イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:ロンバルディア州 > アッビアテグラッソ

1チェントロ・ストーリコに戻りました。


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市壁が撤去されたので、厳密には旧市街が分かりません。


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カステッロに戻りました。


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Piazza Castello


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ピエタのキリストのタベルナコロがあります。


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同じ道を歩いても詰まらないと思いますが、同じ道を歩いてしまいます。


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煉瓦積みの建物はカステッロです。


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この道は既に通りました。


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サンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂の鐘楼


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Corso Italia


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Corso Italiaの柱廊


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市庁舎に来てしまいました。


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駐車場とバスターミナルになっている広場です。


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アンノーニ通りに向かいます。


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Palazzo Annoniです。


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Palazzo Annoniは17世紀に建設されました。


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Palazzo Annoniの横を進みます。


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晴れたり曇ったりの日でした。


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サン・ベルナルディーノ教会の鐘楼


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アーチの道を通りますが、その前にフレスコ画を見ます。


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アーチの前にある建物の壁にあるフレスコ画


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アーチを潜ります。


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市庁舎の前に出ました。


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大体見たようです。


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聖母子があります。


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日帰り遠足が終わりに近づいたようです。


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カステッロを経由して鉄道駅に向かいます。


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カステッロです。


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カステッロ広場にスケートリンクが設けられてます。


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滑っている人はいないようです。


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写真左端にスケート場が写ってます。


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尋ねたいことがあったので、もう一度観光案内所に行きました。


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古いフレスコ画があります。


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これです。


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駅に戻りました。


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(アッビアテグラッソ編 終わり)

1橋にやってきました。


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橋の下には、中世の堀の名残の小さな川が流れてます。


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Corso San Pietroです。


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これを撮っておくと後で参考になります。


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学校です。


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「ベツレヘムの娘たち」と言う私立学校のようです。


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通りの突き当りにサン・ピエトロ・アポストロ教会が建ってます。


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ロンバルド時代の8世紀頃に建設された礼拝堂が前身のようです。


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13世紀に礼拝堂が取り壊され、教会として再建されました。


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現在の建物は、教会としての二代目となるもので、建築家フランチェスコ・クローチェ(ミラノ、1696-1773)の設計によって1753年に創建され、1763年に完成しました。


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バロック様式の建物です。


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修道院が併設されていましたが、18世紀に抑圧され閉鎖となりました。


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簡素な造りと言えるでしょう。


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修道院が併設されていました。


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鐘楼


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バロック様式の内部です。


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クーポラ


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チントラの聖母


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修道院だった建物?が映画館に転用されている?


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街歩きを続けます。


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サンタ・マリア・ヴェッキア教会です。


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機能を停止した旧教会です。


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Corso XX Settembre


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Piazza Guglielmo Marconi


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ピザの遅い昼食を食べました。


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昼食には遅い時間だったので、客は私一人だけでした。


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履いている靴の防水機能がダメなので、運動靴を買わねばなりません。


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堀だった場所は公園になってます。


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こんな所に靴屋があるわけがない!


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靴屋がようやく見つかりました。


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運動靴を買いました。


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靴に慣れるまで大変でした。


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街角のタベルナコロ


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適当に歩き続けました。


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地図を見ないので市壁外に出てしまったようです。


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(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


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ファサード柱廊天井のフレスコ画


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ファサード前に庭が広がり、回廊が庭を囲んでます。


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銘板


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回廊の入り口


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聖堂内部


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三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


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身廊天井の装飾


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回廊の壁にフレスコ画が残されてます。


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ユニークな構造をしているサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


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市庁舎手前に外壁にフレスコ画がある建物があります。


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18世紀に建設された建物ですが、特に名前がないようです。


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街歩きを続けます。


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次は受胎告知修道院教会の複合施設です。


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受胎告知教会です。


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ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(フェルモ、1444-ミラノ、1,476)の命によって建設されました。修道院は1469年に創建され、1472年に完成したそうです。教会の方は1477年に完成し、同年に奉献式が執り行われました。


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1810年に抑圧され、その後、宗教活動が再開されることがありませんでした。
抑圧後、修道院だった建物は病院に改造されました。
複合施設は、1997年にアッビアテグラッソ当局の所有となり、修復工事が行われ2007年に完成しました。現在、展示会、コンサート会場など多目的施設として使用されてます。


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フレスコ画が残されてます。


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レオナルドスキ逸名画家によるフレスコ画(1519)


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かなり見所が豊富な街です。


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この街で最古の柱廊と言われてます。


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天井が木でできてます。20世紀に修復されたので、「最古」感がありません。


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Corso Italia


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市の塔が見えます。


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Corso Italiaを進みます。


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サンタ・マリア・ヴェッキア教会に向かいます。


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(つづく)

1ミラノ郊外には興味深い街が散らばっており見逃せませんが、アッビアテグラッソもそのうちの一つです。


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売れるのでしょうか?


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街の中心では柱廊が多くなります。


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この通りの先にアッビアテグラッソの地下鉄駅があります。


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グリエルモ・マルコーニ広場にやってきました。この広場が街の中心になります。


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グリエルモ・マルコーニ(ボローニャ、1872‐ローマ、1,937)は、無線電話などを開発した発明家で、ノーベル物理学賞を受賞しています。この街とは無関係のようです。


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単にイタリアの偉人ということで広場の名称になったもので、イタリアでは、このようなことはごく普通です。


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マルコーニ広場に面して建つPalazzo Comunaleです。


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市庁舎は17世紀に建設されました。


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現在のファサードは18世紀に建設されたそうです。


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市庁舎に立っている塔は、Torre del Comuneと呼ばれてます。


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Torre del Comuneは、古い中世の塔を17世紀に市庁舎に組み入れられたそうです。


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市庁舎の建物と塔の境目に1623と刻まれているそうです。1623年に中世の塔が市庁舎に一体化されたそうです。


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市庁舎のファサード下の柱廊


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市庁舎近くに2つの教会があります。


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サン・ベルナルディーノ教会に向かいます。


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Chiesa di San Bernardino da Sienaです。


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シエナの聖ベルナルディーノ(マッサマリッティマ、1380‐ラクイラ,1444)は、1431年にアッビアテグラッソに来て、説教をこないましたが、それに感銘を受けた信者などによって15世紀に建設された教会です。


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現在の建物は、17世紀前半に再建された二代目となるものです。


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再建は、当初、建築家アレッサンドロ・マゼンタ(ミラノ、1566-1630)の設計によって1614年に創建されましたが、多忙のためにフランチェスコ・マリア・リチーニに引き継がれ、1631年に完成したそうです。


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ファサードは、フランチェスコ・マリア・リチーニの設計によるものです。


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ファサードの彫刻


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1717年に建設された鐘楼です。


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扉が閉まっていることが多い教会です。


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写真右に別の教会が写ってます。


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サンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


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1962年、第261代教皇ジョヴァンニ23世(ヨハネ23世)(ベルガモ、1881‐ローマ、1963 教皇在位:1958-1963)によってBasilica Minoreに格付けされた、この街で最も格式が高い教会です。地元の人はドゥオーモと呼んでいないようです。


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ミラノ公爵ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(パヴィア、1351‐メレニャーノ、1402)の指示によって1388年に建設されました。


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ファサード上部は、ドナート・ブラマンテ(ウルバニア、1444‐ローマ、1514)の設計によると言われてます。


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ファサードの左右にある柱廊が特徴です。


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鐘楼


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後陣


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写真左がサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂、道路を挟んで右側の建物がサン・ベルナルディーノ教会。道路の突き当りが市役所です。
(つづく)

1この時、ミラノに泊まっていました。ミラノからアッビアテグラッソへの日帰り遠足です。


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ミラノ中央駅からアッビアテグラッソへのFS直通列車はありません。


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地下鉄でミラノ・ポルタ・ジェノヴァ駅に到着しました。


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ミラノ・ポルタ・ジェノヴァ駅出発の列車は汚いことで有名です。


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意外にも車内は改装されて新しくなっていました。


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アッビアテグラッソ駅に到着しました。


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アッビアテグラッソは、人口32,681人(2021年12月31日現在)のロンバルディア州ミラノ県にあるコムーネです。


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アッビアテグラッソ鉄道駅の駅舎です。


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駅前広場


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駅前横に立つガリバルディ将軍像


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大部分埋め立てられた城を囲む堀があります。


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先ずカステッロを見ます。


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写真右にカステッロの入り口があります。


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Castello Visconteoです。


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11世紀にミラノ大司教アリベルト・ダ・インティミアーノ(インティミアーノ、970/980-ミラノ、1045)が築いた城が前身と言われてます。


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1167年、アッビアテグラッソに攻撃を加えた神聖ローマ皇帝フェデリーコ・バルバロッサ(フリードリヒ1世)(ハーゲナウ、1122-キリキア、アルメニア、1190)によって城は破壊され、アッビアテグラッソは征服されてしまいました。


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フェデリーコ・バルバロッサ皇帝の死後、アッビアテグラッソはコルベッタ教区教会(ミラノ公国)領となりました。
1339年、ヴィスコンティ家の当主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ(ミラノ、1290c-1354)がミラノ大司教になると、アッビアテグラッソはヴィスコンティ家の領地となり、同家によって城が修復されました。
1381年、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(パヴィア、1351‐メレニャーノ、1402)は軍事要塞の城から住居用に転用することにして、改造修復工事に着手しました。
1438年、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(ミラノ、1392‐1447)によって城の装飾が開始されたそうです。


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城の入り口


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中に入りました。


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市立図書館と観光案内所があります。


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キオストロの外壁に残されたフレスコ画


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1523年、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ(ミラノ、1495‐ヴィジェーヴァノ、1535)は自分の忠臣でミラノ貴族のピエトロ・プステリアに対してアッビアテグラッソの半分の領地と城を与えたのです。


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しかし、その10年後の1533年、イタリアに攻め入ってきたカール5世(1500‐1558)率いるスペイン軍によってアッビアテグラッソは占領され、以後、スペイン領となりました。


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1668年、ミラノに侵攻してきたフランス軍によって城が占拠され、フランス軍の駐屯地になることを恐れた当局によって城は破壊されてしまいました。


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破壊された城の遺跡は個人の住居に転用されていましたが、1865年に当時の持ち主がアッビアテグラッソ市に寄贈しました。
1995年から本格的な修復工事が始まり、今の姿になりました。


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アーチのフレスコ画


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中世時代の姿とは、かなりかけ離れていると言われてます。


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カステッロから外に出ました。


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ミラノのベッドタウンなので、日中の人通りが少ない街です。


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城壁は残されていないようです。


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街の中心に向かいます。


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(つづく)

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