1020017
聖パオロ


P1020018
詳細不知の磔刑像


1415


1416
次の礼拝堂です。


P1020019
フランチェスコ・フランチャ(ボローニャ、1450-1517)の「聖母戴冠」(1506)


1417


1418


1419


1420


1421


P1020020
天井の装飾


P1020025


P1020027


P1020029
詳細不知


P1020031
セバスティアーノ・フィリッピ通称イル・バスティアニーノ(フェラーラ、1528c-1602)の「天上の聖母子と2聖人」


1422
アレッサンドリアの聖カテリーナと聖バルバラ


1425


1423
次の礼拝堂です。


P1020032
フェリーチェ・トレッリ(ヴェローナ、1667-ボローニャ、1748)の「聖マウレリオの殉教」


1424


P1020038
(つづく)

P1010986
エステンセ城です。


P1010985
フレスコ画があります。


P1010989


P1010990


P1010992


P1010983
どうせ閉まっていると思いながらもサン・ジュリアーノ教会に行ってみます。


P1010987
予想通り閉まっていました。


P1010988
近頃、拝観したことがありません。


P1010991
雨の日の街歩きは中々辛いものがあります。


P1010993
怪僧サヴォナローラ像


P1010995


P1010994


P1010996
Corso Martiri della Liberta


P1010997
市庁舎方向に進みました。


P1010998
Palazzo Municipale


P1010999
市庁舎の斜め向かいにあるドゥオーモです。


P1020001
ドゥオーモは後で詳しく触れます。


P1020002


P1020003


P1020078


P1020077


P1020079


P1020080


P1020063


P1020064


P1020065


P1020066


P1020067


P1020059


P1020060


P1020062


P1020004


P1020006


P1020005


P1020007


P1020008


P1020023


P1020024


P1020026


P1020028
(つづく)

P1020682フェラーラ駅に到着しました。


P1020681
生憎と肌寒い雨天の日でした。


P1020679
フェラーラ駅の駅舎です。
徒歩で、この日のお宿に向かいました。


P1010959
雨天だったので、途中の写真がありません。チェックインを済ませ、自室に荷物を置いてから外出しました。


P1010960
季節は秋でした。


P1010961
この時の旅はフェラーラで2泊しました。


P1010962
この日、撮った写真が少なかった。雨なので、写真撮るのが大変だったからです。


P1010963
先ずエステンセ城に向かいました。


P1010964
イタリアの秋は雨季です。


P1010965
エステンセ城です。


P1010966
2012年の地震によって大きな被害を受けたので、城のあちこちで修復工事が行われていました。


P1010967
Museoとして一般公開されている城です。


P1010968
地震後、暫く立ち入り禁止になっていました。


P1010970
堀の水はポー川から引かれてます。


P1010969
跳ね橋


P1010971
跳ね橋の上からの景観です。


P1010972


P1010974
フェラーラに来れば必ずMuseoに入館します。


P1010973
城の中に入りました。


P1010976


P1010977


P1010975


P1010979


P1010978
一旦中庭に出ます。


P1010980
中庭には、演奏会場が設営されていました。


P1010981
中庭に置かれていた石弾


P1010982


1393
中に入りました。


1394
Sala della Geografieです。


1396
天井の装飾


1395
壁にフレスコ画が描かれてます。


1397
Sala della Geografieのフレスコ画は、Anton Felice Ferrari(フェラーラ、1667-1720)によって制作されました。


1400
Anton Felice Ferrariのフレスコ画


1399


1400


1401
地震で被害を受けた壁のフレスコ画


1402
博物館として公開されている部屋の多くは既に触れたので、改めて取り上げるのは止めましょう。


1403


1405


1404
外に出ます。


P1010984
(つづく)

P2520253「修道女の暇乞い」


P2520255
スカルセッリーノの作品


1388


P2520257
「ニゲルソルの回心」


1389
スカルセッリーノの作品


1390


P2520242
「聖バルバラ」


P2520244
カルロ・ボノーニの作品です。もう一度見ました。


P2520267
「聖母被昇天」


P2520268
カルロ・ボノーニの作品です。


P2520245
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


P2520247
カルロ・ボノーニの作品です。


P2520251
「天の恵みの収穫」


P2520252
ロレンツォ・ガルビエーリの作品です。


1391


P2520258
「エジプトへの逃避」


P2520261
スカルセッリーノの作品


1392


P2520262
「玉座の聖母子と聖ピエトロと司教聖人」


P2520264
スカルセッリーノの作品


P2520273
「最後の晩餐」


P2520274
スカルセッリーノの作品


P2520271
「カナの結婚」


P2520275
スカルセッリーノの作品


P2520276
「カナの結婚」


P2520278
カルロ・ボノーニの作品です。


P1810363
見終わりました。


P1810366
中庭に出ました。


P1810367
立ち通しで見ていたので少々疲れました。


P1810368
中庭に置かれたベンチに座って一休みしました。


P1810372
外に出ました。


P1810377
宮廷があった街の国立絵画館は何処でも見応えがあります。


334


335


336
サンタ・キアーラ教会です。


337
サン・フランチェスコ修道会によって1641年から1646年にかけて建設された修道院教会です。


338
サンタ・キアーラ修道院だった建物です。


P1810376
疲れたのでホテルに戻って昼寝をすることに。


P1810378
旧市街が然程広くないので、どうしても徒歩だけの街歩きになるので、疲れます。


P1810379
(つづく)

P2520166「聖アガタと聖ルチア」


P2520168
バスタローロの作品です。


P2520169
「三使徒への聖霊降臨」


P2520171
ジローラモ・ダ・カルピの作品です。


P2520173
「聖アンドレア」


P2520174
ドメニコ・パネッティの作品です。


P2520176
「受胎告知」


P2520177
ドメニコ・パネッティの作品です。


P2520178
「聖母子と聖人たち」


P2520180
ミケーレ・コルテッリーニの作品です。


P2520192
「キリストの物語」


P2520193
弟子の足を洗うキリスト


P2520195
園の祈り


P2520198
ピラトの前のキリスト


P2520201
磔刑


P2520202
エル・グレコの作品です。


P2520204
「ロザリオの聖母と聖人たち」


P2520205
ドメニコ・ティントレットの作品です。


1380



P2520209
「十字架降下」


P2520210
16世紀中頃の逸名画家の作品です。


1379


P2520212
「割礼」


P2520213
ルカ・ロンギの作品です。


P2520226
「羊飼いの礼拝」


P2520229
ガエターノ・ガンドルフィの作品です。


1381


1382


1383
ウバルド・ガンドルフィの「マギの礼拝」


1384


P2520227
「聖フランチェスコ・サヴェリオの奇跡」


P2520234
ジュゼッペ・マリア・クレスピとルイージ・クレスピの作品です。


1385


1386


P2520230
ジュゼッペ・マリア・クレスピとルイージ・クレスピの「光悦の聖スタニスラオ」


1387


P2520232
「聖スタニスラオの奇跡」


P2520239


P2520241
マウロ・ガンドルフィの作品です。


P2520248
「最後の晩餐」


P2520252
ルチオ・マッサーリの作品です。
(つづく)

P2520189「バッカスの寓意」


P2520191
バスティアニーノの作品です。


1360


1361


1362


1363


1364


P1810357
「聖アガタ」と「聖アポッロニア」


P1810362
スカルセッリーノの作品


P1810359
聖アガタ


P1810361
聖アポッロニア


1366


P2520122
「フランチェスコ・ヴィッラの肖像」


P2520124
16世紀第1四半世紀のフェラーラの逸名画家の作品です。


P2520125
「紳士の肖像」


P2520127
16世紀第1四半世紀のロンバルドの逸名画家の作品です。


P2520129
「井戸のヤコブとラケル」


P2520130
Maestro dei Dodici Apostoliの作品です。


1367


1368


1369


1370


1371


1372


1373


1374


1375


1376


1377


P2520138
「パドヴァの聖アントニオ」


P2520139
「聖フランチェスコ」


P2520141
インノチェンツォ・ダ・イーモラの作品です。


P2520143
「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


P2520144
フランチャの枠組みの逸名画家の作品です。


P2520146
「聖母子と聖フランチェスコ」


P2520147
バニャカヴァッロの作品です。


P2520149
「聖セバスティアーノ」


P2520150
フランチェスコ・ザガネッリの作品です。


1378
(つづく)

P1810318「嘆き」


P1810319
16世紀初めのフェラーラの逸名画家による作品です。


1345


P1810321
「幼きキリストへの崇拝」


P1810323
ボッカッチョ・ボッカッチーノの模様者による作品です。


1346


P1810325
「受胎告知する大天使ガブリエーレ」


P1810332
16世紀初頭の逸名画家による作品です。
次のプレデッラと思われる三連画も同じです。


1347


1348
プレデッラ?


P1810327
聖痕を受ける聖フランチェスコ


P1810329
ご誕生


P1810330
竜を退治する聖ジョルジョ


1349


1350


1351


1352


P1810334
「父なる神」


P1810335
ミケーレ・コルテッリーニの作品です。


1353


P1810337
「女性の胸像」


P1810338
ガロファロの作品です。


1354


P1810340
「聖母子」


P1810341
オルトラーノ工房による作品です。


1355


P1810343
「聖セバスティアーノと聖ロッコ」


P1810345
聖セバスティアーノ


P1810347
聖ロッコ


P1810348
シモーネ・デッレ・スパーデの作品です。


1356


P1810354
Santa Maria Egiziaca


P1810353
16世紀初頭の逸名画家の作品です。


1359


P1810350
「風景画」
何が描かれているのか、良く分かりません。


1357


P1810351
「聖ジローラモ」


1358


P2520235
「男の子の肖像」


P2520238
ルイージ・クレスピの帰属作品とされてます。
(つづく)

P2520562「園の祈り」


P2520563
ガロファロの作品です。


P2520589
「ご誕生と聖人たち」


P2520591
ルドヴィーコ・マッゾリーノの作品です。


P2520595
「三聖人と注文主」


P2520597
ニコロ・ピサーノの作品です。


P2520599
「聖マリア・マッダレーナの昇天」


P2520600
Maestro della Maddalena Assuntaの作品です。


1338


1339


1340


1341


P2520602
「トレンティーノの聖二コラ」


P2520603
バキアッカの作品です。


P2520604
「キリストの埋葬」


P2520607
オルトラーノの作品です。


P2520608
「ご訪問」


P2520611
ドメニコ・パネッティの作品です。


P2520615
「羊飼いの礼拝」


P2520617
ガロファロの作品です。


P2520619
「エジプトへの逃避途中の休息」


P2520620
ガロファロの作品です。


P2520626
「キリストの昇天」


P2520628
16世紀前半の逸名画家の作品です。


P2520629
「サロメ」


P2520632
ドッソ・ドッシの作品です。


P2520653
「聖母子と二聖人」


P2520654
ガロファロの作品です。


P2520655
「ご誕生」


P2520658
ガロファロの作品です。


P2520665
「聖母子と聖ジローラモと聖フランチェスコと注文主」


P2520668
ガロファロの作品です。


1342
Maestro dei Dodici Apostoliの「キリストの復活」


1343
Maestro dei Dodici Apostoliの「聖霊降臨」


P2520091
「受胎告知」


P2520093
ヴィチーノ・ダ・フェラーラの作品


1344


P2520111
「斬首された聖ジョヴァンニ・バッティスタの首」


P2520113
ジョヴァン・フランチェスコ・マイネリの作品です。


P2520585
(つづく)

P1810305「聖セバスティアーノ」


P1810307
ヴィチーノ・ダ・フェラーラの作品


P1810309
「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


P1810310
ヴィチーノ・ダ・フェラーラの作品


P1810311
「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


P1810313
15世紀後半のフェラーラの逸名画家の作品です。


P1810314
「聖ジローラモ」


P1810316
15世紀後半のフェラーラの逸名画家の作品


P2520510
「聖母子と聖アントニオ・アバーテと聖ロッコ」


P2520512
Maestro dei Dodici Apostoliの作品です。


P2520514
「聖母子と聖ジローラモと聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


P2520515
バッティスタ・ドッシの作品です。


P2520520
「聖十字架の識別」


P2520521
ガロファロの作品です。


P2520522
「聖人たち」


P2520524
カルツォラレットの作品です。


P2520532


P2520535


P2520536


P2520549
「園の祈り」


P2520550
オルトラーノの作品です。


P2520543
「我に触れるな」


P2520544
ガロファロの作品です。


1336


P2520551
「エジプトへの逃避」


P2520555
オルトラーノの作品です。


P2520554
オルトラーノの「園の祈り」


P2520558
「マギの礼拝」


P2520560
ニコロ・ピサーノの作品です。


P2520564
「羊飼いの礼拝」


P2520566
ガロファロの作品です。


P2520567
「ラザロの蘇生」


P2520569
ガロファロの作品です。


1337


P2520571
多翼祭壇画?


P2520583
サン・フランチェスコ教会にあったようです。


P2520572
ガロファロ―の「エジプトへの逃避」


P2520574
ガロファロの「嬰児虐殺」


P2520578
制作者情報不知の「ドッソ・ドッシ作『マギの礼拝』のコピー画」


P2520580
制作者情報不知の「ドッソ・ドッシ作『割礼』のコピー画」


P2520582
制作者情報不知の「ドッソ・ドッシ作『ご誕生』のコピー画」
(つづく)

P1810302「聖母子」


P1810304
エルコーレ・ロベルティの作品です。


1310


1311
これがあるので「バラの聖母」とも呼ばれてます。


1312


1313


P2520593
「聖母の死」


P2520594
ヴィットーレ・カルパッチョの作品です。


1314


1316


1317


1318


1315


1319
カッソーネ(1490-1500c)


1320
カッソーネ(1490-1510c)


1321
カッソーネの模様


1322
詳細不知


1323
チェーザレ・チッタデッラ(1732-1809)の「自分の胸像」(1777)


1324


1325
詳細不知


P2520633


P2520635
「コスタビリの多翼祭壇画」


P2520651
ガロファロとドッソ・ドッシの作品です。


P2520638
クスピデの「救世主」


P2520641
玉座の聖母子と聖人たち


P2520644
聖アンブロージョ


P2520646
聖セバスティアーノ


P2520647
聖アゴスティーノ


P2520650
聖ジョルジョ


1326


1327


1328


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1332


1333


1334


1335
(つづく)

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