イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:ロンバルディア州 > モンツァ

1王宮の修復工事は中断しているように見えました。


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この先にF-1コースがあります。


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寒い日だったせいか、人がいません。


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キノコ。食べると危険?


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広大な王宮庭園です。


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小川が流れています。


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人の姿がようやく見えました。


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修復工事が遅れるのは、イタリアではよくあることです。


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王宮博物館がモンツァの見どころの一つですが、この時は、どうせ工事が遅れて休館中と思っていたので、残念とは思いませんでした。


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王宮の敷地内にいても意味がないので、中心街に戻ることにしました。


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ジャンニ・チッテリオ広場です。


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大幅に時間が余りそうです。


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サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼


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カッロビオーロ広場です。広場に面して建っているのは、サンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会です。


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ドゥオーモの鐘楼


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サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


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同じ通りを通っていては詰まらないので、違った道を歩きました。


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裏通りに入っても迷うことはない。


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人通りが少ない日中です。


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写真右はアレンガリオです。


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ホテルに戻ってチェックインしてから一休みすることにしました。


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昼食の時間ですが食欲がありません。


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ドゥオーモ


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この日の前日にミラノ・スカラ座でオペラを観てから、零時過ぎに食事したのが響いて、寝不足に加えて胃の調子が今一つでした。


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Monumento di Caduti


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オペラを観ると体調が崩れます。


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サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼


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サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会です。


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イタリア通り


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このまま道をまっすぐ進めば鉄道駅に出ます。


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振り返って撮った写真


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ホテルに戻りました。
午後にもチェントロ・ストーリコに行きましたが、内容はほぼ同じです。
(モンツァ編 終わり)

1Palazzo di Giustizia 裁判所です。


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この場所には、16世紀に建設された神学校があったそうです。その後、神学校の建物は再建されましたが、1786年に神学校が移転して、空き家になっていました。1809年に建物は病院に転用されるようになりました。


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建物が老朽化したので、病院は他の場所に移ることになり、1932年、神学校、さらに病院だった建物を取り壊し、裁判所建設が決定されたそうです。
そうして、1933年から1934年に現在の建物が建設され、裁判所としての機能が1934年に開始され、現在に至ってます。


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裁判所前に立っているのは、ジュゼッペ・ガリバルディ像です。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りを進みます。


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通りの突き当りにアレンガリオがあります。


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アレンガリオを過ぎるとサン・パオロ広場に出ます。


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サン・パオロ広場に面して教会が建ってます。


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サンタ・マルタ祈祷所です。


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14世紀後半に建設されたサンタ・マルタ修道院教会の複合施設が前身です。


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サンタ・マルタ修道院教会に隣接してサン・ミケーレ修道院がありました。


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ファサード下に小さな柱廊があって、ファサードの左右から柱廊に入ることが出来るようになってます。


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隣接する2つの修道院は、ナポレオンのイタリア侵攻の際に抑圧され、閉鎖されたのです。
1920年代に、都市計画のためにサン・ミケーレ修道院教会の複合施設とサンタ・マルタ修道院が取り壊されました。
サンタ・マルタ教会の建物の一部が取り壊され、現在の姿になりましたが、それを機に教会から祈祷所になったのです。


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祈祷所の入り口


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扉が開いているように見えましたが、施錠されていました。


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美術的な見所はなさそうです。


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宗教活動は既に停止?


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サン・パオロ広場


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サン・パオロ広場に面して建っている建物にフレスコ画があるのを見つけました。


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Banco Desio、銀行です。


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銀行の建物に描かれたフレスコ画


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観光地図です。


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主な見所のうち、行っていないのは王宮だけのようです。


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王宮の建物が修復工事中であることは承知していましたが、一応行ってみることに。


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アレンガリオを経由します。


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モンツァの主な道はアレンガリオに通じているのです。


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王宮庭園の入り口に出ました。


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ジャンニ・チッテリオ広場です。


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F-1開催時には、この広場は大混雑するそうです。


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広場の交差点の下に地下道があります。


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地下道を通りました。


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王宮庭園に入りました。


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この先は狩場でした。


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広い庭園です。


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ここにもジュゼッペ・ガリバルディ像があります。


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厩舎だった建物です。


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王宮は修復工事中でした。


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(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


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ドゥオーモ博物館の続きです。


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キオストロとその回廊です。


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回廊のフレスコ画です。


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18世紀に描かれたフレスコ画です。


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私には制作者などの詳細が分かりません。


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回廊のフレスコ画


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キオストロ回廊に置かれている、ローマ時代の石棺(3世紀)


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ローマ時代の石棺(4世紀)
次は博物館の展示作品です。写真不可です。


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有名な鉄の王冠


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セバスティアーノ・リッチ(ベッルーノ、1659‐ヴェネツィア、1734)の「ドゥオーモの建設開始](1697)


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象牙彫刻


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ドゥオーモは以上で終わりです。


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塔に向かいます。


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塔にやってきました。


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テオドリンダの塔と呼ばれてます。13世紀に建設されました。


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ランブロ通りです。


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塔の下を潜ります。


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塔を潜りました。


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振り返るとドゥオーモの鐘楼が見えました。


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少し進むと川に出ます。


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ランブロ川に架かる橋にライオン像があります。


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ライオン像は橋の四隅にあります。


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ランブロ川です。


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この道を進めば鉄道駅に出ます。


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この先にアレンガリオがあります。


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ランブロ川沿いに建つ共同住宅です。


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共同住宅は嫌いです。壁の上、下、右横、左横に住んでいる人たちがいると思うとぞっとします。住宅は庭付き一戸建てに限ります。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りです。


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分譲共同住宅は、所有していても本当に所有権があるかどうか、非常に疑わしいと思います。建て替えなどの問題が生じたとき、決められないことがあります。


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一戸建てなら、俺が決めれば決定です。当たり前ですが。


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(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
絵画、フレスコ画を描いたのは、ジュゼッペ・アルチンボルド(ミラノ、1527-1593)、フィアメンギーニ(ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレとジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ兄弟の通称)、ジョヴァンニ・ステファノ・ダネーティ通称モンタルト(トレヴィリオ,1612-ミラノ、1690)、エルコーレ・プロカッチーニ・イル・ジョーヴァネ(ミラノ、1605-1680)、ジュゼッペ・アントニオ・カステッリ(モンツァ、1655-1724)などとされてますが、作品毎の帰属が私には分かりません。


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オルガン


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身廊を挟んで左右にオルガンが設置されてます。


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Presbiterioに向かって左側のオルガン


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左側のオルガン下の彫刻


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Presbiterioに向かって右側のオルガン


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右側のオルガン下の彫刻


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オルガンの近くに有名な説教壇があります。


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14世紀後半に彫刻家マッテオ・ダ・カンピオーネ(カンピオーネ,1335-モンツァ、1396)によって制作された説教壇です。


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有名な浮彫です。


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「戴冠の浮彫」と呼ばれてます。
イタリア王の戴冠式が彫られてます。


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マッテオ・ダ・カンピオーネ工房によって制作されました。


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バラ窓を見ます。


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バラ窓のステンドグラスが見ものです。


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一旦外に出ます。


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次はドゥオーモ博物館ですが、聖堂内から入ることが出来ません。


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博物館には、ここから入ります。


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博物館の入り口


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中に入りました。


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先ずキオストロ回廊に出ます。


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回廊天井のフレスコ画は保存状態が良くない。


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キオストロ


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キオストロの古井戸


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回廊の柱に1729を刻まれた柱がありますが、回廊が創建(再建の創建です)された年を示してます。


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回廊にある墓


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(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
フレスコ画は多くの画家によって描かれましたが、作品帰属を明らかにするのは大変のようです。


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カウンターファサード方向


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テオドリンダ礼拝堂です。


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テオドリンダ礼拝堂は閉まっていることが多いようです。


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1444年に描かれたフレスコ画が残されてます。


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テオドリンダ礼拝堂は写真不可でした。


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十字架の祭壇です。


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有名な祭壇です。


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聖ステファノの殉教?


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エマオの晩餐


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クーポラ


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クーポラのフレスコ画


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身廊天井のフレスコ画


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フレスコ画の帰属が分かりません。


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ご訪問


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玉座の聖母子


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説教壇を見ます。


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説教壇の装飾


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説教壇の周りに聖人像があります。こちらは聖アゴスティーノ


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聖アンブロージョ


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聖ジローラモ


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聖グレゴリオ


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(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
モンツァのドゥオーモで代々のイタリア王の戴冠式が行われました。


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贖いの聖母礼拝堂です。


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「大天使ラッファエーレとトビオーロ」は既に見ました。


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贖いの聖母礼拝堂天井の装飾


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「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


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詳細不知


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後陣のフレスコ画


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多くの絵画、フレスコ画などで装飾されてます。


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私には作品帰属等詳細が分かりません。


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ナポレオンのタルガ


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次の礼拝堂


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この祭壇画の詳細が分かりません。


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詳細不知


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墓の記念碑


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後陣右の礼拝堂


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後陣右礼拝堂の左側壁のフレスコ画


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右側壁のフレスコ画


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この辺の作品帰属が全く分かりません。


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Presbiterio


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Presbiterioのフレスコ画


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Presbiterioの天井フレスコ画


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主祭壇


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(つづく)

引き続きモンツァのドゥオーモです。
1
後陣です。


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後陣の壁にある銘板


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メイン・ポータル左右のライオン像を見ます。


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左側のライオン像


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右側のライオン像


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拝観します。


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聖堂内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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14世紀に再建されましたが、その後、改造、修復を何度も繰り返したので、各種様式の折衷様式と言うべきでしょうか。


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右側廊


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左側廊


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中央通路


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何処から見ていくか、迷うところです。


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カウンターファサード方向


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イタリア王の戴冠式が行われた聖堂なので、非常に格式が高いと思います。


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逸名画家作「玉座の聖母子」(15世紀)


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洗礼堂


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洗礼堂のフレスコ画


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洗礼堂のステンドグラス「キリストの洗礼」


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洗礼盤上部の装飾


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洗礼盤下部


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詳細不知の磔刑像


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右側廊の礼拝堂


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「大天使ラッファエーレとトビオーロ」


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カルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネ(ミラノ、1609-1662)またはジュゼッペ・ヌヴォローネ(サン・ジミニャーノ、1619-ミラノ、1703)の作品です。
二人は兄弟です。


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17世紀のエミリアの逸名画家作「ご訪問」


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グエルチーノの影響を受けた画家のようです。


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カルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネ(ミラノ、1609-1662)の「エマオの晩餐」


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グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


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詳細不知
(つづく)

1次はドゥオーモです。


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ドゥオーモ広場です。この広場にドゥオーモが建ってます。


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モンツァのドゥオーモ Basilica Minore di San Giovanni Battistaです。


4
モンツァは、ミラノ大司教区に属しており、大司教座はミラノのドゥオーモに置かれているので、この聖堂は司教座教会ではありません。


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しかし、16世紀までは、モンツァは独立した司教区になっており、このドゥオーモは司教座教会でした。16世紀末、司教区再編によってモンツァ司教区が廃止され、ミラノ大司教区に編入され、モンツァのドゥオーモは格下げとなりました。その後、Basilica Minoreに格付けされ、教会の格式面で何とか往年の面目を保ったと言えるでしょう。


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モンツァのドゥオーモの歴史は古く、6世紀末に遡ります。


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ローマ時代、蛮族ゲルマニアの一族にロンゴバルド族がいましたが、ゲルマニア大移動の最後に移動したロンゴバルド人は、東ローマ帝国の領土だった北イタリアに入り、568年にロンゴバルド王国を建国しました。ロンゴバルド王国の首都はパヴィアに置かれましたが、モンツァは王国の主要都市の一つでしたが、夏の離宮を現在のドゥオーモが建っている場所の隣に建設しました。


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ロンゴバルド王アウタリのテオドリンダ王妃(570c-628)は、王宮の隣に聖ジョヴァンニ・バッティスタを奉じる大聖堂を建設しました。テオドリンダ王妃は、金銀を豊富に使った装飾品を数多く与えると共に十分な収入の裏付けを大聖堂に保証しました。これが現在のドゥオーモの起源です。


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13世紀後半になると、建物が荒廃したので再建計画が持ち上がりました。
そうして、建築家マッテオ・ダ・カンピオーネ(カンピオーネ、1335-モンツァ,1396)が起用され、マッテオの設計によって、1300年に創建され、1345年に完成した二代目の建物が現在の姿の原形になっているそうです。1365年に奉献式が執り行われたそうです。
その後、更に増築、改築工事が行われ、現在の姿になったのは1681年だそうです。


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クーポラ


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ファサードのポータル


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ポータルの柱頭


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ファサードの装飾


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木製の入口扉


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バラ窓


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ポータル上ルネッタの浮彫


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1592年から1620年に建設された鐘楼が現在のものですが、鐘楼としては二代目だそうです。


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鐘楼の高さは78mとのことです。


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鐘楼の銘板です。
二代目となる鐘楼は、ペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)の原案に基づき、エルコーレ・トゥラティの設計によって建設されました。


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鐘楼の基礎部分に創建された年である1592と刻まれてます。


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(つづく)

1サンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会を後にします。


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鐘楼のある建物に向かいます。


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通りの突き当りを左折します。


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この通りの次の交差点を右折します。


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右折すると、鐘楼が直ぐ正面に見えます。


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中世の頃、鐘楼がある建物がモンツァの中心でした。


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ローマ広場に面して鐘楼がある建物が建ってます。


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未だ午前10時前でした。


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アレンガリオ Arengarioと呼ばれる建物です。モンツァの古い市庁舎で、この建物がモンツァの中心です。


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1250年頃に建設されたロマネスク様式のアレンガリオです。


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横30.3m、縦12.4mの長方形の建物です。


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鐘楼の高さは27mで、その上に尖塔が追加されて、全部で塔の高さは44mとなっているそうです。


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鐘楼は13世紀後半に追加されました。


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現在は催事場やコンサート会場などに使用されてます。


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右に見える鐘楼はドゥオーモのものですが、見る角度によってはアレンガリオの鐘楼に見えることがあります。


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ローマ広場です。


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ガレンガリオのロッジャです。


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ガレンガリオのロッジャに彫刻が置かれてます。


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モンツァのローマ時代の遺跡から発見されたローマ時代の彫刻です。


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ロッジャの柱に置かれている絵画です。


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制作者等詳細不知の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


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モンツァの主要道路がガレンガリオに通じてます。


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ガレンガリオの銘板


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ガレンガリオの先はヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りです。


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ロッジャ内部


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ドゥオーモの鐘楼です。


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ガレンガリオを後にします。


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カルロ・アルベルティ通りです。


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ドゥオーモの拝観を後回しにします。


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この時間、ドゥオーモの扉は開いてますが、ドゥオーモ博物館が開くには、もう少し時間がありました。博物館にある「鉄の王冠」を観ないと、ドゥオーモ拝観が画竜点睛を欠くことになってしまいます。


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ぶらぶら歩きで時間調整。


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サン・ピエトロ・マルティーレ教会に来ました。


P1100434
写真左の建物に聖母子を発見。


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(つづく)

1引き続きサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


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あちこちにフレスコ画が残されてます。


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十字架の礼拝堂


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礼拝堂壁のフレスコ画


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落剝や退色が認められ、保存状態が良くありません。


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これらのフレスコ画は、14世紀前半に制作されたそうです。


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フレスコ画の制作者は、「ロンバルドのマエストロ」とされてます。「ロンバルドのマエストロ」は、複数の逸名画家から成ってます。


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後陣に設置されたオルガン


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無原罪の聖母礼拝堂


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制作者情報等不知の「聖ピエトロ・マルティーレの殉教」


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14世紀前半のジョットの影響を受けたロンバルドの逸名画家によるフレスコ画


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知の磔刑像


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カウンターファサード


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キオストロ回廊に出ました。


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修道院だった建物です。


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教会内に戻りました。


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身廊中央の天井


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大体見終わりました。


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外に出ました。


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サン・ピエトロ・マルティーレ広場です。


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教会巡りを続けます。


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次はカッロビオーロ教会です。


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教会が見えてきました。


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地元の人は略称のカッロビオーロ教会と呼んでますが、正式名はサンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会です。


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教会の隣は、カッロビオーロ修道院です。


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1260年に建設された教会です。18世紀に修復されたファサードなので、少し新しく見えます。


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中に13世紀のフレスコ画や13世紀から15世紀に制作された祭壇画があります。


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扉が閉まっていました。美術的に見たい教会だったので、大変残念に思いました。


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ファサードの彫刻を観ます。


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現在でも修道士が常駐している修道院です。修道院の扉も閉まっていました。


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修道院の扉上の彫刻
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


2
初代の建物はこれよりも大規模だったそうで、それを個人資産で建設した訳で、その財力に驚かされます。


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地元の信者が立ち去ったようです。


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クーポラ


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説教壇


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カウンターファサード


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カウンターファサード上部のステンドグラス


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受胎告知


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外に出ました。


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バルトロメオ・ズッキ通りです。


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次はサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


13
フランチェスコ・クレスピ通りです。


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フランチェスコ・クレスピ通りをさらに進みます。


15
壁にフレスコ画がある建物を見つけました。フレスコ画の状態が良くなく、感心しませんでした。


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少し遠回りになったようです。


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カルロ・アルベルティ通りに入りました。


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もうすぐ広場に出ます。


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サン・ピエトロ・マルティーレ広場です。


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広場に建っているのは、もちろんサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


21
1280年のモンツァの文書にサン・ピエトロ・マルティーレ修道院の存在が初めて記載されたそうです。


22
サン・ピエトロ・マルティーレ教会は、1288年にモンツァの文書に初めて記載されたそうです。しかし、13世紀中頃にサン・ピエトロ・マルティーレ修道院の教会として建設されたという有力説があるそうです。
また、1369年のミラノ司教区の文書に、この教会が初めて記載されたそうです。


23
ドメニコ会は、聖ドメニコによって1206年に設立され、1216年に修道会として教皇の認可を受けました。認可後、ドメニコ会修道院が各地に建設されましたが、モンツァのサン・ピエトロ・マルティーレ修道院はドメニコ会の最古の修道院の一つと考えられてます。


24
ドメニコ会は戒律が厳しく、それ故に異端者に厳しいことで知られ、時に異端裁判で悪名高き修道士会となってます。
ここモンツァのサン・ピエトロ・マルティーレ教会も異端裁判で悪名が轟く、多くの人から恐れられると共に忌み嫌われる存在でした。
宗教上の異端だけに留まらず、ユダヤ教を信じるユダヤ人を異端の名のもとに、ユダヤ人の財産を奪った負の歴史があるのです。実際は、ユダヤ人の財産強奪が目的で、宗教上の異端判決は単に財産簒奪の手段に過ぎなかったそうです。


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ファサード前に彫像が置かれてます。


26
地元出身の画家モーゼ・ビアンキ(モンツァ、1840-1908)の彫像です。


27
ビアンキ像は、彫刻家ルイージ・セッキ(クレモナ,1853-ミアッツィーナ、1921)によって1927年に制作されました。


28
モーゼ・ビアンキの作品写真を載せておきましょう。クレモナのアラ・ポンツォーネ市立美術館にあります。


29
ファサード側の扉が開くことは滅多になく、教会の出入りは右側壁のサイド・ポータルで行います。


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サイド・ポータルのルネッタ上のモザイク


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修道院教会複合施設の概略図が壁にあります。


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拝観します。


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中に入りました。


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三廊式、ロンバルディア・ゴシック様式の内部です。


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1960年代に大修復工事が行われたそうですが、そのためでしょうか、新しく見えます。


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右側廊


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右側廊天井


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左側廊


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左側廊からの眺め


40
(つづく)

1次はサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


2
1576年、ミラノではペストが大流行して多くの犠牲者が出ましたが、当時のミラノ大司教聖カルロ・ボッロメーオはペストで苦しんでいた人たちを助けることに尽力して、後に列聖されました。ミラノだけではなく、ミラノ近隣の町や村に訪れて、ミラノと同様に多くの人々の救出などの尽力しましたが、モンツァにも1578年に訪れました。


3
モンツァの貴族で科学者、歴史家でもあったバルトロメオ・ズッキ(モンツァ,1570-1630)は、幼少の頃、モンツァを訪れた聖カルロ・ボッロメーオの善行を目のあたりにして、深い感銘を覚えました。
そうして、バルトロメオ・ズッキは聖カルロ・ボッロメーオの功徳に報いるために自分の資産で新しい教会の建設に乗り出し、1608年に創建されたのがサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。創建時の建物は、現在地よりも前方にあったそうです。


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1630年、バルトロメオ・ズッキは没しましたが、全財産をイエズス会に寄進すると共に、この教会に埋葬するとの遺言を残し、遺言通りに実行されました。


5
教会建設の経緯を示すために、教会の前に聖カルロ・ボッロメーオ像が置かれてます。この彫刻は元々大理石像でしたが、経年劣化のために大理石像が取り外され、その複製のブロンズ像が置かれてます。


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最初の建物は、ファサード前の道路拡幅と交差点設置のために、19世紀終わりによ取り壊されることになりました。
そうして、建築家スピリト・マリア・キアペッタ(ミラノ,1868-トリウッジョ,1948)が起用され、キアペッタの設計によってネオ・ゴシック様式で再建された建物が現在の教会です。
二代目の建物よりも、取り壊された最初の建物方が大規模だったそうです。


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ファサードの装飾を見ます。


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扉が三つありますが、扉上ルネッタにモザイクがあります。


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大天使聖ミケーレ


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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後陣


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鐘楼


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中に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、ネオ・ゴシック様式の内部です。


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裕福な教会として知られてます。


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中央通路


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礼拝堂を見ていきます。


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19世紀末から20世紀第一四半世紀に制作されたものばかりです。


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古い作品は皆無です。


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次の礼拝堂です。


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右翼廊に設けられた礼拝堂になります。


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聖母の死


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古い美術品を見ようとすると落胆するだけです。


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右側廊


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サン・カルロ・ボッロメーオ礼拝堂


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主祭壇


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祭壇前飾り


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次の礼拝堂です。


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左側壁のステンドグラス


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左側廊


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ポンぺオ・マリアーニ(モンツァ、1857-ボルディゲーラ、1927)の「聖母子と二聖人](1911)


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パドヴァの聖アントニオ


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聖心


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(つづく)

41引き続きサンタ・マリア・マッダレーナ・エ・サンタ・テレーザ教会です。


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天井


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左側壁


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右側壁


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外に出ました。


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県庁舎の建物です。


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トレント広場に向かいます。


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ドゥオーモの鐘楼でしょうか?


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トレント広場にやってきました。
正式にはPiazza Trento e Triesteと呼ばれてますが、トレントとトリエステのモンツァとの関係が良く分かりません。


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市庁舎です。


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この広場がモンツァの中心でしょう。


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前回来た時、この広場で青空市が開市されていて、大変な賑わいでした。


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広場の中心に、1932年に造られたMonumento di Cadutiがあります。


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第一次世界大戦の戦没者慰霊碑です。


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多くの街で見かける戦没者慰霊碑ですが、その大半が第一次世界大戦の戦没者を悼んでおり、第二次世界大戦のものは少ないように思います。


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イタリア人の犠牲者は、第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の方が多かった?


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平日の朝にしては、人出が少なかった。


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高等学校の建物 Palazzo degli Studiです。


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サン・フランチェスコ教会だった建物だそうです。


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市庁舎に向かいます。


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市庁舎内にある観光案内所に行きました。王宮の修復状況を聞きましたが、修復完了の時期は不明との事でした。


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私の経験では、修復工事が予定通りに終わることは、絶対にないと言い切れると思います。


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教会巡りを続けます。


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CINEMAの看板が出てますが、映画館にはとても見えない建物です。


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コルテローニャ通りを進みます。


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これを撮っておくと後で助かります。


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写真左は女性用下着ショップです。セクシー路線の店です。


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この建物は映画館ですね。


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あちこち歩きましたが、結局元の場所に戻ってきてしまいました。


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18世紀に建設された、バロック様式のリアーリオ邸です。


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全ての窓が閉まっていましたが、この後、修復工事が行われたそうです。


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突き当りに教会が見えてきました。


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(つづく)

1サンタ・マリア・マッダレーナ教会です。


2
正式にはサンタ・マリア・マッダレーナ・エ・サンタ・テレーザ教会と言い、奉献する聖人が聖マリア・マッダレーナと聖テレーザの二人となってます。


3
13世紀に建設されたサンタ・マリア・マッダレーナ修道院が前身です。1343年のモンツァの古文書にサンタ・マリア。マッダレーナ修道院の存在が初めて記載されたそうです。その古文書はモンツァ市立図書館に所蔵されているそうです。


4
1584年、ミラノ大司教聖カルロ・ボッロメーオは、死の直前に古い修道院を取り壊し、その上に新しい教会の建設を承認しました。
その承認に基づき、1610年から1620年に建設された建物が現在の姿の原形となってます。


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ファサードの銘板


6
1856年、1620年に完成した建物のファサードの壁が崩落してしまいました。
現在のファサードは、モンツァの建築家ルイージ・ポルディの設計によって、1861年に再建されたものです。


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毎日開く教会です。


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入口扉上ルネッタのフレスコ画


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ファサードの壁龕に四体の彫刻が置かれてます。これらの聖人の彫刻は、ルイージ・コッキ・ダ・ミラノによって1861年から1863年に制作されました。
こちらは聖テレーザ像です。


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聖マリア・マッダレーナ


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聖ジュゼッペ


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大天使聖ミケーレ


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拝観します。


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形の内部です。


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右側壁


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天井


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主祭壇


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ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「キリストの施し」


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ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの作品


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ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「エマオの晩餐」


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18世紀のロンバルディアの逸名画家作「聖家族と聖テレーザ」


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ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの作品


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説教壇


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ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「聖マリア・マッダレーナ」


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詳細不知


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内部のフレスコ画は、ジュゼッペ・カルサーナによって描かれました。


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(つづく)

3前泊地はミラノでした。


1
ミラノ中央駅から鉄道に乗ってモンツァに向かいました。


2
車内は非常に空いてました。


4
モンツァ駅に到着しました。


5
モンツァ駅の駅舎です。


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駅前の小さな公園があります。


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公園の噴水


8
Monzaをモンザと呼ぶ人がかなりいますが、ここではモンツァと呼ぶことにします。
モンツァは、人口121,692人(2022年8月31日現在)のロンバルディア州モンツァ・エ・ブリアンツァ県にあるコムーネです。


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Corso Milano


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先ず、この日のお宿に向かいました。


11
ホテル(写真左手前)に大きな荷物を預かって貰ってから早速外に出ました。
ミラノから近いモンツァなので、ミラノからの日帰り遠足が可能ですが、行った先で泊まる主義を貫きました。


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Largo Mazzini


13
この辺が旧市街の入り口になるでしょうか?


14
F-1のサーキットコースで有名なモンツァですが、古い歴史ある街として知られてます。


15
この日は、10月下旬の厚い雲に覆われた肌寒い日でした。


16
昔はほぼ二年毎に訪れていたモンツァですが、王宮の修復工事が始まると、行ったのは、この時だけとなりました。王宮の博物館が私のモンツァ観光の中心でしたが、修復中は休館となり、その修復工事が殆ど進捗せず、何年の博物館が休館となるうちに急に興味が薄れてしまいました。


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イタリア通りに入りました。


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ミラノの雑踏と喧騒を避けて、静かな生活を楽しむ人たちのハイソな街です。


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車の侵入が禁止されているイタリア通りです。


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道はよく手入れされてます。


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二本の鐘楼が目立ちます。


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サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼です。


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普通の建物の壁にタベルナコロが設けられてます。


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タベルナコロのフレスコ画(詳細不知)


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写真右はサンタ・マッダレーナ教会ですが、ミサ中だったので拝観するのは後回し。


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サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会を先に見ます。


28
ゴシック様式の鐘楼が目印です。


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サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会のファサード


30
フランチェスコ会修道士がミラノの建築家Ambrosoliusに委嘱して、彼の設計によって1348年から1357年に建設されたロンバルド・ゴシック様式の教会です。


31
Stradaの呼称はモンツァからミラノに向かう街道に面して建設されたことに由来します。


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教会の説明板


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ファサードの聖母子


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ファサードの装飾


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バラ窓


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ポータル上ルネッタにフレスコ画があったと思いますが、その痕跡さえも認められません。


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ルネッタ下の彫刻


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残念ながら教会は閉まっていました。


38
鐘楼を見上げました。


40
(つづく)

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