イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:ピエモンテ州 > ノヴァーラ

1洗礼堂のフレスコ画です。


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ジョヴァンニ・デ・カンポ(ノヴァーラなどで1440-1483活動記録)の「最後の審判」(1450c)


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落剝している箇所


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モラッツォーネの追随者によるフレスコ画


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騎馬の男の下の女性だけは違う画家の作品です。


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騎馬の男の女性は、ピエル・フランチェスコ・ジャノーリ(カンペルトーニョ、1624-ミラノ、1692)によって1665年頃描かれました。


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モラッツォーネの追随者によって描かれたフレスコ画


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次は博物館です。


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こちらから入ります。


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中庭に出ました。


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中庭を囲む柱廊


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この先に司教館があります。


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司教館の一部と回廊が博物館になってます。


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初期キリスト教会だったころの浮彫


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ドゥオーモは、これで終わりです。


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外に出ました。


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サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。


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1635年から1643年に建設されました。


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主に死刑判決を受けた人たちのための教会です。


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ブロレットにやってきました。


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ブロレットは幾つかの建物の集合体です。


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アレンゴ宮です。


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ブロレットは主に刑務所でした。今は近代美術館があります。


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近代美術館の館内のフレスコ画


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近代美術館の展示


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Palazzo del Governoです。


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Palazzo del Governoに時計塔があります。


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見所が豊富な街です。


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(おわり)

1引き続きノヴァーラのドゥオーモです。


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フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)とメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1668)によって1684年から1692年に描かれた「キリストの物語」が左右のコリント式列柱の間に掲げられてます。


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右側


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右側廊


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左側廊


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アダムとイヴのモザイクは最初の建物にあったものです。


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二代目の建物の礼拝堂が残されてます。


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この礼拝堂は通常公開されていないようです。必見の祭壇画があります。


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ジュゼッペ・ルスナティ(ガララーテ、1650-ミラノ、1713)の「ノヴァーラ司教」


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聖堂内は大体見終わりました。


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聖堂内からファサード前に出ます。


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ファサード前に出ました。


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ファサード側の中央扉


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次は洗礼堂です。


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洗礼堂はファサードに向かって右側の柱廊奥にあります。


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ファサード前から洗礼堂の全体を見ることが出来ません。


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煉瓦積みの洗礼堂です。


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初期キリスト教会の洗礼堂は、4世紀後半から5世紀前半に建設されたそうです。その土台が現存しています。


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ティブリオとクーポラが11世紀に増設されて現在の姿の原形となったそうです。


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柱廊途中に設けられた洗礼堂の入り口です。


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洗礼堂の中に入ります。


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初期キリスト教会時代の洗礼堂土台


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ローマ時代の骨壺が置かれてます。


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内部は八角形になってます。


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フレスコ画が残されてます。


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クーポラのフレスコ画の痕跡


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(つづく)

1引き続きノヴァーラのドゥオーモです。


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次の礼拝堂です。


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サン・ガエターノ礼拝堂です。


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ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「最後の晩餐」(1525c)


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一部にスぺリンド・カニョーラの作品、またはスぺリンド・カニョーラがガウデンツィオ・フェッラーリに協力したという説があるようです。


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次の礼拝堂です。


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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの祭壇です。
礼拝堂ではなく、一般的に祭壇と呼ばれてます。


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ノヴァーラの逸名画家作「聖母子」(15世紀末‐16世紀初頭)


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ルネッタの「父なる神」の制作者情報等の詳細が不明です。


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聖ジローラモ?


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詳細不知


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カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「磔刑」


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この作品の帰属については別説が幾つかあるようです。


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後陣の磔刑像


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詳細不知


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ヴィターレ・サーラ通称イル・サレッタ(チェルヌスコ・ロンバルドーネ,1803-ミラノ、1835)の「聖母戴冠」


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Presbiterio


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制作者情報等不知の「チントラの聖母」


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フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)とメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1668)によって、1684年から1692年に制作された「キリストの物語」が聖堂内に掲げられてます。
場面毎にアッビアーティかゲラルディーニのどちらかによって描かれたようで、二人によって描かれた場面はないと言われてます。
これは「最後の晩餐」です。


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フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)またはメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1692)の「キリストのエルサレム入城](1684-92)


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説教壇


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説教壇


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説教壇


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説教壇


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サン・アガビオ礼拝堂です。


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イグナツィオ・コッリーノ(トリノ、1724-1793)の彫刻


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ,1578)の「磔刑」


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フィリッポ・アッビアーティとメルキオッレ・ゲラルディーニの「キリストの物語」


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(つづく)

1写真左がドゥオーモです。


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ノヴァーラ司教区のサンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。


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この場所には、ローマ時代に建設された、ローマ神話の主神ユピテルを祀る神殿がありましたが、4世紀後半にその神殿の建物の一部を利用して建設された初期キリスト教会のサンタ・マリア教会が前身です。5世紀に何度か改造され拡大されました。


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最初の建物が経時劣化したので、11世紀から12世紀に取り壊され、ロマネスク様式の建物が建設されました。1132年、再建された二代目の建物の奉献式が執り行われたそうです。


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二代目の建物の教会は、15世紀に大改修され、さらに16世紀に改造増築されました。18世紀にバロック様式に改修されましたが、改修工事中に建物の経時劣化がかなり進んでいることが判明したそうです。


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それを受けて、バロック様式への改修工事が中断され、再建計画が持ち上がりました。再建計画は、建築家ベネデット・アルフィエーリ(ローマ、1699-トリノ,1767)に委嘱され、1754年にアルフィエーリから設計書が提示されたのですが、何故か工事が着手されず、計画が頓挫してしまいました。


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しかし、再建の必要性が変わることはなく、19世紀中頃、建築家アレッサンドロ・アントネッリ(ゲンメ、1798-トリノ、1888)が起用され、1854年にアントネッリから建設計画書が提出されました。
その計画に基づき、1857年から1869年に建設された新古典様式の三代目の建物が現在の姿の原形となってます。1869年、三代目の建物の奉献式が執り行われたそうです。


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ロマネスク様式の鐘楼は、2009年にその上部が完成しました。


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新古典様式のファサード


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左側壁の柱廊が特徴です。


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聖堂内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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コリント式列柱が目立ちます。


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美術的な見所が豊富です。


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ルネサンス期の作品が残されてます。


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Presbiterioの左右にオルガンが設置されてます。


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建物は新しいですが、多くの礼拝堂祭壇は二代目の建物のものが残されてます。


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ティツィアーノの祭壇画の傑作があったのですが、失火のために焼失したそうです。


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各礼拝堂の祭壇画などを見て回ります。


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ノヴァーラ司教にドゥオーモ建設を認可する教皇


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制作者情報不知


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左側廊礼拝堂


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祭壇画不知


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アレッサンドリアの聖カテリーナ礼拝堂です。


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ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1527c)


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磔刑礼拝堂です。


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「磔刑と聖人たち(聖マリア・マッダレーナ、聖ガウデンツィオ、聖ベネデット)」


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ボケ写真ですいません。


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グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


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次の礼拝堂です。


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サン・ジュゼッペ礼拝堂です。


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ジュゼッペ・ヌヴォローネ(サン・ジミニャーノ、1619-ミラノ、1703)の「聖母子と聖人たち」


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パンフィーロ・ヌヴォローネの息子がジュゼッペ・ヌヴォローネです。


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(つづく)

1次はサン・マルコ教会です。


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聖カルロ・ボッロメーオの弟子で、ノヴァーラ司教のカルロ・バスケ(メレニャーノ、1550-ノヴァーラ,1615)の要請によってサン・マルコ教会建設計画が具現化することになったそうです。


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ミラノの建築家ロレンツォ・ビナーゴ(ミラノ、1554-1629)に委嘱され、ビナーゴの設計と建設工事監督によって1607年から1691年に建設されたバロック様式のサン・マルコ教会です。


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現在、教会が建っている場所には小さなサン・マルキーノ祈祷所(オラトリオ)があったそうです。


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サン・マルコ教会の建設資材は、城壁外にあってカルロ5世の命令によって破壊されたサン・ロレンツォ修道院教会の残骸が使用されたそうです。


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1634年に教会に併設して修道院が建設されましたが、サン・マルコ修道院だった建物はイタリア銀行になってます。


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途中、資金難のために工事が進まず、完成したのは創建から80年以上あとの1691年でした。同年、奉献式が執り行われました。


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中央扉だけが開きます。


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単廊式、バロック様式の内部です。


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左側壁です。
中堅画家の作品があるので、美術的に楽しめます。


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Presbiterio


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後陣天井フレスコ画は、グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)によって描かれました。


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グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「父なる神」


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主祭壇の彫刻


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詳細不知の「聖心」


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カミッロ・プロカッチーニ(パルマ、1561-ミラノ、1629)の「十字架の提示」


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ダニエーレ・クレスピ(ブスト・アルシツィオ、1597/1600-ミラノ,1630)の「聖マルコの殉教](1626)


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ダニエーレ・クレスピ(ブスト・アルシツィオ、1597/1600-ミラノ、1630)の「馬に乗った兵士に引きずられる聖マルコ](1626)


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カウンターファサードにあるオルガン


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ノヴァーラ城横にあるマルティーリ・デッラ・リベルタ広場です。


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ヴィスコンティ城(ノヴァーラ城)にやってきました。


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城が建てられた場所には古代ローマに築かれた城壁があり、城壁を利用して砦が築かれたそうです。砦が築かれた時期は不明とされてます。


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951年からイタリア王だったザクセン王オットー1世(ヴァルハウゼン,912-メムレーベン,971)の969年の文書にノヴァーラ城の存在が記されているそうですが、その城がヴィスコンティ城の前身かどうかは不明とされているそうです。


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1272年、ノヴァーラの支配者だったフランチェスコ・デッラ・トーレが古代ローマ時代の城壁を利用して城塞を築きましたが、これがノヴァーラ城の最初の確実な記録とされてます。


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1293年、城はヴィスコンティ家に譲渡され、当時のヴィスコンティ家の当主マッテオ1世・ヴィスコンティ(1250-1322)は、要塞の拡大整備に乗り出したそうです。
マッテオ1世の末息子のジョヴァンニ・ヴィスコンティによって城が完成しました。


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ヴィスコンティ家最後のミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(ミラノ,1392-1447)が1447年に没すると、ミラノ公爵はスフォルツァ家に引き継がれました。ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ公爵、さらにイル・モーロによって重要な軍事拠点としての城の強化が図られました。


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17世紀まで、ノヴァーラを支配したスペイン人はヴィスコンティ城の軍事的重要性を継続しましたが、サヴォイア家が支配する18世紀になると、軍事的な重要性の低下によって城は公共の公園として開放されるようになりました。


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城の入り口です。


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19世紀になると、堅固な城は刑務所として最適な建物と見做されて改造されました。1973年に他の場所に移転するまで刑務所でした。


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公園になっている場所


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公園にある乗り物


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公園からの景観


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マルティーリ・デッラ・リベルタ広場です。


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写真右の建物はオペラ劇場です。


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(つづく)

1次の礼拝堂です。


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ロレートの聖母礼拝堂です。


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ロレートの聖母礼拝堂の天井のフレスコ画は、ステファノ・マリア・レニャーノ(ミラノ、1661-1713)によって描かれました。


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ロレートの聖母礼拝堂の左右の側壁に描かれたフレスコ画は、ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)によって制作されました。


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ベルナルディーノ・ラニーノのフレスコ画


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Presbiterio


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天蓋


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主祭壇


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左翼廊の礼拝堂です。


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左翼廊の祭壇画は、ペラージョ・パラージ(ボローニャ、1775-トリノ、1860)の「正教会に寄付するノヴァーラ司教聖アダルジソ」(1825)


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右翼廊礼拝堂


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次はサンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


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絵画があります。


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ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ(1575-1640)の「聖ガウデンツィオの生涯のエピソード」


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「聖ガウデンツィオの生涯のエピソード」は全部で8点あります。


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これら8点の作品は、ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ単独によって描かれたそうです。


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サン・ジョルジョ礼拝堂です。


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サン・ジョルジョ礼拝堂のフレスコ画(詳細不知)


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カウンターファサード方向


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大体見終わりました。


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外に出ます。


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外に出ました。


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オペラ劇場です。


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1886年から1888年に建設されたTeatro Cocciaです。


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ピエモンテのオペラ劇場は伝統的な馬蹄形のものは少ないのですが、ノヴァーラのオペラ座は違います。


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(つづく)

1引き続きサン・ガウデンツィオ聖堂です。


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Cappella della Buona Morteです。


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Cappella della Buona Morteはモラッツォーネのフレスコ画によって装飾されてます。


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グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「十字架降下」


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ピエル・フランチェスコ・マッツゥッケッリ通称イル・モラッツォーネ(モラッツォーネ、1573-ピアチェンツァ、1626)の「最後の審判」


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モラッツォーネの「最後の審判」


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モラッツォーネのフレスコ画


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モラッツォーネの天井フレスコ画


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次の礼拝堂です。


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Cappella della Nativitaです。


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この多翼祭壇画で有名な礼拝堂です。


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ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「サン・ガウデンツィオ聖堂の多翼祭壇画」(1516)


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この多翼祭壇画は、城壁外にあったサン・ガウデンツィオ聖堂の主祭壇を飾るために制作されましたが、カルロ5世の命令によって、1552年に聖堂の建物が取り壊されたので、パネル毎に分解されて保存されていたそうです。


14
現在の場所に再建されたサン・ガウデンツィオ聖堂の最初に行われた奉献式が行われた1590年に戻されたそうです。


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裾絵が良く見えません。


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受胎告知とご誕生


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聖ピエトロと聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖母子と聖人たち、聖エウセビオと聖パオロ


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玉座の聖母子と聖人たち


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聖ピエトロと聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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聖エウセビオと聖パオロ


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受胎告知する大天使ガブリエーレ


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受胎告知される聖母


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Cappella della Nativitaの左側壁


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Cappella della Nativitaの天井フレスコ画は、パオロ・カミッロ・ランドリアーニ通称イル・ドゥキーノ(1562-1618)の作品です。


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次の礼拝堂です。


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割礼礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレ(1560-1627)の「割礼」
ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレは、弟ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレと一緒に仕事することが殆どで、兄弟でフィアメンギーニと呼ばれています。
この「割礼」は珍しく兄単独で制作されたようです。
しかし、割礼礼拝堂のフレスコ画は兄弟で制作されたそうです。


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フィアメンギーニのフレスコ画


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フィアメンギーニのフレスコ画


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「玉座の聖母子」(詳細不知)


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次は磔刑礼拝堂です。


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ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)に帰属する「磔刑」


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クーポラの先端に置かれていた「救世主」(1873)


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「救世主」の本物は聖堂内に置かれてます。落雷や風化があるので、クーポラの先端には現在、これのコピーに差し替えられたそうです。
(つづく)

1サン・ガウデンツィオ聖堂のクーポラは非常に目立ちます。


2
見る場所によって、このように鐘楼とクーポラが重なって、丸で一本の塔のように見えます。


3
サン・ガウデンツィオ聖堂です。Basilica Minoreに格付けされてます。


4
ノヴァーラ司教で街の守護聖人聖ガウデンツィオ(イヴレア、327-ノヴァーラ,418)の遺骨を納めるサン・ガウデンツィオ教会は、841年に現在の場所とは別の、城壁外に建設されました。最初の建物が荒廃したので、1298年に再建されたそうです。


5
1552年から1554年にかけて、ノヴァーラは神聖ローマ帝国の皇帝でスペイン王のカルロ5世(1500-1558)の支配下に置かれましたが、ノヴァーラをスペインの重要な軍事拠点にするべく、要塞化、城壁の拡大整備乗り出し、城壁外の既存建物全ての破壊が命令され、サン・ガウデンツィオ聖堂も完全に破壊されたのです。


6
現在、サン・ガウデンツィオ聖堂が建っている場所は、城壁内の北西の端に当たりますが、その場所には1019年に建設されたサン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会がありました。
スペインの支配が弱まると、反スペインの象徴としてサン・ガウデンツィオ聖堂の再建が計画されるようになりました。
そうして、1576年、サン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会を取り壊して、その上にサン・ガウデンツィオ聖堂の再建が決定されたのです。


7
そうして、画家で、建築家でもあったペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)の設計によって、1577年に創建されました。建物の一部が完成した1590年に奉献式が執り行われました。


8
左側壁です。
1590年の奉献後、ペストの流行や戦争による経済低迷によって、工事が中断してしまいました。
経済が回復した1626年に建設工事が再開され、1656年に完成した建物が現在の姿の原形となってます。


9
写真左がクーポラで、写真右が鐘楼です。建物が完成した1656年当時、写真のクーポラと鐘楼は存在していませんでした。


10
鐘楼の土台部分


11
高さ約75mの鐘楼です。


12
18世紀中頃、ノヴァーラはサヴォイア家の支配下にありましたが、聖堂に相応しい鐘楼の建設が計画され、サヴォイア家のお抱え建築士ベネデット・アルフィエーリ(ローマ、1699-トリノ,1767)が起用され、1753年に鐘楼の建設が始まりました。


13
しかし、資金不足のため、1773年に工事中断の已む無きに至りました、1780年に漸く工事が再開され、1786年に完成したのです。


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鐘楼の先端に天使像と十字架があります。


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次はクーポラです。


16
クーポラ自体の高さは121mですが、先端に5mの救世主像があるので、全体の高さは126mあるそうです。


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1840年、豊富な食肉税収入を裏付けに壮大なクーポラ建設が決定されました。


18
建築家アレッサンドロ・アントネッリ(ゲンマ、1798-トリノ、1888)に委嘱され、1841年にアントネッリから設計書が出されました。


19
1844年に建設工事が開始されましたが、1846年に土台部分の強度不足が判明して、工事が中止されてしまいました。
1848年に第一次イタリア独立戦争が勃発してしまい、戦費負担のため資金不足となり、クーポラ建設は無期延期となってしまいました。


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1855年、アントネッリは設計変更の計画書を提出しました。独立戦争が終わり、資金不足が解消した1858年に漸く工事が再開されました。その後、工事はイタリア独立戦争の激化などにより度々中断され、1888年に漸く完成しました。


20
クーポラの先端に救世主像(1873)があります。


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拝観します。


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聖堂内に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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右側壁


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光が聖堂内部に入り込んで、明るい。


27
私的には美術的な見所が豊富な教会です。


28
礼拝堂を見ます。


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守護聖人礼拝堂です。


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守護聖人礼拝堂は、タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ、1582-ヴァラッロ、1633)によって1629年から1630年に装飾されました。


31
この「センナケリブの戦い」が有名です。


32
タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ,1582-ヴァラッロ、1633)の「センナケリブの戦い](1629-30)


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タンツィオ・ダ・ヴァラッロによるフレスコ画


36
タンツィオ・ダ・ヴァラッロによる天井フレスコ画


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タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ、1582-ヴァラッロ、1633)の「守護天使」(1629)


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クーポラ


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41
(つづく)

2前泊地はミラノでした。


1
ミラノ中央駅からノヴァーラに向かいました。


3
トリノに向かう列車はかなり混雑していました。


4
ノヴァーラに到着しました。


9
乗降客が多い駅として知られてます。


5
ノヴァーラ駅の駅舎です。


6
駅前広場です。


10
ノヴァーラは、人口101,599人(2022年7月31日現在)のピエモンテ州ノヴァーラ県の県都です。工業都市です。


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駅前公園に立っているガリバルディ像


7
塔が目立ちます。


8
塔のように見えますが、教会の鐘楼とクーポラです。サン;・ガウデンツィオ聖堂のものですが、どこからでも見えるのでノヴァーラの街のシンボルとなってます。


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駅前のホテル荷物を預けました。


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街歩きに出発しました。


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街のシンボルがある聖堂に向かいました。


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ガウデンツィオ・フェッラーリ通りです。


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ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ,1546)は、ルネサンス期にロンバルディア、ピエモンテで活動した画家です。1514年から1521年頃にノヴァーラに滞在して、サン・ガウデンツィオ聖堂やノヴァーラ大聖堂などに作品を残しました。


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ガウデンツィオ・フェッラーリ通りに面して教会が建ってます。


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サンティッシマ・トリニタ教会です。


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17世紀にスペイン人によって建設されたサンティッシマ・トリニタ教会です。


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教会が建設された17世紀は、ノヴァーラはスペインの支配下にありました。


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道幅が狭くなります。


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サン・ガウデンツィオ聖堂はガウデンツィオ・フェッラーリ通りにあります。


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聖堂の手前にMuseoがあります。


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旗が掲げられている建物がMuseoです。


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自然史博物館 Museo di Storia Naturaleです。


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19世紀に建設されたPalazzo Faragginaに博物館があります。


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美術ファンの私にとっては、重要性が薄い博物館です。


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お暇ならば、どうぞ、と言った感じでしょうか?


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この後、サン・ガウデンツィオ聖堂を拝観しましたが、今から始めると中途半端になるので、その2で纏めて触れることにします。


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これは何でしょうか?


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サン・ガウデンツィオ聖堂の拝観を終えて、街の中心に向かいます。


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銀行の建物です。


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中心街にやってきました。


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バールでトイレ休憩しました。


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未だ午前10時前でした。


39
(つづく)

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