イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:ヴェネト州 > エステ

P1010787引き続きドゥオーモの祭壇画です。


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私には作品帰属が全く分からないものばかりです。


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ドゥオーモはこれで終わりです。


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ドゥオーモから外に出ました。


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サン・フランチェスコ門です。


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南から町の中心に入る入口として、1581年に建設されました。門を潜れば、直ぐに運河の上に出ます。


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門の外に出ずにVia Massimo d’Azeglioを進みました。


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突き当りにサン・ロッコ教会があります。


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写真右にヴぇッキア門があります。


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この店で果物を買いました。


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サン・ロッコ教会です。


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最初の建物は1480年に建設されました。現在の建物は1767年に再建された二代目となるものです。


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1751年に建設された鐘楼です。


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20世紀初めに宗教活動が停止され、その後、コムーネ所有の建物になりました。


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中に入るとパーティーをやっていました。


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Porta Vecchiaです。市の塔、時計塔とも呼ばれてます。


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エステに城壁が築かれると同時に、この場所に入口門が設けられたとされてますが、具体的な時期が分からないようです。
1238年の文書に、門についての記述があるそうです。


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門を潜ると、直ぐに橋があります。橋の下にパドヴァからの運河が流れてます。


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城壁外から見たPorta Vecchiaです。


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1238年の文書に記載された石造りの門は、1688年の地震によって倒壊してしまいました。その門の残骸土台を利用して、1690年に再建された門が現在の姿になってます。


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門を潜ります。


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城壁内に戻ります。


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マッジョーレ広場へと進みました。


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Palazzo Municipale(写真右端の建物)


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エステ家がフェラーラに去ってから、何処となく寂れたような気がしました。


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ドゥオーモが見えました。


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大体見終わったようです。


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写真右奥にサン・マルティーノ教会があります。


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サン・マルティーノ教会の後陣


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サン・マルティーノ教会の鐘楼


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ヴェネツィア領だった筈ですが、有翼のライオン像が見当たりませんでした。


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(おわり)

P1010762次はドゥオーモです。


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エステのドゥオーモ、サンタ・テクラ教区教会です。


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2012年のエミリア地震によって被害を受け、修復工事中でしたが、拝観ができました。


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4世紀または5世紀頃に、異教の建物、恐らく異教の寺院だった建物の残骸を一部利用して建設された初期キリスト教会が前身とされており、エステの最古の教会でした。


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1034年の文書に、この教会の存在が初めて記録されたそうです。


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12世紀に二番目の建物が再建されました。


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三番目の建物が、建築家ヴィンチェンツォ・スカモッティ(ヴィチェンツァ、1548‐ヴェネツィア、1616)の設計によって、1583年から1592年に建設されました。


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現在、地震による被害に対する修復工事が完了したようです。


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さて、地震による被害ですが、1688年に地震によって三番目の建物は瓦礫になってしまいました。修復は不可能と判断されて、四番目となる建物が再建されることになりました。


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そうして、建築家アントニオ・ドメニコ・ガスパーリ(アントニオ・ガスパーリと呼ばれることもある)(ヴェネツィア?、1660c‐トレヴィーゾ、マゼール、1723)が起用され、彼の設計によって1690年から1720年に四番目の建物が建設されました。1748年に四番目の建物の奉献式が執り行われたそうです。
四番目の建物が現在の姿になってます。
ファサードは未完成のまま現在に至ってます。


1539
1896年、第256代教皇レオーネ13世(1810‐1903 教皇在位:1878‐1903)によってArcipretale di Este a Chiesa Abbazialeに格付けされました。


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8世紀に建設された鐘楼を一部使用して、1724年から1730年に建設された鐘楼です。


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中に入りました。
この時は後陣が修復工事中でした。


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後陣修復後の写真です。


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楕円形、バロック様式の内部です。


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右側壁


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Presbiterio


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後陣に置かれた祭壇画がこの教会の最大の見どころです。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(ヴェネツィア、1696‐マドリッド、1770)の「ペスト禍のエステを解放する聖テクラ」(1759)


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修復工事のため、後陣左側壁の祭壇画がよく見えませんでした。


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後陣右側壁の祭壇画


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磔刑の礼拝堂


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フランチェスコ・テリッリ(フェルトレ、1584‐1635)の「磔刑像」
ベルナルド・ファルコーニ(ビッソーネ、1620‐1696c)の「嘆きの聖母と聖マリア・マッダレーナ」


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天井


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楕円形の天井


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天井のフレスコ画(詳細不知)


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パドヴァの聖アントニオ礼拝堂


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詳細不知の祭壇画


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ベアトリーチェ・デステの礼拝堂です。


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ミケランジェロ・グリゴレッティ(ポルデノーネ、1801‐ヴェネツィア、1870)の「ベアータ・ヴェルジネと聖ジョヴァンニ・バッティスタとベアータ・ベアトリーチェ・デステ」


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ミケランジェロ・グリゴレッティは、宗教画も制作しましたが、肖像画家として非常に有名です。


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詳細不知


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サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


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アントニオ・コッラディーニ(エステ、1688‐ナポリ、1752)の「聖体の勝利」


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詳細不知


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詳細不知


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(つづく)

P1010741市の塔の見学は後回しにしました。


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城の方に向かいました。


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Villa Mocenigoです。
ヴェネツィア貴族のモチェニーゴ家がエステ城の一部を組み入れて16世紀末に建設したヴィッラです。


1514
18世紀に火災で破壊してしまったので、ヴィッラの建物の大部分が再建されました。


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エステの考古学博物館と思われてますが、正式名はMuseo Nazionale Atetinoと言い、国立の博物館です。当初、エステのコムーネの博物館として開館しましたが、後に国立の博物館になりました。


1515
エステ周辺の遺跡は13‐14世紀に発見され、19世紀以降を中心に発掘調査が行われましたが、その際に出土した発掘物が展示の中心です。


1517
考古博物館の展示は、どこの博物館でも似たり寄ったりです。


1516
私にとって、興味ある作品が一つだけありました。


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チーマ・ダ・コネリアーノ(コネリアーノ、1459c‐1517c)の「聖母子」
モチェニーゴ家が所有していた作品でしょうか?


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Castello Carrarese di Esteと呼ばれる城の中に入りました。


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Colli Euganeiの南端に当たり、周囲を見渡す絶好の地にあったことから、何時しか壁に囲まれた住居が建てられたと考えられてます。壁に囲まれた住居は589年の洪水によって流されましたが、その後、同じような建物が建設されました。しかし、その建物は次第に砦に強化されたようです。


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最初の城は、オベルテンギ家の一員で、エステ家最初の当主で、ミラノ侯爵アルベルト・アッツォ2世・デステ(ヴァンガディッツァ、1009‐1096)によって、1056年頃に築城されました。
エステ領主は、アルベルト・アッツォ2世・デステの三男であるフォルコ1世・デステに引き継がれましたが、フォルコ1世によって城は拡大整備されました。


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13世紀の度重なる戦争によって、城は深刻な被害を受けました。


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エステはエステ家の支配下にありましたが、1239年、エステ家はその本拠地をフェラーラに決め、フェラーラに宮殿を移しました。


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現在の城は、パドヴァ領主のウンベルティーノ・ダ・カッラーラによって1339年から1340年に建設されました。


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庭園に出ます。


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城は、これで終わりです。


1533
(つづく)

引き続き、エステ家発祥の地エステです。
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Via Principe Umbertoです。


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この辺は、13世紀頃には城壁外でしたが、16世紀に城壁内に組み入れられました。


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サン・マルティーノ教会です。


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6世紀頃に建設された、エステで最古の教会とされてます。
日曜日しか開きません。


1493 (2)
11世紀初めの文書に、この教会の存在が初めて記載されたそうです。


1494
高さ23mの鐘楼は、1293年に建設されました。
14世紀初め、隣接していたサン・ロレンツォ礼拝堂を組み込んで拡大されました。



1495
1600年、ファサードが西側に4mほど移動して、ファサードが左右非対称となりました。


1496
クーポラ


1502
後陣


1497 (2)
三廊式、ロマネスク様式の内部です。
教会内部の写真は外部サイトから拝借しました。


1498 (2)
主祭壇


1499 (2)
制作者情報不知の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジュゼッペ」(1680‐90)


1500 (2)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「磔刑」(14世紀中ごろ)


1501 (2)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「聖アガタの殉教」(14世紀中頃)


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拝観するのが大変な教会です。


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町の中心の広場に向かいました。


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修道院だった建物のようですが、すでに解体されたかもしれません。


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アーチを潜って、町の中心である広場に出ます。


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エステの中心、マッジョーレ広場に出ました。


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11世紀には、この広場の原形が存在していたそうです。


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マッジョーレ広場のライオン像


1503
このライオン像の詳細が分かりません。


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町役場 Palazzo Municipaleです。


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17世紀に建設されたPalazzo Municipaleです。


1506
18世紀に改造され、現在の姿の原形になったそうです。


1507
20世紀末に復元されて18世紀の姿に戻ったそうです。


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Palazzo Scaligero del Capitanoです。


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Palazzo Scaligero del Capitanoは、14世紀にスカラ家によって建設されました。


1510
スカラ家が退去すると、フェラーラのエステ家から派遣された代官の宿舎兼事務所として使用されました。


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Palazzo Scaligero del Capitanoの碑文


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ロッジャ


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現在、Palazzo Scaligero del Capitanoは文書館として使用されてます。


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(つづく)

P1010706エステ駅に到着しました。


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エステは、人口15,980人(2021年11月30日現在)のヴェネト州パドヴァ県にあるコムーネです。


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エステ駅の駅舎です。


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チェントロ・ストーリコに向かいました。


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鉄器時代の紀元前10世紀には、この地に村が形成されていたとされてます。紀元前3世紀から紀元前2世紀頃にローマの植民地になりました。


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中世初めの5,6世紀、エステは東ゴート王国の支配下にありましたが、後にビザンチン帝国領に組み入れられました。
10世紀頃、ロンゴバルドのオベルテンギ家の支配下に置かれるようになりましたが、11世紀になるとオベルテンギ家の一族であるエステ家が支配するようになりました。
ミラノ侯爵のアルベルト・アッツォ2世・デステ(1009‐1097)がエステに城を築き、エステ家の本拠地になりました。
1240年、エステ家はフェラーラに遷都しました。それを機に、エステはエステ家にとっての重要性が急速に薄らぐようになり、徐々に繁栄から取り残されるようになりました。
写真左の建物はサン・ジュゼッペ教会です。


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パドヴァからの運河であるFiume Frassineです。


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川を渡った先にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂があります。


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フェラーラ侯爵の次男で傭兵隊長だったタッデオ・デステ(エステ、1390c‐モッツァーニカ、1448)の遺言によって1478年に建設されたドメニコ会の修道院教会が前身です。初代の建物は現在の建物に隣接して建っていました。


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現在のバロック様式の建物は、1717年に創建され、1745年に完成しました。初代の建物は1736年に取り壊されました。
この場所は、エステの分離集落サン・マルティーノに当たりますが、1776年にサン・マルティーノ分離集落の教区教会となり、奉献式が執り行われました。


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未完成のファサードです。


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鐘楼


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初代の建物の土台の上に建設された鐘楼です。


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1924年、第259代教皇ピオ11世(デージョ、1857‐ローマ、1939 教皇在位:1922‐1939)によってBasilica Minoreに格付けされました。


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クーポラ


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再建の完成時にはクーポラはなく、1889年に追加されました。


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ファサードを見ます。


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拝観します。


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聖堂内に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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右側壁


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天井の装飾


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主祭壇画の「グラツィエの聖母」は初代の建物にあったものです。


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作品帰属が分からない聖堂でした。


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外に出ました。


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Via Principe Umberto


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旧市街に向かいました。


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この辺は城壁外に当たります。


P1010722
(つづく)

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