イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:ヴェネト州 > ロヴィーゴ

1行ったことがあるところばかりに行きます。


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サンタゴスティーノ門


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写真右の煉瓦の壁は市壁です。


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サンタゴスティーノ教会です。宗教活動を停止した旧教会で、建物は催事場などに利用されてます。


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ドゥオーモに向かってます。


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ドゥオーモ


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ドゥオーモ広場


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市の塔が見えてます。


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Palazzo Roverella


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サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会に向かいます。


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サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会


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拝観しました。


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ラ・ロトンダに向かいます。


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広場の先に見えるラ・ロトンダ


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ラ・ロトンダの鐘楼


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拝観したラ・ロトンダ


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やったことはいつもと同じでした。


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二本の塔


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疲れたのでホテルに戻ります。


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ホテルが見えてます。


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ホテルに戻りました。


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ホテルで休憩してから再び外出しました。


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駅近くで買い物


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突き当りが鉄道駅です。


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(ロヴィーゴ編 終わり)

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写真の詳細は(その1)から(その18)に書きましたので、そちらをご参照頂ければ幸いです。


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市庁舎


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Palazzo Roverella


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サン・マルコの有翼のライオン像


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広場の全景


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ファサードなしの教会


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修道院だった建物


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サン・ボルトロ門


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門の壁


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サン・ボルトロ門


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(つづく)

1前泊地はヴェネツィアでした。


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ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅から鉄道でロヴィーゴに向かいました。


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途中、パドヴァ駅で乗り換えです。


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前回から3年後のロヴィーゴ再訪です。


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パドヴァからの列車は非常に空いてました。


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ロヴィーゴ駅に到着しました。


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この日は好天に恵まれました。


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ロヴィーゴ駅の駅舎です。


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この日のお宿に向かいます。


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駅前から延びる道を進みます。


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今回のロヴィーゴの旅の目的は前回と全く同じです。教会巡り、Museo巡り、古い門や塔、建物を見て回ります。


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バスターミナルです。


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突き当りのバスターミナルを右折します。


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旧市街に向かう道です。


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この日のお宿が見えてます。


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1泊の予定です。


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こじんまりした居心地の良いホテルです。
荷物を預けてから街歩きに出発しました。


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塔が見えてきました。


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この辺は市壁外に当たります。


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街は静寂に包まれていました。全くの予想外でした。


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市壁横に城があり、見張り塔になっていた二本の塔です。


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Torre Dona


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Torre Grimani


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市壁内に入りました。


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Corso del Popolo


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Palazzo Roverellaが見えてきました。


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振り返って撮った写真


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ロヴェレッラ宮美術館に入館しました。


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ロヴェレッラ宮美術館から外に出ました。


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市の塔


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旧マッジョーレ広場


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3年前と全く同じです。この全く同じが良いのです。


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(つづく)

1疲れたのでホテルに戻ります。


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ホテルに戻る前に昼食を食べました。


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昼に酒を飲んでご機嫌です。


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旧マッジョーレ広場は素通りです。


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右に進めばラ・ロトンダに出ます。


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この日、観光客は私一人だけのようでした。


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ほろ酔い状態でした。


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昼間から酒を飲むのが大好きですが、トイレが近くなるのが困るところです。


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早くもトイレ休憩。


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突き当りはPalazzo Roverellaです。


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この辺はまだ城壁内です。


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一見、古そうな建物です。


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中世の建物を模して、20世紀に建設された新しい建物です。


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教会が見えますが、今はない城壁の横に建設されたそうです。


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ベアータ・ヴェルジネ・ディ・ポンペイ祈祷所です。地元ではChiesetta della Fossaとも呼ばれてます。


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19世紀末、教区の信者たちからの熱心な新教会建設要望を受けて、サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会の聖職者が建設推進に動いて、実現して、ロヴィーゴの建築家エウジェニオ・ピーヴァ(ロヴィーゴ、1820-1903)の設計によって1900年から1903年にかけて建設されたそうです。


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ファサードの「聖母子」のテラコッタ


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残念ながら見所が乏しいようです。


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中に入りました。


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単廊式の小さな内部です。


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右側壁


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天井


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後陣


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外に出ました。


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駅の方に進みます。


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城壁外に出ました。


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(つづく)

1引き続きベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ教会、通称ラ・ロトンダです。


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ヴェネツィアによるロヴィーゴ支配を称賛する政治的意味合いの強い絵画ばかりです。


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拝観者が少なく、じっくりと鑑賞できます。


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「聖母戴冠」(1651)


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「ポデスタ・ジョヴァンニ・カヴァッリの至福」(1646)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ロッシ(ヴェローナ、17世紀活動)の「ポデスタ・シピオーネ・ボルドゥの至福」(17世紀)


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逸名画家作「羊飼いの礼拝」(17世紀)


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逸名画家作「大天使ガブリエーレ」(17世紀)


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逸名画家作「ロヴィーゴを庇護する聖母子」(17世紀)


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これだけの作品をよく掲げる気になったものだと感心します。


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ピエトロ・デッラ・ヴェッキア(ヴィチェンツァ、1603-ヴェネツィア、1678)の「ポデスタ・ドメニコ・ゼンの至福」


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ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の「ポデスタ・アルヴィーゼ・フォスカリーニの至福」


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ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の「ポデスタ・ザッカリア・ヴェンドラミンの至福」


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逸名画家作「ポデスタ・ピエトロ・モルシーニの至福」(17世紀)


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見終わりました。


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満足しました。


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外に出ました。


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写真右に祈祷所があります。


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ベアータ・ヴェルジネ・デッラ・コンチェツィオーネ祈祷所です。


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13世紀前半、フランチェスコ会修道士によって建設されたサンタ・クローチェ教会が前身です。
15世紀末に受胎同信会 Confraternita della Concezioneに譲渡されました。


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現在の建物は、18世紀に再建された二代目となるものです。
現在の鐘楼は、1793年に建設されました。ファサードは、1888年に再建されました。
(つづく)

1引き続きベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ教会、通称ラ・ロトンダです。


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ジュリオ・チレッロ(パドヴァ、1633-1709)の「ポデスタ・バッティスタ・フォスカリーニの至福」(1678)


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アントニオ・セルヴィの「ポデスタ・ジュリオ・ガブリエルの至福」


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彫刻があります。


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作品が沢山あって、目移りして大変です。


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ジョヴァンニ・ブルネッリ(ヴェローナ、1644/1646-クレマ、1722)の「ご訪問」(1650)


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これらの彫刻は、あまり知られていない彫刻家ダヴィデ・アッリエーティによって制作されたそうです。


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖シモーネ」


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖バルトロメオ」


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖母マリア」


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖ピエトロ」


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「聖母の神殿奉献」(1650)


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出入口扉方向


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扉の上にオルガンがあります。


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このオルガンは、18世紀後半に活動した有名なオルガン制作者ガエターノ・アントニオ・カッリド(エステ、1727-ヴェネツィア,1813)によって1767年に制作されたそうです。


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オルガンの蓋やオルガン周囲の絵画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ノヴェッリ(1592-1631)によって1615年頃に制作されました。


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アントニオ・ブルキエッラーリ(ヴェネト、17世紀活動)の「ポデスタ・ジョヴァンニ・フランチェスコ・サグレドの至福」(1675)


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しかし、アントニオ・ブルキエッラーリが描いたものではなく、ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の作品説が有力となっているようです。


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アントニオ・ザンキ(エステ、1631-ヴェネツィア、1722)の「ポデスタ・アントニオ2世・ロレダンの至福」(1673)


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教会中心の床


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(つづく)

1引き続きベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ教会、通称ラ・ロトンダです。


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現在のクーポラは、1773年から1774年に再建されたものです。


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墓地


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拝観します。


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再び柱廊に入りました。


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サイド扉


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メイン扉


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中に入りました。


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八角形、ルネサンス様式の内部です。


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八面ある壁が絵画と彫刻で装飾されてます。


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美術的に必見の教会です。


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主祭壇


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1607年に制作された主祭壇


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中央の聖母子は、1575年のペスト禍の際、地元の信者たちが礼拝堂に集まり、ペストの平癒を祈ったものです。


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「聖母子」を囲む彫刻は、ジョヴァンニ・カラッキオによって1607年に制作されました。


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ジョヴァンニ・カラッキオの「天使」


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ジョヴァンニ・カラッキオの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


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ジョヴァンニ・カラッキオの「聖フランチェスコ」


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主祭壇の蝋燭立て


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クーポラ


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現在のクーポラのフレスコ画は三代目に当たります。


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創建時のクーポラにもフレスコ画がありましたが、クーポラに構造上の問題が生じて、クーポラが1773年から1774年に再建されました。再建されたクーポラには「ご訪問」のフレスコ画が描かれたそうです。
1866年、第三次独立戦争の際、オーストリア軍の爆撃によってクーポラのフレスコ画が落剝してしまいました。1887年に新たに制作されたフレスコ画が現在のものです。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ・ブレッサニン(ムジーレ・ディ・ピアーヴィ、1860-ヴェネツィア、1941)の「助けの聖母の奇跡」(1887)


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次は壁の作品です。
ジョヴァンニ・コリ(ルッカ、1636-1691)とフィリッポ・ゲラルディ(ルッカ、1643-1704)の「聖母被昇天」(17世紀)
ジョヴァンニ・コリとフィリッポ・ゲラルディは、ルッカの画家であるピエトロ・パオリーノに学んだ兄弟弟子で、ルッカでは二人で協力して制作に当たりました。


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逸名画家作「エジプトへの逃避」(17世紀)


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逸名画家作「ポデスタ・ベネデット・ツォルツィの至福」(1655)


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「ポデスタ・サンテ・モーロの至福」(1653)


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教会内部の床


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(つづく)

19月20日広場に面して教会が建ってます。


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ベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ寺院(教会)です。


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八角形の教会であることから、ラ・ロトンダと呼ばれてます。単にロトンダと呼ぶ人も多いようです。


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サン・フランチェスコ修道院教会の修道院(取り壊されて現存していません)だった庭を囲む壁に沿って建設されました。


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サン・フランチェスコ教会修道院の修道院の隣に聖母を祀る小さな礼拝堂があり、1575年のペスト大流行の際、ペスト禍終息を願う多くの信者を集めました。
ペストの流行が収まると、聖母の導きによってペスト禍克服が出来たということで、礼拝堂ではなく教会を建設して助けの聖母への感謝を行うべきとの運動が起きました。


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その運動を受けて、当時のアドリア司教ロレンツォ・ラウレティ(1534-1598)が教会建設を決め、建築家フランチェスコ・ザンベルラン(バッサーノ・デル・グラッパ、1529-1606c)の設計によって、1594年に創建され、1606年に完成したルネサンス様式の八角形の教会です。
フランチェスコ・ザンベルランは、パッラーディオの弟子で、パッラーディオの協力者且つ友人でした。


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教会の建設資材として、ロヴィーゴ郊外に流れるアディジェ川に架かる、使われてない古橋の石材や市壁の一部の煉瓦が使用されたそうです。


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八角形の平面構造の内部は、穀物貯蔵や避難所として有用とされました。1882年のアディジェ川大洪水の際には、犠牲者の遺体安置所として使用されたそうです。


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教会本体を囲んで柱廊が設けられてます。


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柱廊です。


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ナポレオンのイタリア侵攻に伴って、ロヴィーゴの修道院や教会の多くが抑圧閉鎖されましたが、それら閉鎖された修道院や教会から集められた碑文、モニュメント、彫刻などが、この柱廊に集められました。


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それらの殆どが博物館に移されましたが、今でも柱廊に残されているものがあるのです。


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勿論、元々この教会にあったものも柱廊の壁にあります。


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紋章


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墓石


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墓石の紋章


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墓石


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紋章


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記念碑


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記念碑の胸像


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記念碑


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記念碑の胸像


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碑文


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サン・バルトロメオ修道院の碑文
サン・バルトロメオ修道院は19世紀前半に破壊されました。


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紋章


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彫刻


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碑文


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柱廊の天井


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柱廊については、このぐらいにしておきましょう。


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次は鐘楼です。


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長らく修復工事が行われていました。


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修復工事後の姿です。


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高さが57mあります。


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ヴェネツィアの建築家バルダッサーレ・ロンヘナ(ヴェネツィア、1596/1597-1682)の設計によって、1665年に建設工事が始まりましたが、工事は数回中断して中々完成しませんでした。
18世紀後半に元の設計図の通りに工事が再開され、1774年に漸く完成したそうです。


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(つづく)

1引き続きサンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。


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サン・ロレンツォ礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・マリア・モルライター(ヴェネツィア、1699-1781)の「聖ロレンツォ」


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ジョヴァンニ・マルキオーリ(カヴィオラ、1696-トレヴィーゾ、1778)の作品説も有力です。


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次の礼拝堂です。


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ピエトロ・アントニオ・ノヴェッリ(ヴェネツィア、1729-1804)の「神殿奉献」(1759)


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ペンテコステ礼拝堂です。


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ジローラモ・ダ・カルピ(フェッラーラ、1501-1556)の「聖霊降臨」


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Presbiterio


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詳細不知(私がです)の主祭壇画


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Presbiterio左側壁の作品(詳細不知)


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Presbiterio右側壁の作品(詳細不知)


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後陣左の礼拝堂


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古いフレスコ画が残されてます。


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ゴシック様式のフレスコ画


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フレスコ画の制作者は不明のようです。


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次の礼拝堂です。


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フェリーチェ・ボスカラーティ(ヴェローナ、1721-ヴェネツィア、1807)の「コペルティーノの聖ジュゼッペ」(1750)


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アントニオ・ザンキ(エステ、1631-ヴェネツィア、1722)の「幼きキリストを抱く聖ジュゼッペ」(17世紀後半)


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ジョヴァンニ・ファソラート(パドヴァ、17‐18世紀活動)の「パドヴァの聖アントニオ」(1691)


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ピエタ礼拝堂です。


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トゥーリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1460-1532)の「ピエタ」(1526)


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トゥーリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1460-1532)の「聖ステファノ」(1526)


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トゥーリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1460-1532)の「聖ベッリーノ」(1526)


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次の礼拝堂です。


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ピオ・プッリーニ(アンコーナ、1887-ローマ、1955)の「カスチャの聖リータ」(1927)


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ピオ・プッリーニ(アンコーナ、1887-ローマ、1955)の「リージュの聖テレーザ」(1927)


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外に出ます。
(つづく)

1引き続きサンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。


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司祭館の続きです。


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司祭館は16世紀前半に建設されました。


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司祭館は、13世紀中頃に建設された修道院の一部がもとになってます。


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壁の紋章


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司祭館の入り口


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煉瓦積み


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もう一つの入口扉


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司祭館はこのぐらいにします。


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拝観します。


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中に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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1853年から1896年に大改造されたので、新しく見えます。


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装飾がない天井


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見所は祭壇画と彫刻でしょう。


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洗礼礼拝堂です。


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Maestro dei Dodici Apostoliの「キリストの洗礼」(1542)


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聖母礼拝堂です。


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ドメニコ・パネッティ(フェッラーラ、1460c-1513)の「玉座の聖母子と聖ピエトロと聖アンドレア」(1505)


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聖水盤


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聖痕を受ける聖フランチェスコのステンドグラス


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(つづく)

1次はサンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。


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劇場だったと思います。


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サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。
この場所には、サン・フランチェスコ修道院教会の複合施設がありました。別の場所にあったサンタ・ジュスティーナ教区教会が取り壊されることになったので、教区がサン・フランチェスコ教会に移されると共に、現在の教会名に変更された歴史があります。


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13世紀中頃、現在の司祭館がある場所にサン・フランチェスコ修道院が建設されました。
当時、ロヴィーゴはエステ家の支配下にありましたが、フェッラーラ侯爵オビッツォ2世・デステ(ナポリ、1247/1252‐フェッラーラ、1293)の指示によって、修道院に隣接して教会が建設されることになり、1297年から1300年にかけてゴシック様式のサン・フランチェスコ教会が建設されました。


5
1413年、拡大工事が行われ、礼拝堂が5つ増えたそうです。
1533年、後陣が拡大され、ほぼ現在の構造になりました。


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1797年、ナポレオンのイタリア侵攻によって、サン・フランチェスコ修道院教会の複合施設は抑圧され、修道士が追放されると共に使用禁止となりました。
1799年、教会は活動再開が許されましたが、修道院は閉鎖されたままで、その建物は他用途に転用され荒廃が進みました。


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一方、サンタ・ジュスティーナ教区教会は、かってのエステ家宮殿の隣の、現在のガリバルディ広場にあって、1195年の創建と言われてます。1206年の文書に、サンタ・ジュスティーナ教区教会の存在が初めて記されたそうです。
エステ家宮殿は、16世紀初頭にヴェネツィア共和国によって破壊され現存していません。
サンタ・ジュスティーナ教区教会は1725年に再建されました。


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1797年、ナポレオンのイタリア侵攻に伴って、サンタ・ジュスティーナ教区教会は閉鎖されてしまいました。
その後、サンタ・ジュスティーナ教会が建っている場所が現在のガリバルディ広場に組み入れられることになり、サンタ・ジュスティーナ教区教会はその活動が再開されることはなくなり、1806年に教区の所在地がサン・フランチェスコ教会に移転することになりました。移転に伴って、サンタ・ジュスティーナ教区教会にあった宝物や由緒ある墓などもサン・フランチェスコ教会に移され、現在の教会名に変更されたのです。
旧サンタ・ジュスティーナ教区教会の建物は、1809年に広場を造るべく完全に取り壊されました。


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1827年から1837年に大改造工事が行われ、現在の建物の外観となりました。
現在のファサードは、1853年から1896年に新たに建設されたもので、16世紀に改造された教会の左側にあった墓地だった場所に建てられたそうです。


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ファサードの紋章


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ファサードの柱頭


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ファサードの装飾


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ファサードに向かって左側壁


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現在のファサードに向かって右側に、旧ファサードがあります。


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旧ファサードの入り口


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旧ファサードの壁


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旧ファサードの窓


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旧ファサードにあった彫刻が残されてます。


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劣化が相当進んでます。


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左側壁から現ファサード


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後陣


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鐘楼と後陣


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1533年に拡大されて現在の後陣の大きさになったそうです。


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現在の鐘楼は1520年に建設された二代目となるものです。


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鐘楼の窓


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ファサードに向かって左側に司祭館があります。


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司祭館は左翼廊に接して建ってます。


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(つづく)

1次はサンタントニオ・アバーテ教会です。


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写真左の建物がサンタントニオ・アバーテ複合施設です。


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複合施設は、病院、修道院、教会から成ってますが、こちらは修道院と病院の入り口でした。


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サンタントニオ・アバーテ教会です。


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キオストロです。


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1413年に建設されたサンタントニオ・アバーテ病院がありましたが、病院内に設けられた礼拝堂が教会の前身です。


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15世紀末、病院は火災によって建物の一部を焼失してしまいました。その後、病院は消失しなかった部分を改修されると共に再建されましたが、教会が1505年から1516年に病院に隣接して建設されました。


8
1542年、病院と教会はドメニコ会修道士に委託されるようになり、病院の一部が修道院として使用されるようになると共に修道院独自の建物が新たに建設されました。
教会は、ドメニコ会によって1543年に奉献式が執り行われました。その後、教会はサン・ドメニコ教会と別称されるようになりました。


9
1770年、ヴェネツィアの宗教方針によって抑圧され、ドメニコ会修道士がロヴィーゴから去りました。18世紀末、ナポレオンのイタリア侵攻に伴い、サンタントニオ・アバーテ複合施設は閉鎖されました。1810年、複合施設はオーストリアに没収され、オーストリアの国有財産となりました。
1815年に教会だけが活動を許されましたが、修道院と病院は再開されることなく、兵舎や倉庫などに転用されました。


10
メインの入口扉です。こちらの扉は通常使用されないようです。


11
メインの入口扉上に彫像があります。


12
ベルナルド・ファルコーネ(ビッソーネ、1620c-1696c)の「聖アントニオ・アバーテ」


13
ドアノブ


14
入口扉がもう一つあります。


15
こちらの扉が通常、使用されているようです。


16
扉上の紋章


17
鐘楼


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20
毎日扉が開くので拝観し易い教会です。


21
中に入りました。


22
翼廊がない単廊式、ルネサンス様式の内部です。


23
祭壇画や彫刻を見て回ります。


24
セバスティアーノ・ジュゼッペ・デ・ヴィータ(ヴェネツィア、1740-1797)の「ドメニコ会聖人たちの勝利」(1770)


P1010385


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26
ジョヴァンニ・セガーラ(ムラーノ、1662-ヴェネツィア、1717)の「割礼」(17世紀)


27
ヴェネツィア派画家と記されてますが、ジョヴァンニ・セガーラの作品です。


28


29
ヴェネツィア派画家による「ロザリオの聖母」(16世紀)
コッレッジョ(コッレッジョ、1489-1534)の作品説が有力です。


30


31


37
次は彫刻です。


32
ピエトロ・バラッタ(カッラーラ、1668-1729)の「聖バルバラ」


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36


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制作者情報等詳細不知の「聖アントニオ・アバーテ」


35


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1912年に制作されたオルガン


39
外に出ます。


40
(つづく)

1引き続きロヴェレッラ宮美術館です。


2
ダニエーレ・ヴァン・デン・ダイク(アンヴェルサ、1610-マントヴァ、1670)の「男の肖像」


3
ジュゼッペ・アントニオ・ファブリーニ(フィレンツェ、1748-1795以降没)の「男の肖像」


4
セバスティアーノ・マッツォーニ(フィレンツェ、1611-ヴェネツィア、1678)の「ロトの娘」


5
エリザベッタ・マルキオーニ(ロヴィーゴ、17-18世紀活動)の「花の二天使」


6


7
近代画の展示


8
詳細不知


9
クゥリツィオ・ディ・ジョヴァンニ・ダ・ムラーノ(ヴェネツィア、1460c-1478c活動記録)の「聖ルチアの物語」


10


11


12
ヒエロニムス・ヤンセンス(アンヴェルサ、1624-1693)の「集会」


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現代画の展示


37


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39


40
ヴェネツィア派の作品が充実してます。


13
美術館は終わりです。


14
Torre Pighin


15
市壁内に残る唯一の塔です。


16
1138年に建設された市壁に設けられた塔です。市域が拡大されると共に1138年の市壁は破壊されましたが、この塔だけは防衛力強化のために維持・増強されました。


17
高さが23mあります。


18
ヴェネツィアの支配下、防衛上の塔の必要性が徐々に薄れ、18世紀に住宅に転用されました。


19
塔は荒廃して20世紀前半に放棄されましたが、第二次世界大戦後に修復されて現在の外観となりました。


20
もう一つの門に向かいます。


21
近代的な柱廊


22
門が見えてきました。


23
門前は公園になってます。


24
サン・ボルトロ門です。


25
城壁に現存する2つの門のうちの一つです。


26
1482年から1486年に建設されました。


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28


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門の天井


31
門を潜りました。


33


32
(つづく)

1引き続きロヴェレッラ宮美術館です。


2
部屋のフレスコ画


3
部屋の天井


4
フレスコ画の詳細については全く知りません。


5


6


7
展示はヴェネツィア派画家たちの作品が多い。


8
ジョヴァンニ・ベッリーニ(ヴェネツィア、1427/1430c-1516)の「聖母子」(1470c)


9


10
ジョヴァンニ・ベッリーニ(ヴェネツィア、1427/1430c-1516)の「十字架を担ぐキリスト」(1510c)


11
パルマ・イル・ヴェッキオ(シエナ、1480?-ヴェネツィア、1528)の「キリストの鞭打ち」(1525)


12
パルマ・イル・ヴェッキオ(シエナ、1480?-ヴェネツィア、1528)の「聖母子と聖ジローラモと聖エレーナ」(1510-20c)


13
ニッコロ・ディ・ピエトロ(ヴェローナ?、1394-1430活動)の「聖母戴冠」


17


14
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(ピエーヴェ・ディ・カドーレ、1490c-ヴェネツィア、1576)の「若い農民」(1510c)


15
ジローラモ・ダ・サンタクローチェ(ベルガモ、1480-ヴェネツィア、1556)の「聖母子と聖人たちと寄進者」(1510-20c)


16
ヤコポ・ダ・ヴァレンツァ(ヴェネト、1485-1509活動)の「幼きキリストを崇める聖母」


18
ニコロ・ロンディネッリ(ラヴェンナ、1468c-1520c)の「聖母子」


19


20
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「ガスパーレ・カンポ伯爵の肖像」(1740)
ガスパーレ・カンポ伯爵は、Accademia dei Concordiの創設者です。


21


22
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


23
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「男の肖像」


24
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「聖ガエターノ」


25
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピットーニ(ヴェネツィア、1687-1767)の「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」


26


27
ルカ・ジョルダーノ(ナポリ、1634-1705)の「Ulisse e Calipso」(1675c)


28
ピエトロ・ネグリ(ヴェネツィア、1628-1679)の「Rebecca riceve doni da Abramo」(17世紀)


29
ヴェネトの逸名画家作「聖ジローラモ」(14世紀)


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33
ミケーレ・ダ・フィレンツェ(フィレンツェ、1385-1455)の「聖母子と四聖人のポリッティコ」(1441c)


34
聖母子


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ジャンバッティスタ・ティエポロ(ヴェネツィア、1696-マドリッド、1770)の「アントニオ・リッコボーノの肖像」


37


38


39
ジュゼッペ・ノガーリ(ヴェネツィア、1699-1763)の「男の肖像」


40
アレッサンドロ・ロンギ(ヴェネツィア、1733-1813)の「男の肖像」
(つづく)

1旧マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に面して建つPalazzo Roverellaです。


2
フェッラーラ貴族のロヴェレッラ家出身のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿(ロヴィーゴ、1406-ローマ、1476)が1474年に建設の注文を行った邸宅です。


3
設計はフェッラーラの建築家ビアージョ・ロセッティ(フェッラーラ,1447c-1516)と言われてますが、それを裏付ける記録が残されていないようです。しかし、それでもロセッティの設計説が信じるに足ると言われてます。
注文後、建設工事は直ぐに着工されたものの、バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿が1474年に死去してしまったので、1477年に工事中断となってしまいました。フェッラーラのロヴェレッラ家が工事再開を望み、15世紀末にルネサンス様式のPalazzo Roverellaが完成しました。


4
16世紀後半、Palazzo Roverellaはロヴェレッラ家の所有から離れ、建物は分割所有されて様々な用途に使用されました。そのため、建物は改造され、不適切な使用によって劣化が進んだそうです。


5
第二次世界大戦直後にファサードの修復が開始されましたが、それ以外の部分は放置され、更に荒廃が進みました。


6
1985年、ファサード以外の部分の修復が立案されましたが、資金難のために実行されませんでした。
2000年、ロヴィーゴ市、銀行と財団によって修復工事が開始され、2010年に一応の完成を見ました。しかし、更なる修復工事が必要とされる箇所があると言われてます。


13
広場に面した柱廊


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壁にある銘板


15


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「聖母子と聖ベッリーニの浮彫」


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劣化している柱廊天井


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更なる修復が必要とされてます。


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紋章と浮彫


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柱頭


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中庭


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7
Palazzo Roverellaは美術館になってます。


8
便宜上レヴェレッラ宮美術館としましたが、正式名称はPinacoteca dell’Accademia dei Concrdi e del Seminario Vescovileとなってます。
司教神学校の所有作品約200点がAccademia dei Concordiに委託され、Accademia dei Concordiの所有作品と共に展示されてます。


9
美術館の入り口です。


12
中に入りました。


10
切符売り場


11
Accademia dei Concordiの所有作品が多過ぎて、限られた展示スペースでは展示しきれないので、展示作品が頻繁に変わります。
中は写真不可となってます。
(つづく)

1引き続き旧称マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に面した建物です。


2
次はPalazzo Bosiです。


3
18世紀に建設されました。


5
薬屋がPalazzo Bosiを使用していました。


6
薬屋は閉店となりました。


4
現在はAccademia dei Concordiが所有する美術品の美術館になってます。それに伴って薬屋が閉店となったようです。


7
Palazzo Cezzaです。


8
旧マッジョーレ広場に面する建物は柱廊で繋がってます。


9
次はサン・マルコの柱の後方に映っている建物です。


10
Palazzo del Corpo di Guardiです。


11
ロヴィーゴがオーストリアの支配下にあった時代、オーストリア軍の兵士がロヴィーゴに駐屯していました。兵士は各地に分散していましたが、それらを一か所に纏めて兵士を駐留すべきの考えのもとに建設されたのが、この建物です。


12
建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・メデューナ(ヴェネツィア、1800-1886)の設計によって、1853年から1854年に建設されたPalazzo del Corpo di Guardiです。
メデューナはヴェネツィアのフェニーチェ劇場を設計したことで有名です。


13
現在、Palazzo del Corpo di Guardiは会議室や展示会など多目的に使用されてます。


14


15
Palazzo del Corpo di Guardiの装飾です。


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Palazzo内のあちこちに、このPalazzoに関する銘板や胸像などが置かれてます。


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33
次は城門です。


31
ロヴィーゴの市域を囲む城壁(市壁)は、12世紀から14世紀に築かれましたが、ロヴィーゴに通じる主要道路に城壁を管理する門が設けられました。サンタゴスティーノ門も、その内の一つです。


32
現在のサンタゴスティーノ門は1713年に再建されたものです。


34


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38
サンタゴスティーノ門の横に城壁が残されてます。


39


40
(つづく)

1引き続き旧マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場です。
この辺では、Piazza Omonimaと呼ばれているようです。


2
広場にジュゼッペ・ガリバルディのモニュメントがあります。


3
彫刻家エットーレ・フェッラーリ(ローマ、1845-1887)の「ジュゼッペ・ガリバルディのモニュメント」(1887)


4
エットーレ・フェッラーリは、政治家でもありましたが、イタリア統一を強く支持してガリバルディ将軍に心酔していたそうです。


5
モニュメントの土台


6


7
ロヴィーゴのこの騎馬像は、エットーレ・フェッラーリの代表作です。


8


9


10


11


12
次はPalazzo Roverellaです。


13
エステ時代の代表的な建物です。


14
エステ家がロヴィーゴを支配していた時代の1474年、フェッラーラの帰属ロヴェレッラ家出身のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿(ロヴィーゴ、1406‐ローマ、1476)(次に彼の肖像画を載せておきます)に建設されました。


15
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピットーニ(ヴェネツィア、1687-1767)の「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」


16
Palazzo Roverellaは、絵画館になってます。「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」はこの美術館で展示されてます。


17
絵画館については、項を改めて触れることにします。


18
旧マッジョーレ広場に面して建つ建物を続けます。


19
Palazzo dell Accademia dei Concordiです。


20
ガスパーレ・カンポ伯爵が自宅として1580年に建設しました。


21
ガスパーレ・カンポ伯爵は、人文学に通じた文化人でしたが、この邸宅に地元や近隣の学者や文化人を集めて、文学、音楽、美術などについて話し合ったそうです。


22
ガスパーレ・カンポ伯爵の死後もカンポ家は文化を愛し、カンポ家は17世紀後半まで地元と近隣の文化的活動の中心を担ったそうです。
カンポ家がロヴィーゴを去ると、その文化的活動はヴェネツィア共和国に引き継がれ、旧カンポ家邸宅はその活動の本拠地となりました。


23
Palazzo dell Accademia dei Concordiの銘板
ヴェネツィア共和国がナポレオンによって滅亡すると、この場所における活動が衰退しましたが、1814年、遂に活動停止、終了してしまいました。


24
しかし、1836年、ロヴィーゴ市主導のもとにAccademia dei Concordiが設立され、その本拠地がこの場所に置かれるようになりました。


25
Palazzo dell Accademia dei Concordiの入り口
現在、この建物は29万点の文書を有する図書館でもあり、400点強の美術品を保有する美術館として一般公開されてます。


26
図書館と美術館の入り口


27
カンポ家の紋章


28
美術部門の展示作品


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30
作品帰属が全く分かりません。


31
詳細不知の肖像画


32
詳細不知の胸像


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37
広場の名称の境界が良く分かりません。


38
ロヴィーゴは、あまり知られていないようですが、見所豊富な街です。


39


40
(つづく)

1
ポポロ大通りです。


2
街角のタベルナコロ


3
ポポロ大通りを左折して広場に向かいます。


4
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場です。


5
長らくマッジョーレ広場と呼ばれていましたが、イタリア統一後に名称が改められました。


6
広場にヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメントがあります。


7
ジュリオ・モンテヴェルデ(ビスターニョ、1837‐ローマ、1917)の「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント」(1881)


8
ジュリオ・モンテヴェルデの「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント」はイタリア各地にありますが、ロヴィーゴのものはその最初に制作されたものです。


9
「サン・マルコの柱」です。


10
ヴェネツィアのシンボル「有翼のライオン像」


11
1482年、ロヴィーゴはヴェネツィア征服され、ヴェネツィア領に編入されました。


16
有翼のライオン像の土台


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12
土台の紋章


13
1519年、ヴェネツィア領を示す「有翼のライオン像」がこの場所に造られました。


18
18世紀末にナポレオンのイタリア侵攻まで、ロヴィーゴはベネツィア領でした。


19


14
広場に面して塔が建ってます。


15
市の塔 Torre Civicaです。


20
時計塔にもなってます。


21
ピエトロ・プッティーニの設計によって1763年から1769年に建設されたそうです。


22
鐘楼


23
1790年に時計が追加されました。


24
Torre Civicaの銘板


25
市の塔がある建物が市庁舎です。


26
1428年から1429年に建設されたPalazzo Nodariが市庁舎になってます。


27


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聖母子像があります。


29
ジュリオ・マウロの「聖母子」(16世紀)


30
Palazzo Nodariを見ます。


31
ダンテの浮彫があります。


33
Palazzo Nodariの壁にある紋章


32
Palazzo Nodariのロッジャ


34
市庁舎内に小美術館?があります。


35
これらの作品については全く知りません。


36


37


38


39


40
(つづく)

1引き続きロヴィーゴのドゥオーモです。


2
聖堂内に入りました。


3
単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


4
礼拝堂を結ぶ通路が左右にあるので、三廊式の変形と言ってもおかしくないと思います。


5
礼拝堂を見て回ります。


6
「マドンナ・デッレ・グラツィエ」(15世紀)


7
ロレンツォ・マスゥッチ(ヴェネツィア?、1726-ローマ、1785)の「磔刑」(1772)


8


9


10
Fra Santo de Venezia(ヴェネツィア派領域の逸名画家)の「パドヴァの聖アントニオ」(1651)


11


12
次の礼拝堂です。


13
パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1549-1628)の「贖いのキリストと二聖人」


14


15
Presbiterio


16
1858年制作のオルガン


17
詳細不知


18
アンドレア・ミキエーリ通称アンドレア・ヴィチェンティーノ(ヴェネツィア、1542c-1618)の「カルメロの聖母」(16世紀)


19


20


21


22
フランスの逸目画家作「聖会話」(17世紀)


23


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25
「アンドレア・アヴェッリーノに顕現する聖母」


26


27


28
パルマ・イル・ジョーヴァネの作品をもう一度見ました。


29
次の礼拝堂です。


30
パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1549-1628)の「マギの礼拝」


31


32


33


35
詳細不知


34
カウンターファサード


36
外に出ました。
(つづく)

1次はドゥオーモです。


2
通りの突き当りの建物がドゥオーモです。


3
ロヴィーゴのドゥオーモ Basilica Concattedrale di Santo Stefano Papa e Martireです。
アドリア・ロヴィーゴ司教区の司教座教会ですが、何故かConcattedraleです。


4
8世紀から9世紀に建てられたサント・ステファノ教区教会が前身ですが、964年の文書に初めてサント・ステファノ教区教会の存在が記されたそうです。


5
1067年から1073年に再建されロマネスク様式の建物になりました。


6
ロヴィーゴの直ぐ傍に流れるポー川の度重なる洪水と洪水に伴う土砂の堆積によって建物が劣化したので、15世紀半ばに再建され三番目の建物となりました。1461年に三番目の建物の奉献式が執り行われたそうです。
1630年頃に5つの礼拝堂が追加増築され、教会の規模が大きくなりました。


8
しかし、17世紀末にはポー川の洪水などによって、建物が劣化して深刻な状態となりました。
1691年、当時の司教が市当局に再建の提議を行い、それを受けて四番目の建物が建設されることになりました。


P1960072
貴族で伯爵位を持つ建築家ジェロラーモ・フリギメリカ(パドヴァ,1653-モデナ、1732)の設計によって、1696年から1791年に建設された四番目の建物が現在の姿の原形となってます。
建物の一応の完成を見た1711年に奉献式が執り行われました。


9
ファサードは1825年に設計されましたが、工事未着工のまま放置され、煉瓦積みのまま現在に至ってます。


10


11
入口扉上のキリストの彫刻


12


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入口扉上


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クーポラと鐘楼


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鐘楼


17


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鐘楼


19
鐘楼の窓


20


21
鐘楼に接して映画館があります。


7
後陣


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後陣の窓


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右側壁


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左側壁


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33
ファサード側に回ります。


34
毎日開くので、拝観し易いと思います。


35
聖堂内に入ります。
(つづく)

1前泊地はモンタニャーナでした。


2
モンタニャーナのドゥオーモにあるジョルジョーネのフレスコ画を楽しみました。


3
ジョルジョーネにはいつも圧倒されます。


4


5
モンタニャーナから鉄道で次の目的地ロヴィーゴに向かいました。


6
途中のモンセリーチェ駅が乗り換えました。


7
モンセリーチェ駅からロヴィーゴ駅に向かう列車は非常に空いてました。


8
ロヴィーゴ駅に到着しました。


9
ロヴィーゴは、人口49,976人(2022年10月31日現在)のヴェネト州ロヴィーゴ県の県都です。


10
ロヴィーゴ駅の駅舎


11
駅前広場


12
この日のお宿は駅近くのこのホテルです。


13
ホテル前にあるマドンナ・ペッレグリーナ・エ・サンティラリオ聖域教区教会です。


14
教会前にバスターミナルがあります。


15
この場所には、マルタ騎士団の古い病院がありましたが、1860年に取り壊されたそうです。


16
1949年、当時のロヴィーゴ司教は、古い病院の跡地を聖域と定め、新教会の建設を決めました。


17
そうして1951年に創建され、1957年に完成したのがマドンナ・ペッレグリーナ・エ・サンティラリオ聖域教区教会です。


18
中に入りました。


19
単廊式の現代的な内部です。


20
装飾が殆どなく簡素です。


21
右側壁


22
天井


23
注目すべき作品はこの一点だけ。


24


25


26
チェントロ・ストーリコに向かいました。


27
旧市街の入り口の目印となっている塔の先端が見えてきました。


28
城壁(市壁)内に入りました。この街の市壁はその殆どが取り壊されました。


29
城壁に築かれた監視塔、砦が僅かに残されてます。
写真左がTorre Dona、右がTorre Mozza(Torre Grimani)です。


30
Torre Mozza


31
高さ21.26mです。元々はTorre Donaと同じ高さだったと言われてます。


32
ロヴィーゴの城壁は、1139年から1160年に築かれましたが、13世紀から14世紀にかけてエステ家によって拡張整備されました。


33
Torre Dona


34
高さが51.26mあります。


35
Torre Donaの土台


36
Torre Donaの入り口


37
Torre Donaの窓


38
エステ家支配の後、ロヴィーゴはヴェネツィア共和国領となりました。ヴェネツィア領時代になると、城壁の必要性は薄れていきました。


39


40
(つづく)

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