イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: カラヴァッジョの足跡と作品を訪ねて

足跡を辿って 22.死の前後と死後
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カラヴァッジョの死の直前に、ナポリでは副王の交代がありました。


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エル・グレコ(ビジャロン・デ・カンポス、1553-マドリッド、1621)の「ファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラの肖像」

1603年4月6日にナポリ副王としてナポリに赴任してきたべネベンテ伯爵ピメンテル・エンリケス(ファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラは、任期を終えて、1610年7月13日にスペインに向かいました。その際、カラヴァッジョの三作品を携えて帰国しました。その三作品は、「聖アンドレアの磔刑」、「聖ジェンナーロ」、「洗足式」と言われてます。聖ジェンナーロはナポリの守護聖人です。
「聖ジェンナーロ」と「洗足式」の二作品は失われて現存しません。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖アンドレアの磔刑」
ナポリ副王ピメンテル・エンリケスが帰任の際にスペインに持ち帰った可能性が高いと言われている作品です。


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逸名画家作「レモス伯爵ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(レモス、1576-マドリッド、1622)の肖像」

ピメンテル・エンリケネスの後任ペドロ・フェルナンデス伯爵は、任地ナポリに1610年6月26日に到着しましたが、プローチダ島に移り、交代の日である1610年7月13日までプローチダ島に待機していました。


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写真はナポリの王宮です。

1610年7月13日、レモス伯爵ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロは、総督としてナポリに入城しました。

詩人兼法律家で、カラヴァッジョの法律関係のゴタゴタをサポートしたマルツィオ・ミレージ(ローマ、1570c-1637)は、カラヴァッジョの死亡日を1610年7月18日と日記に書きましたが、後にカラヴァッジョの碑文にも死亡日1610年7月18日と記しました。


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ローマにあるPalazzo della Rovereです。ローマにおけるウルビーノ公国の公邸でした。


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フェデリーコ・バロッチ(ウルビーノ,1535c-1612)の「ウルビーノ公フランチェスコ・マリア2世・デッラ・ローヴェレ(ペーザロ,1549-ウルバニア、1631)の肖像」


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写真はウルビーノです。

駐ローマのウルビーノ大使は、ウルビーノ公国宛に1610年7月28日付と1610年7月31日付の二通の報告書を送りました。それら二通の報告書にはカラヴァッジョの死の状況が詳述されてます。28日付の書簡には、カラヴァッジョがポルト・エルコレで熱病で病死したことが、31日付では、恩赦を受けたのでナポリからローマに向かったが、その途中で死亡したと書かれてます。


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オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「シピオーネ・カッファレッリ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」

1610年7月下旬、カラヴァッジョの死の情報を聞いた、ローマにいたボルゲーゼ枢機卿は、ナポリ王国の使徒公使でカゼルタ司教でもあったデオダート・ジェンティーレ宛に書簡を送り、カラヴァッジョが自分用に制作したとされる作品がどうなっているかと問い合わせを行いました。


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カゼルタヴェッキアにあるサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会です。
カラヴァッジョが生存していた時代、カゼルタの中心地は現在のカゼルタから離れたカゼルタヴェッキアにありましたが、当時、司教座はこの教会に置かれていました。シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿からカラヴァッジョ作品の問い合わせを受けたデオダート・ジェンティーレ司教は、この教会を管理していました。
司教兼使徒大使デオダート・ジェンティーレがボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月29日付の手紙が残されており、「カラヴァッジョはナポリから船でローマに向かい、パロに上陸したが、そこで不慮の事故で投獄されました。カラヴァッジョは最終的にポルト・エルコレで死亡した。カラヴァッジョ作品を載せた船はナポリに戻り、ナポリのPalazzo di Cellammareにいたカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの元に戻されました」と報告しました。
さらに、デオダート・ジェンティーレ司教は、ボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月31日付の追伸を書き、その中で「カラヴァッジョの作品は最早Palazzo di Cellammareになく、マルタ騎士団のカプア修道院長ヴィンチェンツォ・カラファの手元で保管されてます。」と報告しました。
ヴィンチェンツォ・カラファは、名門貴族カラファ家の一族で、第3代ルーヴォ伯爵ファブリツィオ・カラファ(1515-1554)の次男です。

カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナは、1610年7月20日頃、ナポリのPalazzo di Cellammareを離れ、ローマに向かいました。

ボルゲーゼ枢機卿は、デオダート・ジェンティーレ司教を介して、ヴィンチェンツォ・カラファに対して、カラヴァッジョ作品の所持希望を伝えました。

デオダート・ジェンティーレ司教は、ボルゲーゼ枢機卿宛に1610年8月29日付と1610年8月31日付の2通の書簡を送り、カラヴァッジョの『聖ジョヴァンニ・バッティスタ』のローマへの発送が遅れたのは、それの複製画制作のためである。」と報告しました。

ボルゲーゼ枢機卿宛のデオダート・ジェンティーレ司教の1611年1月7日付の書簡で、「1610年12月10日、ヴィンチェンツォ・カラファがナポリで死去した。」と報告しました。

カラヴァッジョの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」が1611年8月19日にボルゲーゼ枢機卿の元に発送されました。

カラヴァッジョがローマに向けてナポリを立った時に所持していた「法悦の聖マリア・マッダレーナ」と「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の2作品は、ボルゲーゼ枢機卿の所有になりませんでした。

ラヌッチョ・トマッソーニを殺害してローマから逃亡したカラヴァッジョですが、恩赦でローマに戻ってこられたとしても逃亡以前のようにカラヴァッジョが人気画家であったかについては、懐疑的にならざるを得ません。
カラヴァッジョが去ってからのローマは、徐々にボローニャ派の古典主義が主流となっていました。ルドヴィーコ・カラッチなどのカラッチ一族、グイド・レーニ、グエルチーノ、ドメニキーノなどが活躍していました。
逃亡後、カラヴァッジョの画風は暗く、深みのある表現である、所謂晩年様式へと画風が変わりました。ボローニャ派の天下になりつつあるローマで、晩年様式のカラヴァッジョが以前のようにローマで大活躍できたでしょうか。
ともあれ、カラヴァッジョが死亡すると、カラヴァッジョの様式は忘れ去られてしまいました。



作品を訪ねて 20.シラクーザ、サンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂
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シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂です。


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聖堂の後陣です。


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アル・セポルクロ聖堂の主祭壇画はカラヴァッジョの作品です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖ルチアの埋葬」


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カラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は、シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂の主祭壇画として制作されましたが、2007年頃に取り外され、シラクーザの州立美術館で展示されるようになりました。


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教会の祭壇画が教会から取り外され、美術館で展示されることは普通なので、カラヴァッジョの作品は美術館所有になったと思っていました。


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写真は、シラクーザのドゥオーモ広場に面して建つサンタ・ルチア・アッラ・バディア教会です。


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サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会のファサードに向かって右側の壁にあった銘板です。2012年頃からカラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は、アッラ・バディア教会の主祭壇を飾るようになりました。


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サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会の内部です。

カラヴァッジョの作品は、2020年までアッラ・バディア教会にありましたが、元のアル・セポルクロ聖堂に戻されました。アル・セポルクロ聖堂とカラヴァッジョの作品の修復の関係で、カラヴァッジョ作品の展示場所が変わったそうです。


作品を訪ねて 21.パレルモ、サン・ロレンツォ祈祷所(オラトリオ)
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カラヴァッジョ作品がありませんが、パレルモのサン・ロレンツォ祈祷所を取り上げます。


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サン・ロレンツォ祈禱所です。


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毎日オープンしています。


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祈祷所の中庭です。
カラヴァッジョの「ご誕生」がありましたが、1969年10月17日から18日にかけての深夜、何者かによって盗まれてしまいました。シチリアにあったカラヴァッジョ作品の中で、保存状態が良かったそうですが、今日に至るまで未発見のままなので、状態が懸念されてます。


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現在、主祭壇の後方には、Sky Italiaによって制作されたカラヴァッジョ作品の精巧な複製が置かれてます。


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「ご誕生」はパレルモで制作されたとされてきましたが、近年の研究によって、「1600年頃にローマで制作され、パレルモに運ばれた」が定説となりました。
また、カラヴァッジョ自身もそもそもパレルモに足を踏み入れなかった、またはパレルモに来たとしても短期間であり、作品制作を行うだけに時間がなかったという説が有力とされてます。


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サン・ロレンツォ祈禱所は、ジャコモ・セルポッタ(パレルモ、1656-1732)のスタッコ彫刻があることでも有名です。


作品を訪ねて 22.ローマ、ヴィラ・ルドヴィージ
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カラヴァッジョ唯一の壁画があるヴィラ・ルドヴィージです。


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フレスコ画が得意だったシモーネ・ペテルツアーノツァーノに師事したカラヴァッジョですが、フレスコ画を描けませんでした。


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カラヴァッジョ、グエルチーノ、ドメニキーノなどの作品があることで有名なカジノ・ルドヴィージですが、所有者の相続問題がこじれて、競売にかけられることになったものの競売不成立となりました。
貴重な美術作品などがあるので、公的機関による買収・保存への動きが活発で、2022年1月から2023年1月にかけて非公開で公聴会が数度開催されましたが、進捗がないようです。
カジノに居住し、競売にかけたルドヴィージ家は、2023年4月20日、裁判所からの退去命令を受けて退去したようです。
このような状況からか、この場所は長い間、一般非公開となっています。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「ユピテル、ネプトゥルヌス、プルート(木星、海王星、冥王星)」
フレスコ画が不得意だったカラヴァッジョは、壁に油彩画を直接描きました。


作品を訪ねて 23.モンテプルチャーノ市立美術館
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トスカーナ州モンテプルチャーノの市立美術館です。


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美術館の入り口です。


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カラヴァッジョの帰属作品があります。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)に帰属する「紳士の肖像」


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「紳士」は、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿であるという説が有力です。


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イタリア国外にあるカラヴァッジョ作品については省略させて頂きます。

(カラヴァッジョの足跡と作品を訪ねて編 おわり)

作品を訪ねて 13.ミラノ、ブレラ絵画館
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ブレラ絵画館です。


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カラヴァッジョの作品が1点あります。


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混雑していることは稀です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「エマオの晩餐」


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作品を訪ねて 14.ミラノ、アンブロジアーナ美術館
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アンブロジアーナ美術館です。


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美術館の元となったアンブロジアーナ図書館の創設者フェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿(ミラノ、1564-1631)の像が置かれてます。
カラヴァッジョの作品が1点あります。


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カラヴァッジョの作品が目立たぬ場所に置かれてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「果物籠」


作品を訪ねて 15.ジェノヴァ、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
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赤の宮殿、白の宮殿、トゥルシ宮の3宮殿からなるストラーダ・ヌオーヴァ美術館です。


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白の宮殿 Palazzo Biancoです。


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白の宮殿の第8展示室にカラヴァッジョの作品が1点あります。


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目立たぬように展示されています。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「この人を見よ」


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作品を訪ねて 16.ナポリ、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂
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ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂です。


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聖堂と画廊がMuseoになってます。


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聖堂の主祭壇です。


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主祭壇画はカラヴァッジョの作品です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「慈悲の七つの行い」


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画廊から見た聖堂内


作品を訪ねて 17.ナポリ、カポディモンテ美術館
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美術館の入り口です。


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カポディモンテ美術館にはカラヴァッジョの作品が1点あります。


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階上の展示室の突き当りにカラヴァッジョの作品が置かれてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「キリストの鞭打ち」


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作品を訪ねて 18.ナポリ、Galleria d’Italia(パラッツォ・ゼヴァロス・スティリアーノ美術館)
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銀行の建物が美術館になってます。


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カラヴァッジョ最後の作品があります。


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カラヴァッジョ作品の展示室


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖ウルスラの殉教」


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作品を訪ねて 19.メッシーナ、州立美術館
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カラヴァッジョ作品が2点あります。


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メッシーナには、カラヴァッジョの作品が更にいくつかありましたが、災害のために失われて現存するのは二作品となってしまいました。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「羊飼いの礼拝」


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「ラザロの蘇生」
(つづく)

足跡を辿って 21.終焉の地、ポルト・エルコレ
200
写真はナポリ港です。

カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船は、カラヴァッジョが逮捕されたパロ・ラツィアーレ港を直ぐに出港して、船底にカラヴァッジョの作品数点を乗せたまま、ポルト・エルコレ港に到着しましたが、カラヴァッジョの作品は船底に乗せられたまま、ポルト・エルコレからナポリの復路となり、カラヴァッジョの作品数点はPalazzo Cellammareに居住するカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの手元に返されました。
作為的に行われていない限り、このようなことは起きません。


201
写真はフェルッカ船です。

しかし、カラヴァッジョの終焉の地がポルト・エルコレであるとするならば、辻褄が合わないことが幾つもあります。
海が荒れて、オスティア港に着船出来なかったフェルッカ船が、外洋に面してオスティアよりも荒波が予想されるパロ・ラツィアーレ港に着船出来たのは、幸運であり不可思議です。ローマに向かうカラヴァッジョが下船予定のオスティアを通り越し、予定外のパロ・ラツィアーレ港で下船することになったにしても、船を降りる時には大事な作品を持っていなければ道理に合いません。


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でも、カラヴァッジョは作品を手にして下船の準備をするどころか、パロ・ラツィアーレ港で逮捕され、直ぐに収監されました。これが事実とすれば、城の守備兵が船を臨検するために、フェルッカ船を着船させたので、カラヴァッジョが手荷物を用意する暇がなかったと言えるでしょう。


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カラヴァッジョは逮捕手配されていた山賊と間違えられて誤認逮捕されたので、守備隊長に大金を支払って、逮捕の二日後に釈放されたというのが、カラヴァッジョの終焉の地がポルト・エルコレである説の一部です。
パロ・ラツィアーレでカラヴァッジョが下船する時、大事な大事な作品を持たなかったが、大金を入れたバッグは持っていたことになります。
誤認逮捕が事実ならば、カラヴァッジョは逆に迷惑料、若しくは慰謝料を貰う立場であってもおかしくありません。迷惑料を貰う立場であるカラヴァッジョが大金を払って釈放してもらった訳です。
それに(その33)で既に書いたように、「大金の支払い」が第三者に知られたのは何故でしょうか。熱病に罹ってサンタクローチェ同信会病院に入院したカラヴァッジョが「パロ城で誤認逮捕されたので、逮捕した責任者に大金を支払うことによって漸く釈放された」と第三者に言うでしょうか?大金の支払いは贈賄に当たります。守備隊長は大金を収賄したので、容疑者を釈放したとわざわざ第三者に口外するでしょうか。大金の支払いが事実だったとしても、その支払いはカラヴァッジョと守備隊長間での言わば秘匿すべき行為でした。カラヴァッジョは直ぐに死亡しました。守備隊長が汚職となる被疑者からの大金の受領を口外して、汚職の結果被る罪を覚悟しない限り、今日まで伝わる筈がありません。


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地図Aの場所は、ラディスポリのStrada Comunale di Palo,13、つまりパロ城を示します。地図の左上に半島がありますが、アルジェンターリオ岬を示します。ポルト・エルコレは、アルジェンターリオ岬の東端にあります。


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パロ・ラツィアーレ城からポルト・エルコレまで、約80マイル、130kmあります。カラヴァッジョの終焉の地がポルト・エルコレであるとすれば、それを徒歩で向かったのです。


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しかし、パロ・ラツィアーレから、あまり離れていない場所にローマの外港として有名なチヴィタヴェッキアがあります。
カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船が他の乗客を乗せた乗合船(その可能性がありますが)だったとすれば、ナポリとポルト・エルコレ間で最大の港であるチヴィタヴェッキアに必ず停泊し、ほとんどの乗客が下船した可能性があります。乗合船の船底に残されたカラヴァッジョの作品数点も遺失物として、チヴィタヴェッキアで発見された可能性が高いでしょう。


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写真はチヴィタヴェッキア港です。今も昔もローマの外港として繁栄してます。

カラヴァッジョが診察を受けたことがある医者で、芸術家とも親密で当時の画家などについてメモを残したジュリオ・マンチーニ(シエナ、1559-ローマ、1630)が「カラヴァッジョはチヴィタヴェッキアで死んだ」というメモを残しました。しかし、その記述は、他の人によってポルト・エルコレに修正されました。


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この写真もチヴィタヴェッキア港です。

パロ・ラツィアーレで斬首されたカラヴァッジョの遺体は、チヴィタヴェッキア港まで運ばれて投棄されたという説があります。
さて、パロ・ラツィアーレから徒歩でポルト・エルコレに向かったカラヴァッジョには、パロ・ラツィアーレからチヴィタヴェッキアまで、Vaccina川、Zambra川、Rio川の3つの川があり、チヴィタヴェッキアからポルト・エルコレまで、Mignone川、Marta川、Fiora川の三河川、全部で6つの川を渡らねばなりませんでしたが、このうち、3つの川には橋がなく、渡し船があるだけでした。
海岸沿いは、無数の蚊が飛ぶ湿地であり、葦が生い茂り、その中を毒蛇が這う悪地でした。靴を履いていても水が滲みて歩くのが困難だった筈です。その中を夏至を過ぎたばかりの灼熱の太陽の下をカラヴァッジョは歩いたわけです。飲料水はどのように手当てしたのでしょうか?途中の食料はどうしたのでしょうか。
このような条件下で、パロ・ラツィアーレからポルト・エルコレに徒歩で向かったとすればその途中の海岸で行き倒れた可能性もありそうです。

私は、6月初旬の好天の日にパロ・ラツィアーレからチヴィタヴェッキア方向に一時間ほど歩いたことがあるのですが、今は海沿いにStradaが走り、歩くのが危険なくらいに車が次々と高スピードで走り抜けて行きましたが、灼熱の太陽が私の身体を焼き、汗が吹き出し、歩くのが嫌になって止めました。あのまま少しでも歩き続けたら、救急車のお世話になっていたかも知れません。


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写真はポルト・エルコレです。

ポルト・エルコレはコムーネではありません。Monte Argentario(コムーネ)の一部がポルト・エルコレです。
モンテ・アルジェンターリオは、人口11,885人(2022年6月30日現在)のトスカーナ州グロッセート県にあるコムーネです。
中世の時代、ポルト・エルコレはオルシーニ家の領地でしたが、16世紀半ばからスペイン領になりました。ナポリ王国はスペインの植民地でしたから、同じスペイン領のナポリとポルト・エルコレを結ぶ乗合船便があったとしてもおかしくありません。


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1610年7月16日頃、漸くポルト・エルコレに到着したカラヴァッジョは重篤な熱病に罹っていました。カラヴァッジョは、サンテラズモ教会(Chiesa di Sant’Erasmo)の裏手にあったサンタ・クローチェ同信会病院(現存しません)に入院し、介護を受けました。
カラヴァッジョは、ナポリからパロ・ラツィアーレまで乗船したフェルッカ船を見つけることが出来ませんでした。


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ポルト・エルコレのサンテラズモ教会です。この教会の裏手に、カラヴァッジョが入院して、治療の甲斐もなく死去した病院がありました。


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件のフェルッカ船は、復路のナポリを目指して出港した後でした。


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1610年7月18日、カラヴァッジョはポルト・エルコレで没しました。
没してから、カラヴァッジョの恩赦の知らせが届きました。
カラヴァッジョは、サンタクローチェ同信会病院に入院した際、「マルタ騎士団の騎士」と名乗ったそうです。マルタ騎士団の復讐を恐れる身だったので、そんなことを言ったのか、大いに疑問です。カラヴァッジョはマルタ騎士団によって殺されることを恐れながら生きていたからです。
カラヴァッジョが死んでしまったので、サンタクローチェ同信会はマルタ騎士団に連絡しましたが、何の連絡がなく、遺体の引き取り手がなかったそうです。カラヴァッジョの遺体はポルト・エルコレの中心部にあるサン・セバスティアーノ墓地に埋葬されました。
1956年に行われた墓地の発掘調査においてカラヴァッジョらしき遺骨が発見されました。遺骨のDNA鑑定が行われ、カラヴァッジョの遺骨とされました。しかし、そのDNA鑑定に対しては、多くの疑義が出されてます。


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ポルト・エルコレは「最も美しい村」にリストアップされてます。


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2015年に作られたカラヴァッジョの推定骨5つが納められた野外石棺です。
以上がカラヴァッジョがポルト・エルコレで没したとされるストーリーです。


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しかし、カラヴァッジョがポルト・エルコレで没したという話には、多くの疑問や矛盾が存在します。
例えば、カラヴァッジョを追い求めていたに違いないマルタ騎士団は、サンタ・クローチェ同信会からカラヴァッジョがポルト・エルコレの病院に入院中と知ったならば、狂喜して刺客を送った筈です。
また、身元不明ということで、騎士団以外にも問い合わせを行ったそうですが、入院した病院ではカラヴァッジョが自分の名前を名乗った筈であり、カラヴァッジョが高名な画家であることは簡単に判明したことでしょう。高名な画家が死んだとあれば、多くの著名人やポルト・エルコレの有力者が見守る中で厳粛な葬儀が行われ、カラヴァッジョの墓を地元が忘れたことはなかった筈です。それが論理的であり、合理的な説明です。

私は、カラヴァッジョがパロ・ラツィアーレの城で処刑されたと思います。故ヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授のご意見に全面的に支持します。

カラヴァッジョは、マルタ島のヴァレッタで、騎士団員にあってはならない女性と若い男性との性的な原因で、ヴェッツァ伯爵らに殴り込みをかけました。カラヴァッジョは逮捕され、独力では脱獄不可能なサンタンジェロ要塞の地下牢に幽閉されました。しかし、騎士団長の暗黙の了解と、艦隊司令官でコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人の息子ファブリツィオ・スフォルツァの助けによって脱獄に成功しました。そしてファブリツィオが手配した船に乗ってヴァレッタからシチリアに逃亡しました。
未決囚で脱獄、そして逃亡したことから、カラヴァッジョが有罪を自認していたとされ、騎士団から除名されました。カラヴァッジョの襲撃によって重傷を負ったヴェッツァ伯爵側は、騎士の名誉にかけて復讐する必要がありましたが、騎士団の規律、秩序に責任を持つ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールにとっても、一旦はカラヴァッジョの脱獄に暗黙の了解を与えたものの、公式的にはカラヴァッジョを糾弾すべき立場にあることから、ヴェッツァ伯爵側の動きに支持するようになったと思います。これに伴いファブリツィオ・スフォルツアの騎士団における立場が次第に悪くなったと思われます。
それを知ったカラヴァッジョ侯爵夫人は、息子ファブリツィオの立場を慮り、カラヴァッジョのパロ・ラツィアーレでの逮捕と処刑の全体のストーリーを構築したのだと思います。
それに、例え赦免されてローマに行ったとしても、カラヴァッジョの性格を考えれば、刃傷、殺人、暴行などの悪行を再び犯す可能性が高いので、カラヴァッジョを見限った可能性もあります。要すれば、再犯確実で「馬鹿は死なきゃ治らない」と判断したのでしょう。

故ヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授によれば、カラヴァッジョ終焉の地としてポルト・エルコレが選ばれたのは、ローマとパロ・ラツィアーレから可能な限り遠隔の地であり、マルタ騎士団、コロンナ家と無縁の土地であったこと、それに教皇庁の力が及ばないスペイン領であったからだそうです。
(つづく)

足跡を辿って 20.終焉の地、パロ・ラツィアーレ
100
カラヴァッジョは、愈々死出の旅路に出ます。
マルタ騎士団のヴェッツァ伯爵ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロの復讐を恐れて、カラヴァッジョ侯爵夫人が住むカラファ家のPalazzo Cellammareに留まっていたカラヴァッジョでしたが、教皇庁から恩赦が出そうであるとの情報を得て、ローマに向かうことにしました。
恩赦ばかりを念頭に置いていたカラヴァッジョは、重大なことを敢えて忘れていたようです。
ナポリの酒場前で襲撃を受け瀕死の重傷を負いましたが、その襲撃者がヴェッツァ伯爵が放った刺客だとすれば、重傷を負ったものの一命を取り留めたことを知った刺客側としては、果たして重傷を負わせただけで満足したのかという問題が残ります。カラヴァッジョをこの世から消し去ることによって、復讐が完結すると考えていた可能性があります。相変わらず、カラヴァッジョにとって、マルタ騎士団の刺客は脅威であり、最大限の警戒を払うべきでした。
その上、発見次第、誰でも殺しても良いという布告「バンド・カピターレ」はカラヴァッジョに出されてままで、当然のことながら恩赦の話は教皇領内及び教皇領の官憲には知らされていなかったと思います。この点でもカラヴァッジョが教皇領に足を踏み入れることは危険極まりなかったのです。

101
Palazzo Cellammareです。

ローマへと旅立つ前に、カラヴァッジョは、注文を受けていた作品の完成と、ボルゲーゼ枢機卿などに対して、恩赦に尽力してしてくれた御礼として贈る作品の制作に精を出していました。


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サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会です。


103
カラヴァッジョは、サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会のために「キリストの復活」、「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」、「聖フランチェスコ」の3点の作品を描きました。残念ながら、1805年の地震によって3点共に破壊されてしまい、現存していません。
サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会の3点の作品ですが、一回目のナポリ滞在時に描かれた説が有力となってますが、二回目のナポリ滞在中のローマへの出発直前に制作されたという説もあるので、ここで再度触れておきました。


104
ナポリにあるドメニコ会のサンタ・マリア・デッラ・サニタ教会です。


105
サンタ・マリア・デッラ・サニタ教会礼拝堂にある「キリストの割礼」です。

この礼拝堂にカラヴァッジョの「キリストの割礼」がありましたが、現存していません。また、カラヴァッジョは未完成のまま放置してローマに向けて出発したという説も有力です。


117
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「法悦の聖マリア・マッダレーナ」

自作の作品数点を携えてローマに向けて出発したカラヴァッジョですが、その数点の一つがこの作品でした。この作品のオリジナルは、カラヴァッジョがラヌッチョ・トマッソーニを殺害して、ラツィオ山中のコロンナ領地で制作されました。ローマに向けて携えられた作品は、カラヴァッジョ自身によるオリジナルの複製画説が有力です。
なお、カラヴァッジョが没した地ですが、巷間通説のポルト・エルコレではなく、パロ・ラツィアーレとしたのは、ナポリのフェデリーコ2世大学のヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授が提唱した後者の方が説得力を持つと私が判断したからです。


118
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

ボルゲーゼ美術館にある、この作品は、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の手に渡った経緯が明確なので、カラヴァッジョがローマに向けて乗船した時に携えていたことは確実です。


116
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐パロ・ラツィアーレ、1610)の作品である可能性がある「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

カゼルタ司教デオダート・ジェンティーレがシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月29日付の手紙の中で、カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船にあったカラヴァッジョの絵画3点があって、それらは「法悦のマグダラのマリア」と2つの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」であるが、2点の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の一つは横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタと書きました。
ミュンヘンの個人蔵の「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」がそれであるか(上の作品写真)、については、定説にはなっていないようです。


63
1610年7月10日(恐らく)、キアイアのカラファ・コロンナ宮殿(現在のPalazzo Cellammare)を出たカラヴァッジョは、ナポリ港から船でローマに向かいました。
カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナは、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿への3枚の作品があれば、ローマに行っても無事で過ごせるだろうとカラヴァッジョに信じ込ませました。


107
フェルッカ船です。

フェルッカ船に乗船したカラヴァッジョは、フェルディナンド・ゴンザーガ枢機卿の署名入りの文書を携えていました。その文書は、教皇パオロ5世の恩赦を示唆する内容が書かれていました。また、船倉に数枚の絵画が積み込まれていました。


108
地図Aは、パロ・ラツィアーレのオデスカルキ城の場所を示します。


109
パロ・ラツィアーレは、現在のラディスポリ市にあります。

ローマに行くのであれば、オスティアで下船するのが普通ですが、カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船はオスティアを通り越して、パロ・ラツィアーレに到着しました。
強風のため、オスティア港に着船出来ず、已む無くパロ・ラツィアーレ港になったという説があります。


126
ラディスポリの海岸線です。

海が荒い場合、外洋に面したパロ・ラツィアーレの方がオスティアよりも着港が有利である筈がありません。


113
逸名画家作「海が荒いパロ・ラツィアーレのフェルッカ船とパロ城」


123
パロ・ラツィアーレの小さな港の横に要塞があります。


106
ローマに向かうのであれば、少し遠回りになりますが、パロ・ラツィアーレの港で下船するのも一法です。しかし、パロ・ラツィアーレの少し先に、古代からローマの外港として栄えているチヴィタヴェッキアがあり、チヴィタヴェッキアはローマに向かう交通の要衝だったので、ローマへの乗合馬車など交通手段がありました。オスティアを通り越したならば、チヴィタヴェッキアで下船するのが最適だった筈です。


110
1610年7月11日、または10日、パロ・ラツィアーレで下船したカラヴァッジョは、逮捕手配されていた山賊と間違えられて、要塞の守備隊長によって逮捕されてしまいました。船内で捜索を受け、誤認逮捕された可能性もあります。
顔、頭に傷跡が生々しく残り、剣と短剣を帯び、狂暴な顔をしたカラヴァッジョが山賊と間違えられるのは当然と言えるでしょう。
カラヴァッジョがポルト・エルコレで病死したという説によれば、この誤認逮捕がカラヴァッジョの死の切っ掛けとなりました。
でも果たして、そうなのか、と疑問を禁じ得ないところがあります。
例えば、カラヴァッジョは守備隊長に大金を払うことによって、漸く釈放されたとされていますが、「大金を払った」ことが何故一般的に知られているのでしょうか。大金のやり取りは当事者2人だけの間で行われたと考えるのが自然です。
船倉に積まれたままの作品を求めて、フェルッカ船の最終目的地ポルト・エルコレに向かったカラヴァッジョは、先を急いで焦っていたと思われ、第三者に「釈放金として大金を払った」と言う余裕がなかったと考えるのが普通でしょう。
一方、守備隊長ですが、職務をかさに着て大金を得た訳で、上官に知られると罰せられるか、または分け前を要求される可能性があるので、守備隊長が誤認逮捕の釈放に関して釈放者から大金を払って貰ったと第三者に言うわけがありません。
それに、1606年5月29日にラヌッチョ・トマッソーニを殺害して、バンド・カピターレ(発見されれば、誰でも殺害しても構わない)と布告が出されていたカラヴァッジョですが、パロ・ラツィアーレの要塞にもその布告が来ていたとすれば、逮捕後の取り調べで、殺害から四年を経たとしてもバンド・カピターレの対象であるカラヴァッジョ当人と判明しての逮捕だったかも知れません。逮捕者がカラヴァッジョであり、バンド・カピターレの布告が出されている当人と分かれば、要塞の守備隊がカラヴァッジョを処刑したとしても不自然ではありません。
ともあれ、ナポリのキアイアを出港したフェルッカ船の目的地が、最初からパロ・ラツィアーレであったとしたら。


119
写真は、ナポリのオリエンターレ大学とフェデリーコ2世大学の教授で、定年後はフェデリーコ2世大学名誉教授を務めたヴィンチェンツォ・パチェッリ(サン・サルヴァトーレ・テレシーノ、1939-ナポリ、2014)先生です。


120
ヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授は、特にカラヴァッジョ研究で知られた美術史家でした。

パチェッリ名誉教授は、国立公文書館の専門家フランチェスカ・クルティとオリエッタ・ヴェルディ、それに歴史家、修復家、医師、放射線科医師、診断医など18名の研究者からなる研究チームと行ったカラヴァッジョの死に関する研究結果を2012年に発表しました。
ナポリ王国の使徒公使で、カゼルタ司教を兼ねたデオダート・ジェンティーレと当時、教皇庁国務長官を務めていたシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の間で交わされた未公開の書簡が研究チームによって何通も発見されましたが、それらの往復書簡は、従来の公式歴史書に記載されている「カラヴァッジョはポルト・エルコレで病死した」ということを覆すに足る内容になっていたのです。
また、パチェッリ名誉教授がジャンルカ・フォルジョーネと共同編集した「芸術と科学の間のカラヴァッジョ」という本の中でも、カラヴァッジョはパロ・ラツィアーレ城で処刑されたと書かれてます。


125
パロ・ラツィアーレ港で逮捕されたカラヴァッジョは、パロ城(現在はオデスカルキ城と呼ばれてます)に連行されました。


114
カラヴァッジョは、パロ城内に設けられた刑務所の独房に収監されました。


111
マルタ騎士団一行の到着を待って、1610年7月18日頃、カラヴァッジョは、城の中庭に設けられた処刑場に引き出され、マルタ騎士団によって斬首されました。マルタ騎士団ではなく。この城の守備隊長がバンド・カピターレに基づいてカラヴァッジョを処刑した可能性もあると思います。


123
マルタ島におけるカラヴァッジョとヴェッツァ伯爵ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロ・ディ・アスティの乱闘に話を戻します。
マルタにおける生活はローマやナポリと明らかに違いました。騎士団には純潔の誓いが課せられていましたが、売春宿や売春婦はマルタには存在しませんでした。その代わりに、騎士たちの性欲処理用として、彼らの自由になる女性と少年を抱えていました。
カラヴァッジョ、ヴェッツァ伯爵を含む7人による乱闘の原因は、性欲処理の女性や少年を巡る争いだった可能性が大いにあり得ます。騎士にとって、純潔の誓いに反する不名誉とされる女性や少年にかかわる問題だったからこそ、乱闘の原因が故意に伏せられました。
騎士団における規律は非常に厳しく、求められる精神は非常に高く、騎士間の犯罪は忘れ去られることはなかった。騎士間の犯罪、特に破廉恥罪に等しい問題は、相手方を殲滅することによってのみ免責されるのです。
カラヴァッジョは、裁判を受ける前にマルタ島から逃亡しました。逃亡は、自己の有罪を認めたに等しいとされ、騎士団から不名誉な追放処分が科されました。

カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの次男ファブリツィオ・スフォルツァは、マルタ騎士団に入団しましたが、1602年に決闘で勝利したものの、殺人罪に問われ、マルタ島で懲役生活を余儀なくされました。刑期短縮を求める母コスタンツァの尽力が功を奏したのか、1606年に釈放されて、艦隊司令官に任命されました。

カラヴァッジョは、騎士として不名誉な事由によって逮捕され、サンタンジェロ要塞に投獄されましたが、投獄された地下牢は独力では絶対に脱獄が不可能でした。しかし、カラヴァッジョは、当時、世界で最も有名で最も人気がある画家だったので、カラヴァッジョの作品を求めるパトロンがローマの中枢にいる限り、長期の投獄または処刑は難しいと考えられていました。
そして、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの暗黙の了解を得て、恐らくファブリツィオ・スフォルツァが地下牢にロープを投げ入れて、カラヴァッジョを脱獄させました。ファブリツィオ・スフォルツァが手配した船に乗船して、カラヴァッジョはシチリア島に到着しました。


124
再びナポリに到着したカラヴァッジョは、コスタンツァ・コロンナ侯爵夫人が滞在していたPalazzo Cellammareに寄宿して、制作に精を出しました。
居酒屋と宿屋を兼ねるチェッリーリオで重傷を負ったカラヴァッジョは奇跡的に一命を取り留めました。そのことを知ったマルタ騎士団は、コロンナ夫人の客人としてPalazzo Cellammareに留まっている限り、カラヴァッジョに手出しできないと理解していました。
しかし、カラヴァッジョを庇護し続けるコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人に対する、マルタ騎士団からの圧力は日増しに高くなってきました。
騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、カラヴァッジョの脱獄、それに手を貸したファブリツィオ・スフォルツァに暗黙の了解を与えたと思いますが、秩序維持が職務の騎士団長としては、脱獄に対しては糾弾するのが立場でした。騎士団におけるファブリツィオの立場は徐々に悪くなったことでしょう。母であるコスタンツァにしても騎士団における息子ファブリツィオの立場を考えると、何時までもカラヴァッジョを屋敷に逗留させるわけにいかないと判断するのが自然です。

何故カラヴァッジョは逮捕されたのでしょうか。カラヴァッジョがパロ・ラツィアーレ到着が意図されており、予期されていたからこそ逮捕されたと考えるのが自然です。
同じ宮殿で身近に接してみて、カラヴァッジョがコロンナ家とその縁戚に対して悪い影響を与えるような行為をやがてするだろうという危険性を感じ取ったコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人が、圧力に屈してカラヴァッジョの死を企図したと考えると、すべてのことがジグソーパズルのようにピッタリと収まります。
カラヴァッジョがやがて仕出かす悪行は、これまでの行動から鑑みれば容易に予測されたわけです。ローマに戻れば、売春宿に出入りし、それを縄張りとするトマッソーニ一家と事を起こしそうです。

カラヴァッジョがフェルッカ船の船倉に持ち込んだ絵画数点についても不可思議なことが起きました。カラヴァッジョはパロ・ラツィアーレで逮捕され、船倉に置かれた絵画はフェルッカ船の目的地であるポルト・エルコレで船から降ろされることなく、ナポリに戻るフェルッカ船に乗せられて、ナポリに戻り、Palazzo Cellammareに滞在するコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人の許に戻されました。そして、カラヴァッジョの作品は、1610年7月31日までに、ルヴォ伯爵ファブリツィオ・カラファの息子のカプア修道院長のヴィンチェンツォ・カラファの手に渡りました。
そもそも、そうではなく、カラヴァッジョにとって非常に大事であった絵画数点は、パロ・ラツィアーレで下船する時にカラヴァッジョが持っていた、逮捕された時にもカラヴァッジョは絵画数点を持っていたという可能性もありそうです。
カラヴァッジョが処刑された後、カラヴァッジョの作品数点は再びフェルッカ船に乗せられてカラヴァッジョ侯爵夫人のもとに戻されたと考えるのが自然です。
非常に手際よく、物事が進められたことが分かります。このことから、カラヴァッジョのパロ・ラツィアーレでの逮捕と斬首が予期されていて、予め周到に準備されていたという疑いが惹起されるのです。


121
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「教皇パオロ5世とシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」
教皇パオロ5世の甥がシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿ですが、この二人もカラヴァッジョの処刑に対する暗黙の了解を与えたことでしょう。


127
最後にパロ・ラツィアーレ城について触れておきましょう。
1132年、現在のラディスポリ一帯を占領したジェノヴァ共和国軍が築いた要塞が前身です。その後、サン・サバ修道院に所有された要塞は修道院に改造されましたが、海岸沿いの建物は荒波で荒廃し、修道士が立ち去りました。1330年、荒廃した建物はオルシーニ家に預けられ、オルシーニ家が荒廃した建物を取り壊して、現在の城を築きました。
オルシーニ家が所有していた城は、ローマに近いことから教皇の居城として使用されることが多く、教皇アレッサンドロ6世(214代教皇、在位:1492-1503)、教皇パオロ3世(220代教皇、在位:1534-1549)、教皇シスト5世(227代教皇、在位:1585-1590)が居城としていました。カラヴァッジョが逮捕された1610年当時、パロ城は第二代ブラッチャーノ公爵ヴィルジニオ・オルシーニ(イサベッラ・デ・メディチの息子、イサベッラはトスカーナ大公コジモ1世の娘)が所有していました。
その後、城はオデスカルキ家に売却されました。そのため、オデスカルキ城とも呼ばれてます。
このような由緒あるパロ城で、守備隊長が独断でカラヴァッジョを斬首したとは考えられず、処刑は教皇庁の暗黙の了解があったと解釈されるのです。
それに、バンド・カピターレが布告されているカラヴァッジョ当人と判明して、要塞の守備隊によって処刑された可能性も捨てきれないと思います。
(つづく)

足跡を辿って 19.ナポリ再び
99
1609年晩夏から秋にかけて、カラヴァッジョはメッシーナを発ってナポリに向かいました。パレルモに行ったかどうか分からないので、シチリアを離れた具体的な時期が分かりません。


101
「羊飼いの礼拝」で1000scudiの画料を受け取るなど、金回りが良かったカラヴァッジョは、恐らくチャーター船でナポリに向かったものと思われます。

メッシーナでは高名な画家がいて、幾つかの注文を受けて制作したということは、人々によく知られていたことであり、復讐に燃えるベッツァ伯が送った刺客の耳にも容易に届いていたと考えるのが自然です。メッシーナは最早安全ではないと判断したカラヴァッジョにしても、シチリアからの離島は当然の行動と言えるでしょう。
復讐を恐れるには、カラヴァッジョの方でも復讐されるに足る行動を取ったという自覚があったからでしょう。
1608年8月18日の夜にヴァレッタで起きた乱闘ですが、詳細は不明なものの、一部で提唱されている説が真実ではないかとも思えます。そうだとすれば、カラヴァッジョの復讐を恐れる身が理解出来るでしょう。
ここで、その一部で提唱されている説について、触れておきましょう。
カラヴァッジョとフラ・ジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポンテの二人は、銃を手にするなど武装して、サン・ジョヴァンニ修道院教会のオルガニスト、フラ・プロスぺーロ・コピーニの家に押しかけた。その夜、コピーニの家にヴェッツァ伯爵フラ・ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロ・ディ・アスティがいた。コピーニとヴェッツァ伯の他に3人の騎士・騎士見習がいたが、直ちに応戦したものの、不意を突かれたので、多数側が苦戦した。コピーニは乱闘に積極的に参加しなかったが、6人で乱闘になった。
武器が使用され、発砲され、ヴェッツァ伯爵が重傷を負った。
この説の通りならば、カラヴァッジョはポンテと共にコピーニの家に殴り込んで、ヴェッツァ伯爵を負傷させた訳で、不意打ちの復讐されるに足る行動をしたわけです。しかし、依然としてヴェッツァ伯爵側と乱闘になったかについての理由は分かってません。


102
ナポリに到着したカラヴァッジョは、キアイア地区にあるPalazzo Cellamareに向かったものと思われます。


8
「カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの肖像」

カラヴァッジョが再びナポリに到着したとき、Palazzo Cellammareにコスタンツァ・コロンナ夫人が滞在していました。


103
Palazzo Cellammareです。


107
Palazzo Cellammareは、ナポリの丘上のキアイア地区のVia Chiaia 139にあります。地図Aの場所がPalazzo Cellammareです。


104
当時、Palazzo Cellammareはカラファ家が所有していました。コスタンツァ・コロンナの妹ジョヴァンナ・コロンナは1566年にロッカ・モンドラゴーネ公爵アントニオ・カラファと結婚して、Palazzo Cellammareに居住していました。未亡人となったコスタンツァは、妹ジョヴァンナと楽しい時を過ごすために1607年6月14日からPalazzo Cellammareに住むようになりました。


108
Palazzo Cellammareから見たナポリの景観

カラヴァッジョは、Palazzo Cellammareで制作に励んでいたようです。この宮殿に居れば、身の安全は保障されるとして、コスタンツァからの事前根回しがあって、メッシーナからナポリに移ってきたのでしょう。
カラヴァッジョが再びナポリに来たことは直ぐに広まり、注文やオファーが来ましたが、そのことは騎士団の刺客の耳にも届いていた筈です。外出を控えていれば、カラファ家宮殿にまで殴り込みをかけることはあり得ないので、事件は起きなかったと思われますが、カラヴァッジョのことですから、夜間に外出して飲み歩いていたようです。油断していたのでしょう。


1002
タヴェルナ・デル・チェッリーリオです。

ナポリで非常に有名な居酒屋であり、旅館を兼ねていました。旅館では売春も行われていました。


105
ナポリの中心街の危険性がある路地にありました。


106
Via del Gerriglio 3にTaverna di Cerriglioがあります。


1003
1609年10月24日夜、カラヴァッジョはTaverna di Cerriglioの入り口で待ち伏せをしていた四人の武装した男に襲われました。
顔面を酷く傷つけられ、カラヴァッジョは血を流して倒れました。
ナポリからローマに伝えられた情報の中には、カラヴァッジョは市内で殺害されたというものもありました。
この居酒屋は危険性が高いという場所にありながらも、料理とワインのの良さで知られており、繁盛していました。居酒屋前の襲撃ですから、客や店側に直ぐに気付かれたことと思われます。そのために、襲撃が致命的になるまで徹底的にやることから免れたカラヴァッジョは、「顔に重傷を負い、誰なのか認識できないほどだった」という状態だったものの、一命を取り留めることが出来ました。


1000
この宿兼居酒屋は現存しています。

カラヴァッジョを襲撃した四名については不明ですが、マルタ騎士団の刺客だった可能性が高いと思います。
ラヌッチョ・トマッソーニ関連の復讐とするには、ラヌッチョは所詮ポン引きであり、事件から3年を経ているので、それは先ずないのではないかと思います。ポン引きのために恨みを晴らすのは、いくら何でも遣り過ぎです。
カラヴァッジョが死んだという情報が流れたので、刺客たちはその成果に満足して、一旦は矛を収めたのでしょう。


66
カラヴァッジョは瀕死の重傷を負ってPalazzo Cellammareに運ばれ、療養生活を余儀なくされました。少し回復すると以前よりも一層制作に励んだようです。
カラファ家、コロンナ家などからカラヴァッジョに対する恩赦の話が齎されていたと思われ、カラヴァッジョにとって励みになったことでしょう。
しかし、その考えは重大なことを忘れていました。復讐に燃える騎士団の刺客は、カラヴァッジョが生きていると知って、カラヴァッジョを再び刃の標的に定めたことを。


109
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「サロメ」(1609c)

マドリッドの王宮にある、この作品は、ジョヴァンニ・ベッローリが1672年に著したカラヴァッジョの伝記の中で、マルタ騎士団から追放されたカラヴァッジョが騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの好意を取り戻すために、謝罪の意味を込めて騎士団長に送ったと書きました。


110
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「サロメ」

この「サロメ」はロンドンのナショナル・ギャラリーにありますが、最初のナポリ滞在の時に描かれたという有力説があります。


111
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ピエトロの否認」(1609-10)

居酒屋前に襲撃された以降に制作されたと考えられており、暗い背景が益々強烈になってます。襲撃によって視力に損傷を負ったという事実から、暗い背景、集中力がやや欠けた表現となったと考えられてます。
パオロ・サヴェッリ枢機卿(1622-1685)が所有していましたが、スイスの貴族に売却されてから何度も所有者が変わりました。個人コレクターが1997年にメトロポリタン美術館に寄贈しました。


112
この作品をイタリアに戻すべきとの議論が今でもあるようです。


113


114
カラヴァッジョには行方不明の「聖ピエトロの否認」の別バージョンの作品があるようです。


115
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖アンドレアの磔刑」(1606‐07 o 1609c)


116
クリーヴランド美術館にあります。


117
1603年から1610年までナポリ副王を務めたファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラ伯爵によって注文された作品です。


118
甲状腺腫を患った老婆がモデルになってます。


119
最初のナポリ滞在中に、ナポリの教会から注文されて制作され、副王が入手したという説と、1610年6月に副王はスペインに帰任しますが、その帰任前にカラヴァッジョに注文して制作されたという説があります。


120
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(1609-10)


121
ボルゲーゼ美術館にあります。


122
教皇パオロ5世の甥であるシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に恩赦への尽力を依頼するために描かれたという説が有力です。


123
ダヴィデのモデルは、カラヴァッジョの愛人で、シチリアの逃避行にも同行したかも知れないチェッコ・デル・カラヴァッジョ説がある一方、ダヴィデもカラヴァッジョの若いころの自画像説もあります。


124
ゴリアテはカラヴァッジョの自画像です。


125
ナポリのGalleria d’Italiaです。


126
カラヴァッジョの最後の作品とされる「聖オルソラの殉教」があります。


127
この展示室にはカラヴァッジョの作品1点だけが展示されてます。


129
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「「聖オルソラの殉教」(1610)


130
ジェノヴァの銀行家マルカントニオ・ドーリア(ジェノヴァ、1570c-1651c)によってナポリで注文されました。 
この作品は、非常に素早く完成されました。
マルカントニオ・ドーリアのナポリにおける代理人で弁護士でもあったランフランコ・マッサが1610年5月11日にマルカントニオ・ドーリアの送った手紙が残されており、その中で「絵がニスの乾くのを待っているが、早く乾かすために太陽に当てたら、未だ濡れた絵具が痛んでしまったので、画家と相談して改善する」と書かれてます。


137
ユストゥス・スステルマンス(アルト・ウェルペン、1597-フィレンツェ、1681)の「マルカントニオ・ドーリア(ジェノヴァ、1570c-1651c)の肖像」(1649c)

注文主マルカントニオ・ドーリアの肖像です。


131
修復前の作品写真です。アッティラ王と聖オルソラの間に「手」がありません。
2003年から2004年にかけて行われた修復の際、「手」の存在が確認されました。手はアッティア王の聖オルソラの処刑を反対するかのようです。


133
この作品は1610年5月27日にジェノヴァに向けて送付され、1610年6月18日に注文主のもとに届きました。


134
記録が残る、カラヴァッジョ最後の作品です。


135
カラヴァッジョの自画像が挿入されてます。


136
サッソフェッラート(ローマ、1609-1685)の「フェルディナンド・ゴンザーガ枢機卿の肖像」

カラヴァッジョがPalazzo Cellammareで療養しながら精力的に制作していたころ、ローマではカラヴァッジョの恩赦に向けた動きが具体化しつつありました。恩赦実現に尽力した中心人物は、「聖母の死」を購入したフェルディナンド・ゴンザーガ枢機卿でした。勿論、引き続きコロンナ家もカラヴァッジョの恩赦実現工作を進めていました。
当然、カラヴァッジョはそのことを承知していたことでしょう。コロンナ家、カラファ家からも恩赦に関する教皇庁の動向や情勢を聞いていた筈です。
恩赦が実現しそうだという情報を知ったカラヴァッジョは、パトロンや教皇庁の有力者などに作品を贈るなどして、自らも恩赦の嘆願をしていました。

恩赦が実現してローマに戻ったカラヴァッジョは、多くのパトロンを喜ばす作品を制作する一方で、武器を携帯してローマの盛り場、売春宿を渡り歩き、再び問題行動を起こすであろうことは容易に予想されるところでした。カラヴァッジョの性格から考えると、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが地ですから。
(つづく)

足跡を辿って 18.シチリアⅡ
100
前述したようにメッシーナで1608年12月6日に交わされた契約書があるので、その日は、カラヴァッジョはメッシーナに居たことになります。つまり、シラクーザを旅立ったのは、1608年11月下旬、遅くとも12月初頭になるでしょう。


101
「聖ルチアの埋葬」は1608年12月13日までに引き渡す契約でしたが、カラヴァッジョは期限よりもかなり早く仕上げたと思われます。
旅は船に乗ったのか、または、陸路でメッシーナに向かったのか分かりません。復讐の刺客を恐れる旅だったので、この辺の記録は全く残されておらず不明です。


103
陸路だったとすれば、メッシーナからシラクーザに通じるポンペイア街道を北上してメッシーナに向かったことでしょう。


104
レンティー二の全景です。

シラクーザの北西52kmにレンティー二があります。


105
寝ている時でも剣を離さなかったようです。


P1530398
カターニアは、シチリアでパレルモに次いで人口が多い街です。身を隠すには、カターニアは悪くないと思われます。


107
陸路を採ったならば、カターニアを通ったことは確実でしょう。


P1530552
カラヴァッジョが見たかもしれないカターニアと現在のカターニアの姿とは、かなり違っていたと思われます。1669年のエトナ山の大噴火と1693年の大地震によって大きな被害を受けて、建物や道路などが再建されたからです。


P1530543
尤も気が急いていたカラヴァッジョには、カターニアの街並みは目に入らなかった可能性があります。


110
陸路ならば、タオルミーナを通ったことは確実です。


111
船を雇って、シラクーザからメッシーナに向かった可能性も捨てきれません。その方が人目を避ける意味では陸路よりも有利です。


112
「聖ルチアの埋葬」の画料を手にしていたので、船を雇う十分な金は所持していたと思われます。


114
タオルミーナの旧市街には足を踏み入れなかったと思います。


115
1608年11月、遅くても12月初頭にはメッシーナに到着したと思われます。


116
メッシーナに到着したばかりのカラヴァッジョに早速仕事が入ります。


117
写真はサン・カミッロ教会です。前身はサンティ・ピエトロ・エ・パオロ・デイ・ピザーニ教会でしたが、1783年の地震で崩壊してしまい大修復されました。しかし、1908年の地震と大津波によって完全に破壊されてしまいました。
1932年に再建されましたが、その際、サン・カミッロ教会と改称されました。


118
写真は、メッシーナの州立美術館におけるカラヴァッジョ作品の展示です。

ジェノヴァの裕福な商人ジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ラッザリがサンティ・ピエトロ・エ・パオロ・デイ・ピザーニ教会の礼拝堂祭壇画として、カラヴァッジョに注文し、1608年12月6日に契約書が取り交わされました。


119
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ラザロの蘇生」(1609)

ジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ラッザリの注文によって制作された作品です。
1609年7月7日に引き渡されましたが、大変な評判で大成功を収めました。


120
奇跡的に災害からの被害を免れました。


121
カプチン会のマドンナ・デイ・ロザーリ教会です。度重なる災害によって崩壊、現存しないカプチン会のサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の後継となる教会がマドンナ・デイ・ロザーリ教会です。
「ラザロの蘇生」の素晴らしい出来に感服したメッシーナの参議会は、カラヴァッジョに「羊飼いの礼拝」を1000scudiという大金で注文しました。


122
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「羊飼いの礼拝」(1609)


123
メッシーナの参議会は、完成した「羊飼いの礼拝」をカプチン会に寄贈し、サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の礼拝堂祭壇に置かれました。


124
「羊飼いの礼拝」も度重なる天災から被害を免れました。


125
メッシーナでカラヴァッジョが目にしたものは、相次いだ災害のために殆ど残っていません。1908年に起きた大地震とその直後に発生した大津波によって壊滅的な打撃を受けました。現在のメッシーナは、都市計画に基づいて新しく築かれた街と言っても過言ではありません。


126
メッシーナでは、「ラザロの蘇生」、「羊飼いの礼拝」の他にも注文を受けました。
1609年、メッシーナの貴族ニコロ・ディ・ジャコモからキリストの受難4点の注文を受け、契約書が取り交わされました。1609年8月、4点のうち、「十字架を担ぐキリスト」が完成し、引き渡されました。しかし、「十字架を担ぐキリスト」は天災によって被害を受けたようで、現存していません。キリストの受難の4点ですが、「十字架を担ぐキリスト」を除く3点については、記録が残されておらず、制作されたどうかについても不明となってます。
また、このほかにも聖ジローラモを数点制作したようですが、現存していないようです。


138
メッシーナにあるサン・ジョヴァンニ・ディ・マルタ修道院教会です。
マルタ騎士団のメッシーナ修道院です。カラヴァッジョは、怖くてこの場所を敬遠していたでしょうか?


139
カラヴァッジョが肖像画を描いたアントニオ・マルテッリ(フィレンツェ、1534-1618)は、メッシーナの修道院長を務めていました。


140
メッシーナの画家フランチェスコ・スジンノ(メッシーナ、1670c-1739c)が1724年に書いた「メッシーナの画家の生涯」の中で、カラヴァッジョについて非常に興味深いことを書きました。
なお、この本ですが、スジンノは原稿を書いたものの出版されず、1969年になって漸く出版されました。
「不安に苛まれたカラヴァッジョは服を着たままで、短刀を肌身離さず携えて寝ていました。彼は不安定な精神状態を見せるようになり、狂人のようでした。
完成した作品に対して批判の声を耳にすると、彼は狂ったように短刀を引き抜き作品をズタズタに引き裂きました。暫くして怒りが収まると、何事もなかったように絵を描き始めました。
無鉄砲で喧嘩早く、嵐で荒れたメッシーナの海よりも不安定な精神状態でした。
黒い犬を飼っていて、可愛がっていました。
文法教師のドン・カルロ・ペペが生徒を引率して造船場に来た時、戯れている生徒をカラヴァッジョが熟視していたので、ペペが不審に思ってカラヴァッジョに、「何故熟視しているのか」と尋ねたところ、カラヴァッジョが激怒して剣を抜き、ペペの頭を斬り付けた。
ペペを負傷させてしまったので、カラヴァッジョはメッシーナに居られなくなり、メッシーナから立ち去った。」
カラヴァッジョがメッシーナを離れて100年以上経ってから書かれた本なので、ペペの一件がもとでメッシーナから旅立ったかどうかは分かりませんが、カラヴァッジョのことは地元で言い伝えられていたのでしょう。


127
写真はパレルモです。

ジョヴァンニ・バリオーネが1642年に出版した「画家、彫刻家、建築家の生涯」のカラヴァッジョ編によれば、カラヴァッジョはメッシーナからパレルモに向かい、パレルモで数点の作品を描いたと書きました。


128
しかし、カラヴァッジョがパレルモに居たという記録が残されてません。


129
写真は、パレルモのサン・ロレンツォ祈祷所(Oratorio di San Lorenzo)です。


130
サン・ロレンツォ祈祷所の主祭壇にカラヴァッジョの作品がありました。


131
サン・ロレンツォ祈祷所の入り口です。

カラヴァッジョの「ご誕生」がサン・ロレンツォ祈祷所の主祭壇にありましたが、1969年10月17日から18日にかけての深夜、マフィアによって盗まれてしまいました。現在も行方不明です。


132
現在、主祭壇には作品のカラー写真を基に作られた複製画に見せかけた写真が置かれてます。


133
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「ご誕生」

「ご誕生」は、カラヴァッジョのシチリア時代に描かれた、闇が画面に広がり、荒らしい筆使いが目立つ作品と明らかに画風が異なり、異質に思えることから、1600年頃にローマで制作されてパレルモに送られたと考える美術史家が出てきました。


134
「ご誕生」が1600年頃にローマで制作されたという説が出てくるにつれて、そもそもカラヴァッジョはパレルモに足を踏み入れていないという説が浮上してきました。


135
カラヴァッジョはシチリアからナポリに向かったのですが、パレルモに行ったにせよ、メッシーナからナポリに旅立ったと考えるのが自然でしょう。
パレルモに行ったとしても、1609年10月にナポリに居た記録があるので、パレルモ滞在は1か月程度の短期間だったでしょう。


136
最早シチリアは安全ではないと判断したであろうカラヴァッジョは、ナポリに向かう決心をしました。
カラヴァッジョは有名画家であり、行く先々で作品制作に励んでいたことは、追手の刺客も当然知っていた訳で、最近制作された作品の評判を聞くだけでカラヴァッジョの居所が容易に推察できたというわけでしょう。


137
(つづく)

足跡を辿って 18.シチリアⅠ
100
1608年10月6日夜、サンタンジェロ要塞地下牢から脱獄したカラヴァッジョは、マルタ島のポルト・グランデから船に乗船してシチリア島に向かいました。


101
マルタ島とシチリア島の距離は約93kmですから、1608年10月7日か8日頃にはシチリア島に到着したと思われます。


102
写真はシラクーザ港です。
カラヴァッジョがシチリア島に到着した場所ですが、シラクーザ説が定説になってますが、地元ではテッラノーヴァ(ジェーラ)説も有力です。


103
シラクーザには、ローマで一緒に生活したことがあるマリオ・ミンニティが住んでいたので、マリオを頼ってシラクーザに行ったのでしょう。


104
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物籠を持った少年」

カラヴァッジョのこの作品のモデルがマリオ・ミンニティと言われてます。マリオはカラヴァッジョの作品のモデルとして度々登場しました。


105
シラクーザのオルティージャ島旧市街のVia Mario Minniti 54(地図Aの場所)にマリオの家がありました。


106
マリオの家は道幅の狭い路地にありました。


107
マリオ・ミンニティが住んでいた家です。現存しています。


108
カラヴァッジョは、マリオの家で暫く身を潜めていたようですが、当時のマリオは弟子を何人も抱える繁盛した画家だったので、騎士からの復讐を恐れる身としては身を潜める最適な場所とは言えず、目立たぬ場所に移転したと思われます。


134
シラクーザにある州立美術館にマリオ・ミンニティの作品があります。
どれも一言でいえば、大したことがない作品ですが、ローマで修業して地元に戻った画家、つまり箔があった訳で繁盛していました。
実は、ローマで活躍するには難しいと判断して、1604年頃にローマで結婚した妻と共に、生まれ故郷に戻ったようです。マリオはカラヴァッジョと同じような性格だったようで、帰郷して間もなく殺人を起こしてしまいましたが、地元の有力者に懇願して何とか罪を免れました。
ローマ帰りの箔付けが功を奏して、やがて注文が次々と舞い込む人気画家になりました。
マリオが地元で人気画家になっていたお陰で、カラヴァッジョに仕事が舞い込むことになりました。と言うよりも、マリオが注文主とカラヴァッジョの仲介をしたのです。
ローマで結婚した、いわば糟糠の妻が死ぬと、地元の名士の娘と再婚してさらに成功して、悠々自適だったと伝えられてます。


130
マリオ・ミンニティの代表作です。


131
「聖ルチアの殉教」


132
表現がやや平板的です。


133
「聖キアラの奇跡」


135
こちらは、マリオ・ミンニティの帰属作品です。


136
話を戻して、カラヴァッジョに逃亡を許したマルタ騎士団のその後です。


109
写真はマルタ騎士団長の宮殿です。

カラヴァッジョの脱獄を知った騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは激怒し、ヨーロッパ各地にいる全ての騎士団員に向けて、逃亡者の捕獲と拘留を命じる訓令書を送りました。
恐らく騎士団長は前もってカラヴァッジョの脱獄を知っていたと思われます。

この脱獄は、カラヴァッジョが間違いなく罪を認めたに等しいと解釈されました。


110
1608年12月1日、乱闘に参加した7名の裁判が行われ、逮捕されたカラヴァッジョとサン・ジョヴァンニ大聖堂司祭のフラ・ジョヴァンニ・ピエトロ・デル・ポンテは騎士団から除名、追放処分が出されました。他5名は禁固刑(刑期不明)となりました。カラヴァッジョは勿論欠席裁判となりました。

乱闘の理由など、何も分かっていないにも拘らずカラヴァッジョと大聖堂司祭に二人が逮捕されて、騎士団からの除名という重罪になったことが不可思議です。二人対五人で戦ったのでしょうか。カラヴァッジョは、乱闘の一方の首謀者だったのでしょうか。
高位騎士のベッツァ伯爵は、実戦経験豊富な騎士でした。カラヴァッジョはいつも武装していたにしても所詮は画家で、戦士としてはアマチュアでしょう。重傷を負ったベッツァ伯爵ですが、素人戦士にやられて、これが日本ならば士道不覚悟で切腹でしょうね。士道不覚悟にも拘らずカラヴァッジョに復讐を考えるとは、騎士道に反する馬鹿者としか思えません。
乱闘の理由は不明ですが、女又は男色のトラブル(聖職者には今でも男色の問題が深刻です)だった可能性が高いと思われます。
ともあれ、ベッツァ伯爵は、カラヴァッジョに仕返しをするための刺客を放ちました。


113
マリオ・ミンニティの家を出たカラヴァッジョがシラクーザの何処に居たのか、全く不明です。シラクーザの滞在中、ずっとマリオの家にいたという可能性もあります。


115
騎士からの復讐を恐れるカラヴァッジョは、着の身着のまま、剣を抱えながら眠る毎日だったと伝えられます。常時旅立てる用意を崩さなかったようです。
焦燥感にかられた不安定な精神状態を示したようで、狂人と記された記録が残されてます。


119
写真は、シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会です。

程なくして、マリオ・ミンニティからシラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の祭壇画「聖ルチアの埋葬」の仕事の話が持ち込まれました。
このシラクーザの参議会からの注文は、作品を1608年12月13日までに引き渡す契約になっていました。


120
写真はサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の主祭壇です。Presbiterioの祭壇画がカラヴァッジョの作品です。
この作品は素早く仕上げられたそうです。


121
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ルチアの埋葬」(1608)


122
カラヴァッジョは、「聖ルチアの埋葬」の注文を受けると、この石切り場に行ったそうです。


123
石切り場の内部です。

この石切り場の様子が「聖ルチアの埋葬」に取り入れられました。カラヴァッジョは、この石切り場を「ディオニュシオスの耳」と名付けました。


175
「ディオニュシオスの耳」はシラクーザの考古学公園にあります。


124
荒々しい筆使いで描かれてます。


125
追われていて、いつ殺されるかもしれないとのカラヴァッジョの焦燥感がひしひしと伝わる作品です。


126
シラクーザのドゥオーモ広場に建っているサンタ・ルチア・アッラ・バディア教会です。


127
カラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は2010年頃から、サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会に移されていました。


128
サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会の内部です。主祭壇にカラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」が置かれていました。
2020年頃に、元のサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会に戻されました。
この辺の理由がサッパリ分かりません。2008年頃は州立美術館で展示されていました。


118
さて、話はカラヴァッジョがマルタから脱獄に成功して、初めてシチリア島に到着した場所に戻します。
地図上Aは、テッラノーヴァ(ジェーラ)です。


116
写真はジェーラです。


117
ジェーラに到着したカラヴァッジョは、山道を通って途中カルタジローネを経由してシラクーザに向かったという説もあるのです。


111
カルタジローネです。
カルタジローネ市立図書館に、カラヴァッジョがカルタジローネのサンタ・マリア・デイ・ジェズ教会に立ち寄った記録が残されているそうです。


112
カルタジローネのサンタ・マリア・デイ・ジェズ教会です。

カラヴァッジョが立ち寄ったとされる教会です。


114
シラクーザはマルタ島に近い上に、人の行き来がかなりありました。
カラヴァッジョは、シラクーザに留まっていては危険と判断したに違いない。シラクーザを離れる決心をしました。


129
行先や仕事について恐らくマリオ・ミンニティと相談したと思われます。
親身になって世話をしたマリオにしても、内心ではカラヴァッジョに何時までもシラクーザに留まっていられたら迷惑と思っていたでしょう。刺客に襲われて、巻き添えになってはたまらないからです。


131
カラヴァッジョは、遅くても1608年11月下旬にはシラクーザを立ってメッシーナに向かいました。
その根拠ですが、メッシーナで制作された「ラザロの蘇生」について交わされた1608年12月6日付の制作契約書が残されており、12月6日以前にカラヴァッジョはメッシーナに到着したことが分かります。
(つづく)

足跡を辿って 17.マルタ島から逃亡
100
1607年12月29日付の騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの訓令を受けて、マルタ騎士団駐ローマ大使ロメリーニは、カラヴァッジョともう一人の騎士団入団に向けて、教皇庁と調整を開始しました。


101
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1620)の「教皇パオロ5世とシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は教皇パオロ5世の甥です。

1608年2月7日、マルタ騎士団の駐ローマ大使のロメリーニは、パオロ5世に対して、二人を騎士団に向け入れて欲しい旨、申請しました。
カラヴァッジョについては、直接言及せず、彼(カラヴァッジョ)は、非常に高潔な人物で、非常に名誉ある資質を持ち行動する、我々騎士団が特別な僕として守っている人物としていて、曖昧なままの人物表現でした。


102
写真は、ローマにあるPalazzo Cavalieri di Maltaです。

1608年2月15日、申請があった二名の騎士団入団を認める教皇勅書が出されました。

教皇勅書が出されたことは、マルタ島の騎士団本部にも数日後に伝わったと思われますが、実際にカラヴァッジョが騎士団に入団するのは、1608年7月になります。


103
マルタ騎士団の紋章

マルタ騎士団の規則によれば、入団希望者は修練生としてマルタで修道院に1年間過ごして、訓練に励むことが要求されていました。騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールが駐ローマのロメリーニ大使に訓令を送ったのは、カラヴァッジョが既に半年間以上マルタ島にいたときでした。
ここで注意すべきは、教皇勅書によって入団が認められた者は、マルタでの修道院生活が1年未満であっても勅書が出された後、直ぐに騎士に認められたのが大半だったようです。
カラヴァッジョをマルタに留め置きたいという騎士団長の願望は非常に大きかった半面、騎士団長は、カラヴァッジョが唯一資格を得ることが出来たCavalieri di Obbedienza(治安政務服従の騎士位)を授与する気がなかったことを示してます。
騎士団の階級に於いて、Cavalieri di Obbedienzaの騎士位は、何よりも名誉騎士としての任命であり、政治的な重要性は限定的でした。他の騎士位よりも、高貴な騎士位や正義の騎士位よりも重要性は低かったのです。


104
騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールが真にカラヴァッジョを評価したのは、「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」を見てからだったとされてます。
1608年7月14日、叙階式が執り行われ、カラヴァッジョはCavalieri di Obbedienzaの叙階を受けました。カラヴァッジョは念願である騎士としての武装が出来るようになりました。


105
写真は、フィレンツェのパラティーナ美術館(ピッティ宮)の「眠るアモール」の展示です。

ここからは、カラヴァッジョがマルタ島で制作した作品になります。


106
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「眠るアモール」(1608)


107
キャンバスの裏側にMM di Caravaggio, 1608と書かれてます。


108
マルタ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの秘書だったフランチェスコ・デッランテッラ、またはフランチェスコの妻の注文によって制作された作品です。フランチェスコの弟ニッコロ・デッランテッラによって1609年7月にフィレンツェに持ち込まれました。


110
逸名画家作「フランチェスコ・デッランテッラの肖像」


109
フィレンツェにあるPalazzo dell’Antellaのファサードに描かれた、逸名画家による「眠るアモール」(1619-20)
カラヴァッジョの作品をもとにアンテッラ家邸宅のファサードに描かれました。


111
フィレンツェのパラティーナ美術館です。


112
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「アントニオ・マルテッリの肖像」


113
アントニオ・マルテッリ(フィレンツェ、1534-1618)の肖像説がほぼ定説になりつつあるようです。


114
アントニオ・マルテッリは、1558年にマルタ騎士団の騎士になり、様々な役職を歴任した高位騎士でした。


115


116


117
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「泉の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1608)

マルタの個人所有の作品です。マルタにあることから、カラヴァッジョのマルタ時代に制作された作品とされてますが、真贋を含めて調査不十分のため作品帰属が明確になっていないようです。


119
 前述したように、1608年7月14日、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、カラヴァッジョが服従の騎士として騎士団に入団したことを認めました。


120
写真はアスティにあるPalazzo Roeroです。

それも束の間、カラヴァッジョの乱暴な性格は長くは抑えれなかったようで、騎士になって安心したのか、いつもの悪い性格があだとなって、刃傷沙汰を起こしてしまいます。


122
ヴァレッタにあるサン・ジョヴァンニ大聖堂のオルガンです。

1608年8月18日、サン・ジョヴァンニ修道院教会のオルガン弾き、フラ・プロスぺㇿ・コピーニの家で問題が発生しました。
問題の原因は分かってませんが、コピーニの家でイタリア人の騎士7名が関与する衝突が起きました。武器が使用され、発砲もありました。
その乱闘で、騎士の一人である、高位騎士のヴェッツァ伯爵フラ・ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロ・ディ・アスティが重傷を負ってしまいました。銃創だったという説もあります。
コピーニの家も乱闘によって、ドアが壊されました。プロスぺㇿ・コピーニが乱闘に参加した7人の一人だったかどうかは不明です。しかし、コピーニは乱闘には積極的に加わっていなかったようです。


121
ロエロ家の紋章です。


ロエロ家はピエモンテの名家です。ピエモンテ各地の領地がありましたが、重傷を負ったジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロの領地は、現在のピエモンテ州クーネオ県のヴェッツァにありました。


123
事件後、直ちに刑事委員会が設置されました。


124
1608年8月27日、刑事委員会は、カラヴァッジョとフラ・ジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポンテを関係者として特定し、二人を逮捕しました。
何故二人だけが逮捕され、他の5人が不問にされたのか、その辺が全く不明です。


125
サンタンジェロ要塞です。

逮捕されたカラヴァッジョはサンタンジェロ要塞の地下牢に投獄されました。


127
サンタンジェロ要塞は堅固に造られ、外部からの侵入は極めて困難と言われてます。


130
地下牢の入り口です。

カラヴァッジョが投獄されたのは地下に4メートルの穴を掘って作られた地下牢でした。


129
地下牢に閉じ込められた囚人によって、地下牢の壁に刻まれた彫刻


131
地下牢からの脱獄は不可能と見られていましたが、1608年10月6日夜、カラヴァッジョは脱獄に成功しました。騎士団の有力者の手助けがあって、カラヴァッジョを地下牢から出したに違いないと思われてます。
騎士団長も脱獄を容認していた可能性があります。艦隊司令官ファブリツィオ・スフォルツァ、またはアントニオ・マルテッリ将軍が手助けをしたと推察されてます。


132
その夜のうちに、カラヴァッジョはポルト・グランデに辿り着きました。


128
カラヴァッジョのために、誰かが船を用意していました。


133
カラヴァッジョは大胆で危険な脱獄を成功させ、手配された船に乗ってシチリアに向かったのでした。
(つづく)



足跡を辿って 16.マルタ島
100
1607年6月24日、カラヴァッジョは、マルタ騎士団のガレー船に乗ってマルタ島に向かいました。


101
この一行には、マルタ騎士団ナポリ修道院長イッポリート・マラスピーナ、カラヴァッジョのパトロンであるオッタヴィオ・コスタの息子アレッサンドロ・コスタ、ジュスティニアーニ家のマルカ・アウレリオ・ジュスティニアーニがいました。


104
ナポリからマルタ島まで、18日かかりましたが、途中の経由地については不明です。


102
写真はメッシーナ海峡です。
メッシーナ海峡を通過したのは確実です。


103
ヴィッラ・サン・ジョヴァンニか、メッシーナに係留したかも知れません。


105
マルタ騎士団艦隊は、1607年7月12日、マルタ島に到着しました。


106
ヴァレッタの景観

マルタ島におけるカラヴァッジョの記録は多くありません。


107
騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、カラヴァッジョを受け入れるに当たって、報告を受けていて、カラヴァッジョのことについて相当知っていたと思われます。殺人を犯した者は騎士団に入団できない決まりがあるにも拘わらず、カラヴァッジョが人を殺したことも当然知っていて受け入れた訳です。


108
マルタの主要港があるヴィットリオローザ、またはビルグです。


109
ヴィットリオーザにあるPalazzo dell' Inquisizioneです。異端審問官の公邸であり、中に異端審問裁判所が設けられていました。
騎士団に入団を希望する者は、先ず異端審問裁判所に出頭して、証人席で証言する必要がありました。


110
カラヴァッジョは、マルタ島に到着すると、直ぐに異端審問裁判所に出頭を命じられたことでしょう。
異端審問でOKが出ないと、即刻退去命令が出されます。


113
1607年7月14日、カラヴァッジョのマルタ島における最初の記録が残されました。
その日、カラヴァッジョは、シチリア出身の騎士ジャコモ・マルケーゼの家でギリシャ出身の画家と出会いました。
そのギリシャ人画家に対する重婚についての裁判が1607年7月26日に行われましたが、カラヴァッジョは証人として出廷して証言した記録が残されています。


111
他の騎士団入団希望者と同様に、カラヴァッジョは連日軍用ガレー船に乗船しての訓練に明け暮れていたと思われます。


112
剣術修行も必修でした。


114
マルタ島時代に制作されたカラヴァッジョの作品が多くないのは、騎士への見習い訓練が重点とされていて、絵画制作に十分な時間が取れなかったからとされてます。


145
マルタ騎士団の紋章です。

カラヴァッジョが訪れた時代のマルタ島の状況を知ることは、カラヴァッジョの足跡と作品を訪ねる上で、非常に重要なので、ここで触れておきます。
1048年頃または1080年頃にエルサレムで設立されたエルサレム聖ヨハネ主権軍事病院騎士団が前身で、第一回十字軍の際には負傷した騎士などの看護に当たりましたが、第一回十字軍後の1113年2月15日、第160代教皇パスカル2世(教皇在位:1099-1118)の教皇勅書によって軍事修道会になりました。その後、数多の変遷を経て、1530年にマルタ島に本拠地を移したことから、マルタ騎士団と呼ばれるようになりました。


141
ロードス島の要塞です。

正式な承認を経て、1291年にはエルサレムを離れ、キプロスに本拠地を構えましたが、1309年にロードス島をイスラム勢力から占領し、対イスラム勢力の代表的な軍事組織として、ロードス島の要塞化を推進するとともに海軍艦隊の整備増強を図りました。
1480年、オスマン帝国との戦争が初めて起きました。


142
1522年の最後のロードス島包囲戦を描いた絵

1522年、スレイマン大帝(在位:1520-1566)によって率いられた10万人の兵士と3百隻の艦隊によって、ロードス島は包囲されました。島の住民7千人と騎兵500人からなる騎士団は良く戦いましたが、激しい包囲戦は、1522年7月28日から12月22日まで続いたものの、遂に城砦はオスマン帝国側に堕ち、ロードス島はイスラム側に占領されました。
生き残った騎士300名は、すべての動産を船に積み込むことを許されて、1523年1月1日、ロードス島を後にしました。
その後、数年間、騎士団には領土がありませんでした。


144
ティツィアーノの「皇帝カール5世の肖像」(1554)

ロードス島を追われた騎士団は、一時的にヴィテルボ、ニース、シチリア島に滞在しましたが、1530年3月24日、皇帝カール5世は、騎士団にマルタ島を与えました。以後、マルタ島が騎士団の本拠地となり、マルタ騎士団と呼ばれるようになりました。
当時のマルタ島は、不毛で荒涼とした人口の少ない島でしたが、オスマン帝国の脅威は増すばかりだったので、騎士団はマルタ島の防衛力向上と艦隊整備に努めました。
騎士団は、ヨーロッパの貴族出身の騎士が多く、キリスト教国の対イスラム勢力の前線基地としての存在として、出身家、出身国からの多額の資金援助がありました。


140
「マルタ騎士団長フラ・ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットの肖像」

1557年、フラ・ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットが第49代騎士団長に選出されると、ただちに非キリスト教徒の船に対する攻撃を奨励し、大きな戦果を挙げました。トルコ人の被害は増えていきました。
1565年、騎士団をマルタ島から放逐するために、スレイマン大帝は193隻の船と4万8千人の兵士からなる大軍を擁してマルタ島の包囲攻撃に着手しました。


143
1565年のマルタ大包囲戦を描いた絵画

1565年3月にコンスタンティノープルを出港したトルコ艦隊は、1965年5月18日、マルタに到着しました。戦いは9月11日までの約4か月間続きましたが、激戦の末にマルタ騎士団は良く持ちこたえ、シチリアの援軍があって包囲軍の撃退に成功しました。トルコ側の支社は3万5千人に上ると言われてます。
マルタ包囲戦に続き、1571年10月7日に起きた「レパントの海戦」で、教皇軍、スペイン軍、ヴェネツィア共和国軍にマルタ騎士団が加わった連合海軍がオスマン帝国軍を破り、地中海におけるスペイン勢力の覇権が確立されました。


135
Torre di Santa Luciaです。

マルタ包囲戦で焦土と化した甚大な被害を受けた騎士団は、直ちに復興と堅固な要塞都市の建設に乗り出しました。
騎士団長ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットは、1568年に死去しましたが、築かれつつある要塞都市は騎士団長の名前に因んでヴァレッタと名付けられました。


136
Torre di San Tommasoです。

マルタ島は、いつ何時トルコ軍が来襲しても戦えるように臨戦態勢にありました。


137
Torre di San Paoloです。

ヴァレッタに新しく建てられた宮殿や教会は、豪華壮麗に装飾される計画でした。それに従事する芸術家の需要が高かった時期と言えるでしょう。


138
Torre di Santa Mariaです。

カラヴァッジョのローマにおける名声はマルタ島でも知られていたようで、歓迎されていたと思われます。


115
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの肖像」(1607-08)


116
カラヴァッジョは、アロフ・ド・ウィニャクールの肖像画を2点描いたとされてますが、現存するのはルーブル美術館にある、この作品だけです。
アロフ・ド・ウィニャクールは、1601年から1622年まで騎士団長を務めました。


117
兜を持って立っている少年は騎士団長の小姓とされてます。

カラヴァッジョのこの肖像画は騎士団長に歓迎されたようです。


118
ヴァレッタにあるサン・ジョヴァンニ大聖堂です。


119
大聖堂にカラヴァッジョの大作があります。


120
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


121
斬首された首から流れる血の下に画家の名前が書かれてます。Fはフラを表してます。


122
怖々と斬首を見つめる囚人


123
カラヴァッジョの畢生の大作です。
カラヴァッジョの代表作を1点挙げるとするならば、私は迷わずこの作品にします。


124
ヴァレッタの大聖堂には、カラヴァッジョ作品がもう1点あります。


125
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「書斎の聖ジローラモ」


126
画面に向かって右下端にマラスピーナ家の紋章が描かれてます。この紋章の存在によって、ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナの注文によって制作された説が最有力です。


130
マラスピーナ家の紋章です。



127
ところが聖ジローラモの顔が騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールに非常に似ています。聖ジローラモはアロフ・ド・ウィニャクールの肖像画であるという説もあるのです。


128


129
丹念に制作された作品と言えるでしょう。


131
ローマのクイリナーレ宮殿です。

1607年8月20日、モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティは、モデナ公チェーザレ・デステ公爵の秘書ジョヴァン・バッティスタ・ラデルキに書簡を送り、その中でカラヴァッジョの恩赦についての話し合いが行われていると報告しました。


132
ローマのマルタ騎士団広場です。


133
ローマにあるマルタ騎士団宮殿です。

1607年12月29日、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、マルタ騎士団のロメリーニ駐ローマ大使に書簡を送り、画家である人物の騎士団への入団に関して、教皇パオロ5世との交渉を開始するようにと指示しました。


134
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「教皇パオロ5世の肖像」
(つづく)

足跡を辿って 15.ナポリからマルタ島へ
100
カラヴァッジョに関する記録を時系列に紹介します。


104
フォスティノーヴォ(トスカーナ州)侯爵イッポリート・マラスピーナ(フォスティノーヴォ、1540-マルタ、1622)の紋章

イッポリート・マラスピーナは、レパントの海戦で活躍した勇士で、教皇庁司令官を経て、カラヴァッジョがナポリに滞在していた時の1606年10月、マルタ騎士団のナポリの修道院長になりました。また、カラヴァッジョのパトロンであるオッタヴィオ・コスタとは親類でした。
アロフ・デ・ウィニャクールの後を受けて、マルタ騎士団長になります。


101
シピオーネ・プルツォーネ(ガエータ、1544-ローマ、1598)の「カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの肖像」

1606年10月4日、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァは、ローマのサンティ・アポストリのコロンナ宮殿を出て、ミラノに戻りました。


105
ローマのコロンナ宮殿です。

コスタンツァ・コロンナは、1600年から6年間、この宮殿に住んでいました。
カラヴァッジョがラヌッチョ・トマッソーニを殺害してから、この宮殿に逃げ込み、コスタンツァから逃亡に関する支援、指示を受けたと思われます。


106
ミラノのカラヴァッジョ宮殿は、サン・ジョヴァンニ・イン・コンカ教会の横にありました。現在は、この教会と共に破壊されて現存していません。

ミラノに戻ったコスタンツァ・コロンナは、1年後にナポリでカラヴァッジョと再会することになります。


107
1606年10月6日、カラヴァッジョは、ニコラ・ラドゥロヴィチから「聖母子と聖人たち」の前払い金として200ducatiの支払いを受けました。


108
1606年10月25日、カラヴァッジョは、ニコラ・ラドゥロヴィチから支払われた前払い金200ducatiのうち、150ducatiをサンタ・マリア・デル・ポポロ銀行(現ナポリ銀行)から引き出しました。


109
ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会です。


110
サン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会は、テンプル騎士団の所有でしたが、1312年にマルタ騎士団の所有となりました。
コスタンツァ・コロンナの三男ファブリツィオ・スフォルツァは、1602年に決闘で人を殺したことがあり、カラヴァッジョと同じ境遇の勇士でした。カラヴァッジョとファブリツィオは幼いころからの遊び友達同士でした。
ファブリツィオは、ヴェネツィアのマルタ騎士団修道院長の任にありましたが、1606年にマルタ騎士団艦隊の司令官に任命されました。


103
逸名画家作「マルタ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクール(フランス、1547-マルタ、1622)の公式肖像」(17世紀初頭)

後にカラヴァッジョもアロフ・ド・ウィニャクールの肖像画を制作しました。

1606年11月21日、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、ヴェネツィア修道院長ファブリツィオ・スフォルツァに書簡を送り、ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナを騎士団艦隊に乗船させマルタに向かわせることに同意するので、マラスピーナと連絡を取るようにと伝えました。


111
1607年1月9日、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂の「慈悲の七つの行い」の制作料400ducatiがカラヴァッジョに支払われました。


1440
1607年2月11日、マルタ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナに書簡を送り、ファブリツィオ・スフォルツァ将軍の指揮するガレー船に乗船してマルタ島に来られたし、また艦隊にカラヴァッジョも乗船させると伝えました。


113
フランス・プルビュス(子)(アントワープ、1569c-パリ、1622)の「ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世の肖像」(1602)

ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世(マントヴァ、1562-1612)は、1607年2月24日、ルーベンスの助言を受け入れて、カラヴァッジョの「聖母の死」をローマで購入しました。


114
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖母の死」

マントヴァに送られてきた「聖母の死」を見たヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世は、カラヴァッジョに制作を依頼しようとしましたが果たせませんでした。


115
1607年4月28日、Geronimo Mastrilliは、カラヴァッジョとバッティステッロ・カラッチョロにそれぞれ作品を注文しました。この注文に基づくカラヴァッジョの作品が特定されてません。また、現存しないようです。


116
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの鞭打ち」

1607年5月11日、カラヴァッジョは、トンマーゾ・デ・フランキスから「キリストの鞭打ち」の頭金150ducatiを受け取ります。残金の250ducatiは完成納品時に支払いを受けることになっていました。


117
ナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会です。

注文主のトンマーゾ・デ・フランキスは、スペイン副王(ナポリ国王)の顧問を務めていました。


102
写真はモデナの王宮です。

1607年5月26日、モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティは、チェーザレ・デステ公爵の秘書ジョヴァン・バッティスタ・ラデルキに書簡を送り、カラヴァッジョに対する恩赦に向けた交渉が行われていると報告しました。殺人は偶発的であり、カラヴァッジョも重傷を負っているので、恩赦に値すると主張して交渉している、と伝えました。


112
1607年5月28日、トンマーゾ・デ・フランキスは、サンテリージョ銀行(現ナポリ銀行)を通じて、カラヴァッジョに40.09ducatiを支払いました。確証がありませんが、「キリストの鞭打ち」の頭金の追加支払いとされてます。


118
写真はマルセーユ港です。

カラヴァッジョが乗船することになる、ファブリツィオ・スフォルツァ将軍が指揮するマルタ騎士団艦隊は、マルセーユ港にいました。艦隊はマルセールからジェノヴァを経由して一旦ナポリに向かいました。



119
写真はジェノヴァ港です。

ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナは、ジェノヴァ港から艦隊に乗船しました。


120
ジェノヴァ港に係留されているガレー船


121
カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナは、息子ファブリツィオ・スフォルツァが指揮するマルタ騎士団艦隊に乗船してナポリに向かいましたが、その乗船場所が分かりません。(私が、です)


122
逸名画家作「モデナ公爵チェーザレ・デステ(フェッラーラ、1561-1628)の肖像」

1607年6月2日、モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティはカラヴァッジョに対して、モデナ公チェーザレ・デステが注文の前払い金32scudiを支払ったが、制作されていないので返金を求める手紙を送りました。しかし、結局、カラヴァッジョから返金されずに終わったようです。
このことから、カラヴァッジョがナポリにいることはファビオ・マセッティが知っていたことになるわけで、恐らくカラヴァッジョのナポリ滞在はローマでは公知だったのでしょう。


123
カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの次男ルドヴィーコ・スフォルツァは、ナポリのサン・ジョヴァンニ修道院の修道院長を務めていました。


124
1607年6月14日、ファブリツィオ・スフォルツァ将軍が指揮するマルタ騎士団艦隊は、ナポリに到着しました。カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナ、マルタ騎士団ナポリ修道院長イッポリート・マラスピーナも乗船していました。


125
ラヌッチョ・ファルネーゼ公爵のナポリにおける代理人アレッサンドロ・ボッカバディーレがパルマに送った1607年6月22日付の手紙が残されており、その中で「5隻のガレー船が8日前にナポリに到着し、カラヴァッジョ侯爵夫人がそれに乗船していた」と報告しました。
この手紙の存在によって、ナポリ到着が1607年6月14日と特定されたのです。カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナはナポリで下船しました。


126
ナポリのキアイア地区にあるPalazzo Cellammareです。
この宮殿にコスタンツァ・コロンナの妹ジョヴァンナ・コロンナが住んでいました。コスタンツァのナポリでの住まいは、この宮殿だったと思われます。


127
Palazzo Cellammareで、コスタンツァは息子ファブリツィオと共にカラヴァッジョと会い、カラヴァッジョのマルタ島行きが最終的に決まったものと思われます。ローマにおける恩赦に向けた動きなども話し合われた可能性があります。
いずれにしてもカラヴァッジョの乗船とマルタ島行きについては、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールや騎士団関係者との事前根回しが行われていたと思います。
カラヴァッジョがマルタに行くのは、騎士の称号を得たいからと言われてますが、カラヴァッジョのマルタ行きはコロンナ家一族の方針だった可能性があります。


129
1607年6月24日、カラヴァッジョは、ファブリツィオ・スフォルツァが船長を務める騎士団のガレー船に乗船して、マルタ島に向けてナポリを出発しました。
(つづく)

足跡を辿って 14.最初のナポリとカラヴァッジェスキ画家
100
ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの剣によって頭部に重傷を負ったカラヴァッジョは、傷が癒えたことに加えて、教皇庁の権力が及ばない外国のナポリに来て、一時の安寧を得たと思われます。


105
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「詩人ジャンバッティスタ・マリーノの肖像」(1600-01)

ジャンバッティスタ・マリーノ(ナポリ、1569-1625)は、史上もっとも偉大なイタリア詩人の一人とされており、特に叙事詩で最も有名です。
この肖像画はローマで描かれましたが、マリーノは同性愛的傾向があったことで、男色的慣行を忌避する反宗教改革の中で、ナポリからの逃亡を已む無きとされてローマへと逃避していた時に描かれました。スペインは反宗教改革を掲げた代表的な国家であり、スペイン統治下のナポリも反宗教改革運動が盛んでした。


106
フランス・プルビュス1世(アントワープ,1569-パリ、1622)の「詩人ジャンバッティスタ・マリーノの肖像」(1621c)
マリーノ52歳頃の肖像です。

マリーノがナポリの注文主やコレクター、貴族、聖職者などにカラヴァッジョを紹介した一人であることは間違いないと言われてます。


107
制作者不詳の「ジョヴァンニ・バッティスタ・マンゾ侯爵の肖像(エッチング)」

ジョヴァンニ・バッティスタ・マンゾ(ナポリ、1569-1645)侯爵は、ヴィララーゴ侯爵でビサッチャのシニョーレ(領主)です。マンゾは、作家、詩人、芸術の後援者で、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア設立を主導した一人でした。マンゾは、詩人のマリーノとは親友同士でした。
マリーノがマンゾ侯爵にカラヴァッジョを紹介しました。それによって、「慈悲の七つの行い」がカラヴァッジョに注文されたという有力説があります。


101
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「サロメ」(1607/1610)


102
この作品はロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。

フランスの個人が所有していましたが、1959年にロベルト・ロンギによって発見され、カラヴァッジョの真作としましたが、一部の美術史家がカラヴァッジェスキ画家による作品説を提案しました。ジョヴァン・ピエトロ・ベッローリが1677年に出版した「現代の画家、彫刻家、建築家の生涯」の中で、カラヴァッジョの伝記を記述していますが、伝記の中でカラヴァッジョのナポリ滞在中に「サロメ」が描かれたと触れてます。その「サロメ」がこの作品である考えている美術史家もいます。
サー・デニス・マホンの提案によって、1970年に10万ポンドでナショナル・ギャラリーによって買収されました。


103
「サロメ」の右端に描かれた死刑執行人は、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。また、カポディモンテ美術館所蔵の「キリストの鞭打ち」の左端に描かれた拷問者もジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。
このことから、「キリストの鞭打ち」が制作された時と同時期の、カラヴァッジョの一回目のナポリ滞在時の1607年頃に制作されたという説が信じられてます。


104
ナショナル・ギャラリーでは、カラヴァッジョの二回目のナポリ滞在時に描かれた説を採用しています。


140
カラヴァッジョが最初のナポリ滞在以前のナポリ画壇は、やや時代遅れとも思える後期マニエリスム様式が主流でした。
カラヴァッジョがナポリに来たことは、ナポリの画家たちにすぐに知られて大歓迎されました。やがてカラヴァッジョの様式を取り入れる画家たちが出てきました。
次にナポリのカラヴァッジェスキ画家について触れておきます。


112
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「自画像」(1613)

ルイ・フィンソンは、フランドル出身の画家ですが画商も兼ねていました。1605年から1613年にかけてナポリに滞在し、カラヴァッジョと知り合いました。そして、カラヴァッジェスキの最初のフランドル人画家となりました。
カラヴァッジョの影響を受けた作品を制作するだけでなく、カラヴァッジョ作品の複製画を手掛けました。複製画の中には、カラヴァッジョの真作が既に失われて存在しない作品の複製画が幾つかあり、カラヴァッジョ作品を知る上に貴重な資料になってます。
また、ナポリに到着したカラヴァッジョに対して、援助を申し出たと考えられており、カラヴァッジョに制作する場所を手配したようです。
フィンソンがカラヴァッジョ作品の複製画を多く手掛けたことは、カラヴァッジョの身近にフィンソンがいたこと、自分の画風を真似されるの嫌っていたカラヴァッジョが自分の作品の複製画制作をフィンソンに対して認めていたことから、二人は非常に親密な関係だったことが分かります。


108
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『聖アンドレアの殉教』の複製画」

カラヴァッジョの「聖アンドレアの殉教」は現存していません。


109
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『キリストの復活』の複製画」

カラヴァッジョの作品は、ナポリのサンタンナ・デイ・ロンバルディ教会にありましたが、1805年に地震によって破壊されて現存しません。


110
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『法悦のマグダラのマリア』の複製画」

カラヴァッジョの「法悦のマグダラのマリア」の第一作は、所謂「クラインのマグダラのマリア」であると言われてます。フィンソン自身の署名入りのカラヴァッジョの複製画が二点あります。


113
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『ユディト』の複製画」
ナポリのパラッツォ・セバロス・スティリアーノ美術館にあります。


114
2014年、フランス、トゥールーズの屋根裏部屋で、カラヴァッジョの真作かも知れない、これと同じ図柄の作品が発見されました。
ルイ・フィンソンの作品は、発見された作品の鑑定のためにフランスに貸し出されました。


141
トゥールーズの屋根裏部屋で発見されたカラヴァッジョの作品かも知れない作品です。


111
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「聖セバスティアーノの殉教」

これはフィンソン自身の作品です。カラヴァッジョの影響が強く出ています。


118
制作者不明の「ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロの肖像」

カラッチョロは、カラヴァッジョと親密だったと思われ、ナポリのカラヴァッジェスキ画家の代表的存在です。
カラヴァッジョがナポリから去って死亡した1610年を過ぎても、カラヴァッジョの強い影響を受けた作品を数多く制作しました。


115
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「獄からの聖ピエトロの解放」


116
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂にあります。


117
カラッチョロの作品は、ナポリの教会や美術館に沢山あって、ナポリはカラッチョロの街と言っても過言ではありません。


120
ナポリのサンタ・マリア・デッラ・ステラ聖堂です。


121
サンタ・マリア・デッラ・ステラ聖堂にカラッチョロの代表作があります。


119
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「無原罪の聖母」


122
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「荊刑のキリスト」


123
カポディモンテ美術館にあります。


124
ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「この人を見よ」


125
カポディモンテ美術館にあります。


126
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「磔刑」


127
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアの画廊にあります。


132
ナポリにあるPalazzo Realeに描かれたジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ,1578-1635)のフレスコ画です。
カラヴァッジョはフレスコ画が苦手だったようですが、カラッチョロはフレスコ画も得意でした。


133
カラッチョロは、Palazzo Realeのフレスコ画にカラヴァッジョの肖像を描き入れました。


128
カルロ・セッリット(ナポリ、1581-1614)の「聖チェチリア」


129
カポディモンテ美術館にあります。


130
カルロ・セッリットは、ナポリ派のカラヴァッジェスキ画家です。


131
カルロ・セッリット(ナポリ、1581-1614)の「サロメ」

登場人物の顔までもカラヴァッジョの作品に似ています。


134
アンドレア・ヴァッカーロ(ナポリ、1604-1670)の「ピエタ」

カラヴァッジョが没してからもナポリではカラヴァッジョ様式が盛んでした。


135
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアの画廊にあります。


136
ジュゼペ・デ・リベラ(バレンシア,1591-ナポリ,1652)の「聖アントニオ・アバーテ」

リベラもナポリ派のカラヴァッジェスキ画家の代表的存在です。


137
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアの画廊にあります。


138
フィリッポ・ヴィターレ(ナポリ,1585-1650)の「イサクの犠牲」

ヴィターレは、年少のリベラに師事したナポリ派のカラヴァッジェスキ画家です。


139
カポディモンテ美術館にあります。


142
以上がナポリのカラヴァッジェスキ画家の紹介でした。
(つづく)

足跡を辿って 13.最初のナポリ
100
カラヴァッジョがナポリに逃避した時代、ナポリは、スペイン副王がナポリ総督を務めるスペイン領でした。教皇庁官憲の力が及ばない外国だったので、身の安全という点ではラツィオ山中のコロンナ家領地よりもナポリの方が遥かに勝っていました。


101
当時のナポリは、人口約27万人の大都会でした。ローマの人口が約10万人でしたから、約三倍の規模に当たります。
繁栄していましたが、スペインの植民地のようなものだったので、社会的インフラは乏しく、少数の貴族が繁栄を謳歌する一方、一般庶民は貧しく、狭い路地にひしめき合って建てられた薄暗い建物に居住していました。貧民は街にあふれ、不潔極まりない環境の中での生活を余儀なくされ、風紀が乱れていました。
しかし、逃亡生活を送るカラヴァッジョにとっては、身を隠すには絶好の場所でした。


102
ナポリのPalazzo Colonnaです。

カラヴァッジョがこの邸宅に行った記録は残されていません。


103
地図Aはカリタ広場を示します。

カラヴァッジョがナポリに逃亡したころ、カリタ広場周辺に多くの芸術家たちが集まっていました。


104
トレド通りです。

カラヴァッジョが逃亡した時代も今も、トレド通りはスペイン人街の中心です。


105
カラヴァッジョがナポリにいるらしいことは直ぐに噂になりました。これでは、潜伏するためにナポリに逃亡した甲斐がなさそうですが、ナポリがスペイン領だったので大丈夫と判断したようです。


106
写真右はサン・二コラ・アッラ・カリタ教会です。


107
イタリア中に知れ渡っている有名画家がナポリに来たということで、貴族や画家は大歓迎しました。そして、直ぐに注文が舞い込みます。
1606年10月6日、ラグーザの大商人Nicolo Radulovichがナポリのサンテジーディオ銀行に200ducatiを振り込みました。それは、カラヴァッジョに「聖母子と聖ドメニコと聖フランチェスコと聖ニコロと聖ヴィトーと天使たち」の制作にかかわる前払金でした。
その作品は、1606年12月31日までに納品することになってました。期日までに納品出来なかったようですが、返金の記録が残されていないので、この作品は制作されたと考えられてます。しかし、作品は行方不明です。
この件は、カラヴァッジョが1606年10月6日にナポリにいたことを示す最初の確実な記録となってます。


108
写真はナポリにあるナポリ国立銀行です。

1606年10月25日、カラヴァッジョは、Nicolo Radulovichから支払われた前金のうち、別の銀行で150ducatiを引き出しました。
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、ナポリでは8つの銀行が設立されましたが、1794年にナポリ国王のフェルディナンド4世の命によって、ナポリ国立銀行に統合されました。
カラヴァッジョが150ducati引き出した銀行もその8銀行の一つでした。


109
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ロザリオの聖母」
 
ウィーンの美術史美術館にあります。


110
この作品の制作された経緯が分かってませんが、カラヴァッジョの最初のナポリ時代に描かれたとされてます。


111
フランドルの画家フランス・プルビュス1世(アントワープ,1569-パリ、1622)がヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ公爵(マントヴァ,1562-1612)に宛てた1607年9月の報告書で、カラヴァッジョがロザリオを描いた大きな祭壇画を画家兼画商のルイ・フィンソンがナポリで持っていると報告しました。
その報告書によって、1607年9月に「ロザリオの聖母」がナポリに存在していたことが分かるので、恐らく最初のナポリ滞在中に描かれた作品であるとされました。


112
この作品が制作された経緯について、色々と議論、仮設が出されてきました。そのうち、3つの説が有力とされてますが、いずれも定説になってません。

モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティがモデナ公爵チェーザレ・デステの秘書ジョヴァンニ・バッティスタ・ラデルキに宛てた1606年7月12日付の手紙の中で、「カラヴァッジョはローマに戻るつもりであり、彼が戻ったら絵の代金として前払いした金の返却を要求することができるだろう」と書きました。この手紙がロザリオの聖母が制作された説の根拠となってます。
しかし、エステ家の注文に対してカラヴァッジョが履行した記録がありません。


113
第二の有力説は、作品の左端に描かれたいる柱(コロンナ)がコロンナ家を暗示しているとし、ジョヴァンナ・コロンナ(コスタンツァ・コロンナの実妹)の息子ルイージ・カラファ・デッラ・ステデラがナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会のカラファ家所縁の礼拝堂の祭壇画として描かれたというものです。
しかし、これを裏付ける記録がありません。

第三の有力説は、ラグーザの大商人Nicolo Radulovichが200ducatiの前払い金を払って完成したのが、この作品というものです。しかし、指定されていた絵柄と主題が全く異なります。

3つの有力説も説得力に欠け、この作品の制作経緯は今なお不明とされてます。

1617年、ピーテル・パウル・ルーベンスの提案によって、この作品はアントワープの芸術家グループに購入され、フランドルのドメニコ会教会に寄付されました。1781年、フランドルを領有していたハプスブルク家の皇帝ヨーゼフ2世の命によってウィーンに移されました。


114
ナポリのサンタンナ・ディ・ロンバルディ教会です。聖アンナに献じる教会です。


115
ナポリとフィレンツェの密接な関係を示す1411年創建の教会です。
アントニオ・ロッセリーノ、ベネデット・ダ・マイアーノなどのフィレンツェの芸術家の作品やナポリで活躍した芸術家などの作品があって、美術的に非常に見所が多い教会です。


116
カラヴァッジョ好きの美術愛好家にとって、必訪の教会になっていたことでしょう。


117
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」、「瞑想する聖フランチェスコ」、「キリストの復活」のカラヴァッジョの三作品がありました。
カラヴァッジョ作品が礼拝堂にありましたが、1805年の地震によって修復不能に破壊され、失われてしまいました。その地震でも問題がなかった礼拝堂、作品が数多く残されているだけに、カラヴァッジョ作品の消滅は非常に残念です。


118
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『キリストの復活』の複製画」

ルイ・フィンソンは、画家でしたが画商を兼ねていました。カラヴァッジョと仲が良く、カラヴァッジョの「マグダラのマリア」、「ユディト」などの複製画を制作したことで知られてます。
失われたカラヴァッジョの「キリストの復活」を伝える唯一の資料になってます。

ナポリ時代になると、カラヴァッジョの画風は、闇がより深くなり、薄塗となって、荒々しい筆使いと光と影のコントラストが鮮明となるとともに、凄絶な感じが強調されるように変わりました。


119
ナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会です。


120
アンジュー王カール2世の命によって1283年から1324年に建設されたアンジュー・ゴシック様式の教会です。


121
Cappella della Madonna di Zi Andrea、またはCappella de’Franchisと呼ばれている左側廊第一礼拝堂です。この礼拝堂の祭壇画はカラヴァッジョの作品でした。


122
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの鞭打ち」


123
「キリストの鞭打ち」はナポリのカポディモンテ美術館にあります。


124
制作されてから1980年まで教会の礼拝堂にありましたが、1980年11月23日に発生したイルピニア地震の後、教会の礼拝堂に置いておくと破壊される危険性があるかもしれない、との安全上に理由から取り外され、カポディモンテ美術館に移されました。


125
サン・ドメニコ・マッジョーレ教会の左側廊第一礼拝堂を所有していたトンマーゾ・デ・フランキスが少なくても200ducatiの頭金を払って制作されました。


126
画面左の残忍な拷問者は、ラヌッチョ・トマッソーニの兄で、カラヴァッジョの頭部を斬り付けたジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。


127
真ん中に描かれたキリストが直接光によって強調され、微かな光線によってキリストの体を支えっる柱が描かれてます。闇に包まれた処刑人が光沢ある姿と光に照らされたキリストとのコントラストが劇的な表現を高めてます。背景は非常に暗く、黒で仕上げられてます。最初のナポリで描かれた構図は、これと違っていました。
三人目の拷問者が描かれていたのですが、マルタ、シチリアを経て二番目のナポリ滞在中に、三人目の拷問者は削除され、左のジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像の拷問者のポーズを変更しする削除、加筆修正を行いました。


128
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの鞭打ち」

別バージョンの「キリストの鞭打ち」です。ルーアンの美術館にあります。


129
カラヴァッジョの最初のナポリ滞在の1606年から1607年頃に制作されたとされてます。

作品制作の経緯は全く分かりません。ルーアンの美術館に初めて所蔵された1955年には、マッティア・プレティ(タヴェルナ、1613-マルタ、ヴァレッタ、1699)の作品とされていました。


130
ナポリのピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂です。


131
教会と画廊がMuseoとして公開されてます。


132
聖堂の主祭壇画がカラヴァッジョの作品です。


133
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「慈悲の七つの行い」


134
生前に7つの慈悲の行いをすると救われるというカトリックの教義があり、それを実行するための慈善団体の教会が建設され、その中央礼拝堂の祭壇画が400ducatiの高額でカラヴァッジョに注文されました。
7つの慈悲の行いとは、飢えた人に食事を与えること、喉が渇いた人に飲み物を与えること、裸の人に服を与えること、巡礼者に宿を与えること、病人を見舞うこと、囚人を慰問すること、死者を埋葬すること、とされていました。


135
カラヴァッジョは慈悲の7つの行い全てを画面に描きました。


136
カラヴァッジョに対する具体的な注文の経緯は不明となってます。


137
注文の経緯については、2つの有力説があります。

カラヴァッジョ公爵夫人コスタンツァ・コロンナの実妹ジョヴァンナ・コロンナの息子ルイージ・カラファの取り成しによる説と、慈善団体創設の7人の貴族の一人で、コロンナ家と親密だったジョヴァンニ・バッティスタ・マンソー(ナポリ,1569-1645)が注文を決定した説があります。


138
14人を登場させ、7つの慈悲を描いた複雑な構図の作品となってます。


139
この作品はナポリの画家に大きな影響を与え、カラヴァッジェスキ画家がナポリで主流を占める原動力となりました。


140
最初のナポリ滞在では、精力的に仕事をこなしました。


141
(つづく)

足跡を辿って 12.コロンナ家領地からナポリへ
50引き続きラツィオ山中に潜伏中に制作された作品です。
写真はローマにあるバルベリーニ宮です。


51
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖フランチェスコ」


52
バルベリーニ宮の国立古典絵画館で展示されてます。
美術史家のマウリツイオ・マリーニ(ローマ、1942-2011)が2001年のカラヴァッジョ展において、コロンナ家の庇護にあったラツィオ山中に潜伏中の1606年頃に制作されたとしました。
この作品は、ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)によって注文されました。


53
オッタヴィオ・レオーニの「ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿の肖像」


54
写真はカルピオーネ・ロマーノの全景です。当時、カルピオーネ・ロマーノは、アルドブランディーニ家の領地でした。
ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿は、カラヴァッジョの「瞑想の聖フランチェスコ」をカルピオーネ・ロマーノのサン・ピエトロ教会に設置しました。


55
カルピオーネ・ロマーノのサン・ピエトロ教会です。


56
クレモナの市立アラ・ポンツォーネ博物館です。


57
クレモナ市立博物館に「祈る聖フランチェスコ」があります。


58
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「祈る聖フランチェスコ」


59
この作品は、コロンナ家領地のラツィオ山岳地帯に潜伏中に制作された「エマオの晩餐(ミラノ、ブレラ絵画館)」と様式が非常に似ています。


60
ナポリ潜伏中の初期に制作された作品の一つといわれてきましたが、1951年に美術史家サー・ジョン・デニス・マオン(ロンドン、1910-2011)が様式的にブレラ絵画館の「エマオの晩餐」に似ているので、ラツィオ山中に潜伏した時に描かれたという説を発表しました。


310
ラヌッチョ・トマッソーニ殺害事件から、カラヴァッジョの死に至る記録は、逃亡生活という事の性質上極端に少なくなりますが、僅かに残された記録があるので、以下に触れておきます。


301
1606年5月28日の事件に関する記録:
駐ローマのウルビーノ大使からウルビーノ公爵に報告された記録によれば、「ローマでテニスの試合中に、カラヴァッジョがルカ・アントニオ・トマッソーニの息子でカンポ・マルツィオ地区の地区長ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの弟であるラヌッチョ・トマッソーニを殺害した。彼がテニスしていた場所はフィレンツェ宮のテニス・コートで、喧嘩の理由はカラヴァッジョがラヌッチョに負った、賭け金10,000scudiの借金だったに違いない。同じ日、ラヌッチョはパンテオンの教会に埋葬された文書があるので間違いない」
1万スクーディは大金です。大作を30点ほど完成させないと得られない金額です。その額ならば、生死をかけたトラブルになるのは必定ですが、誇張のように思えます。


62
フランス・プルビュス(子)(アルトウェルペン、1569-パリ、1622)の「チェーザレ・デステ公爵の肖像」(1606)

モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティがモデナ公チェーザレ・デステ(フェッラーラ、1562-1628)に宛てた1606年5月31日付けの報告書が残されてます。
マセッティは、「画家のカラヴァッジョはフィレンツェに逃亡し、恐らくモデナ公国にも行くだろう」と報告しました。見当違いも甚だしいと思いますが、カラヴァッジョが最早ローマにはいないことが分かります。
後にジョヴァンニ・バリオーネが書いたカラヴァッジョの伝記によれば、「カラヴァッジョはパレストリーナにいて、当時のパレストリーナ司教は、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの弟アスカニオ・コロンナだったので、パレストリーナに行ったのだろう」と述べてます。


P1810451
写真はモデナです。

モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティがモデナ公チェーザレ・デステ公爵の秘書ジョヴァンニ・バッティスタ・ラデルキに宛てた1606年7月12日付けの手紙が残されており、その手紙の中でマセッティ大使は「カラヴァッジョはローマに戻るつもりであり、ローマに戻ったらカラヴァッジョに絵の制作費として前払いした金を返すように要求できるだろう」と書きました。
この手紙によって、カラヴァッジョはいずれローマに戻るつもりであること、またモデナ公が制作費を前払いカラヴァッジョに注文したことが分かります。
モデナ公の注文によって制作された作品が「ロザリオの聖母(ウィーン、美術史美術館にある)」であるとの説があります。

1606年7月15日、ファビオ・マセッティは、第三者を通じてカラヴァッジョと連絡を取ることに成功しましたが、マセッティはカラヴァッジョの居場所を明らかにしませんでした。

ファビオ・マセッティ大使が、モデナ公爵秘書ジョヴァンニ・バッティスタ・ラデルキに宛てた手紙が残されており、その手紙の中でマセッティ大使は、「カラヴァッジョはパリアーノにいます。これから公爵が注文をキャンセルした絵画制作の前払い金32scudiの返還を要求します」
この手紙によってモデナ公爵からの注文はキャンセルされたことが分かります。
「ロザリオの聖母」はナポリで1607年に売りに出されたので、この手紙がモデナ公爵が注文して制作された作品が「ロザリオの聖母」の可能性があるとの説の根拠になってます。


70
逸名画家作「アスカニオ・コロンナ枢機卿(マリーノ、1560-パレストリーナ、1608)の肖像」

アスカニオ・コロンナ枢機卿は、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナ(ローマ、1556c-1626)の実弟でした。1606年6月、アスカニオは、パレストリーナの枢機卿司祭に任じられると共にナポリ王国の守護枢機卿に就任しました。
また、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの妹ジョヴァンナ・コロンナは、1566年、ローマの名門貴族カラファ家の傍流である、ナポリの有力貴族でロッカ・モンドラゴーネ伯爵のアントニオ・カラファ(1542-1578)と結婚しました。


69
スティリアーノ公爵、サッビオネータ公爵の「ルイージ・カラファ・デッラ・スタデラの肖像」です。

ルイージは、アントニオ・カラファとジョヴァンナ・コロンナとの間に生まれた長男で、1578年、同年に没したアントニオの後継者となりました。
ルイージは、未亡人となった母ジョヴァンナと共にナポリに住んでいました。また、ルイージの伯母コスタンツァ・コロンナも未亡人となってからナポリで滞在したことがありました。

カラヴァッジョは、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナ、コスタンツァの実弟アスカニオ・コロンナ枢機卿、コスタンツァの実妹ジョヴァンナ・コロンナ、ジョヴァンナの息子ルイージ・カラファなどによるコロンナ家のサポートとその縁故関係によって、ラツィオ山中のコロンナ家領地からナポリに移ることになりました。
居所を移すに当たって、ラツィオ山中のザガローロ、パレストリーナ、パリアーノは、コロンナ家の領地と言えども、ローマから近く教皇庁の統治下にあったので、安全とは言えなった、潜伏していてもいずれは居場所が知れてしまうという思いがあったのでしょう。


61
地図のAは、パリアーノです。

1606年9月、カラヴァッジョはラツィオ山中のコロンナ家領地を出て、ナポリに向かいました。この頃には頭部負傷は治っていたと思われますが、頭の刀傷は一生残ったことでしょう。


63
ナポリへの逃走経路は明らかになっていません。逃亡の旅ですから記録が残されていません。


68
写真はナポリのキアイア地区を示します。


66
Via Chiaiaに面して建つPalazzo di Cellammareです。


67
ジョヴァンナ・コロンナとその息子ルイージ・カラファは、この邸宅に住んでいました。

ナポリに到着したカラヴァッジョは、先ずPalazzo di Cellammareに向かったことでしょう。


64
カラヴァッジョは、スペイン人街 Quartieri Spagnoliに住むことになりました。


65
カラヴァッジョが住んだ場所は特定されてません。


72
(つづく)

足跡を辿って 11.ラヌッチョ・トマッソーニとの闘い、コロンナ家領地での潜伏
300
(その22)で、従来の説に基づく「カラヴァッジョの殺人」に触れましたが、確実な異説が存在するので、今回はそれについて触れておきましょう。


306
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マッフェオ・バルベリーニ(後の第235代教皇ウルバーノ8世)の肖像」

カラヴァッジョとラヌッチョ・トマッソーニとの闘いが行われた当時、マッフェオ・バルベリーニ(フィレンツェ、1568-ローマ、1644)は、フランス公使を務めていて任地であるパリに在住していました。
1603年からマッフェオの外交代理人を務めていたフランチェスコ・マリア・ヴィアラルディ(ヴェルチェッリ、1540/1545-ローマ、1613)は、教皇庁やローマで起きた出来事などを逐一マッフェオに報告していました。
フランチェスコ・マリア・ヴィアラルディは、ヴェルチェッリ出身の貴族で、外交官、詩人、作家でもありました。


303
パンテオンの地図です。

ヴィアラルディは、カラヴァッジョの事件を報告する手紙をマッフェオに出しました。マッフェオ・バルベリーニ宛てに出された1606年6月3日付の手紙が残ってます。
事件が起きたのは1606年5月28日ですから、それから6日後に書かれた手紙でした。その点でかなり信頼性が高いと思われます。


304
1606年6月3日付で、フランチェスコ・マリア・ヴィアラルディがマッフェオ・バルベリーニ宛てに書いた手紙の内容:
「私は、ミケランジェロが16時ころ、ラヌッチョの家に行ったと聞きました。ラヌッチョは、カラヴァッジョの姿を見ると武装して、一対一になりました。画家は負傷しました。そしてラヌッチョの兄のジョヴァンニ・フランチェスコ大尉が助けに入ったので、過ってCapitano di Castelloだったペトロニオ・トロッパも画家の助けに駆け付けました。ラヌッチョは躓いて倒れました。倒れたラヌッチョの身体にカラヴァッジョの一撃が入り、ラヌッチョは失血で死にました。ペトロニオは、ジョヴァン・フランチェスコ大尉によって斬られ、重い傷を負いました。」


301
また、ヴィアラルディは、その手紙の中で、「乱闘はラヌッチョの家(da casa del medesimo Ramutio)で起きました。ラヌッチョの家はパンテオンの傍にあります。また、他の者は、ラヌッチョの死はスクロファで起きたと語ってます。ラヌッチョは、彼の教区にあるパンテオンに埋葬されました。」と報告しました。


302
ヴィアラルディの手紙とは別に、事件を目撃した人がいました。
「カラヴァッジョがラヌッチョの家に行くと、ラヌッチョが嘲笑の言葉をカラヴァッジョに吐き、挑発した。挑発されたカラヴァッジョは激怒して、一対一の戦闘になった。
ラヌッチョは一歩後退したとき、カラヴァッジョの剣が届き、致命的な結果をもたらした。ラヌッチョは失血死したに違いなく、大腿動脈が破裂し、息を引き取る前に罪を告白するのがやっとだった。」


305
スクロファ通りには、画家たちの工房が集中していました。ここでラヌッチョの死が訪れたとすれば、画家たちの目撃証言があった筈ですが、そのような記録は残されていません。

さて、ラヌッチョの妻について触れておきましょう。
ラヌッチョの妻ラヴィーニア・ジューゴリの兄弟であるイニャツィオ・ジューゴリとジョヴァン・フェデリーコ・ジューゴリがラヌッチョ側にいましたが、乱闘には加わっていなかったかも知れません。
ラヌッチョの妻だったラヴィーニア・ジューゴリですが、ラヌッチョとの間に3歳の娘がいました。ラヌッチョの死の8日後、ラヌッチョの法律家だったチェーザレ・ポントーニに3歳の娘を預けて、別の男と再婚したのです。ポン引きのラヌッチョは仕事柄トラブルが絶えなかったので、その解決のために法律家と仲良しだったと思われます。
ともあれ、このことから、ラヌッチョとラヴィーニアの夫婦仲は悪かったことが分かります。ジューゴリ兄弟もラヴィーニアの夫婦仲が悪かったことは当然知っていた筈です。カラヴァッジョ側との戦闘において、命を懸けて戦う気が起きなかったことでしょう。
また、妻ラヴィーニアのいる前でカラヴァッジョがラヌッチョに対して女癖が悪いと罵ったことがラヌッチョとの命を懸けた諍いになったとの説もあります。

4人対4人の決闘が行われたとされてますが、オノリオ・ロンギ、カラヴァッジョの4人目の男(ボローニャ出身のパオロ・アルダーティ伍長との説があります)、ジョーゴリ兄弟の4人が戦闘に加わったという記録が残されていません。

また、ペトロニオ・トロッパ隊長、パオロ・アルダーティ伍長、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉は、ハンガリー戦争に参戦した退役軍人だったこと、カラヴァッジョが武装して、剣と短剣の使い方に習熟していたことから、カラヴァッジョのハンガリー戦争参戦説が出てきました。


307
ラヌッチョは、教区教会であるサンタ・マリア・アド・マルティレス聖堂(パンテオン)に埋葬されました。


310
テニスコートは、しばしばフェンシング会場として使用されていました。
フィレンツェ宮殿近くのテニス場が賭け金トラブルで決闘場になったのは、事件をカモフラージュするための方便だったという説があります。
テニス場で賭け金のトラブルが起きたという通説は、事実を隠すための事前に仕組まれた単なる口実だったに過ぎないという説もあります。


311
1570年、当時の教皇ピオ5世は、売春婦があちこちに風紀を乱すということで、ゲットーを作って7000人の売春婦をゲットー内に閉じ込めました。
カラヴァッジョが借りた部屋があったサン・ビアージョ小路は、オルタッチョと呼ばれるゲットーの門と隣接していました。ラヌッチョはオルタッチョのポン引きでした。ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉は、オルタッチョを含むカンポ・マルツィオ地区の地区長でしたが、実質はギャングの顔役とも言っても良い存在でした。ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉の家は刑務所が付いていたことが分かってます。
売春婦ゲットーからの利益は莫大なもので、その一部は庇護を受けていたファルネーゼ家やアルドブランディーニ家に流れていた可能性があるとされてます。当時のローマ政界は腐敗していました。


308
コロンナ宮のエッチングです。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉によって頭部を斬られたカラヴァッジョは、デル・モンテ枢機卿のマダマ宮、パトロンのジュスティニアーニ侯爵邸、フィレンツェ宮、またはコロンナ宮に逃げ込んだとされているものの、何処に逃げたのか特定されてません。
重傷を負ったカラヴァッジョは、事件後二、三日のうちにコロンナ家の領地があるローマの南東部に向けてローマを後にしたと言われてます。そのためには、事前交渉が必要だったことから、私はコロンナ宮に逃げ込んだと思ってます。カラヴァッジョにとって、ジェノヴァへの逃亡の際にも頼ったコロンナ家が最も信頼できると判断したのかも知れません。


309
官憲による事件の捜査が開始されたのは、事件後1か月が経ってからでした。これは、フランス系とスペイン系の高位聖職者や貴族からなる両派から、事件関係者の逃亡に必要な十分な時間的余裕を確保するために、官憲への圧力があったからとされてます。

しかし、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉の攻撃によって、瀕死の重傷を負ったペトロニオ・トロッパ隊長は、傷の治療のために訪れた床屋(当時、床屋が外科医を兼ねていました)に怪しまれ、警察に通報されて逮捕されてしまい、トル・ディ・ノーナ監獄に収監されてしまいました。(ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの家に付属する牢屋に入れられたとの別説があります)
トロッパは尋問を受け、4番目の男について聞かれましたが知らないと答えました。トロッパ隊長のその後についての記録が残されていません。

オノリオ・ロンギは、妻子を連れてミラノに逃亡しました。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉、ジューゴリ兄弟は、ファルネーゼ家を頼って、同家の本拠地であるパルマに逃亡しました。

1606年7月17日、欠席裁判が行われ、カラヴァッジョには「Bando Capitale」(見つけたら誰でも殺しても構わないとの死刑宣告)が出され、他の関係者にはローマからの追放刑が科されました。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉は、嘆願が認められ1606年12月にローマに戻りました。
オノリオ・ロンギは、嘆願したものの、中々許されず、1611年に漸くローマに戻ることが出来ました。


312
Via di Prenestinaです。

この通りを通ってローマから逃亡したと言われてます。
頭部重傷にも拘わらず馬に乗っての必死の逃避行だったと思います。


313
地図AはZagaroloです。

ザガローロは、ローマの南東約34km離れた、小さな山岳町です。


314
カラヴァッジョはVia di Pallacordaを通って、コロンナ家の領地だった山岳都市のうち、最初に向かったのがザガローロと言われています。


315
ザガローロの全景です。

その当時、ザガローロは、マルツィオ・コロンナ公爵(ローマ、1570‐1614)の領地でした。

コロンナ家がカラヴァッジョ援助を行ったのは、ひとえにカラヴァッジョ侯爵夫人のコスタンツァ・コロンナ(ローマ、1555c-1626)の絶え間ない支持とサポートによります。
コスタンツァは、レパントの海戦の英雄マルカントニオ2世・コロンナの娘で、11歳頃の1566年にフランチェスコ1世・スフォルツァ・ダ・カラヴァッジョ侯爵(1550-1583)と結婚しました。
画家カラヴァッジョの父フェルモ・メリージは、レンガ職人ながら、カラヴァッジョ侯爵に仕える執事を兼ねていたので、ミケランジェロ・メリージは幼少の頃からカラヴァッジョ公爵夫人に会っていました。
コスタンツァ・コロンナは、夫であるカラヴァッジョ侯爵と死別するとミラノ、ローマに住むようになり、ローマではコロンナ宮殿に住んでいた時にカラヴァッジョに当然会ったものと思われてます。


316
頭部を負傷して体調不十分だったカラヴァッジョですが、寝ていた訳ではなく、逃亡資金捻出のために作品制作に従事していました。


317
カラヴァッジョがザガローロで滞在していたのは、ザガローロにあるコロンナ家宮殿のPalazzo Rospigliosiでした。


318
カラヴァッジョがローマの山岳地帯に潜伏中に制作した作品として、エマオの晩餐と法悦のマグダラのマリアが挙げられてます。


319
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦のマグダラのマリア(クラインのマグダラのマリア)」

画家自身による複製画が何枚か残されています。また、他の画家による数点のコピー画も残されてます。それらの中で、ローマの個人蔵のクラインのマグダラのマリアがオリジナルであるという説が定説になりつつあります。
また、この作品はパリアーノで制作されたという説があります。


320
ブレラ絵画館にある「エマオの晩餐」です。


321
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エマオの晩餐」


322
ローマ近郊の山岳地帯に潜伏中に制作されたと言われてます。


324
完成後、ローマに送られてオッタヴィオ・コスタが購入したと言われてます。


325
ザガローロの東方にパレストリーナがあります。


327
パレストリーナの全景です。


326
カラヴァッジョは、山岳地帯に潜伏中、何度も居場所を転々と変えていました。カラヴァッジョを匿ったコロンナ家がその存在をローマの官憲や教皇庁から知られたくなかったからでしょう。


328
パレストリーナにあるPalazzo Colonna Barberiniです。


329
カラヴァッジョは、この宮殿に匿われていました。


330
パレストリーナでも作品を制作していました。


331
町中には行かなかったようです。


332
パレストリーナにあるサンタント二オ・アバーテ教会です。


334
1967年、サンタンと二オ・アバーテ教会でカラヴァッジョの作品と思われる祭壇画が発見されました。


333
1967年に発見された「聖アガピートの斬首」です。
この作品が発見されたパレストリーナでは、カラヴァッジョの作品としています。しかし、作品帰属を巡る定説には至ってません。
潜伏中に描かれた可能性が大いにあり得ると私は思います。


335
パレストリーナのサンタント二オ・アバーテ教会の内部です。


336


337
パレストリーナの東方にパリアーノがあります。


340
パリアーノもコロンナ家の領地でした。


339
パリアーノのPalazzo Colonnaです。


341
カラヴァッジョがPalazzo Colonnaに滞在した記録が残されています。


338
(つづく)

足跡を辿って 10.居候または住所不定時代、ラヌッチョ・トマッソーニとの闘い
200
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の調停によってカラヴァッジョが襲撃した公証人との和解が成立した1605年8月26日に、カラヴァッジョにもう一つの問題が発生しました。


201
サン・ビアージョ小路にカラヴァッジョが借りていたアパートがありました。


6
通りに面した教会の名称に因んで、現在はサン・ビアージョ小路はディヴィーノ・アモーレ小路に通りの名称が変更されてます。


202
Vicolo del Divino Amoreの19番地にカラヴァッジョが借りていたアパートが現存しています。


16
和解が成立した正にその日、1605年8月26日、カラヴァッジョは借りていた部屋に戻ることが禁じられるとともに、部屋に残されていたカラヴァッジョの私有物が差し押さえられ、その財産目録が作成されたのです。


7
写真はカラヴァッジョが借りていた部屋です。

この建物を用益権を持っていたプルデンツィア・ブルーニは、カラヴァッジョが家賃を6か月間滞納していたので、家賃保証のために法的手段を取り、カラヴァッジョの私有財産を差し押さえた訳です。
画料が高くなって、家賃支払いに困窮するほど窮乏していたとはとても思えないカラヴァッジョですから、半年間の家賃不払いは、社会規範に反しても何ら痛痒を感じないという彼のどうしようもない性格によるものと思われます。


9
1605年8月26日、カラヴァッジョが借りていた部屋に残されていた全押収物の目録が作成されました。その目録が今でも残されており、当時のカラヴァッジョの生活振りを垣間見ることが出来る貴重な記録となってます。
剣と短剣がそれぞれ二本、決闘用の武具、ベッド、ぼろぼろの服、短刀(短剣とは別です)、ヴァイオリン、ギター、絵画制作用の道具、絵画制作に使われたと思われる大きな鏡、10点の絵画と画布などが目録に書かれてます。
10点の絵画の内訳は、「絵画1点(完成作に近い?)、大きなものでこれから描く絵画2点(描きかけ?)、それ以外の3点の小さな絵画、3点の大きな画布(これから描こうとしたもの?)、1点の大きな板絵」です。
目録に書かれていた絵画は、カラヴァッジョの作品なので、相当な価値があったと思われますが、その行方を含めて何の情報も残されていないようです。しかし、当時注文を受けていた「ロレートの聖母」、「聖母の死」、「ロザリオの聖母」は大サイズの祭壇画であり、借りていた部屋の天井を改造して描かれた可能性があり、目録に記載された10点の絵画の中に含まれた可能性がありそうです。そうなると、それらの未完成の作品は後にカラヴァッジョに返却されたことになります。


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宿なしで描きかけの作品と僅かばかりの雑多な財産など、すべての財産を失ったカラヴァッジョがやったことは、その復讐でした。
1605年8月31日から翌9月1日にかけての夜、カラヴァッジョは、プルデンツィア・ブルーニの家下に潜んで、投石して家の鎧戸を壊した上に、カラヴァッジョの友人3人と共にギターを夜中に弾き通してブルーニを眠らさなかったそうです。
ブルーニは直ぐに損害賠償を求める告訴状を提出しました。


14
カラヴァッジョは、友人の法律家アンドレア・ルッフェッティの助けを借り、アンドレアを通じてブルーニに対して未払の部屋賃料、部屋の改造に伴う原状回復費用などを含む被害額を支払いました。


4
カラヴァッジョと法律家アンドレア・ルッフェッティとの関係が私には良く分かりません。


203
アンドレア・ルッフェッティの家はコロンナ広場傍にありました。


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公証人マリアーノ・パスクゥワローネをナヴォーナ広場で襲撃してから、ジェノヴァに逃亡していたカラヴァッジョがシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の和解調停によって、ローマに戻ることが出来ましたが、家賃滞納によって宿なしとなって、居候したのが法律家アンドレア・ルッフェッティの家でした。


205
コロンナ広場です。

度々警察沙汰を引き起こしたカラヴァッジョの法律面で知り合ったのが、アンドレアと親密なる切っ掛けだったのでしょうか。
ともあれ、アンドレア・ルッフェッティの家に居候できるほどの親密な関係だったことが分かります。


206
Palazzo Chigiです。

アンドレア・ルッフェッティの家で、アンドレア・ルッフェッティの肖像画を制作した記録が残されてます。作品は行方不明となっており、恐らく失われたようです。


207
アンドレア・ルッフェッティの家に居候と言っても、定住したわけではないようです。カラヴァッジョのことですから、売春宿や悪友の家など度々寝どころを変える住所不定の状態だったと思われます。


208
1605年10月24日付のカラヴァッジョの供述調書が残されてますが、その日、カラヴァッジョはアンドレア・ルッフェッティの家で負傷して寝ていました。
喉と左耳に不審な傷を負ったために、当局の公証人による尋問を受けました。尋問を受けること自体、尋常なことではなく、しかも居候先が当局に知られた訳ですから、異常です。
カラヴァッジョは、道で転んで自分の剣で自傷したと頑強に供述しました。この件は、それで終わりとなったようですが、カラヴァッジョは本当の理由を当局に知られたくなかったと思われます。決闘か、襲撃を受けたか、襲撃して反撃を受けたか、真相は不明ですが、その原因は明らかにそんなところでしょう。


209
Via della Colonna Antoninaです。

この通りのコロンナ広場寄りの建物に法律家アンドレア・ルッフェッティの家があったという説があります。


210
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ロザリオの聖母」


211
ウィーンの美術史美術館にあります。
縦365cm、横250cmの大きな作品なので、教会の祭壇画として制作された可能性が非常に高いと思われてますが、注文主、設置された教会についての記録が残されておらず、制作の経緯についていくつかの仮説が出されているものの定説になってません。


212
逃亡先のナポリで描かれたという説がある一方、画面左に描かれている柱(コロンナ)がコロンナ家の注文を暗示している説があり、コロンナ広場近くの居候先であるアンドレア・ルッフェッティの家で描かれたとされてます。


213
「ロザリオの聖母」は、1607年秋にナポリにあった記録が残されているので、私はカラヴァッジョの一回目のナポリ滞在中に制作されたと思ってます。


217
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「蛇の聖母(パラフレニエーリの聖母)」

この作品は、居候先のアンドレア・ルッフェッティの家で制作されました。その記録があります。


222
カトリックの本拠地サン・ピエトロ大聖堂です。

1605年10月31日、サン・ピエトロ大聖堂内にある馬丁(パラフレニエーリ)組合の聖アンナ同信会が保有する聖アンナ礼拝堂の祭壇画として、サン・ピエトロ大聖堂の造営部門からカラヴァッジョに注文が出されました。


223
サン・ピエトロ大聖堂の内部です。

サン・ピエトロ大聖堂からの注文は、画家にとって大変な名誉であり、カラヴァッジョは制作に励み、1606年4月8日に画料の支払いが行われ、「蛇の聖母」は聖アンナ礼拝堂に設置されました。しかし、直ぐに取り外されました。設置された二日後に取り外されたようです。
取り外された理由についての記録がありません。


220
ヴァティカンにあるサンタンナ・デイ・パラフレニエ聖堂です。1565年に創建された教皇庁馬丁組合の教会です。

サン・ピエトロ大聖堂聖アンナ礼拝堂から取り外された「蛇の聖母」は、サンタンナ・デイ・パラフレニエ聖堂に移されました。


221
1606年6月、カラヴァッジョの作品はサンタンナ・デイ・パラフレニエ聖堂からも取り外されてしまいました。
その理由はこの時も不明です。しかし、サンタンナ同信会が信じる聖アンナがあまりにも老婆に描かれ、幼きキリストが裸で描かれたからかも知れない、それに聖母のモデルが売春婦のマッダレーナ・アントネッティ通称レーナだったかも知れないことも拒否の理由でしょうか?


218
聖母の胸がエロい?のも拒否の理由でしょうか?


219
ヴァティカンから拒否されてカラヴァッジョは荒んだ気持ちになったことでしょう。


214
「蛇の聖母」はボルゲーゼ美術館にあります。

1606年6月16日、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿によって買収されました。


215
画家として最高の名誉とされるサン・ピエトロ大聖堂の祭壇画制作者という地位を失って大いに落胆したに違いないカラヴァッジョでしたが、サン・ピエトロ大聖堂が次に発注した幾つかの祭壇画の制作者に選ばれることはなく、更に落胆した上に同大聖堂から受注した画家に向けられた嫉妬心に苦しんだと思われます。


216
この作品がシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿によって買収される3週間前に、カラヴァッジョの人生を狂わせる事件が起きたのです、


224
地図Aの場所は、サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場を示します。


225
一説ではカラヴァッジョの仇敵トマッソーニ家の家がサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場の角にあったとされてます。


230
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場です。

トマッソーニ家は、ナルニ出身の優秀な傭兵隊長を出した家系でした。アレッサンドロ・トマッソーニ(テルニ、1508-ナルニ、1555)は、下層階級から教皇軍の将軍になるまで軍歴を積み、軍事技術者として高く評価されました。
アレッサンドロの弟ルカントニオ・トマッソーニ(テルニ、1511-ローマ、1592)は、1527年のローマ略奪におけるサンタンジェロ城防衛の教皇軍をかわきりに、サン・クエンティンの戦い、フランス宗教戦争、ギリシャのオスマン戦争に参戦するなど、数々の武功を誇る傭兵隊長、軍事技術者であり、教皇軍大佐を務めました。その間、ファルネーゼ家やアルドブランディーニ家出身の上官に仕えて両家との強い繋がりを築きました。また、1566年以降、代々の教皇から信頼され、死の直前の1591年にサンタンジェロ城の副城主職の名誉を得ました。
ローマに移住したルカントニオ・トマッソーニの一家は16世紀後半にローマに移住し、カンポ・マルツィオ地区に住居を構えました。ファルネーゼ家、アルドブランディーニ家とのつながりがより一層深くなり、トマッソーニ家は尊敬される一方、恐れられるようになりました。
ルカントニオ・トマッソーニは、少なくても9人の子供を授かりました。アレッサンドロ、オッタヴィオ、クラウディオ、ジョヴァン・フランチェスコ、ルカントニオ(父と同じ名前)マリオ、ラヌッチョの息子たちと、ヴァルジニア、プラウティラ、オリンピアの3人の娘がいました。
トマッソーニ兄弟は、有力者との繋がりを背景にカンポ・マルツィオ地区の賭場や売春宿を縄張りにして、武装して不謹慎と傲慢が際立つ、警察勢力も迂闊には手出しできない存在でした。それどころか、警察権力も保有していたとのです。


237
カラヴァッジョが後に描いた二作品に登場する人物は、ルカントニオ・トマッソーニの四男ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニは、1573年にテルニで生まれ、洗礼式ではパルマのファルネーゼ家から代理人やパルマの貴族が出席するなど、生まれながらにパルマのファルネーゼ家との強い絆がありました。父と共に長いトルコ戦争に従軍してからフェッラーラの駐屯地で軍務に就きました。ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿が指揮する教皇軍がローマに戻ると、ジョヴァン・フランチェスコは退役軍人となりました。
1598年以降、ローマにおける退役軍人は武装して歩き回ったり、襲撃するなど公序良俗に反する深刻な社会問題を引き起こしました。そのような情勢下、ジョヴァン・フランチェスコは、カンポ・マルツィオ地区の地区長に任命され、警察権を持つようになりました。

ラヌッチョという名前はファルネーゼ家に多い名前であり、それに因んでルカントニオ・トマッソーニが息子に名付けたと言われてます。様々な事業に携わって非常に裕福なトマッソーニ家にあって、ラヌッチョ・トマッソーニ(テルニ、1580c-ローマ,1606)が選んだビジネスは高級売春でした。高級売春はトマッソーニ家の主要ビジネスの一つでした。若くて美人ばかりの売春婦を揃え、聖職者や貴族、金持ちにサービスを提供して収益を上げ、その金で様々な事業に投資して収益を上げていきました。カラヴァッジョの有力パトロンのヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵もトマッソーニ家管理の高級売春組織の客でした。


229
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「フィリデ・メランドーニの肖像」

フィリデ・メランドーニ(シエナ,1581-ローマ、1618)は、トマッソーニ家が営む高級売春組織の売春婦でした。1594年4月、フィリデとアンナ・ビアンキーニ(ローマ、1579c‐1604 カラヴァッジョのモデル)は買収勧誘の疑いで逮捕されました。フィリデの客にヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵がいました。ラヌッチョ・トマッソーニと関係があり、ラヌッチョの女と言われていました。フィリデは、勝気な女で、ラヌッチョと密接な関係にあった高級娼婦をナイフで襲い、警察に通報されたことがあります。また、1599年2月11日、ラヌッチョとフィリデは、乱痴気パーティと武器所持の告訴を受け、逮捕されました。その後の同年1599年に、フィリデは、ラヌッチョから渡された武器を不法に所持していたとして逮捕されました。また、フィリデはその職業のために度々検挙され、トル・ディ・ノーナ監獄に収監されましたが、ラヌッチョによって釈放された記録が残されてます。

トマッソーニ家が管理する売春婦をモデルに起用するなど、カラヴァッジョはトマッソーニ家と良好な関係にあった時もありましたが、オノリオ・ロンギなどと徒党を組んで武装してカンポ・マルツィオ地区を派手に遊び歩いていたことから、縄張りを荒らす存在としてトマッソーニ家から見られていたのは間違いないと思います。

当時のローマの高位聖職者や貴族は、フランス寄りとスペイン寄りの二派に分かれて、時には民衆をも巻き込んで激しく対立していました。
1605年5月1日、カンポ・マルツィオ地区でフランス派とスペイン派の激しい乱闘が行われ、多数の死傷者を出しました。カラヴァッジョはそれに加わっていませんでしたが、トマッソーニ兄弟は積極的に乱闘に加わっていました。トマッソーニ家が仕えてきたファルネーゼ家とアルドブランディーニ家は親スペインの代表的存在であり、両家の庇護のもとにカンポ・マルツィオ地区を縄張りにしたトマッソーニ家はスペイン派に属していました。
一方、カラヴァッジョは、その最初のパトロンであるデル・モンテ枢機卿はブルボン家の血を引くフランス派の代表的存在であり、ジュスティニアーニ侯爵もフランス派であり、フランス国立教会であるサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂祭壇画で一躍有名画家になったことから、親フランスの画家と見られていました。

このような状況に於いて、1606年5月28日(29日説もあります)、カラヴァッジョ、オノリオ・ロンギ、ペトローニオ・トロッパ隊長、氏名不詳の男(トロッパ隊長と氏名不詳の男は助っ人としてカラヴァッジョに雇われたという有力説があります)の4名と、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ地区長、ラヌッチョ・トマッソーニ、ラヌッチョの妻の兄弟であるイニャツィオ・ジューゴリとジョヴァン・フェデリーコ・ジューゴリの4人が武装して戦闘に及びます。


236
Via di Pallacordaです。Pallacordaとはテニスのことです。Palazzo Firenzeに近い場所にテニス場があったので、それに因んで通りの名称となりました。


235
戦闘が行われたと言われているテニス場近くの広場です。

4人対4人で戦われた理由が良く分からないのと、戦闘が行われた場所についても微妙な違いがある2説に分かれてます。
その主な原因とされるのは、この決闘に関する捜査開始が事件発生から1か月後だったからとされてます。これは恐らく関係者全員が当局からある種の保護、つまり逮捕を免れ、逃亡に十分な時間的余裕を与えるためだった。教皇庁の警察権の遅さは、スペイン派、フランス派双方から、或いはカラヴァッジョ支援のコロンナ家などの、所謂高位からの司法への介入があったからでしょう。

この決闘の原因として、最初から言われていたのは賭けテニスの賭け金支払い巡るトラブルでした。


233
賭けテニスが行われたテニス場近くに建つPalazzo Firenzeです。

カラヴァッジョとラヌッチョとの賭けテニスの試合中、試合に負けたカラヴァッジョが賭け金10scudiの支払いを拒んだのでトラブルになって決闘に及んだというのが、当時から言われていた原因です。


234
フィレンツェ広場です。

現在、広場となっている、この場所で決闘が行われたとされてます。
カラヴァッジョ側は助っ人二人を雇い、トマッソーニ側は妻の兄弟二人を連れて武装していました。たかが10cudiの僅かな賭け金の賭けテニス試合を行い、その賭け金を巡るイザコザで決闘とは大袈裟すぎて辻褄が合いません。
後で逮捕されて尋問される場合の口裏合わせのために、両陣営合意のもとに賭け試合を持ち出したのかも知れません。


226
決闘が行われた場所して、トマッソーニ家が住む家近くのサン・ニッコロ・デ・ペルフェッティ教会の前だったという説があります。上のエッチング絵がその場所を示していると言われてます。


231
Via di Prefettiです。


207
サン・ニッコロ(ニコロ)・デ・ペルフェッティ教会です。

カラヴァッジョ、オノリオ・ロンギ、ペトローニオ・トロッパ隊長、氏名不詳の男の4人が武装してサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場近くを歩ていたのは見たジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ、ラヌッチョ・トマッソーニ、イニャツィオ・ジューゴリ、ジョヴァン・フェデリーコ・ジューゴリの4人は武装して家から外に出ました。


232
この教会の前当りで4人対4人の激しい乱闘が始まりました。

カラヴァッジョとラヌッチョは、1対1で戦ったようで、カラヴァッジョがラヌッチョの太腿を一突きすると、ラヌッチョの大腿動脈が停止、大出血して直ぐに死亡しました。
ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニは、ペトローニオ隊長と戦い、重傷を負わせましたが、カラヴァッジョがラヌッチョを殺すと、今度はカラヴァッジョと対峙してカラヴァッジョの頭を斬り付けました。
オノリオ・ロンギとカラヴァッジョ側の助っ人で不詳の男、それにジューゴリ兄弟の4人の戦闘については、記録が無く分かっていません。
やがて警官が現場に駆け付けると、死んだラヌッチョを除いて現場から逃げたと思われます。

しかし、この事件には別の有力説がありました。
(つづく)

足跡を辿って 9.サン・ビアージョ小路のアパート居住時代Ⅱ
200
カラヴァッジョの素行が改まることはなく、犯罪記録が続きます。彼の確実な行動を知る手段が警察や裁判所の記録ですから恐れ入るほかありません。


201
スペイン広場からポポロ広場に通じるバブイーノ通りがあります。


202
1604年10月19日から20日にかけての深夜、バブイーノ通りで事件が起こります。


203
バブイーノ通りです。

カラヴァッジョは、教皇の使者ピエトロ・パオロ・マルテッリ、香水屋アレッサンドロ・トンティ、本屋のオッタヴィアーノ・ガブリエッリなどと一緒にバブイーノ通りを歩いていましたが、警官から剣の携帯許可証を持っているか、と職務質問を受けました。その際尋問した警官に投石して暴言を吐いたとして逮捕されました。


204
逮捕後の聴取で、カラヴァッジョは、「建築家オノリオ・ロンギと通りを歩いていて、知り合いの娼婦と出会って立ち話をしている時に、石の音が聞こえたけれど、警官に対しては何も言っていない」と否認しました。
オノリオ・ロンギがカラヴァッジョの一行と一緒だったかは不明のようで、この時のロンギの逮捕記録は残されていません。


212
逮捕された四人の供述は少しづつニュアンスが異なっていて、口裏合わせが出来なかったようです。


205
写真は、トル・ディ・ノーナ監獄です。トル・ディ・ノーナは15世紀からローマの主要監獄でした。

カラヴァッジョ、ピエトロ・パオロ・マルテッリ、アレッサンドロ・トンティ、オッタヴィアーノ・ガブリエッリの四人は、逮捕後、トル・ディ・ノーナ監獄に拘留されました。罪状は四人とも否認しました。この時の刑罰に関する記録が残されていないようです。


207
バブイーノ通りの事件から、僅か3週間後の1604年11月18日に、キアヴィカ・デル・ブッファロ通り(当時の通りの名称で、現在は単にブッファロ通りと呼ばれてます)で事件が起こります。


209
1604年11月18日の恐らく未明、キアヴィカ・デル・ブッファロ通りで剣と短剣を持って歩いていたカラヴァッジョは警官から呼び止められ、剣の携帯許可証の提示を求められました。
カラヴァッジョが許可証を提示すると、警官が了解して「おやすみ」と言って別れようとしたのですが、カラヴァッジョはなぜか逆上して、警官に対して酷い侮蔑する言葉を浴びせたので、逮捕されてしまいました。


210
疑いが晴れ、そのまま警官と別れれば問題ないのですが、ここで敢えて問題を起こすのがカラヴァッジョなんですね。


211
写真はPalazzo del Buffaloです。

これだけ事件を起こしたとなると、カンポ・マルツィオ地区の警官の間では、カラヴァッジョは面が割れ?のかなり有名な男と見做されていたかもしれません。


206
今回も逮捕後にトル・ディ・ノーナ監獄に収監されました。


213
今度は、カラヴァッジョは法を犯す側ではなく、被害者となって当局にお願いに行ったのです。


214
年が変わって、自分(カラヴァッジョ)の名前が使われて、教皇庁の下士官が騙されて40scudiのマントが取られた事件の加害者アレッサンドロ・リッチを釈放しないようにと、1605年2月16日に当局に出向いて要請しました。名前を騙られて詐欺事件が起きるほど、カラヴァッジョが有名だったことがこの事件で分かります。


215
カラヴァッジョの女とみなされていたマッダレーナ・アントネッティ通称レーナ(ローマ、1579-?)の家がコルソ通りのサンティ・アンブロージョ・カルロ教会の傍にありました。


216
レーナは、娼婦でしたが、度々カラヴァッジョのモデルを務めました。


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レーナがモデルと言われている「アレッサンドリアの聖カテリーナ」


221
「ロレートの聖母」の聖母もレーナがモデルと言われてます。
これら2つの作品を含めて、レーナがモデルとなったカラヴァッジョ作品が7点あるそうです。

次はまたしてもカラヴァッジョの警察沙汰となりますが、前回が1604年11月で今回が1605年5月ですから、約7か月間空いたことになります。しかし、カラヴァッジョの行状から察すると、その間、警察沙汰が全くなかったとは考え難い訳で、デル・モンテ枢機卿など有力パトロンが介入して事件をもみ消した可能性があると思います。


217
写真はコルソ通りです。

1605年5月28日、レーナの家の傍で、剣を帯びてコルソ通りを歩いていたカラヴァッジョは、警官から剣の携帯許可証の提示を求められましたが、この時は許可証を持っていなかったので、武器の不法所持によって逮捕収監されてしまいました。


218
写真は、コルソ通りに面したサンティ・アンブロージョ・エ・コルソ教会です。

逮捕された翌日に行われた取り調べで、カラヴァッジョは、武器の携帯許可は当該する役所から口頭で得ていると主張し、それが認められたようで、この時は刑罰なしで釈放されました。


220
逮捕された際、ピーノ警察署長によってカラヴァッジョが持っていた剣と短剣が没収されたのですが、没収された剣と短剣のスケッチが取り調べ書の左下に描かれてます。(写真は取り調べ書で、左下に剣と短剣のスケッチが描かれてます)


222
写真はサンティ・アンブロージョ・エ・カルロ教会です。

1605年7月19日、マッダレーナ・アントネッティ通称レーナの家の隣に住むラウラ・デッラ・ヴェッキアとラウラの娘イサベッラ・デッラ・ヴェッキアの二人がレーナを中傷したことを聞き付けたカラヴァッジョが、レーナに対する悪口の仕返しとばかりに、デッラ・ヴェッキア母娘が住む家の扉とファサードを壊した廉で、逮捕され、またしてもトル・ディ・ノーナ監獄に収監されました。
この時は、画家兼彫刻家のケルビーノ・アルベルティ、画家兼画商のプロスぺーロ・オルシ、本屋のオッタヴィアーノ・ガブリエッリなどが保証人となって保釈金を立て替え払いして、カラヴァッジョは釈放されました。


16
この頃、カラヴァッジョは、警察沙汰の合間?に、サン・ビアージョ小路のアパートで「この人を見よ」を制作していました。


225
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「Ecce Homo(この人を見よ)」


224
ジェノヴァのストラーダ美術館のPalazzo Biancoにあります。


226
ローマの貴族マッシモ・マッシミが1605年7月に注文した作品です。
この作品の前に、マッシミは「荊刑のキリスト」をカラヴァッジョに注文しましたが、それに対になるように「この人を見よ」を注文しました。
この時、マッシミはカラヴァッジョだけではなく、チゴリ、パッシニャーノにも「Ecce Homo」を注文しました。


227
チゴリの「Ecce Homo」はフィレンツェのパラティーナ美術館にありますが、2016年に上野の国立西洋美術館で行われた「カラヴァッジョ展」に出展されていました。


228
写真はナヴォーナ広場です。

この広場でカラヴァッジョが事件を起こします。


229
1605年7月29日の夜9時ころ、公証人Mariano Pasqualoneが教皇庁の役人と一緒にナヴォーナ広場を歩いていると、後方から剣で斬り付けられて頭を負傷して転倒したが、襲撃した者が誰からは判別できなかったものの、襲撃したのはカラヴァッジョ以外には考えられないとして、カラヴァッジョはパスクゥアローネから訴えられました。
カラヴァッジョの女であるマッダレーナ・アントネッティ通称レーナと数日前に口論したので、カラヴァッジョがそれを根に持ってレーナの仕返しとして襲撃したのに間違いないと訴えました。


230
この襲撃後、カラヴァッジョがデル・モンテ枢機卿が住んでいたマダマ宮殿に逃げ込んでいたのを目撃されていました。
目撃者がいたことを知ったカラヴァッジョは、観念したのかローマから逃亡しました。


231
逃亡先にカラヴァッジョが選んだのは、ジェノヴァでした。


232
ジェノヴァのドーリア・トゥルシ宮です。現在、ジェノヴァ市の市庁舎として使用されてます。


233
当時、この宮殿には海軍提督のジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリア侯爵(1539-1606)が住んでいました。カラヴァッジョは、有力なパトロンだったジェノヴァ出身の銀行家ジュスティアーニ侯爵家を頼ってジェノヴァを選んだとされており、ドーリア侯爵を頼ってジェノヴァに逃亡したのです。カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの援助によってジェノヴァに逃亡したとの有力説もあります。
1605年8月6日、カラヴァッジョがジェノヴァにいたことを示す記録が残されてます。


234
写真はVilla Principeです。現在は美術館として一般公開されてます。

このVillaもジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリアが所有しており、ジェノヴァ逃亡中のカラヴァッジョは主に、このVillaに滞在していました。
有名なアンドレア・ドーリア海軍提督(1466-1560)はジェノヴァの支配者でしたが、海軍提督はジョヴァンニ・アンドレアの大叔父に当たります。ジョヴァンニ・アンドレアの父が早世したことにより、ジョヴァンニ・アンドレアは海軍提督アンドレア・ドーリアの後継者となりました。
カラヴァッジョの父が仕えたカラヴァッジョ侯爵の夫人コスタンツァ・コロンナは、コロンナ家出身でしたが、アンドレア・ドーリアの妻がコロンナ家の出身だったので、その縁でカラヴァッジョがジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリアを頼ったとされてます。


235
Villa Principeのロッジャです。

カラヴァッジョがこのヴィッラに滞在中、ジョヴァンニ・アンドレア1世が6000scudiの大金でカラヴァッジョにフレスコ画制作を依頼しましたが、拒否された話が残されてます。フレスコ画が苦手なカラヴァッジョなので、大金でもフレスコ画制作の注文を受けなかったのでしょう。


236
写真はローマのボルゲーゼ広場です。

シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の尽力によって、カラヴァッジョの襲撃事件の和解に向けた調停進捗の話を受けて、1605年8月24日、カラヴァッジョはジェノヴァからローマに戻りました。


237
写真はPalazzo Quirinaleです。

1605年8月26日、この宮殿内のボルゲーゼ枢機卿の部屋で、カラヴァッジョは誓約書に署名して、マリアーノ・パスクゥワローネの殺人未遂の訴えが取り下げられ、和解調停の運びとなりました。


238
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「男(シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿とされる)の肖像」

この和解調停後、ボルゲーゼ枢機卿はカラヴァッジョのパトロンになりました。


240
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「執筆する聖ジローラモ」

カラヴァッジョが、和解調停のお礼としてボルゲーゼ枢機卿に贈ったとされる作品です。


241
ボルゲーゼ美術館で展示されてます。
(つづく)



足跡を辿って 9.サン・ビアージョ小路のアパート居住時代Ⅰ
200
1604年5月頃、カラヴァッジョは、マッテイ宮を出て、Vicolo San Biagioのアパートに転居するのですが、その前に、カレル・ファン・マンデルが書いたカラヴァッジョに関する記述と料理屋でのトラブルに触れておきます。


206
カレル・ファン・マンデル(1548-1606)は、ドイツの画家、詩人、伝記作家です。この肖像画は、マンデルが著作した本に挿入されているマンデル自身のものです。


205
カレル・ファン・マンデル著の本の表紙

マンデルは、イタリアに旅行して、ヴァザーリの「列伝」を知り、同じような内容の本を書きたいとして、1604年に「画家列伝」を出版しました。イタリア旅行中にカラヴァッジョのことを知り、この本の中で次のように叙述しています。
「ローマで素晴らしいものを描いたミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョもいる。良い小麦には雑草が生えるものだ。事実、ミケランジェロは仕事をし続けることはなく、二週間ほど仕事をしたと思えば、剣を携え、従者を伴って、勇んで一、二か月気晴らしに出かけるのである。そして、球戯場を渡り歩き、議論を吹っかけては、大喧嘩を引き起こすのを常とした。だから、彼と付き合うことのできる者は極めて稀だった。にもかかわらず、彼の絵には議論の余地がない。」
居酒屋、賭場、売春宿などにも出入りしたことでしょう。画家ですが、売られた喧嘩は必ず買う、喧嘩を売るのが好きという喧嘩好きの凶暴なヤクザもんと同じでしたね。


210
写真は、Carciofi alla romana ローマ風アーティチョークです。
ローマの春の典型的な料理です。

次はカラヴァッジョの有名な「カルチョーフィ事件」です。カラヴァッジョが注文した料理が写真のものであるか、どうか分かりませんが、写真の料理に似たり寄ったりだったと思います。


207-1
事件はマッダレーナ通りのオステリア・デル・モーロで起きました。


207
マッダレーナ広場付近には食堂が幾つかありました。


208
現在のマッダレーナ広場とマッダレーナ通りの写真です。

1604年4月24日から25日にまたがる深夜、カラヴァッジョは、オステリア・デル・モーロに仲間二人と一緒に訪れ、カルチョーフィ料理を8皿(8個?)注文しました。給仕が料理を運んでいくと、カラヴァッジョが「カルチョーフィをバターで炒めたものか、油で炒めたものか」と聞いたので、給仕は「匂いを嗅げば分かります」と答えたところ、カラヴァッジョが激怒して、何も言わずにカルチョーフィの皿を給仕に投げつけ、給仕に傷を負わせた事件が起きました。
カラヴァッジョの直ぐに頭に血が上って激高する性格がよく表れてます。
オステリア・デル・モーロがあった場所は特定されてません。


209
この時の事件記録がローマ国立古文書館に残されてます。以下がその時の記録です。

1604年4月24日
コモ湖地方出身の故ジョヴァンニ・アントニオ・デ・フォザッチャの息子で、マッダレーナ聖堂付近のモーロという食堂をしているピエトロがローマの画家ミケランジェロ・カラヴァッジョを告訴し、検察局も起訴したため、法廷にて尋問が行わなければならない。その供述内容は以下の通り。
被告人(カラヴァッジョ)は17時(正午 注:原文で17時と記してあり、括弧して正午と書かれてます))頃、ほかに二人連れ立って、私(ピエトロ・デ・フォザッチャ)が給仕をしているマッダレーナ聖堂近くのオステリア・デル・モーロにやってきました。私は、彼らのテーブルにカルチョーフィを8つ、つまりバターで炒めたものと油で炒めたものをそれぞれ4つ、持っていきました。被告人は私に、これはバターで炒めたものか油で炒めたものかを聞いてきたので、においを嗅げばすぐわかるでしょう、と答えました。すると被告人は激昂して、何も言わずに陶器の皿を取って私の顔めがけて投げつけてきたのです。皿は左の頬に当たって、軽い怪我を負いました。ー(ピエトロの)左頬の目元近くには軽い切り傷があり、流血しているのを書記官も確認した。事実に基づきこれを付記するーそれから、あの男は立ち上がって、テーブルにいた仲間の剣を手に取ったのです。きっと私を斬り付けるためだったのでしょう。しかし、私はそこから逃げ出し、この裁判所にやってきて、こうして訴えを起こしたのです。そこには、クルツィオ・マルティーリ氏、孤児院長ルティーリオ氏らがいました。

この事件でカラヴァッジョは有罪となりましたが、量刑の詳細は不明となってます。


211
事件の舞台となった店と同名の店がVicolo del Cinque 36にありますが、トラステヴェレ地区なのでカラヴァッジョの事件とは全くの無関係です。
この店をカラヴァッジョの事件が起きた店と書いてあるブログを見たことがあるので、ご参考までに載せておきます。


201
カルチョーフィ事件から間もなくの1604年5月頃、カラヴァッジョはマッテイ宮を離れて転居します。


214
転居先は、カンポ・マルツィオ地区のサン・ビアージョ小路の賃貸アパートでした。


213
サン・ビアージョ小路は改称されて、現在はVicolo del Divino Amore ディヴィーノ・アモーレ小路となってます。


6
この小路に面して建っている教会の名称に由来して、通りの名称が変更されました。


203
カラヴァッジョが借りたアパートは、ディヴィーノ・アモーレ小路の19番地に現存しています。


204
アパートの入り口です。
1601年6月14日、ノルチャ出身の法律家ラエルツィオ・ケルビーニ(ノルチャ、1556c-ローマ、1626)、翌年までに作品を引き渡すという条件で「聖母の死」を注文したものの、注文後約3年を経ても「聖母の死」が完成しなかったので、カラヴァッジョが制作に専念できるように部屋を借りるように取り計らったようです。


212
カラヴァッジョが住んでいたことを示す銘板などがありませんが、現在、それを示すものはこれだけのようです。

この建物は、「聖母の死」を注文したラエルツィオ・ケルビーニの所有でしたが、皮革商人だったボニファチョ・シニバルディの未亡人プルデンツィア・ブリーニという女性が、その建物の用益権を1593年以降所有していました。ブリーニとカラヴァッジョとの間で1604年5月8日付で賃貸契約が締結されました。その契約書の中で、部屋をより広く、採光をよくするために天井の一部を壊して改造することを許可するとなっていて、退去の際、カラヴァッジョの費用負担で現状に復帰させるという条項が付け加えられました。


7
カラヴァッジョが借りた一階(日本の二階)の部屋です。

契約後の1604年5月頃、カラヴァッジョと従者の二人はアパートに引っ越しました。カラヴァッジョは一人ではなく、従者と一緒に転居したのですが、その従者はチェッコ・デル・カラヴァッジョ(1580-1630)だったという説が有力です。チェッコは、カラヴァッジョに師事し、カラヴァッジョのモデルを務めるとともにカラヴァッジョの恋人でした。


202
カラヴァッジョが転居したアパートの中庭

借りたアパートで「聖母の死」の制作に励みましたと書きたいところですが、居酒屋、売春宿、賭博場、球戯場など風紀が悪い場所に出入りしていたようです。
サン・ビアージョ小路を少し進めば、ローマの売春婦7千人を閉じ込めたゲットーの入り口があり、この小路界隈は快楽を求めてゲットーに行き来する人たちが通る風紀の悪い場所でした。そのゲットーを縄張りにするのがトマッソーニ一家で、後にカラヴァッジョによって斬られるラヌッチョ・トマッソーニは一家のポン引きをしてました。


215
時間経過通りに話を進めるべきですが、「聖母の死」に触れたので、「聖母の死」を先にしましょう。
1593年から1610年に建設されたバロック様式のサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会です。


216
1601年6月14日、カラヴァッジョは、法律家ラエルツィオ・ケルビーニから左第二礼拝堂の祭壇画として「聖母の死」の注文を受けました。


214
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖母の死」

1602年末までに作品を引き渡すという契約でしたが、完成は非常に遅れて1605年5月から1606年6月の間にずれ込みました。
縦369cm、横245cmの巨大な作品でした。そのため、サン・ビアージョ小路に借りた部屋の天井を高くする必要があったのでしょう。


218
注文主であるラエルツィオ・ケルビーニは、作品を受け取りましたが、サンタ・マリア・デッラ・スカラ教会を管理するOrdine dei Carmelitani Scalzi(跣足カルメル会)から受け取りを拒否されてしまいました。


219
聖マリア・マッダレーナ

弛緩して腹が膨らみ、剥き出しの裸足の聖母を死体そのものに、あまりにも写実的に描き、カルメル会の理想とする聖母とかけ離れた表現に加えて、死亡した娼婦をモデルにしたことが大変なスキャンダルになったので、教会側が受け取りを拒否したとされてます。


220


221
カラヴァッジョ作品によく登場する、おなじみの顔が描かれてます。


222
教会側が希望する「聖母の死」が制作されて、今でも、その作品が礼拝堂祭壇を飾ってます。


217
カルロ・サラチェーニ(ヴェネツィア、1579c-1620)の「聖母の死」

物議を醸しだして教会側から拒否されたカラヴァッジョの「聖母の死」にとって代わって制作された「聖母の死」です。
目を開き祈っている聖母が死んでいるのです。これが教会側が考えていた「聖母の死」だったのです。見ただけでは「祈りの聖母」にしか見えません。
カルロ・サラチェーニは、カラヴァッジェスキ画家の第一世代の画家というべき存在でした。


213
さて、カラヴァッジョの「聖母の死」は、現在、ルーブル美術館にありますが、ルーブル所蔵となった経緯について触れておきましょう。

教会側から受け取りを拒否されてから暫くは注文主であるラエルツィオ・ケルビーニが所有してましたが、ケルビーニの財政悪化によって売りに出されました。ルーベンスが当時仕えていたマントヴァのヴィンチェンツォ・ゴンザーガ公爵に購入を強く勧めたことからゴンザーガ家の所有となりました。
17世紀、ゴンザーガ家直系の最後の子孫チャールズ1世・ゴンザーガ公爵(1580-1637 公爵位:1627-1637)の時代、衰退して厳しい財政状況改善の一助としてゴンザーガ家コレクションが売りに出され、カラヴァッジョの「聖母の死」はイギリスのチャールズ1世(1600‐1649 王位在位:1626-1649)が購入しました。
清教徒革命によってチャールズ1世が処刑されると、「聖母の死」はイギリス政府の所有となりました。その後、パリの銀行家に売られ、その銀行家がルイ14世に献じて、ヴェルサイユ宮殿のコレクションに加えられました。


5
さて、話をカラヴァッジョが居住した、現在のディヴィーノ・アモーレ小路に話を戻します。


8
サン・ビアージョ小路からディヴィーノ・アモーレ小路二通りの名称変更の由来となった、サンタ・マリア・デル・ディヴィーノ・アモーレ教会が小路に面して建ってます。


11
1131年に遡る歴史を持つ教会なので、カラヴァッジョが住んでいた時にも、この教会は存在していました。


9
鐘楼


10
教会の銘板


12
カラヴァッジョがこの教会のミサに出た記録はありません。しかし、この教会の前を毎日行き来していたと思われます。


15
単廊式の小さな教会です。


14
サンタ・マリア・デル・ディヴィーノ・アモーレ教会の主祭壇画


13
(つづく)

足跡を辿って 8.「ロレートの聖母」の旅
200
ジョヴァンニ・バリオーネから起こされた、所謂「バリオーネ裁判」が決着しました。


201
カラヴァッジョは、バリオーネ裁判後もマッテイ宮に寄寓していました。


202
カヴァッレッティ家のローマにおける邸宅 Palazzo Cavallettiです。

この邸宅の主エレメーテ・カヴァッレッティ侯爵(ボローニャ、?-ローマ、1602)は、教皇庁のCamera Apostolicaの公証人兼会計士を務めていました。死の三か月前にロレートに巡礼の旅をして、ロレートへの信仰心を揺るぎないものにしてローマに帰りました。


203
ローマのサンタゴスティーノ聖堂です。


204
エレメーテ・カヴァッレッティ侯爵は、サンタゴスティーノ聖堂に礼拝堂を購入し、その礼拝堂をカヴァッレッティ家の礼拝堂にするとともに、その祭壇画を「ロレートの聖母」にするようにとの遺言と莫大な金を残して1602年7月21日に没しました。


205
残された遺族と遺言執行人は、1603年9月4日、サンタゴスティーノ聖堂の左第一礼拝堂を購入するとともに、1603年9月にその礼拝堂の祭壇画としてカラヴァッジョに「ロレートの聖母」を注文しました。


213
「ロレートの聖母」の注文を受けて、1603年秋ごろからカラヴァッジョはマルケ地方への旅に出ました。
残された記録から、アスコリ・ピチェーノで祭壇画を制作したこと、1604年1月にトレンティーノで祭壇画を描いたことが分かっていますが、それ以外のことは不明です。
しかし、「ロレートの聖母」を受注してマルケへの旅に立たからには、トレンティーノから僅かな距離にあるロレートに向かったのは当然でしょう。


206
往復の旅程が全く分かりませんが、往路と復路とも同じ道を通ったと仮定すれば、当時の街道から推察して、ローマからテルニを経由してアスコリ・ピチェーノに入り、更に足を延ばしてトレンティーノ、マチェラータ、レカナーティを経由してロレートに到着したと考えても不自然ではありません。


215
テルニのPalazzo Spedaです。


216
アスコリ・ピチェーノです。


217
アスコリ・ピチェーノに来たからには、ドゥオーモの有名な多翼祭壇画を観たことでしょう。


218
アスコリ・ピチェーノのドゥオーモにあるカルロ・クリヴェッリの多翼祭壇画


219
アスコリ・ピチェーノでカラヴァッジョが祭壇画を描いた教会に向かいます。写真正面に、その教会がありました。


220
18世紀に建設されたPalazzo del Governo、別名Palazzo San Filippoです。現在はマルケ州アスコリ・ピチェーノ県の県庁舎となってます。


221
18世紀に建設されたPalazzo del Governoに隣接してサン・フィリッポ教会と言う小さなバロック様式の教会がありましたが、Palazzo del Governoを増築することになり、サン・フィリッポ教会は1902年に取り壊されました。それがこの建物の別称Palazzo San Filippoの由来です。
写真右端にサン・フィリッポ教会がありましたが、その教会の祭壇画をカラヴァッジョが制作したのです。


214
逸名画家による「カラヴァッジョ作『聖イシドーロ・アグリコーラの奇跡』のコピー画」

出来が宜しくないコピー画ですが、これがあるお陰でカラヴァッジョの作品の概要が分かります。
カラヴァッジョの作品は、18世紀末までサン・フィリッポ教会の祭壇にありましたが、ナポレオンのイタリア侵攻の際、この作品はフランスに持ち去られてしまいました。現在、行方不明となってます。


222
逸名画家によるカラヴァッジョ作品のコピー画はアスコリ・ピチェーノ市立美術館にあります。(現在、常設展示されていない?)


212
トレンティーノのCastello della Ranciaです。
1604年1月に、カラヴァッジョはトレンティーノにいました。


211
トレンティーノの市庁舎です。


207
トレンティーノのポルチェッリ広場にある、カプチン会のParrocchia di Santissimo Crocifissoです。


210
この教区教会は既に活動を停止して、トレンティーノの市当局の所有となってます。
カラヴァッジョが描いたとされる祭壇画については何も分かってません。


208
この教区教会は崩落してしまいました。


209
この祭壇画は無事だったようです。


223
次はマチェラータです。


224
マチェラータのドゥオーモです。
カラヴァッジョがマチェラータに行ったかどうかは不明です。しかし、トレンティーノから足を延ばしてロレートに向かったとすれば、街道の途中にあるマチェラータを経由したと考えるのが自然です。


225
マチェラータの城壁(市壁)です。チェントロ・ストーリコに入らず、城壁に沿って通過しただけかも知れません。


226
次はレカナーティです。


227
ロレートに市境を接するレカナーティなので、カラヴァッジョがロレートに行ったとすればレカナーティを必ず通ったに違いないと思います。


124
レカナーティでは、ロレンツォ・ロットのユニークな「受胎告知」を観たかも知れません。


228
ロレートからレカナーティ、トレンティーノに向かう道です。今も昔もロレートの聖なる家の聖堂は巡礼地でした。この道路はマルケ各地からロレートに向かう巡礼路でした。


229
門を潜ってロレートのチェントロ・ストーリコに入ります。


230
中世の頃、膝行して聖なる聖堂に向かう信者が大勢いたそうです。


231
聖なる家の聖堂です。


232
身廊中央通路の突き当りに聖なる家があります。


233
聖なる家です。


234
聖なる家の内部は写真不可です。


235
聖なる家の聖堂は傑作美術品の宝庫です。


236
カラヴァッジョが聖なる家の聖堂に来たとすれば、多くの美術品を観たことでしょう。


237


238
ロレートの城壁です。


239
マルケへの旅がどのぐらいの期間だったのか、全く分かりません。


240
マルケへの旅の結果、制作されたのが「ロレートの聖母、または巡礼の聖母」です。
(つづく)

足跡を辿って 8.マッテイ宮寄寓時代Ⅲ、バリオーネ裁判
200
カラヴァッジョについてアップするのに、最も苦労しているのが自分が撮った写真を探すことでした。イタリアの美術館で写真解禁になったのは確か2014年頃だったので、作品写真を探すのは比較的簡単ですが、カラヴァッジョがローマで主に生活していたカンポ・マルツィオ地区の写真となると、探すのが非常に大変で、フィルムに収めた写真がかなりあって、そうなるとお手上げです。デジタル化するほどの価値がありませんから。


201
(その18)は、有名なバリオーネ裁判についてです。バリオーネ裁判が起きた1603年8月から9月には、カラヴァッジョはマッテイ宮に住んでいたと思われます。


206
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1571-1640)の「ジョヴァンニ・バリオーネの肖像」(1625)

1603年8月28日、ジョヴァンニ・バリオーネは、自分と忠実な弟分のトンマーゾ・サリーニ通称マオ(ローマ、1575c-1625)を揶揄する卑猥な詩二編を回覧されて、自分の名誉を棄損されたとして、カラヴァッジョ、画家のオラツィオ・ジェンティレスキ、建築家オノリオ・ロンギ、画家フィリッポ・トリゼーニの四人を訴えましたが、名誉棄損の首謀者をカラヴァッジョにしてました。
その際、提出された訴状が残されており、その中でバリオーネがジェズ教会に描いた「キリストの復活」が公開されると、バリオーネの受注に羨望を抱いていた四人の嫉妬心から自分を貶めるために、二編の詩を作り回覧したと書かれていました。
カラヴァッジョは逮捕されましたが、フランス大使の尽力(デル・モンテ枢機卿の根回しがあったと思います)によって、逮捕から二週間後に、10月25日までの二か月間、許可なく自宅を出ないで謹慎するという条件で釈放されました。また、オノリオ・ロンギは、この時、ローマにいなかったので逮捕を免れました。

この裁判記録は、当時の画壇やカラヴァッジョの考え方を知る上で、第一級の資料になってます。

二編の詩自体はたわいのないものでしたが、画家の誰しもが受注して已まなかったジェス教会の祭壇画を制作して、当時の画壇の注目を集めたバリオーネが詩を柳の風と無視しなかったのは、バリオーネの性格によるところが大であるものの、その背景を知ると分かります。


208
アンソニー・ヴァン・ダイク(アルトウェルペン、1599-ロンドン、1641)の「オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ,1563-ロンドン、1641)の肖像」(1627-35c)

オラツィオ・ジェンティレスキは、カラヴァッジョの友人で、カラヴァッジョから大きな影響を受けた画家です。バリオーネを誹謗した二編の詩の作成に関与したかもしれないとされてますが、模倣されるのが嫌いなカラヴァッジョと疎遠になった可能性もありそうです。
カラヴァッジェスキ画家として近年非常に評価が高まっているアルテミジア・ジェンティレスキはオラツィオの娘です。ロンドンに旅立つにあたって、信頼する画家アゴスティーノ・タッシに娘アルテミジアを託しましたが、見事に裏切られてタッシによって娘がレイプされる事件が起きました。(これは余談です)


222
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「光悦の聖フランチェスコ」(1601)(個人蔵)

バリオーネは、後期マニエリスム様式の画家でしたが、時代の潮流に即応して次々と画風を変え、自分独自の画風を持てない画家でした。しかし、機を見るに敏で、画家仲間からはあまり評価されていない一方、上流社会や工期聖職者からは高く評価されました。

サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のカラヴァッジョの「聖マッテオ」が掲げられると、口では評価しなかったにも拘らず、カラヴァッジョの写実主義と明暗表現に感銘を受けたのか、直ぐに画風を変えてカラヴァッジョ・スタイルを模倣するようになり、最初のカラヴァッジェスキ画家の一人となったのです。


221
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「天使に癒される聖セバスティアーノ」(1603c)

カラヴァッジョは自分のスタイルが模倣されるのを好まず、バリオーネに対して憤激しました。この作品は、カラヴァッジョの模倣の典型的な例として知られてます。


215
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「勝ち誇るアモール」(1602-03)

銀行家ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵の注文によって制作された作品です。ベルリンの国立美術館にあります。


216
カラヴァッジョのこの作品を見ると、バリオーネは、カラヴァッジョに対抗するために、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵に献じるために作品制作に取り掛かりました。


217
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「聖なる愛と俗なる愛」(1602)(ベルリン国立美術館蔵)

カラヴァッジョの明暗表現と写実描写を模倣して制作されましたが、カラヴァッジョに及ばぬことは明らかです。この作品をジュスティニアーニ侯爵に献じると、金の首飾りが与えられましたが、バリオーネ裁判の問題となった詩の中で、その金の首飾りが揶揄されてます。
悪魔の顔が向こうに向いて見えませんが、悪魔の顔をこちらに向けさせて、カラヴァッジョの顔を悪魔にした別バージョンの作品があります。


218
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「聖なる愛と俗なる愛」(1602)
ローマ、バルベリーニ宮の国立絵画館にあります。


219
カラヴァッジョの怒りを買うために、わざわざカラヴァッジョの似顔絵を描いた別バージョンの作品を制作したところに、バリオーネの深い対抗心と敵愾心、悪意が表れてます。
しかし、バリオーネの二作品とカラヴァッジョの作品の優劣は明らかです。それが分かるように、バルベリーニ宮では展示されてます。


220
カラヴァッジョは「勝ち誇るアモール」ではなく「ユディト」ですが、バリオーネの作品が明らかにカラヴァッジョよりも下であることは明白です。バルベリーニ宮も粋な展示をしますね、感心します。
ともあれ、対抗心剥き出しの作品を描かれて、しかも自分のパトロンに献上されては、どの画家でも頭に血が上ってしまいます。喧嘩早いカラヴァッジョですから猶更です。

次にバリオーネの忠実な弟分であるトンマーゾ・サリーニ通称マオの話に移ります。


209
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「トンマーゾ・サリーニの肖像」

トンマーゾ・サリーニ通称マオは、ジョヴァンニ・バリオーネの忠実な部下という存在の静物画専門の画家でした。カラヴァッジョが描いた静物画から影響を受けて、カラヴァッジョ・スタイルの模倣者となりました。性格は乱暴で喧嘩早く、剣を持って外出していました。この点ではカラヴァッジョと同じでした。


212
トンマーゾ・サリーニ通称マオ(ローマ、1575c-1625)の「静物画」

カラヴァッジョが描いた「果物籠」に遠く及ばない凡作です。模倣されるのが大嫌いなカラヴァッジョですから、マオを嫌悪していました。


213
1601年10月1日の午後7時ころ、事件が起きました。
トンマーゾ・サリーニ通称マオと、バリオーネの従者がカンポ・マルツィオ広場近くの通りを歩いていると、4,5人の男たちとすれ違いましたが、その中にカラヴァッジョがいました。すれ違いざま、マオの背後にカラヴァッジョから剣で斬り付けられ、マオもすぐに剣を抜いて応戦。
しかし、近くにいた人たちが集まってきて、仲裁に入り事なきを得ましたが、事件後、直ぐにマオはカラヴァッジョから背後に斬り付けられたとして訴えました。


214
事件があったとされる通りです。
双方とも剣で戦ったものの、大事に至らずに終わったようです。
事件の訴訟に関する記録が残されていないので、結末が分かりませんが、カラヴァッジョにしてもバリオーネ側も互いに深い恨みを抱いていたことでしょう。


210
写真はイエズス会の本拠地ジェズ教会です。
話をバリオーネ裁判に戻します。


223
右翼廊の聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂です。
この礼拝堂の祭壇画は、高さ8m、幅4.5mの大きなもので、当時ローマにいた画家の多くが受注したいと切望したに違いないものでした。


211
ジョヴァンニ・バリオーネの「キリストの復活」が聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂祭壇に設置されると、それを見ようと多くの画家が集まったとされてます。
注目された作品でしたが、羨望と嫉妬から見た画家たちの目には、大作にも拘わらず出来がイマイチの凡作に映ったようです。
この作品がイマイチだったのか、バリオーネの作品は17世紀末に取り外され、カルロ・マラッタの作品に差し替えられました。今でもカルロ・マラッタの作品が祭壇を飾ってます。
取り外されたバリオーネの作品はその後行方不明となり、現存していないようです。しかし、大作の制作前に描いたバリオーネの習作が残されているので、その習作から、どのような作品であったのかが類推できます。


207
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「キリストの復活」
ルーブル美術館にあります。

この作品がジェズ聖堂の準備として描いた習作とされてます。

カラヴァッジョの写実主義と明暗表現が色濃く感じられます。自分の画風を模倣されて、バリオーネに対するカラヴァッジョの嫌悪感、侮蔑感が一層募ったことと思われます。
1603年9月13日に取り調べが行われ、カラヴァッジョは非常に興味深いことを話しました。
以下はその裁判記録です。

2016年3月1日から6月12日に国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」で購入した「CARAVAGGIO」という325頁の展覧会説明本のうち、242頁から243頁に記載されている史料のdoc.3バリオーネ裁判(1603年9月13日) ローマ国立古文書館の記述をそのまま転載しておきます。

〔カラヴァッジョにとって、有能な人物を意味する「ヴァレントゥオーモ」とはどのような意味かという尋問を受け〕
答弁:私にとって「ヴァレントゥオーモ」とは上手に事をなす者、すなわち十分にその腕を振るうことができる者のことです。ですから画家で言うならば、上手に絵を描くことができ、自然を見事に模倣できる者がヴァレントゥオーモです。

証人〔カラヴァッジョ〕の友人は誰か、または敵対者は誰かという尋問を受け、
答弁:先ほど挙げた者のうち、ジョゼッフェ〔カヴァリエーレ・ダルピーノ〕、ジョヴァンニ・バリオーネ、〔オラツィオ・〕ジェンティレスキ、ジョルジョ・トデスコは私に話しかけてきませんから、みな友人ではありません。ほかの者はみな私に話しかけてきますし、付き合いもあります。

先ほど挙げた者のなかで、俗語で言うとところのヴァレントゥオーモだと考えるのは誰か、また誰がそうではないと考えるのかという尋問を受け、
答弁:先ほど挙げた画家のうち、ジョゼッフェ〔カヴァリエール・ダルピーノ〕、ツッカロ〔フェデリーコ・ズッカリ〕、ポマランチョ〔クリストファノ・ロンカッリ〕、アンニーバレ・カラッチは優れt画家です。それ以外はヴァレントゥオーモだとは思いません。

先ほど挙げた者のなかから優れた画家と悪しき画家について証人の考えを聞いたが、ほかの画家たちも同意見なのかという尋問を受け、
答弁:ヴァレントゥオーモは絵画に精通しているので、私が優れていると判断した者を優れた画家と判断するでしょうし、悪しき者についても同様に判断するでしょう。一方、悪しき画家は無知なので、自分と同じように無知な者を優れた画家だと判断してしまうでしょう。

裁判の結果ですが、それに関する一切の資料が残されていないので、結末がどうなったのか、分かる術がありません。
被告人にされたカラヴァッジョ側は、バリオーネとマオに対する恨みが一層強まったようで、さらなる事件発生の、この訴訟の後日談が残されてます。


224
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂です。


225
1603年11月16日、ミネルヴァ聖堂内で行われていたミサ中に、オノリオ・ロンギは、ジョヴァンニ・バリオーネとトンマーゾ・サリーニ通称マオの姿を見かけます。


227
バリオーネ裁判の時、偶々ローマを離れていて逮捕を免れて家宅捜索だけで終わったオノリオ・ロンギでしたが、バリオーネとマオの姿を認めると、直ぐに憤怒にかられたようです。


228
ミサ中に因縁をつけたものの、流石に聖堂内で事を構えるのは良くないと考えたロンギは、二人が聖堂の外に出るのを待ちました。


226
二人が聖堂の外に出ると、ロンギは二人に向かって煉瓦を投げつけ、バリオーネが転倒しました。この時、ロンギ、バリオーネ、マオの三人はミサに出席するということで剣を持っていなかったようです。


229
バリオーネとマオは自宅に逃げ帰りました。


230
ロンギは、剣を持ってバリオーネ宅に押しかけ、家の入り口で剣を抜き脅したとして逮捕されました。


231
ロンギは、拘留され取り調べを受け、有罪となって自宅謹慎となったようです。
カラヴァッジョの意を受けた襲撃と脅迫だったようです。この事件でカラヴァッジョとロンギの結束が固かったことが分かります。

次に、このころに制作された作品に移ります。


205
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖ジローラモ」
モンセラートのサンタ・マリア修道院の付属美術館にあります。

1638年に作成されたジュスティニアーニ・コレクション目録にある、カラヴァッジョ作品15点のうちの一つです。
その後の経過が不明ですが、1915年、モンセラート修道院によって購入されましたが、その際、この作品はリベラの帰属作品とされていたそうです。
1943年、ロベルト・ロンギがカラヴァッジョの真作としました。


232
サンタ・マリア・イン・ヴァッリチェッラ教会です。キエーザ・ヌオーヴァと呼ばれるが一般的です。


233
1575年、第226代教皇グレゴリオ13世(ボローニャ、1502-ローマ、1585 教皇在位:1572-1585)は、オラトリオ会を公認するとともに、サンタ・マリア・イン・ヴァッリチェッラ教会を同会に与える教書を発布しました。その後、建物の再建が行われ、新教会(Chiesa Nuova)と呼ばれるようになりました。


234
右側壁第二礼拝堂はピエタ礼拝堂と呼ばれてます。
ピエタ礼拝堂の祭壇画としてカラヴァッジョに注文されました。
カラヴァッジョの作品については、作品巡りの2.ヴァティカン絵画館で詳しく触れました。


238
カラヴァッジョ作品が展示されているヴァティカン絵画館の展示室です。


236
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの埋葬」

ナポレオンによってキエーザ・ヌオーヴァからパリに持ち去られ、一時ルーブル美術館で展示されましたが、ナポレオンの没落後、返還交渉が行われました。元のキエーザ・ヌオーヴァが返還を希望したものの、受け入れられずヴァティカンの所有となって現在に至ってます。


239
キエーザ・ヌオーヴァで公開されるや、多くの画家から賞賛された傑作です。因縁のバリオーネでさえもカラヴァッジョの作品の中で最高と評価しました。


240


241
マグダラのマリア


242


243
聖母


237
作品の前はいつも混雑しています。


235
Michael Koeckの「カラヴァッジョ作『キリストの埋葬』の複製画」(1797)

カラヴァッジョ作品がナポレオンによってパリに持ち去られると、空いた祭壇を埋めるために複製画が制作され設置されました。今でも、その時に制作されたカラヴァッジョ作品のコピー画がピエタ礼拝堂に置かれてます。残念ながら、私は凡作と思います。

(つづく)

補遺
200
先ず、触れるのを忘れてしまった作品を取り上げます。


201
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ご誕生」(1600c)


203
この作品は、パレルモのサン・ロレンツォ祈禱所(Oratorio)にありました。


204
1969年10月17日から18日の深夜から未明にかけて、盗まれてしまいました。


202
現在はSkyテレビの尽力によって作成された写真が祈祷所の祭壇に置かれてます。


205
カラヴァッジョがマルタからシチリアに逃亡してきた1609年頃に制作されたと長らく信じられてきましたが、新資料の発見によってカラヴァッジョがデル・モンテ枢機卿の庇護を受けたマダマ宮殿寄宿時代の1600年に制作されたという説が定説になりました。
サン・ロレンツォ祈禱所は、現在Museoの扱いとなってますが、そこに常駐している係員も1600年に制作されたと言ってました。


226
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ダヴィデとゴリアテ」

デル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に居住時代に描かれました。ゴリアテの顔はカラヴァッジョの自画像です。


227
スペインのプラド美術館にあります。

次は、カラヴァッジョの作品説があるものの、その帰属が疑わしいとされている作品の紹介です。
展示されている美術館に行くと、帰属が疑わしいとされている作品でも堂々とカラヴァッジョの作品として展示されていることがあって、ビックリすることがあります。
233
一時はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの作品されていましたが、今では否定されている「本を持つ預言者」です。ドイツのカールスルーエ美術館にあります。
こんなのがあるんだと思い、驚きました。


232
「キリストの鞭打ち」(1606-07c)

フランスのルーアン美術館にある作品で、1955年にルーアン美術館が買収した時にはマッティア・プレティの作品とされていたそうです。1959年にロベルト・ロンギがカラヴァッジョの帰属作品としましたが、今でもその帰属について議論が絶えません。


231
「聖ジローラモの幻視」

アメリア、マサチューセッツ州のウースター美術館にある作品です。一時期カラヴァッジョの作品説が出されましたが、カラヴァッジョ作品説は否定されて、17世紀の逸名画家による作品というのが定説になりつつあるようです。


229
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)?の「キリストの鞭打ち」(1598c)

地元ではカラヴァッジョ作品としてますが?
ラツィオ州リエーティ県のカンタルーポ・イン・サビーナ(人口1,641人の村)のPalazzo Camucciniにあります。


234
カンタルーポ・イン・サビーナのPalazzo Camuccini


210
「イサクの犠牲」(1598c)

アメリア、ニュージャージー州プリンストンのPiasecka-Johnson Collection蔵
カラヴァッジョの作品説が出されましたが、今ではバルトロメオ・カヴァロッツィ(ヴィテルボ、1587-ローマ、1625)の作品である可能性が高いとされてます。


211
『聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1598c)

トレド大聖堂美術館にあります。カラヴァッジョ作品説があったものの、現在ではバルトロメオ・カヴァロッツィ作品説が定説のようです。


207
「高位聖職者の肖像」(1595-99)

カラヴァッジョの作品説がある肖像画です。私が持っている信頼できる本のカラヴァッジョの作品一覧には一切記載されていない作品です。


212
これにはビックリです。
勿論、カラヴァッジョの真作「聖マッテオと天使」の第1バージョンです。第二次世界大戦のソ連軍のベルリン制圧戦で焼失して、その白黒写真しか残されていないと思っていたら、何とカラー写真がありました。
種明かしをすれば、焼失前に鑑賞した人たちの印象を基に白黒写真に色付けしたそうです。


214
「花と果物のある静物画」(1595-99c)

ボルゲーゼ・コレクションの作品です。全体の構成がカラヴァッジョらしくなく、調和を欠いているので別人の作品の可能性が高いとされてます。近頃、ボルゲーゼ美術館で観たことがありません。


213
「果物のある静物画」(1601-55)

アメリカのデンバー美術館にあります。デル・モンテ枢機卿のコレクションにあったとされ、1671年のアントニオ・バルベリーニ枢機卿のコレクション目録で初めて記載された作品です。
私が持っているカラヴァッジョ関係の本にあるカラヴァッジョの作品リストに記載されてません。


219
「教皇パオロ5世の肖像」

ボルゲーゼ美術館にあります。第233代教皇パオロ5世(在位:1605-1621)は、俗名カミッロ・ボルゲーゼ(ローマ、1552-1621)と言い、ボルゲーゼ家出身の教皇の肖像画がボルゲーゼ美術館にあるのは当然ですが、カラヴァッジョがパオロ5世の肖像画を描いたと書かれたのはベッローリの伝記しかありません。他のカラヴァッジョの伝記では、パオロ5世の肖像画についての言及がありません。
この肖像画は、パドヴァニーノ作品説やオッタヴィオ・コスタ作品説があって、カラヴァッジョ作品説は今では少数意見になっているようです。


222
「ホロフェルネスの首を斬るユディト」


2014年、トゥールーズの屋根裏部屋から発見された作品です。
発見された当初、フランスは本作品の国外移転を禁止しました。ルイス・フィンソンの作品を参考にして帰属問題が検討されました。
ルーブル美術館がこの作品の購入を止めたと伝えられるや、直ぐにこの作品がフランス国外のあちこちに移動されるようになりました。
ブレラ絵画館で屋根裏部屋の作品とナポリのフィンソンの複製画が並べて展示されている時に、私は両作品をじっくりと観たことがあるのですが、屋根裏部屋で発見された作品もフィンソンの作品ではないかと思いました。
屋根裏部屋で発見された作品は、オークションにかけられる予定でしたが、オークション直前に某個人と取引が成立しました。その個人はメトロポリタン美術館の理事を務める人と分かりました。
屋根裏部屋で発見された作品もルイス・フィンソンの作品であるという説がかなり有力のようで、カラヴァッジョの作品説は少数意見のように思えます。


225
ナポリのパラッツォ・ゼヴァロス・スティリアーノ美術館は、カラヴァッジョの作品があることで有名ですが、カラヴァッジョの「ホロフェルネスを斬るユディト」のコピー画があります。


223
ルイス・フィンソンが描いたカラヴァッジョ作品の複製画です。


224
ルイス・フィンソンがカラヴァッジョ作品のコピー画を制作したことは、フィンソンの遺言状などで確認されてます。

フィンソンのコピー画が屋根裏部屋で発見された作品の帰属についての重要資料としてナポリの美術館から取り外されフランスに送られました。


215
「子羊と戯れる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

スイス、バーゼルのOffentiche Kunstsammulungにあります。発見された当初はカラヴァッジョ作品説が一部出されましたが、17世紀の逸名画家による作品説が定説になっているようです。


218
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1605-06)

同じような作品が、個人蔵でメトロポリタン美術館で寄託展示されている作品があります。その作品については後述しますが、こちらはベルリンのGemaldegalerieにあります。メトロポリタンで展示されている作品の複製画説があります。
今では、この作品は17世紀の逸名画家によって制作されたという説が定説になっており、カラヴァッジョ作品説は完全に否定されたようです。


217
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1603c)

個人蔵でニューヨークのメトロポリタン美術館で寄託展示されている作品ですが、意外にも公開されることが少ないように思います。
1928年、ロベルト・ロンギがカラヴァッジョ作品としましたが、異論が出されました。カラヴァッジョの真作説の一方、その帰属について色々な意見が絶えないようです。


216
「歯抜き」(1607-08c)

フィレンツェ、ピッティ宮のパラティーナ美術館にある作品です。カラヴァッジョ作品に登場した、お馴染みの顔の人たちが描かれてます。マルタ時代のスタイルで描かれてます。
作品帰属について、当初からいろいろな議論がなされています。メディチ家コレクションを管理する美術館側がカラヴァッジョ作品としている以上、私はカラヴァッジョ作品で良いと思います。

次はカラヴァッジョに帰属する作品や真作とされている作品です。


235
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「子羊の世話をする聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

1958年頃にローマのコルシーニ美術館で展示されていたそうです。現在はローマの個人蔵で、2016年に上野の国立西洋美術館で開催されたカラヴァッジョ展で出展されていたと思います。
ロ・スパダリーノの作品説も未だに根強いです。
X線照射によって、カラヴァッジョ作品特有の画面の下に描かれた画影が発見され、カラヴァッジョに帰属する作品とされました。


230
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「紳士(シピオーネ・ボルゲーゼ?)の肖像」

トスカーナ州モンテプルチャーノの市立美術館にあります。2012年頃、作品を所有するモンテプルチャーノ市当局がカラヴァッジョの帰属作品としましたが、それ以降、作品帰属に関する異論が出されてません。


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ピエトロと聖アンドレアの召命」(1604c)

ロンドンのハンプトン・コート宮殿にある作品です。
1943年、ロベルト・ロンギがカラヴァッジョの真作としましたが、作品の帰属を巡って、それ以前も、それ以後も、そして今なお議論が絶えません。
2006年11月10日、所有するイギリス王室当局からカラヴァッジョの真作宣言が出されました。作品帰属を巡る議論を終わらせようとして宣言したという観測がありました。その効果はなかったようで、カラヴァッジョの作品に含めない専門家も多いのが現実です。


220
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「井戸の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1607-08)

マルタの個人蔵の作品です。カラヴァッジョの真作説を唱えているのは美術史家の一人だけのようですが、この作品を目にした専門家が他にいないようなので、作品帰属は議論になっていないようです。


221
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1610c)

アルゼンチンで発見された作品で、カラヴァッジョの最後の作品の一つと考えられてます。ミュンヘンの個人蔵で、外部展示されたことがないそうです。マルタにある上記の作品と同じく、実際に観た美術史家が少なく、帰属を巡る議論には至っていないようです。


208
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物を剥く少年」

イギリスのロイヤルコレクションで、バッキンガム宮殿にあります。カラヴァッジョ自身による複製画と言われてます。


209
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物を剥く少年」

かって東京の個人蔵でしたが、現在はスイスの個人が所有する、カラヴァッジョ自身による複製画です。


333
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖アガピートの斬首」

ローマから逃亡して、ラツィオ山中のコロンナ家領地に潜伏中に描かれたとされてます。1967年、カラヴァッジョが潜伏した村の一つであるパレストリーナのサンタントニオ・アバーテ教会から発見された作品です。地元のパレストリーナではカラヴァッジョの作品としていますが、この作品の帰属についての定説確立には至っていないようです。

補遺はこれで終わりです。

(つづく)



記事の更新が不定期になります。

足跡を辿って 8.マッテイ宮寄寓時代Ⅱ
200
注文が次々と入る人気画家となってカラヴァッジョですが、制作に励む一方、素行は悪いままでした。


201
マッテイ宮にいてもスクロファ通りでたむろしていました。剣を携えて夜中のカンポ・マルツィオ地区を歩き回り、賭場、売春宿、居酒屋、遊技場などに出入りし、ヤクザや剣客のようでした。


204
1600年10月、カラヴァッジョは、悪友オノリオ・ロンギ(ヴィッジュ、1568-ローマ、1619)と画家マルコ・トゥッリオの喧嘩の仲裁を行った記録が残されています。オノリオ・ロンギの従弟のステファノ・ロンギもいました。この時、カラヴァッジョは病気だったそうです。


203
カンポ・マルツィオ通りです。
オノリオ・ロンギはカラヴァッジョの親友であり。悪友でした。カラヴァッジョの警察沙汰の多くにロンギがいました。
カラヴァッジョは、ロンギと、ロンギの妻の肖像画を描いたとされてますが、どちらも現存していません。


205
1601年2月、カラヴァッジョとオノリオ・ロンギは、サンタンジェロ城守備隊の兵士フラヴィオ・カノーニコを剣で斬りつけたとして警察沙汰となりました。しかし、後に和解したので罪を免れました。


206
カラヴァッジョは、好んで喧嘩や争いごとを求める凶暴な性格の持ち主だったことが分かります。


207
当時、ローマでは許可のないものは剣を所持して外出してはいけないことになっていました。


202
1601年10月2日、カラヴァッジョと友人たち(オノリオ・ロンギもいた)は、男を侮辱するとともに剣で攻撃したとして、男から訴えられた記録が残されてます。


232
1601年10月11日、剣の不法所持で逮捕されました。


234
犯罪記録が相次いでいたことから、この時は放免されず、Tor di Nonaの監獄に収監されてしまいました。


233
Tor di Nona刑務所は、1660年に取り壊されて、その上にトルディノーナ劇場が建設されました。劇場の一部が現存しています。
カラヴァッジョの画業に話を移します。


208
銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタ伯爵(コンシェンテ、1554-ローマ、1639)が「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の画料として200scudi支払った時の1602年5月21日付のカラヴァッジョの領収書です。


209
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(アメリカ、カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館蔵)

オッタヴィオ・コスタはコンシェンテ伯爵でしたが、コンシェンテに所有するコスタ家礼拝堂の祭壇画としてカラヴァッジョに注文して制作された作品です。しかし、作品の出来に大満足したコスタは、カラヴァッジョの作品を手元に置くことにして、コスタ家礼拝堂にはコピー画を飾ることにしました。そうして制作されたコピー画がアルベンガのMuseo Diocesanoにあります。


210
アルベンガのドゥオーモ


212
アルベンガのMuseo Diocesanoの入り口です。


211
17世紀初めの逸名画家作「カラヴァッジョ作『聖ジョヴァンニ・バッティスタ』のコピー画」

カラヴァッジョ自身による複製画説がありましたが、近年ではそれを否定する説が定説になっているようです。ロンリープラネットの旅行ガイド「イタリア」にはカラヴァッジョの作品と書かれていました。

ほぼ同時期に制作された、別バージョンとされる「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」がトレド大聖堂にあります。


213
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ?の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(トレド大聖堂)


214
カラヴァッジョの作品説がある一方で、バルトロメオ・カヴァロッツィ(ヴィテルボ、1587-ローマ、1625)の作品説もあります。


215
バルトロメオ・カヴァロッツィ作品説は17世紀中頃に既にあったそうです。


216
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖トンマーゾの不信」(ポツダム、サンスーシ美術館蔵)

カラヴァッジョのパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵(ギリシャ・キオス、1564-ローマ、1637)の注文によって制作された作品です。


217
ジュスティニアーニ侯爵の死後、1638年に作成されたジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載された15点のカラヴァッジョ作品の一つです。


218
ジュスティニアーニ家困窮のため、1812年から1815年にかけてパリでジュスティニアーニ家コレクションが売りに出されましたが、その際、プロイセン王のために買収され、1816年にプロイセンに到着しました。


219
「聖トンマーゾの不信」のコピー画がフィレンツェのウフィッツィ美術館にあります。


220
17世紀前半に活動した逸名画家によるコピー画です。


221
かなり出来の良いコピー画と思います。


222
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「勝ち誇るアモール」

ベルリンの国立美術館にあります。


223
ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵の注文によって制作された作品です。制作された当初から高い評価を受けました。


224
ジュスティニアーニ侯爵死後の1638年に作成されたジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載された15点のカラヴァッジョ作品のうちの一つです。
コレクションは、1812年に売りに出されましたが、1812年、画商のフェレオル・ボンネメゾンに売却され、1815年にボンネメゾンがプロイセン王に転売したのです。


225
ジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載された15点のカラヴァッジョ作品のうち、現存するのは僅かになりました。


226
プロイセンに入ったカラヴァッジョ作品ですが、第二次世界大戦におけるソ連軍のベルリン制圧戦で焼失した作品が幾つかあります。


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「荊刑のキリスト」(1602)


227
ウィーンの美術史美術館にあります。


229
「荊刑のキリスト」は、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵の注文によって制作されたもので、1638年作成のジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載されてます。1809年、在ローマのオーストリア帝国大使がジュスティニアーニ家から直接買い入れました。ウィーン到着はなぜか1816年になりました。
「荊刑のキリスト」には、1602年に制作された説のほか、1604年制作説や1607年制作説もあります。


230
Palazzo Mattei Caetaniです。マッテイ宮です。
1602年または1603年頃までマッテイ宮に寄寓していました。


231
トラステヴェレにあるサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会です。
この教会にある礼拝堂の祭壇画として、法律家ラエルツィオ・ケルビーニ Laerzio Cherubini(ノルチャ、1556c-ローマ、1626)から「聖母の死」の注文を受けました。1601年6月14日付の契約書が残されていますが、その注文書において、カラヴァッジョはマッテイ宮の住人と書かれてます。



作品巡り 13.ウーディネ、市立カステッロ美術館
235
ウーディネのカステッロです。


236
1866年に開館した市立美術館があります。


237
カラヴァッジョの作品が1点あります。


238
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」


239
銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタが重病に罹っていたウーディネ出身の修道院長ルッジェーロ・トリトニオ伯爵に病気見舞いとして寄贈した、カラヴァッジョ自身による複製画と言われてます。


240
「法悦の聖フランチェスコ」のオリジナルは、アメリカ・コネチカット州ハートフォードのワズワース・アテニウムにあるものとされてます。


241
しかし、ハートフォード版もカラヴァッジョ自身による複製画説もあり、オリジナルは既に失われているという説もあります。


242
ハートフォード版のミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」
(つづく)

足跡を辿って 8.ローマ、マッテイ宮寄寓時代Ⅰ
200
1601年6月頃、カラヴァッジョはマッテイ宮に入りました。
1601年6月14日午前3時、スクロファ通りで男を棒で殴り、男が着ていたマントを剣で引き裂いたとしてカラヴァッジョが訴えられますが、その時の尋問でマッテイ宮の住人とカラヴァッジョが答えていた記録が残されてます。


201
話が前後しますが、マダマ宮居住時代にあったかも知れないことに触れておきましょう。
写真は、ウンブリア州ペルージャ県にあるモンテ・サンタ・マリア・ティベリーナと言う人口1,095人(2022年6月30日現在)の小さな村です。


202
この村は、ブルボン・デル・モンテ・サンタ・マリア侯爵家の領地でした。


203
モンテ・サンタ・マリア・ティベリーナ村にあるPalazzo Bourbon del Monte Santa Mariaです。


204
デル・モンテ枢機卿は、領地である、この村に度々訪れていました。


205
1978年に出版されたAngelo Ascani著「Monte Santa Maria e i soul marchesi」の中で、カラヴァッジョがPalazzo Bourbon del Monte Santa Mariaに訪れたことがあると述べられてます。
その時期が分からないものの、デル・モンテ枢機卿の領地に訪れた可能性はかなり高いと思ってます。


248
マダマ宮殿からマッテイ宮に転居する時に制作されたのがサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂の2点の作品です。


249
1600年9月に注文を受け、1601年11月にカラヴァッジョに二枚の制作料を支払ったという記録が残されてます。


250
ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂のカラヴァッジョの作品については、作品巡りの8で既に詳しく触れたので、ここでは詳細を割愛させて頂きます。

マッテイ家のチリアーコ・マッテイ伯爵(ローマ、1545-1614)、ジローラモ・マッテイ枢機卿(ローマ、1547-1603)、アスドルバーレ・マッテイ伯爵(ローマ、1556-1638)の三兄弟は、美術に造詣が深かったのですが、折しもマッテイ家が保有する幾つかの宮殿の装飾が行われていて、その装飾にプロスぺロ・オルシが携わっていました。三兄弟はやがて熱心なカラヴァッジョのパトロンになります。
プロスぺロ・オルシは、画家でしたが画商も兼ねていました。予てからカラヴァッジョの友人であり、カラヴァッジョの作品を扱う画商でもありました。マッテイ家が保有する宮殿装飾に携わる画家として、マッテイ家に紹介したのはプロスぺロ・オルシでしょう。
チリアーコ・マッテイは、銀行家でカラヴァッジョのパトロンのオッタヴィオ・コスタ、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニと同じ同信会(サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリー二同信会)のメンバーだったので、二人の銀行家からカラヴァッジョの評判を聞いていた可能性が高いと思われます。


206
制作者情報不詳の「チリアーコ・マッテイ伯爵の肖像」


207
ピエトロ・ファケッティ(マントヴァ、1539-ローマ、1613)の「ジローラモ・マッテイ枢機卿の肖像」


208
ルドヴィーコ・カラッチの作品説がある「アスドルバーレ・マッテイ伯爵の肖像」


209
カラヴァッジョが移住したマッテイ宮は、ラルゴ・アルジェンティーナの傍にあります。


210


211
Via delle Botteghe Oscure


212
マッテイ宮はVia delle Botteghe Oscureに面して建ってます。


213
Palazzo Mattei Caetaniです。現在は単にカエターニ宮と呼ばれることが多いようです。
カラヴァッジョが1601年から住むようになった宮殿です。


214
カエターニ宮と呼ばれるのは、1776年、セルモネータ公爵フランチェスコ・カエターニ(ローマ、1738‐1810)がマッテイ家から買収したことに由来します。


215
マッテイ広場


216
マッテイ広場にある「亀の噴水」

マッテイ宮でカラヴァッジョが制作した作品に移ります。


217
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エマオの晩餐」(1601)
ロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。


218
チリアーコ・マッテイ伯爵の注文によって制作され、1602年1月7日にその画料として150scudi
の支払記録が残ってます。


219
チリアーコ・マッテイ伯爵の死後の1616年、チリアーノの後を継いだチリアーノの息子ジョヴァンニ・バッティスタ・マッテイによって「エマオの晩餐」はシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に売却されました。長らくボルゲーゼ・コレクションの一部でしたが、1801年、カミッロ・ボルゲーゼ侯爵によって売却され、ロンドンの個人所有となりました。その所有していた個人が、1839年にロンドンのナショナル・ギャラリーに譲渡して、現在に至ってます。


221
カラヴァッジョは、後に同じ主題の「エマオの晩餐」を描きました。その別バージョンの「エマオの晩餐」が現在ミラノのブレラ絵画館にあります。


222
カピトリーナ絵画館です。


223
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ又は解放されたイサク」(1601-02)


224
チリアーコ・マッテイ伯爵の注文によって制作され、その画料として85scudiの支払い記録が残されてます。


225
画題ですが、チリアーコの息子ジョヴァンニ・バッティスタのために聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)を注文したとされていましたが、聖ジョヴァンニ・バッティスタを示すアトリビュートが描かれていないことから、犠牲にされるイサクの代わりに犠牲となった子羊が描かれていることから「解放されたイサク」説が近年唱えられ、「解放されたイサク」の方が有力となりつつあるようです。
チリアーコの死後、デル・モンテ枢機卿のコレクションに加わりました。デル・モンテ枢機卿の死後の1628年に教皇ベネデット14世に売却されました。その後、行方不明となっていた時代があるようですが、20世紀初頭にカピトリーニ美術館所有となりましたが、再び行方不明となりました。1950年にローマ市長室で再発見され、カピトリーニ美術館に返却されました。


226
カラヴァッジョ自身による複製画が存在しますが、カピトリーナ絵画館にある作品がオリジナルとされてます。


227
ドーリア・パンフィーリ美術館におけるカラヴァッジョ作品の展示


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ又は解放されたイサク」(ドーリア・パンフィーリ美術館版)


229
全部で11のコピー作品が存在するそうです。
こちらは、ドーリア・パンフィーリ美術館にある逸名画家によるコピー画です。


230
daの表記はコピー画の意味です。


231
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの逮捕」(1602)
アイルランド、ダブリンのナショナル・ギャラリーにあります。


232
カラヴァッジョの自画像が含まれてます。


233
チリアーコ・マッテイ伯爵の注文によって制作され、1603年1月2日にその制作料として125scudiの支払いがなされました。
どのような主題を描くかについては、ジローラモ・マッテイ枢機卿の助言があったとされてます。


234
ダブリンにある「キリストの逮捕」ですが、チリアーコの死後に作成されたマッテイ家コレクション目録に誤ってヘラルト・フォン・ホントホルスト(イタリアではゲラールド・デッラ・ノッテと呼ばれている)(ユトレヒト、1592-1656)の作品とされていました。1802年にヘラルト・フォン・ホントホルストの作品としてスコットランドの個人に売却されました。1802年に所有した個人の末裔が、1921年にアイルランドの個人に本作品を売却しましたが、そのアイルランドの個人が1930年代にダブリンのイエズス会に寄贈したそうです。1990年にアイルランド・ナショナル・ギャラリーの学芸員が本作品を発見し、他の研究者と調査の結果、カラヴァッジョの作品とされました。作品はイエズス会の所有のまま、ナショナル・ギャラリーで寄託展示されてます。
「キリストの逮捕」では、カラヴァッジョ自身によるとされている複製画が存在します。


235
ウクライナ、オデッサの西洋東洋美術館にある「キリストの逮捕」

この作品はフィレンツェのサンニーニ家が所有していましたが、1943年にロベルト・ロンギがカラヴァッジョ自身による複製画であるとしました。
しかし、それに対する色々な異論が出ています。作品帰属については、専門家に任せるよりありません。



作品巡り 12.クレモナ、アラ・ポンツォーネ市立博物館
236
クレモナのアラ・ポンツォーネ市立博物館です。


237
カラヴァッジョの作品が1点あります。


238
何時も閑古鳥が鳴いてます。殆ど毎年来てますが、小中学生などのグループがいたのを一回見ただけで、それ以外の時は私一人で独占できました。


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖フランチェスコ」


240
1606年5月29日、ローマでラヌッチョ・トマッソーニを殺してお尋ね者となったカラヴァッジョが逃亡先のナポリで最初に制作された作品の一つとされてます。また、ローマから逃亡したラツィオ山中のコロンナ家で制作された「エマオの晩餐(ブレラ絵画館)」に制作様式が似ていることから、ラツィオのザガローロにあるコロンナ家宮殿で制作されたという説も有力です。この作品は、ローマまたはナポリの聖フランチェスコを祀る教会のために制作されたと言われてます。


241
この作品は、未知の理由によってピアチェンツァに到着し、ピアチェンツァ近くのカステッラルクゥアートの参事会教会に置かれていましたが、コピー画に置き換えられてクレモナのアラ・ポンツォーネ侯爵家の所有となりました。
1836年、フィリッポ・アラ・ポンツォーネ侯爵が本作品をクレモナ市に寄贈しました。


242
1943年、美術史家のロベルト・ロンギが、本作品はカラヴァッジョの真作としました。多くの美術史家がロンギ説を支持するようになりましたが、それでも異論が出されていました。
ところが、1986年に行われた修復の際、クリーニング工程でカラヴァッジョ特有の痕跡が発見されて、作品帰属の問題が解消され、カラヴァッジョの真作が結論となりました。


243
それにしても、私にはアラ・ポンツォーネ侯爵家所有になった経緯が良く理解出来てません。


246
という事で、事の発端となったカステッラルクァートの参事会教会に行ってみました。


247
参事会教会横に付属美術館があります。


244
これが本物と置き換えるために制作されたコピー画と思われます。


245
ここでは、モンテオリヴェートのサンタ・マリア修道院にあったとされてます。
このコピー画がカラヴァッジョ自身による複製画であるという説が出されたことがあるそうです。
(つづく)

足跡を辿って 7.ローマ、マダマ宮殿居住時代Ⅳ
200
カラヴァッジョの足跡を辿るための確実な記録の一つは、カラヴァッジョの品行の悪さを示す警察の逮捕記録です。


201
マダマ宮殿に寄宿することによって、成功への一歩を踏み出したカラヴァッジョですが、それに慣れてくると警察のご厄介になることになります。


214
1598年5月4日午前2時から3時に、ナヴォーナ広場で剣の不法所持によって夜警に逮捕されました。これがローマにおけるカラヴァッジョの最初の逮捕記録となりますが、これから次々と警察沙汰を起こします。


216
カラヴァッジョの逮捕記録です。
このような記録が今でも残っていることに驚きます。江戸幕府の開府以前の逮捕記録は、日本では殆ど残っていないでしょう。


215
警察官の尋問に対して、カラヴァッジョは、職業はデル・モンテ枢機卿の画家をしている、デル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に住んでいて枢機卿に仕えていると答えました。


217
今度は、1600年11月19日午前3時、スクロファ通りで、男を棒で殴り、持っていた剣で男が着ていたマントを切り裂いたとして、カラヴァッジョは訴えられました。


218
人定質問に対して、カラヴァッジョは前回のナヴォーナ広場での逮捕の時と同じく、デル・モンテ枢機卿の宮殿に住み、枢機卿に仕えていると陳述しました。


46
この事件まで、カラヴァッジョは確実にマダマ宮殿に住んでいたことが分かります。
カラヴァッジョは、やがてマダマ宮殿から出て、マッテイ家の住人になるのですが、1601年6月14日付のサンタ・マリア・デル・スカラ聖堂の「聖母の死」(現在、ルーブル美術館にあります)の制作契約書において、カラヴァッジョはマッテイ家の住人と書かれているので、1600年11月19日から翌年6月4日までにマダマ宮殿からマッテイ宮に引っ越したことになります。


202
次はカラヴァッジョが大きく飛躍する切っ掛けとなったサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂です。


203
デル・モンテ枢機卿、カラヴァッジョの友人で画商を兼ねる画家プロスぺロ・オルシ二人の尽力によって、1599年7月23日にコンタレッリ礼拝堂の左右の側壁に聖マッテオの物語を1年以内に制作するという注文を受けました。主祭壇を除く礼拝堂全てを装飾するという注文を受けたカヴァリエール・ダルピーノでしたが、当時ダルピーノは非常に多忙である上に、一説ではコンタレッリ家と疎遠になったことで、天井画を一部制作しただけで、礼拝堂装飾の仕事は中断されたままになっていました。


204
主祭壇には、フランドル出身の彫刻家ジャック・コバールト(フランドル、1535-ローマ、1615)に既に注文済で、コバールトが制作中という事で、主祭壇画の注文はカラヴァッジョにされませんでした。


205
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ローマ、1610)の「聖マッテオの召命」
私は、イタリア好きなので、聖マタイとは言わず聖マッテオで通します。


206
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)「聖マッテオの殉教」


207
1600年7月に完成して、カラヴァッジョの2つの作品が礼拝堂に設置されると、大勢の人たちが押しかけて、斬新なカラヴァッジョの表現は大変な評判になりました。


208
コンタレッリ礼拝堂の2つの作品によって、カラヴァッジョは一躍ローマの有名画家の一人となりました。


209
ローマのサンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会にあるジャック・コバールト(フランドル、1535-ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」

1602年1月、遅れに遅れていたコバールトの彫刻「聖マッテオと天使」が完成して、漸くコンタレッリ礼拝堂の主祭壇に設置されました。
しかし、遺族のコンタレッリ家は、この彫刻が気に入らず、直ぐに取り外されてサンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会に移されてしまい、1602年2月7日、改めてカラヴァッジョに対して主祭壇画を注文したのです。
この時、カラヴァッジョは既にデル・モンテ枢機卿の元を離れていました。


211
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」(第一作)

第一作が短期間で制作されましたが、直ぐに取り外されて、カラヴァッジョは第二作の制作に取り掛かりました。取り外された理由ですが、聖マッテオが裸足がその足裏が汚れていること、天使と聖マッテオが接近し過ぎてエロチックに見えたからと言われてますが、カラヴァッジョ自身が第一作の出来に満足していなかったという説もあるようです。
なお、第一作は、ベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館にありましたが、第二次世界大戦のソ連軍のベルリン攻撃によって消失してしまいました。第一作の白黒写真が残っているだけです。


210
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」(第二作)


212
第二作は、天使が聖マッテオの聖書執筆を補助する場面を描くという制作契約に反する内容となりましたが、受け入れられました。


213
なお、第一作は、ジェノヴァ出身の銀行家でカラヴァッジョの最大のパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵(ギリシャ、キオス島,1564-ローマ、1637)に売却されましたが、後にジュスティニアーニ家の没落によって、同家のコレクションが売りに出され、世界中の美術館に散ってしまいました。


219
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ユディト」

銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタ(コンシェンテ、1554-ローマ、1639)の注文によって制作された作品です。
ローマのバルベリーニ宮、国立古典絵画館にあります。


220
1599年頃に注文された作品なので、マダマ宮寄寓時代の作品に含めました。


241
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「フィリーデ・メランドローニの肖像」(1598c)

フィリーデ・メランドローニ(シエナ、1581-ローマ、1618)は娼婦でした。1598年頃、フィレンツェの名門貴族ストロッツィ家出身の詩人で台本作家のジュリオ・ストロッツィ(ヴェネツィア、1583-1652)がローマに来て、メランドーニを寵愛しました。ジュリオの注文によってメランドーニの肖像画が制作されました。
メランドーニが死去した時、この肖像画を所持していたと思われ、彼女の遺言書に肖像画をジュリオ・ストロッツィに返却して欲しいと書かれていたそうです。
前述の「ユディト」のモデルは彼女と言われてます。また、後に殺人を犯し、逃亡生活に入るカラヴァッジョですが、その殺人の一因が彼女とされている説があり、それについては後で触れることにします。
1638年に作成されたジュスティニアーニ家のコレクション目録に含まれていました。同家の困窮によって1813年にコレクションの大半が売りに出され、1815年にプロイセン王に買収されました。
第二次世界大戦のソ連軍のベルリン制圧戦で焼失してしまい、このカラー写真だけが残ってます。



作品巡り 11.フィレンツェ、ウフィッツィ美術館
221
何時も混雑しています。


222
展示室や展示作品の再配置が頻繁に行われていましたが、2018年頃に完了したようです。


223
カラヴァッジョの作品が3つあります。


224
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ」(1598c)


225
デル・モンテ枢機卿からトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈られた作品です。


226
ウフィッツィ美術館にある「メドゥーサ」は第二作に当たります。


227
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ」(1597‐98c)

こちらは第一作です。フィレンツェの個人が所有してます。


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「バッカス」


232
デル・モンテ枢機卿からトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈られた作品です。


229
ウフィッツィ美術館内で長らく行方不明になっていましたが、1913年に再発見されたそうです。


233


234


235


236


230
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「イサクの犠牲」


231
マッフェオ・バルベリーニ枢機卿(後の教皇ウルバーノ8世)が注文した作品です。


237
1608年のバルベリーニ家コレクション目録に記載されました。
1917年、この作品を保有していたSciarra家からウフィッツィ美術館に寄贈されました。


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)?の「イサクの犠牲」

カラヴァッジョの「イサクの犠牲」には、別の作品が残されているとされてますが、この作品はバルトロメオ・カヴァロッツィの作品であるとの説も有力です。
(つづく)

足跡を辿って 7.マダマ宮殿居住時代Ⅲ
229
カラヴァッジョがローマに住んでいた時、殆どの時間をカンポ・マルツィオ地区で過ごしていました。


230
マダマ宮殿


232
画家の工房が集まっていたスクロファ通りです。


231
スクロファ通りに建っているPalazzo Aragona Gonzagaです。
マダマ宮殿居住時代のカラヴァッジョが制作した作品に触れておきましょう。


233
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ナルキッソス」(1597-99)


234
作品の帰属と制作された経緯について、様々な意見があった作品ですが、現在はカラヴァッジョの作品とされてます。


235
ローマからサヴォーナへの、1645年の美術品輸出許可書にカラヴァッジョの「ナルキッソス」と記されていたのが本作品であるとされてます。


236
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「バッカス」(1596-97)


237
フィレンツェのウフィッツィ美術館にあります。


238
トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈るためにデル・モンテ枢機卿が注文した作品です。


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ユピテル、ネプトゥヌス、プルート」(1599)

多趣味なデル・モンテ枢機卿ですが、そのうちの一つが錬金術で、ローマのカジーノ・ルドヴィージに小さな錬金術実験室を持っていました。その実験室の天井に描かれた油彩の寓意画です。
新発見の資料によって、1599年春に制作されたことが確定されました。
カラヴァッジョはフレスコ画が苦手だったので、壁に直接油彩で描きました。


240
ネプトゥヌスは、カラヴァッジョの自画像になってます。


241
カジーノ・ルドヴィージは、オークションにかけられましたが、入札不調に終わりました。カラヴァッジョとグエルチーノの作品保存が入札条件となっていました。
入札の最新情報が分かりません。


245
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」


246
アメリアのコネチカット州、ハートフォードのワーズワース・アテニウムにあります。

デル・モンテ枢機卿のコレクション目録にあった作品です。現在、4点の作品が確認されているそうです。ハートフォード版がオリジナルとされてますが、オリジナルは既に失われたという説も有力です。


242
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」

こちらは、イタリアのウーディネのカステッロ市立美術館にある作品です。


243
ウーディネ版は、ジェノヴァの銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタが保有していましたが、1606年8月に友人で重病に陥ったルッジェロ・トリトニオ伯爵(ウーディネ、1543-スピリンベルゴ、1612)に病気見舞いとして贈りました。ウーディネ出身のトリトニオ伯爵は、ローマで高位聖職者の地位にありましたが、ウーディネに戻り修道院長を務めていました。


244
19世紀末、トリトニオ伯爵の末裔がウーディネ市当局に本作品を寄贈しました。
由緒がはっきりしているので、間違いなくカラヴァッジョの真作とされてますが、殆ど知られていないようで、鑑賞している人を見たことがありません。


247
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マッフェオ・バルベリーニ枢機卿の肖像」(1596c)


249
フィレンツェのアルノ川沿いに建つPalazzo Corsiniにあります。


248
作品の帰属について異論が出されていましたが、最近になってカラヴァッジョの真作説が有力となりつつあるようです。
マッフェオ・バルベリーニ枢機卿はデル・モンテ枢機卿の友人でしたが、後の教皇ウルバーノ8世です。
2016年に上野の国立西洋美術館で開催されたカラヴァッジョ展に出品されていました。


250
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マッフェオ・バルベリーニ枢機卿の肖像」(1598c)(フィレンツェの個人蔵)

こちらの作品は、1963年、ロベルト・ロンギ(1890-1970)が発見したもので、ロンギによって発見当初からカラヴァッジョの真作説が唱えられました。真作と言う点では、こちらのロンギによって発見された肖像画の方が真作度が高いと言われてます。


251
モンテプルチャーノの市立美術館です。


252
カラヴァッジョの肖像画(帰属作品)があります。


253
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「シピオーネ・カッファレッリ・ボルゲーゼ?の肖像」(1598c)

カラヴァッジョ作品収集に非常に熱心だったシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿はデル・モンテ枢機卿の友人でした。


253
カラヴァッジョの真作説が有力とされてますが、ボルゲーゼ枢機卿の肖像と言う点では定説になっていないようです。



作品巡り 10.フィレンツェ、パラティーナ美術館(ピッティ宮)
255
ピッティ宮殿です。


256
ウフィッツィ美術館、アッカデミア美術館と比べれば、入館者が少ないパラティーナ美術館です。
カラヴァッジョの作品が3点ありますが、目立たない場所にさりげなく展示されているので、注意しないと見逃す可能性があります。


257
カラヴァッジョの「マルタ騎士の肖像」が次の部屋に向かう通路の右横にあるのですが、大半の人が目を向けることなく次の部屋に移動していきました。
それを見ていた私は、カラヴァッジョは人気がないと痛感しました。


258
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マルタ騎士の肖像」(1608c)


259
逃亡中にマルタ島で制作された肖像画です。マルタ島で騎士団幹部を務めたアントニオ・マルテッリ(フィレンツェ、1534-1618)がフィレンツェのマルテッリ家に自分の肖像画を送ったとされてます。


262
この作品は、2016年に上野の国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」に来ていました。


260
「眠るキューピッド」もあまり目立たなく展示されてます。


261
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「眠るキューピッド」(1608)


263
カラヴァッジョにある程度関心がある人でも、これを見ないと分からない人が多いと思います。


264
逃亡先のマルタ島で制作された作品です。
フィレンツェ出身の騎士フランチェスコ・デッランテッラ Francesco dell'Antellaはマルタ島に渡り、聖ヨハネ騎士団の司令官を務めていましたが、カラヴァッジョに本作の制作を依頼し、フィレンツェの実家の贈りました。
フランチェスコの子孫が美術品コレクターだったレオポルド・デ・メディチ枢機卿に売却、1667年にメディチのコレクションとなりました。


265


266
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「歯医者」(1607-09)


267
絵画展示室ではなく、寝室や玉座などがある宮殿の各部屋部分に展示されているので、殆どの人がこの作品に気付かないようです。


268
マルタ島が逃げてきたメッシーナで制作された作品で、マルタ騎士団のアントニオ・マルテッリの従者によってフィレンツェに持ち込まれました。
1638年のピッティ宮作品目録に「カラヴァッジョ作『Il Cavadenti』」と記載されてました。


269
右端に描かれた老婆はバルベリーニ美術館の「ユディト」の同一人物でしょう。
(つづく)

足跡を辿って 7.マダマ宮殿居住時代Ⅱ
189カラヴァッジョは、最初のパトロンとなるデル・モンテ枢機卿と出会うことによって、成功の一歩を踏み出したと言えるでしょう。


190
マダマ宮です。
マッテイ枢機卿の邸館に移住するまで、カラヴァッジョはマダマ宮殿に住んでいました。


149
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「フランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿の肖像」(1616)

デル・モンテ枢機卿は、ガリレオ・ガリレイを援助するなど芸術と科学の保護に熱心で、古代グラスのポートランド花瓶を含む大規模コレクションを収集しました。絵画のコレクターとしても知られ、遺産目録によればカラヴァッジョ作品を含む約600点以上の絵画が残されたそうです。音楽を愛し、マダマ宮殿で演奏会を開くほか、枢機卿自身でリュートを弾くなど、多趣味でした。
芸術と科学を通して、マダマ宮殿に多くの高貴な人々や音楽家、画家、学者などが訪れました。そうしたデル・モンテ枢機卿の人脈を通して、カラヴァッジョは、将来のパトロンになる人たち知られるようになるのでした。

ガスパーレ・チェリオの伝記によれば、デル・モンテ枢機卿が複製画を描く画家を探していることを聞きつけたプロスぺロ・オルシがカラヴァッジョを探してデル・モンテ枢機卿に紹介した、とされてますが、カラヴァッジョがマダマ宮殿で制作した複製画は残されていないようです。
カラヴァッジョは、デル・モンテ枢機卿のために制作するようになりました。


191
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物かごを持つ少年」

マダマ宮殿でカラヴァッジョがデル・モンテ枢機卿のために最初に制作した作品であるとの説があります。モデルは、カラヴァッジョと一緒にマダマ宮殿に住むようになったマリオ・ミンニティ(シラクーザ、1577-1640)と言われてます。マリオは、この時、16歳でした。
マダマ宮殿には、カラヴァッジョ、マリオを含めて多くの少年が住んでいました。カラヴァッジョはこれらの少年をモデルに数点の作品を描きました。
多くの少年を集めてマダマ宮殿に住まわせた理由ですが、建前上は女人禁制の聖職者だったので、デル・モンテ枢機卿は同性愛傾向があったからという有力説があります。


192
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師(カピトリーノ美術館)」
デル・モンテ枢機卿が持っていた作品です。


193
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「合奏」(1597c)
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。


194
カラヴァッジョの自画像が描かれてます。マダマ宮殿に住んでいた少年をモデルに、宮殿で行われた演奏会を描いたものでしょう。

ここで非常に重要なのは、カラヴァッジョのパトロンとしてのデル・モンテ枢機卿のことです。枢機卿が所持していたカラヴァッジョ作品は、一部のカラヴァッジョ自身による複製画を除いて、すべて
1598年頃以前に描かれたものでした。カラヴァッジョをマダマ宮殿に住み続けさせながらも、1598年頃を境に枢機卿がカラヴァッジョに注文することは殆どなくなったのです。
カラヴァッジョは他のパトロンからの注文や教会などからの公的な注文に従事しながらも、依然、マダマ宮殿に寄寓していたのです。
その理由ですが、カラヴァッジョの名声が高くなるにつれて画料が高くなりましたが、カラヴァッジョの他のパトロンと比べて、デル・モンテ枢機卿の財布の具合がどうも限られていたからと考えられると思います。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「リュート奏者」(1597c)
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。


196
「リュート奏者」ですが、メトロポリタン美術館にある作品がオリジナルです。1627年のデル・モンテ枢機卿のコレクション目録に記載されてます。
楽譜はこの時代に流行していた曲で、特定されてます。


197
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「リュート奏者」(1600)
サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にあります。


198
エルミタージュ美術館にある作品は、1638年のジュスティアーニ家の作品目録に記載されてます。
第一作をマダマ宮殿で観たヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵がカラヴァッジョに注文して制作された作品です。


152
道路を挟んで、マダマ宮殿の向かいに建つPalazzo Giustianiです。


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逸名画家作「ヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵の肖像」

ヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵(ギリシャ、キオス島(ヒオス)、1564-ローマ,1637)は、財力のあるカラヴァッジョのパトロンでした。


199
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「リュート奏者」(1597c)(個人蔵)

第一作に引き続き制作されたカラヴァッジョの真筆とされてます。2001年1月のサザビーズ・オークションで出品された作品です。他の画家によるコピー画とする美術史家が数人いますが、カラヴァッジョの真筆説が有力とされてます。


200
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「改悛の聖マリア・マッダレーナ」
ローマのドーリア・パンフィーリ美術館にあります。


201
デル・モンテ枢機卿のために描かれましたが、デル・モンテ枢機卿の友人ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿に贈られた作品です。1627年のアルドブランディーニ枢機卿のコレクション目録に記載されてます。


202
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ」(1597-98c)(個人蔵)
こちらが第一作です。2016年、国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」に出品されていました。見る機会が限られ、中々見ることが出来ない作品のなので、上野で観ることが出来たのは非常に幸運でした。


203
第二作となる「メドゥーサ」はフィレンツェのウフィッツィ美術館で展示されてます。


204
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ(第二作)」(1598c)


205
デル・モンテ枢機卿が、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ枢機卿に贈るためにカラヴァッジョに注文して制作された作品です。1598年7月25日にフィレンツェに到着した記録が残されてます。当時、デル・モンテ枢機卿は、教皇庁におけるトスカーナ大公国大使を務めていました。


214
シピオーネ・プルツォーネ(ガエータ、1540/1542c-ローマ、1598)の「トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチの肖像」(1590)


206
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(1598-99)
マドリッドのティッセン・ボルネミッサ美術館にあります。


207
1627年のデル・モンテ枢機卿のコレクション目録に記載されている作品です。
モデルは、次の作品と同じく売春婦マッダレーナ・アントネッティ通称レーナ(ローマ、1579-?)と言われてます。


208
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マルタとマグダラのマリア」(1598c)
アメリカのデトロイト美術館にあります。


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211
ミラノのアンブロジアーナ美術館(図書館)にある「果物かご」の展示


212
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物かご」
ミラノのアンブロジアーナ美術館(図書館)にあります。
アンブロジアーナ図書館を作ったフェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿に贈るためにデル・モンテ枢機卿がカラヴァッジョに注文して制作された作品です。カラヴァッジョがこの作品を制作する前に、ローマを旅行していたフェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿が友人のデル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に訪れた際に直接カラヴァッジョに注文した別説があります。


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逸名画家作「フェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿の肖像」(17世紀)



作品巡り 8.ローマ、サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂カヴァッレッティ礼拝堂
215
サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂です。


216
Basilica dei Santi Trifone e Agostinoが正式名称です。Basilica Minoreに格付けされてます。


217
カラヴァッジョの作品が1点あります。


218
カラヴァッジョの作品だけではなく、重要な作品があるので、美術ファンにとっては必訪です。


219
カラヴァッジョ作品があるカヴァッレッティ礼拝堂は左側廊の第一礼拝堂の位置にあります。


220
カヴァッレッティ礼拝堂です。

教皇庁のCamera Apostolicaの公証人兼会計士を務めるエレメーテ・カヴァッレッティ侯爵(ボローニャ,?-ローマ、1602)は、没する3か月前にロレートの聖なる聖堂の家を訪れて深い感銘を受けたそうです。自分の死が近いことを悟ったカヴァッレッティ侯爵は、大金を残して、サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂のピエタ礼拝堂(現在のカヴァッレッティ礼拝堂)を買い、その祭壇に「ロレートの聖母」を飾るようにとの遺言を残して1602年7月21日に死去しました。
遺族と遺言執行人は、1603年9月4日にピエタ礼拝堂を買収するとともに、カラヴァッジョに「ロレートの聖母」を注文したのです。


221
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ロレートの聖母」(1604-06c)


222
「ロレートの聖母」を制作するにあたり、カラヴァッジョはマルケ地方に旅に出て、ロレートまで行ったと推察されてます。トレンティーノまで行ったのは確実で、1604年1月にトレンティーノで祭壇画を描いたという記録が残されてます。アスコリ・ピチェーノでもカラヴァッジョが描いたという祭壇画が18世紀まで残っていたと言われてます。


223
裸足の聖母、汚らしい貧しい農民の巡礼者、泥で汚れた足裏の写実的な表現は、当時の聖職者に衝撃を与えたことに違いありません。しかし、サンタゴスティーノ聖堂はサン・ピエトロ大聖堂に向かう巡礼路にあたり、大勢の巡礼者が訪れ、カラヴァッジョの作品を見て自分の巡礼姿を対比させて、その現実感に共感したと伝えられてます。


224
礼拝堂の左側壁


225
礼拝堂の右側壁


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礼拝堂の天井


227
観光客の姿は比較的少ないようです。


228
(つづく)

足跡を辿って 7.マダマ宮殿居住時代Ⅰ
145
1597年6月頃、遅くとも同年7月11日までに、カラヴァッジョは、当時デル・モンテ枢機卿が使用していたマダマ宮殿に移住しました。
1601年夏にマダマ宮殿を出て、マッテイ家の邸宅に移住しました。カラヴァッジョは、約4年間、マダマ宮殿に居住したことになります。


146
さて、マダマ宮殿ですが、15世紀末に創建され、1505年に完成しました。1505年にジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿(後の教皇レオ10世)が分割払いで購入し、メディチ家の所有となりました。


147
神聖ローマ帝国皇帝カルロ5世(1500-1558)の娘マルゲリータ・ダスブルゴ(オーストリアのマルゲリータ)(1522-1586)は、アレッサンドロ・デ・メディチ公爵(フィレンツェ、1510-1537)と結婚しましたが、未亡人となり、パルマ、ピアチェンツァの公爵オッタビオ・ファルネーゼ(1524-1586)と再婚しました。
マダマ・マルゲリータは、最初の結婚後、更に再婚後もマダマ宮殿に居住していました。宮殿の名称はそのマルゲリータ公爵夫人のMadama=令夫人の意味に由来します。
なお、マルゲリータ公爵夫人は、やがてローマを離れ、ファルネーゼ家の本拠地パルマ、ピアチェンツァに移りました。


148
オーストリアのマルゲリータがローマから去ると、宮殿は様々な枢機卿に貸し出されて荒廃しましたが、やがてメディチ家に返却され、フェルディナンド・デ・メディチ枢機卿(フィレンツェ、1549-1609)の住居として使用されるようになりました。1587年、フェルディナンド枢機卿は、トスカーナ大公フェルディナンド1世としてローマを離れることになり、フィレンツェに向かいました。


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オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「フランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿の肖像」(1616)

1588年12月14日、フランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ(ヴェネツィア、1549-ローマ、1626)は、時の教皇シスト5世によって枢機卿に任じられました。
トスカーナ大公となったフェルディナンド・デ・メディチは、ハプスブルク家からの影響を脱し、フランスに頼る方針にかじを取りました。(後にフランスと同盟を結びます)
フェルディナンド1世は、トスカーナ大公になってからも枢機卿でしたが、予てからデル・モンテ枢機卿とは親友同士であり、ブルボン家の血を引くデル・モンテ枢機卿は、フランス派であり、トスカーナ大公国の親フランス政策を教皇庁に影響させようと、デル・モンテ枢機卿をトスカーナ大公国の教皇庁大使に任じ、マダマ宮殿をデル・モンテ枢機卿の大使公邸にしました。
しかし、マダマ宮殿は荒廃していたので、デル・モンテ枢機卿が住むようになるのは、修復工事後の1589年10月となりました。


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Via della Dogana Vecchia


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オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「カラヴァッジョの肖像」(1621c)
カラヴァッジョの死後に制作された肖像画です。

さて、カラヴァッジョですが、デル・モンテ枢機卿の庇護を受けて、安心して制作する環境のもとに、多くの傑作を生み出すことになりますが、デル・モンテ枢機卿の知遇を得る切っ掛けは何だったのでしょうか。


155
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「ジョヴァンニ・バリオーネの肖像」

17世紀に書かれた、幾つかのカラヴァッジョの伝記があるのですが、バリオーネ裁判でカラヴァッジョと争った画家のバリオーネもカラヴァッジョの伝記を残しました。敵対関係にあったので、バリオーネが書いたカラヴァッジョの伝記は辛辣です。
他にジュリオ・マンチーニ、ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリが書いたカラヴァッジョの伝記が良く知られてます。
それらの従来の伝記によれば、ダルピーノ工房などで過ごした余暇に風俗画を描いていたカラヴァッジョは、退院後、遂に極貧生活に陥り、描き貯めていた風俗画を画商コスタンティーノ・スパーダに預けて、作品を売ってもらって僅かばかりの金を入手して生活していました。サンタ・マリア・デイ・フランチェージ聖堂近くにあったスパーダの店にあったカラヴァッジョの「いかさま師」が、店に立ち寄ったデル・モンテ枢機卿の目に留まったことがマダマ宮殿に居住する切っ掛けになったということでした。


156
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)
ベッローリは、作家、古物収集家、美術史家でした。


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ベッローリ著「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」


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ベッローリ著の「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」のカラヴァッジョ編で挿入されたカラヴァッジョの肖像


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「いかさま師」(1594c)
アメリカのフォートワースのキンベル美術館にあります。

デル・モンテ枢機卿の目に留まった作品と言われてます。


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熱心な美術愛好家で「いかさま師」に注目したデル・モンテ枢機卿は、カラヴァッジョを自分の住んでいるマダマ宮に住み込ませて制作させることにした、というのが、伝記作家によって多少の違いがあるものの、これまでの定説でした。

しかし、ガスパーレ・チェリオ(ローマ、1571-1640)が著した「芸術家たちの生涯」によれば、複製画を必要としていたデル・モンテ枢機卿は、複製画制作に従事する画家を探していましたが、それを聞きつけたプロスぺロ・オルシがカラヴァッジョを枢機卿に紹介して、カラヴァッジョは複製画制作のためにマダマ宮殿に住むことになったそうです。
チェリオの「芸術家たちの生涯」のカラヴァッジョ編の中で、枢機卿のもとにカラヴァッジョを紹介するためにオルシは一日中カラヴァッジョを探し回り、服を着ずに寝ていたカラヴァッジョを見つけて漸くカラヴァッジョを枢機卿のもとに連れていくことが出来たと記してます。
枢機卿はカラヴァッジョの服を着せ、住む部屋を与えると、ほどなくしてカラヴァッジョは女占い師やそれに類するものを描いたと記してます。
当時、有名な作品の複製画の需要がかなりあったそうです。


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オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「ガスパーレ・チェリオの肖像」


103
プロスぺロ・オルシ(ローマ、1560-1633)の「自画像」

プロスぺロ・オルシは、画商を兼ねていて美術愛好家のデル・モンテ枢機卿とは密接なコンタクトがあったと思われます。また、高貴な家に生まれたオルシは、ローマの上層階級にコネがあったと思われます。
オルシの助けにより、カラヴァッジョはマダマ宮殿内に安住の地を得て、数々の傑作を描くことになるのです。



作品巡り 8.ローマ、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂
163
サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂です。Basilica Minoreの格式を持つ教区教会 Parrocchialeです。
Basilica PapaleとBasilica Minoreの教会は必ず聖堂と訳すべきでしょう。なお、Basilica Papaleはローマに4つ、アッシジに2つの全部で6つあります。カトリック教界で最も各式が高い教会がBasilica Papaleです。


164
カラヴァッジョの作品が2つあります。


165
サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂は、美術ファンにとって見所が多い教会と言えるでしょう。


166
左側廊奥に、カラヴァッジョの作品があるチェラージ礼拝堂があります。


167
チェラージ礼拝堂です。礼拝堂正面にアンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」、左側壁にカラヴァッジョの「聖ピエトロの磔刑」、右側壁にカラヴァッジョの「聖パオロの回心」があります。


168
観光客が多いと思われるでしょうが、意外に少ないことがあると思います。


169
左側壁にティベリオ・チェラージ(ローマ、1544-フラスカーティ、1601)の墓のモニュメントがあります。


170
墓のモニュメント上部に「ティベリオ・チェラージの頭像」があります。
ローマ大学の「La Sapienza」学長であり、銀行家でもあり、教皇の財政機関Camera Apostolicaの総会計を務めるティベリオ・チェラージは、1600年6月8日付けでチェラージ礼拝堂を買収しました。
買収が完了すると、直ぐにアンニーバレ・カラッチに礼拝堂装飾を注文しました。正面の祭壇画、左右の側壁のテーマはチェラージから具体的に出され、決まっていたそうです。


171
アンニーバレ・カラッチは、協力者であるインノチェンツォ・タッコーニ(ボローニャ、1575-ローマ、1625)と共に、注文の制作に取り掛かりました。


172
当時、アンニーバレ・カラッチは非常に有能な画家として既に有名で、相次ぐ注文をさばくためにボローニャから弟子を呼び寄せていました。


173
アンニーバレ・カラッチ(ボローニャ、1560-ローマ、1609)の「聖母被昇天」(1600)


174
当時、アンニーバレ・カラッチは、ファルネーゼ家の宮廷画家のような立場にありました。ファルネーゼ家からファルネーゼ宮殿装飾に従事せよとの指示を受けていたので、「聖母被昇天」が完成すると直ぐに立ち去ってしまいました。左右の側壁の祭壇画は宙に浮いてしまう格好になってしまいました。


175
インノチェンツォ・タッコーニ(ボローニャ、1575-ローマ、1625)の「チェラージ礼拝堂天井のフレスコ画」(1600)


176
ティベリオ・チェラージは、1601年に別荘があるフラスカーティで没しますが、アンニーバレが去ったとき、死期を悟ったのか、チェラージ礼拝堂装飾を急ぎ、礼拝堂左右の側壁の「聖ピエトロの磔刑」と「聖パオロの回心」をカラヴァッジョに依頼したのです。
1600年9月24日以降に締結された、モンシニョール・ティベリオ・チェラージとカラヴァッジョの契約書が残されてます。
カラヴァッジョは、アンニーバレ・カラッチを評価しており、注文を受けた際にカラッチの「聖母被昇天」を見た可能性があり、それに負けない作品を制作しようと意気込んだと思われます。


177
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖パオロの回心」(1600‐01c)

第一作となる、この作品と「聖ピエトロの磔刑(現存しない)」は、1601年11月頃までに完成したとされてますが、チェラージ家から受け取りを拒否されてしまいました。カラヴァッジョは直ぐに描き直しの制作に着手しました。
なお、ティベリオ・チェラージは、1601年5月に没したので、受け取りを拒否したのはティベリオの遺族と思われます。
しかし、差し替えたのはカラヴァッジョ自身の意思によるとの説があります。
第二作と比べると、第二作の方が画題に相応しい表現と思います。

なお、第一作の「聖パオロの回心」は、ローマのオデスカルキ・バルビ・コレクションで一般公開されてます。中は写真不可だったので、私の作品写真はありません。


178
約束の期限まで間に合わせて急いで制作されたと思われますが、完成度は第二作の方が勝ります。


179
第一作の制作と並行して第二作もある程度用意されていたような気がします。


180
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖パオロの回心」(第二作) (1600-01c)


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「聖ピエトロの磔刑」も第二作に当たります。


184
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ピエトロの磔刑」(1600-01c)


185


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祭壇画は実際に教会で観なければ、その良さが分からないと思います。
教会の祭壇画として制作された作品の多くが美術館でしか見ることが出来ないのが残念です。


188
(つづく)

足跡を辿って 6.マダマ宮殿以前Ⅱ
101
マダマ宮殿以前のカラヴァッジョの続きです。


100
スクロファ通りにある噴水


102
カラヴァッジョは、ダルピーノ工房で、自分の将来を左右する重要人物と巡り会います。


103
プロスぺロ・オルシ(ローマ、1560-1633)の「自画像」

カラヴァッジョにとって、プロスペロ・オルシとの交友は非常に重要な意味を持っていました。
以下については、木村太郎氏の「カラヴァッジョの画商(トゥルチマンノ)プロスぺロ・オルシに関する17世紀の2つの伝記(翻訳と解題)」を参考にさせていただきました。

プロスぺロは、グロテスク装飾が得意な画家でしたが、協力者のような立場でダルピーノ工房で働くことがありました。1595年春から年末にかけてのある時期に、プロスぺㇿはカラヴァッジョと出会ったと考えられます。
プロスぺㇿがダルピーノの弟子との表記が一部でありますが、プロスぺロの方がダルピーノよりも10歳以上年長だったことを考えれば、弟子ではなくダルピーノの友人であり、協力者だったと考えるのが至当と思います。
プロスぺㇿは、画業の傍ら画商を兼ねていましたが、それにはプロスぺㇿの人脈、何よりも兄の存在が大きかったと思います。
オルシ家は由緒ある名家でした。プロスぺㇿの長兄アウレリオ・オルシ(ローマ、1550-1591)は、著名な詩人でした。ファルネーゼ家の宮廷詩人に迎えられ、後にファルネーゼ家の秘書になります。また、詩が趣味だったマッフェイ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ枢機卿(フィレンツェ、1568-ローマ、1664)、後の教皇ウルバーノ8世の詩の先生でした。ベルベリーニ枢機卿からアウレリオに宛てた5通の手紙が残されてます。
プロスぺㇿの次兄ジョルダーノ・オルシは、レパントの海戦で負傷して、その傷がもとで死んだ高位軍人でした。
プロスぺㇿの画業には、兄たちの人脈が大いに役立ったと考えれます。

プロスぺㇿは、カラヴァッジョと会うと、直ぐに気に入り、ダルピーノの模倣者だった画風を変えて、カラヴァッジョの模倣者になりました。プロスぺㇿは最初のカラヴァッジェスキ画家になりました。また、私生活でも夕食を共にしたり、他の画家の祭壇画を一緒にしたりと非常に仲が良かったのです。
そして、画商として、カラヴァッジョの作品を熱心に売り込んだり、有力者に紹介したようです。

2017年にミラノの王宮で開催されたデントロ・カラヴァッジョ展におけるS. Ebert-Schfferer氏の資料によれば、プロスぺロ・オルシが画商として初めてカラヴァッジョの作品3点をローマのヴィットリーチェ家に売ったとされてます。プロスぺㇿの姉か妹のオリンツィアがヴィットリーチェ家に嫁いでいたので、ローマのヴィットリーチェ家はプロスぺㇿの親戚でした。
その3点のカラヴァッジョ作品は、「女占い師」、「エジプト逃避途中の休息」、「悔悛のマグダラのマリア」でした。
プロスぺㇿの姉か妹のオリンツィアは、ジローラモ・ヴィットリーチェと結婚しましたが、夫のジローラモは、オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァッリチェラ教会のヴィットリーチェ家礼拝堂のために、カラヴァッジョに「キリストの埋葬」(現在、ヴァティカン絵画館蔵)を注文しました。


110
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師(ルーブル美術館蔵)」


111
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エジプトへの逃避途中の休息」


112
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「改悛のマグダラのマリア」


104
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「マッフェイ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(後の教皇ウルバーノ8世)の肖像」(1596c)(個人蔵)
この肖像画は、1596年頃に制作されたとすれば、デル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に入る以前ということになり、プロスぺㇿが兄アウレリオの伝手によって、枢機卿にカラヴァッジョを紹介して制作されたと見るべきでしょう。

後に、バルベリーニ枢機卿はカラヴァッジョに「イサクの犠牲」(フィレンツェ、ウフィッツィ美術館)を注文しました。(作品写真は下)


113
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「イサクの犠牲」


109
馬に蹴られた、またはマラリアに罹ったことでサンタ・マリア・コンソラツィオーネ病院に入院していたカラヴァッジョは、退院後、プロスぺロ・オルシの家に転がり込みました。
当時、オルシは、サン・サルヴァトーレ・イン・カンポ広場近くで母と一緒に暮らしていたそうです。


106
現在、サン・サルヴァトーレ・イン・カンポ広場です。


105
当時、サン・サルヴァトーレ・イン・カンポ広場近くには、大司教モンシニョール・ファンティン・ペトリニャーニ(アメリア、1539-ローマ、1600)の家がありました。


271
マンチーニの伝記によれば、カラヴァッジョは一時期大司教ファンティーノ・ペトロニャーニのPalazzo Petrignaniに寄宿したと記されてます。その時期はマダマ宮殿に移住する前なのか、マダマ宮殿に寄宿しながら、その途中で一時期滞在したのか、よく分からないとされてます。
この建物は、現在のPalazzo del Monte di Pietaですが、1588年に建設され、1591年にペトリニャーニ家に買収されました。後に、教皇になる前のマッフェオ・バルベリーニ枢機卿がこの建物に住んでいました。


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Palazzo del Monte di PietaはRione VII Regolaに面してます。


272
カラヴァッジョは、後にファンティーノ・ペトリニャーニ大司教の出身地カメリアのPalazzo Petrignaniに滞在したとの記録がカメリアに残されているそうです。


107
広場に面して建つサン・サルヴァトーレ教会です。


108
カラヴァッジョが見ていたサン・サルヴァトーレ教会の建物は取り壊されてました。


114
ガスパーレ・チェリオ著「美術家列伝所収の『カラヴァッジョ伝』」によれば、退院後、滞在したプロスぺロ・オルシの家で、「リュートを弾く少年」を描いたと言われてます。



作品巡り 7.ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂
115
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂です。ローマにあるフランスの国立教会です。


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カラヴァッジョの出世作となった聖マッテオの物語の三部作があります。
近年、カラヴァッジョの作品を見る観光客で混雑しています。


117
制作者情報不知の「マッテオ・コンタレッリ枢機卿の肖像」

1565年、マッテオ・コンタレッリ枢機卿(フランス・モランヌ、1519-ローマ、1585)はサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂に礼拝堂を買収しました。その礼拝堂は、コンタレッリ礼拝堂と呼ばれてます。


144
コンタレッリ礼拝堂は、左側廊の最奥にあります。


119
コンタレッリ礼拝堂です。


118
ピエル・レオーネ・ゲッツィ(ローマ、1674-1755)の「ジローラモ・ムツィアーノの肖像」(1695)
ムツィアーノの死後100年以上経ってから制作された肖像画です。

礼拝堂を購入したマッテオ・コンタレッリ枢機卿は、礼拝堂の装飾をジローラモ・ムツィアーノに注文しました。その装飾主題を自分の名前に因んで「聖マッテオの物語」をするように決めました。
ところが、注文したものの一向に作品制作の話がないうちに、1585年に礼拝堂装飾を必ず実行するようにとの遺言を残して枢機卿が没しました。


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カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ,1568-ローマ、1640)の「自画像」(1640)

コンタレッリ枢機卿の遺言執行人Virglio Crescenziは、ダルピーノに礼拝堂の装飾を依頼しました。また、礼拝堂の主祭壇には「聖マッテオと天使」の彫刻を設置することにし、彫刻家Jacques Cobaertに注文しました。


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カヴァリエール・ダルピーノによって描かれたコンタレッリ礼拝堂の天井(1591-93)


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当時、ダルピーノは超売れっ子の画家で多忙でした。天井部分を仕上げたものの、礼拝堂左右の側壁の「聖マッテオの物語」の制作に取り掛かれないままに時間だけが経過してしまいました。
主祭壇の彫刻の制作も予定よりも大幅に遅れていました。


125
1599年7月23日、カラヴァッジョは、遺言執行人から礼拝堂の左右の側壁用の祭壇画注文を受けたのです。ガスパーレ・チェリオの「カラヴァッジョ伝」によれば、遺言執行人と親交があったデル・モンテ枢機卿がカラヴァッジョを推薦して受注したものですが、デル・モンテ枢機卿にカラヴァッジョを頼んだのは、プロスぺロ・オルシでした。


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ガスパーレ・チェリオの著作によれば、完成してコンタレッリ礼拝堂の左右の側壁に設置されると、プロスぺロ・オルシは画家たちや友人など大勢の人たちを礼拝堂に連れてきて、みな、カラヴァッジョの作品を絶賛したとのことです。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの召命」


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税金を数えているのが聖マッテオでしょう。


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集税人は卑賎な職業とされ、軽蔑の対象でした。


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実際に作品に光が当たって、より一層カラヴァッジョの特徴である明暗効果が印象深く心に刻まれます。


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正面の「聖マッテオと天使」は後回しにして、右側壁に移ります。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの殉教」


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カラヴァッジョが全力で仕上げたことが分かります。


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従来の動きの少ない宗教画と比べて、人物が躍動する斬新な表現に感動します。


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「聖マッテオの召命」と「聖マッテオの殉教」の二作によって、カラヴァッジョの名声が確立されました。


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カラヴァッジョの自画像が描かれてます。


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次は正面の「聖マッテオと天使」に移ります。


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ジャック・コバールト(フランドル、1535-ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」(1602)

1602年1月、漸く完成した「聖マッテオと天使」の彫刻が礼拝堂正面に設置されました。サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の司祭を務めていた、コンタレッリ枢機卿の甥フランチェスコ・コンタレッリは、この彫刻がカラヴァッジョの左右の油彩画と比べると凡作で冴えないとして、直ぐに礼拝堂から撤去させました。


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撤去されたコバールトの彫刻は、サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会サン・マッテオ礼拝堂に移されました。


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現在もサンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会サン・マッテオ礼拝堂にジャック・コバールトの彫刻が置かれてます。


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1602年2月7日、カラヴァッジョはコンタレッリ礼拝堂正面の「聖マッテオと天使」の注文を受けました。
そうして完成したのが、写真の「聖マッテオと天使」でした。しかし、この作品は受け取りを拒否されてしまいました。その理由は定かではありませんが、聖マッテオの左足裏が汚すぎる、聖マッテオと天使がくっついて描かれていてエロ的であるとの説があります。

すぐにカラヴァッジョは第二作の制作に取り掛かりましたが、受け取りを拒否された第一作は、ジョヴァンニ・バリオーネのカラヴァッジョの伝記によれば、プロスぺロ・オルシの仲介によってカラヴァッジョのパトロンであるヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵によって買い取られました。
後に、この作品は、ベルリンのカイザー・フリードリヒ国立美術館の所蔵となりましたが、第二次世界大戦で焼失してしまいました。カラー写真は残さされておらず、白黒写真だけとなってます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」(第二作)


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契約期間内に完成して、無事設置されました。


140
聖マッテオ三部作の成功によって、カラヴァッジョは人気画家となりました。


143
私が初めてコンタレッリ礼拝堂のカラヴァッジョ作品を見たのは、1980年代の中頃だったと思いますが、その当時は観光客の姿がなくて、ゆっくりと鑑賞できたのを覚えています。
(つづく)

足跡を辿って 6.マダマ宮殿以前Ⅰ

さて、カラヴァッジョがローマに来た理由ですが、当時のカトリックが置かれた状況にあると思います。
宗教改革の波に飲まれて苦境にあったカトリックは、1545年から1563年に開催されたトレント公会議によって、宗教改革に対抗するカトリック側の改革を進めることになりました。プロテスタント側の聖人や聖遺物の崇敬排撃に対抗する一環として、教会の新造や教会の装飾が行われるようになりました。
その上、区切りの聖年1600年はを目指して、教会の改造や修復が行われていました。
つまり、カラヴァッジョにとって、ローマは自分の作品需要が見込めそうだったのです。

ローマへの到着前に、各地の教会や修道院を回る旅をしながら、実際に油彩画の祭壇画を観て、このぐらいの出来ならば俺の方が上手く描けそうと自信を抱いたのではないかと思います。
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ローマのジェズ教会です。


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イエズス会のジェズ教会は、反宗教改革のシンボル的存在です。1568年から1580年に建設され、1584年に奉献されました。


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1590年から1650年に建設されたサンタンドレア・ヴァッレ教会です。


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1518年から1589年に建設され、1589年に奉献されたサン・ルイージ・フランチェージ教会です。カラヴァッジョがローマに到着した当時、絵画などによる装飾が進んでいました。


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オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(Chiesa Nuova)は、1575年から1614年に建設されました。


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カラヴァッジョのローマ到着は、1595年の年末だったと書きましたが、実はそれを否定する資料があったので、1595年末説を確定させるには、その資料の問題を解決する必要がありました。
写真は、画家の同業者組合サン・ルカ・アカデミー(アッカデミア・ディ・サン・ルカ、画家のギルド)の建物です。


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写真はサン・ルカ・アカデミー内に展示されている会員たちの肖像画です。
さて、カラヴァッジョも画家ギルドの会員になったのですが、1594年10月に行われたにサンタ・マリア・アル・フォロ・ボアーリオ教会(現在のサンティ・ルカ・エ・マルティーノ教会)で行われた画家ギルドの祝福された秘跡の40時間の崇拝(Qurantore)に参加した105人の画家のリストにカラヴァッジョの名前が記載されていました。
これが事実ならば、カラヴァッジョがローマに到着したのが1595年末説に矛盾することになります。


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アッカデミア・ディ・サン・ルカのQuarantoreが行われた、現在のサンティ・ルカ・エ・マルティーノ教会です。
しかし、最近の研究で、カラヴァッジョの名前が記載されたQuarantoreに参加した画家リストには日付の記載がなく、1597年10月18日に行われたQuarantoreの画家リストであることが確認されました。これによってカラヴァッジョのローマ到着が1595年末であることを追認する形になりました。


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写真はマダーマ宮です。
カラヴァッジョの最初のパトロンだったデル・モンテ枢機卿が当時住んでいたマダーマ宮にカラヴァッジョが住むようになったのは、1597年7月だったとの記録が残されてます。
カラヴァッジョのローマにおける空白期間は、これまでよりも大きく狭まって1595年末から1597年7月までの約1年半ということになりました。
僅か約1年半の短い間に、初期に描かれた作品、ロレンツォ・カルリ工房、アンティヴェデュート・グラマティカ、プロスぺロ・オルシなどとの交流、カヴァリエール・ダルピーノ工房などの出来事を全部詰め込む必要があることになりました。


100
1595年末にローマに到着したカラヴァッジョは、1596年3月にロレンツォ・カルリ工房に雇用されるようになりましたが、到着からそれまでの間、何をしていたのか、明確なことは全く分からないようです。
カラヴァッジョと面識があり、カラヴァッジョの伝記を書いたジュリオ・マンチーニ(シエナ、1559‐ローマ、1630)によれば、レカナーティ出身のモンシニョーレ・パンドルフォ・プッチの家に寄宿したそうです。


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パンドルフォ・プッチは、困窮したカラヴァッジョに対して、食料不足の代わりにサラダばかりを食べさせたそうです。
嫌気がさしたカラヴァッジョは、プッチの家を飛び出し、ロレンツォ・カルリ工房に入ります。
ロレンツォ・カルリ工房で、生涯の友人マリオ・ミンニティと知り合ったようです。後にカラヴァッジョがローマで殺人を犯し、その逃亡先のマルタ島ヴァレッタで傷害事件を犯して、マルタ島から脱獄逃亡して、シチリアに逃げてきたカラヴァッジョを支援したのがミンニティです。


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ロレンツォ・カルリの工房も長続きせず、アンティヴェデュート・グラマティカ(?、1571‐ローマ、1626)の工房に入ったようです。
グラマティカの両親はシエナ出身でしたが、シエナからローマへの旅の途中で、アンティヴェデュートが生まれたので、その生地が分かっていないようです。


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1591年に独立して親方になったアンティヴェデュート・グラマティカは、Vicolo San Trifoneに工房を構えたようです。


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1593年、アンティヴェデュート・グラマティカは、アッカデミア・ディ・サン・ルカに入会しました。
グラマティカはカラヴァッジョと同じ年齢だったので、弟子ではなく協力者としてカラヴァッジョを遇したようです。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「果物の皮をむく少年」
この作品の真作は、グラマティカ工房時代に描かれたかも知れません。カラヴァッジョ自身による複製画が数点あるほか、他の画家によるコピー画など、全部で10点以上の複製画があるようです。


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Vicolo San Trifoneにある旧サン・ジャコモ病院の建物です。


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カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ、1640)の「自画像」(1640)
アッカデミア・ディ・サン・ルカにあります。

カラヴァッジョは、ダルピーノ工房に入りました。その時期は不明ですが、1596年春にダルピーノ工房に入り、その期間は約8か月でした。
ダルピーノはカラヴァッジョよりも3歳年長でしたが、当時のローマにあって大活躍していました。多くの注文を抱えて、多忙を極めており、一部の注文に対して応じきれない状況でした。


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ダルピーノ工房は、カンポ・マルツィオ地区のVicolo della Torettaにありました。


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カヴァリエール・ダルピーノは、フレスコ画が得意な画家でした。カラヴァッジョは、漆喰が乾かないうちに一気に描きあげるフレスコ画が苦手だったので、工房ではフレスコ画よりも油彩画を担当した可能性があります。


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写真はVicolo della Torettaです。

ダルピーノ工房では、兄のジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ1568‐ローマ、1640)の弟ベルナルディーノ・チェーザリ(アルピーノ,1571-ローマ、1622)と親しかったようです。
画家としてのベルナルディーノは凡庸で、兄の助手に留まりましたが、素行が悪く、1592年11月9日、盗賊と共謀して犯罪を犯し、死刑宣告を受けてナポリに逃亡した過去がありました。1593年5月13日、赦免されてナポリからローマに戻り、ダルピーノ工房に戻りましたが、ローマの暗黒街に顔が利く男でした。このような行状のベルナルディーノとの交遊は、元々素行が宜しくなかったカラヴァッジョが悪の道にさらに踏み込む切っ掛けとなったとされてます。
また、ベルナルディーノとはダルピーノ工房に入る前に既に交遊があって、ベルナルディーノの勧めによってカラヴァッジョがダルピーノ工房に入ったという説もあります。


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この作品はダルピーノが所持していました。そのため、カラヴァッジョがダルピーノ工房で働いていた時期に描かれたとするのが自然でしょう。


54
カラヴァッジョがダルピーノ工房にいた時代に描かれたと思われる作品です。


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写真は、サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ病院です。


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カラヴァッジョは、馬に蹴られた、またはマラリアが原因で、サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ病院に入院しました。
入院中、カラヴァッジョは数点の作品を入院費の代わりとして描き、病院長に渡したという説があります。
入院中、ダルピーノは一度も見舞いに訪れず、それを不満に思ったカラヴァッジョはダルピーノ工房に戻らなかったようです。



作品巡り 6.ローマ、国立古典絵画館(バルベリーニ宮)
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ローマのバルベリーニ宮殿です。


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バルベリーニ宮の国立古典絵画館には、カラヴァッジョの作品が3点あります。


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第20展示室でカラヴァッジョ作品が展示されてます。


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カラヴァッジョを敵視していたジョヴァンニ・バリオーネの作品がカラヴァッジョの作品と並んで展示されてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ホロフェルネスを斬首するユディト」(1600-02c)


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銀行家でコンセンテ伯爵のオッタヴィオ・コスタ(コンセンテ、1554-ローマ、1639)によって注文された作品です。
オッタヴィオ・コスタは美術愛好家で、カラヴァッジョのパトロンでした。グイド・レーニ、カヴァリエール・ダルピーノ、ジョヴァンニ・ランフランコなどに注文しました。
幾つかの作品をカラヴァッジョに注文しましたが、現在、ハートフォードの「光悦のフランチェスコ」、カンザスシティの「砂漠の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」とバルベリーニのこの作品の3点が確実にコスタ伯爵の注文によるものです。


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生々しい凄惨な斬首場面は一度見たら忘れられない!


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1599年9月11日、サンタンジェロ城広場で公開処刑されたベアトリーチェ・チェンチ(ローマ、1577-1599)とベアトリーチェの継母ルクレツィアの斬首を参考に描かれたとされてます。
その公開処刑には、友人のオラツィオ・ジェンティレスキ、オラツィオの娘で最高のカラヴァッジェスキ画家となったアルテミジア・ジェンティレスキがカラヴァッジョと一緒だったそうです。


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鮮烈な印象を与える表情


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ユディトのモデルは、娼婦のフィリデ・メランドーニ(シエナ,1581-ローマ、1618)と言われていました。


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しかし、近年の研究によって、メランドーニ説が否定され、ロレンツォ・カルリの妻だったマッダレーナ・アントネッティ(ローマ、1579-?)説が有力とされているようです。


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カラヴァッジョは同じ主題の作品をもう1点描いたそうです。
写真は、2014年にフランス・トゥールーズの屋根裏部屋で発見された「ホロフェルネスを斬首するユディト」です。
発見された当初、カラヴァッジョの真作の可能性が高いとされていました。後にオークションにかけられる予定でしたが、突然取りやめになり、2019年にアメリカ人コレクターに販売されたそうです。カラヴァッジョ作品説に対して、多くの批評家が否定しており、他画家によるカラヴァッジョ作品の複製画の可能性が高いようです。
屋根裏部屋で発見された作品の鑑定に用いられたルイ・フィンソンによるカラヴァッジョ作品の複製画がある(ナポリのGalleria d’Italiaの所蔵)があるのですが、屋根裏部屋で発見された作品もルイ・フィンソンの複製画説も有力です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ナルキッソス](1597-99)


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美術史家のロベルト・ロンギ(アルバ、1890-フィレンツェ、1970)によってカラヴァッジョの作品説が唱えられ、それが定説となって現在に至ってます。
オラツィオ・ジェンティレスキ、ニッコロ・トルオーニ、スパダリーノの作品説もありました。


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依然として、スパダリーノ作品説を唱える美術史家がいます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖フランチェスコ」(1605)


101
ローマ近郊のカルピネート・ロマーノのサン・ピエトロ教会が写ってます。
ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)が1606年頃に、ローマで殺人を犯したカラヴァッジョの逃亡中に注文して制作された作品です。
アルドブランディーニ枢機卿は、1609年にカルピネートのサン・ピエトロ教会に寄贈しました。


92
この作品は、1967年にカルピネート・ロマーノのサン・ピエトロ教会聖具室で発見されました。

(つづく)

足跡を辿って 5.ローマ到着
1
カラヴァッジョがミラノにいたことを示す最後の記録は,1592年7月1日の文書でした。それ以降、ローマ到着までのことは一切分かりません。
しかしながら、従来、カラヴァッジョは最後の記録が残されたミラノから程なくしてローマに向かい、ローマに到着したのは、1592年秋から1593年頃と考えられてきました。


2
ところが、カラヴァッジョの没後400年を機に、カラヴァッジョの記録をもう一度見直すための調査が行われました。
その結果、ローマ国立公文書館で2つの文書が発見されました。その2つの文書によって、カラヴァッジョがローマに到着したのは、1595年末であることが明確になったのです。
それによって、ローマ到着までのカラヴァッジョの足跡の空白期間が延長されることになり、1595年とそれ以前に描かれたとされていた作品の制作年が疑わしくなったのです。


3
ローマに到着するまで何をしていたか、ですが、各地(その具体的な場所が一切不明です)を巡りながら、教会の祭壇画を見ていて勉強に励んだ一方で、何らかの犯罪を犯して収監されていた可能性も大いにあり得ると私は思います。


48
1595年末、カラヴァッジョはカンポ・マルツィオ地区にやってきました。
カラヴァッジョの伝記が幾つかあり、伝記の作者によって違いがありますが、モンシニョール・パンドルフォ・プッチの家にまず行ったようです。


47
1596年3月、カラヴァッジョは、シチリア出身の画家ロレンツォ・カルリ(シチリア、?-ローマ、1597)の工房で働き始めました。


37
ロレンツォ・カルリの工房はスクロファ通りにありました。当時、この通りには画家の工房が密集していたそうです。


38
写真はスクロファ通りに建っているPalazzo Aragona Gonzagaです。
ロレンツォ・カルリは、1597年春に死去しました。
1597年4月10日付で作成されたロレンツォ・カルリの資産目録が、ローマ国立公文書館の公証書の中から発見されました。
発見された資産目録には、聖母や聖人を描いた宗教画や肖像画を含む27点の絵画が記載され、その中の一部がローマに到着したカラヴァッジョと一緒に、或いはカラヴァッジョが制作したとの記載がされていました。


39
Campo Marzo


40
ロレンツォ・カルリの遺産目録には、カラヴァッジョを雇った時期、カラヴァッジョがローマに来た時期なども記されていました。


41
ロレンツォ・カルリの妻Faustino Juvarraは美人として有名でした。


32
後にカラヴァッジョが描いた2点の作品のモデルがロレンツォ・カルリの妻だったそうです。しかし、カラヴァッジョの女で、売春婦マッダレーナ・アントネッティ通称レーナがモデルだった説が有力です。


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アレッサンドリアの聖カテリーナ


44
ホロフェルネスを斬首するユディト


45
ユディトのモデルがファウスティーナらしいです。


46
スクロファ通りにあるモニュメント


42
ナヴォーナ広場はカラヴァッジョの生活圏にありました。


43
もう一つの資料もローマ国立公文書館で発見されました。


56
1597年7月11日付で作成された音楽家アンジェロ・ザンコーニへの暴行事件の調書です。
1597年7月9日午後10時半頃、帰宅したザンコーニは、襲撃され、棒で殴打されましたが、逃げるザンコーニを他の男が剣を持ちながら追いかけました。逃げる時にザンコーニは、被っていた帽子と着ていたマントを失います。
その夜、カラヴァッジョは画商のコスタンティーノ・スパーダと画家のプロスぺーロ・オルシとオステリア・デッラ・ルーパで飲食していましたが、店を出てから暴行現場に通りかかり、カラヴァッジョは道路に落ちていたマントを拾い上げ、この場にいた床屋のピエトロ・パオロ・ペッレグリー二に渡しました。


57
1597年7月11日付で作成された床屋ピエトロ・パオロ・ペッレグリー二の尋問記録
この証言の中で、マントを手渡されたカラヴァッジョのことについて述べていて、「カラヴァッジョはロンバルド訛りで話すミラノ出身の男で、1596年春から知っていて、亡くなった画家のロレンツォ・カルリの工房にいた」と言及しました。


50
カラヴァッジョの性格と行状から考えると、ザンコーニへの襲撃にカラヴァッジョが参加していた可能性がないとは言えないと思いますが、カラヴァッジョに対する尋問は行われなかったようです。


49
サン・ルイージ・フランチェージ教会もカラヴァッジョの生活圏にありました。


52
「病めるバッカスの自画像」はダルピーノ工房にいた時に描かれたのは明らかです。


53
カラヴァッジョのローマ到着が1595年末になったことで、この作品の制作された年も修正されるべきと思います。


54
同様のことは、この作品にも言えると思います。


55




作品巡り 5.ローマ、ボルゲーゼ美術館Ⅲ
17
どのように見て回るか、予め決めておかないと2時間の制限時間内では見落とす作品が出てきます。


18
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「書斎の聖ジローラモ」(1605/1606)


19
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)が1672年に出版した「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」によれば、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿がカラヴァッジョに初めて注文した作品だそうです。


20
初めて注文した作品であることは事実ですが、それには裏があるようです。


21
1605年7月29日夜、カラヴァッジョは、ナヴォーナ広場で公証人を襲撃したことにより、警察の追跡を逃れるためにジェノヴァに逃亡しました。
襲撃の理由は、売春婦で、カラヴァッジョ作品に度々モデルになったマッダレーナ・アントネッティ(ローマ、1579-?)を巡る争いとされてます。


22
ところが、カラヴァッジョ作品を好む有力者の取りなしによって、公証人は訴訟を取り下げ和解に応じたのです。その和解調印がシピオーネ・ボルゲーゼ邸で行われたそうです。


23
その縁でボルゲーゼ枢機卿はカラヴァッジョの有力パトロンとなり、ボルゲーゼ枢機卿の和解調停に感謝する意味でカラヴァッジョが制作したようです。
聖ジローラモの着衣の赤は、枢機卿の法衣の赤に通じるので、画題として選択されたそうです。


24
カラヴァッジョは、別バージョンの聖ジローラモを描いてます。
この作品は、マルタのヴァレッタ大聖堂にあります。


25
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「教皇庁厩舎管理人(Palafreeri)の聖母」(1606/1606)


26
「蛇の聖母」とも呼ばれてます。


27
サン・ピエトロ大聖堂のサンタ・アンナ同信会礼拝堂の祭壇を飾るために、マスカニオ・コロンナ枢機卿(マリーノ、1560-パレストリーナ、1608)がカラヴァッジョに注文して制作された作品です。コロンナ枢機卿は、当時、教皇厩舎の管理人を務めていました。
この作品は、同信会礼拝堂の祭壇に設置されましたが、直ぐに取り外されてしまいました。


28
聖母が胸をはだけてセクシーに描かれている上に、同信会のシンボルである聖アンナがあまりにもみすぼらしい老婆に描かれていたことなどの理由によるものとされてます。


29
サン・ピエトロ大聖堂から取り外された後、一旦はサンタンナ教会に移されましたが、直ぐにボルゲーゼ枢機卿が安値で買収し、枢機卿のコレクションに加わりました。


31
聖母のモデルは、売春婦のマッダレーナ・アントネッティ(ローマ、1579-?)だったとされてます。


34
このカラヴァッジョの作品のモデルも同一人物とされてます。


35
(つづく)

足跡を辿って 4.ローマに行くまでの空白の時代Ⅱ
16
ミラノに居住していた画家の確実な記録が,1591年に残されてます。画家は、カラヴァッジョ(コムーネ)出身の男を告訴した記録があるそうです。後に告訴は取り下げられたそうです。


17
医師で美術収集家、且つ作家であったジュリオ・マンチーニ(シエナ,1559-ローマ、1630)ですが、デル・モンテ枢機卿が住んでいたマダマ宮殿に滞在していたカラヴァッジョの病気を診たという証拠があるそうですが、マンチーニが出版したConsiderazione sulla Pittura(1617-21)という本(今でもアマゾンで買うことが出来ます)の中で、カラヴァッジョは1591年末にミラノで犯罪を犯して、1年間投獄されたと書いているようです。その犯罪と言うのは、警官を殺したとなっているそうです。
警官殺しは通常重罪ですから、1年間の投獄では刑が軽すぎます。
マンチーニは、カラヴァッジョのことを知っていた訳で、ベッローリの記述よりも信用できそうです。


18
カラヴァッジョがミラノにいたことを示す、公文書における最後の記録は1592年7月だそうです。
2010年のカラヴァッジョ没後400年を機に行われた公文書の調査研究によって、ローマに初めていたのが1596年と確認されましたが、1592年からローマ到着までカラヴァッジョは何をしていたのでしょうか。


19
ロンバルディアやヴェネト各地を回って、多くの作品を観て勉強に励んだと考えるのが自然だと思います。特に16世紀の作品を研究したことでしょう。
現在、美術館で展示されている殆どの宗教画は、教会や修道院の礼拝堂祭壇などにありました。
これからは私の想像になります。


20
ベルガモに行った可能性があるかも知れません。


21
ベルガモに行ったとすれば、サンティ・バルトロメオ・エ・ステファノ教会に行ったことでしょう。


22
同教会の主祭壇画は必見です。


23
ロレンツォ・ロットの作品が主祭壇を飾ってます。


24
ベルガモでは、旧市街のサンタンドレア教区教会に行ったかも知れません。


25
モレットの作品が勉強になったかもしれません。


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勉強すべき多くの作品があるブレーシャにも行った可能性がありそうです。


28
ブレーシャでは、サンタ・マリア・デイ・ミラコーリ教会に行った可能性がありそうです。


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現在、教会にある作品はオリジナルの複製画です。これはモレット作品の複製画です。


35
本物はこちら。


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現在は、ブレーシャのトージオ・マルティネンゴ美術館にあります。


31
モレットの作品


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ロマニーノの作品


34


37
クレモナに行ったかも知れません。


38
クレモナ大聖堂にあるポルデノーネの作品


39


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クレモナ市立美術館で展示されているボッカッチョ・ボッカッチーノの作品


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クレモナ市立美術館にあるルドヴィーコ・マッゾリーニの作品


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クレモナ市立美術館にあるベルナルディーノ・カンピの作品


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ミラノにおける最後の確実な記録がある時から、ローマ到着までの空白期間に、カラヴァッジョは傭兵としてハンガリー戦争に参戦したのではないかと言う説が、近年提案されました。ハプスブルク帝国とトルコの間で、長い期間に渡って戦争が行われましたが、その戦争に多くのイタリア人の傭兵が参戦しました。
カラヴァッジョの喧嘩早い性格、武装して剣や短剣の使い方の精通していたこと、逮捕された時に作成された取り調べ調書に図示された、カラヴァッジョが所持していたとされる剣と短剣が傭兵が保持していたそれらと似ていることから、ハンガリー戦争参戦説が出されたようです。


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ピーノ署長が描いたとされるカラヴァッジョが保持していた剣と短剣のイラスト

傭兵だった可能性はあると思いますが、それを裏付ける記録が残されてません。
しかし、ラヌッチョ・トマッソーニ事件の関係者(ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ、ペトローニオ隊長、パオロ・アルダートはハンガリー戦争に参戦した退役軍人)から憶測すれば、カラヴァッジョのハンガリー戦争の傭兵説は大いにあり得ると思います。


作品巡り 5.ローマ、ボルゲーゼ美術館Ⅱ
15
二時間毎の総入れ替え制の入館となってます。


1
二時間ではすべての作品を観るのは至難の業です。


2
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」(1609/1610)


3


4
聖ジョヴァンニ・バッティスタを示すアトリビュートが描かれてません。子羊ではなく、牡羊が背を向けて葡萄の葉を食べてます。放心した聖人は贖罪を願うかのように描かれてます。


5
この作品は、カラヴァッジョの最後のナポリ滞在中の1609年末頃から1610年に制作されました。
1606年5月29日夜、殺人を犯し、誰でも殺してよいとの死刑判決受けて、逃亡していたカラヴァッジョに対して、恩赦の可能性があるとの知らせがナポリにいたカラヴァッジョに齎されました。
当時の教皇は、ボルゲーゼ家出身のパオロ5世(第233代教皇 ローマ、1552‐1621 教皇在位:1605-1621)でした。カラヴァッジョのパトロンであるシピオーネ・カッファレッリ⁼ボルゲーゼ枢機卿は、教皇の甥でした。
この作品は、恩赦の実現に向けて事を進めて欲しいとしてボルゲーゼ枢機卿のために制作されました。


6
1610年7月、この作品を含めて3点の作品を携えて、カラヴァッジョはナポリから海路でローマへと向かいました。
途中のパロ港で、カラヴァッジョは誤認逮捕され、二日間投獄されてしまいました。しかし、3点の作品は乗船した船の目的地ポルト・エルコレに行ってしまいました。
3点の作品を求めて、カラヴァッジョはパロからポルト・エルコレまで死出の徒歩旅行を敢行したのです。
最終的に、この作品はボルゲーゼ枢機卿の所有となりました。


7
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(1609-1610)


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9
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)によれば、1606年にボルゲーゼ枢機卿から作品の制作依頼があったとされてます。しかし、殺人を犯して逃亡生活に入ったカラヴァッジョには時間がなかったと思われます。
恩赦の実現を期待して、1609年末から1610年にナポリで制作され、ボルゲーゼ枢機卿に贈られたもので、ナポリからの乗船時には携えられていなかったとされてます。


10
ゴリアテは、明らかにカラヴァッジョの自画像でしょう。


11
そして、敵を殺したダヴィデは誇らしさは微塵もなく、悲しげな表情をしています。


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カラヴァッジョの悔恨、贖罪を示したゴリアテです。


13
ダヴィデが持つ剣には、H-AS OSと描かれており、謙虚さはプライドを殺したとの意味だそうです。


14
同じ主題のカラヴァッジョの作品がもう一つあります。
ウィーンの美術史美術館にあるミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1591-ポルト・エルコレ,1610)の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(1607c)

(つづく)

足跡を辿って 4.ローマに行くまでの空白の時代Ⅰ
1
シモーネ・ペテルツァーノとの修行契約は、1584年から1588年の4年間でした。契約期間満了の1588年からローマに行くまでの期間、画家カラヴァッジョに関することは殆ど分からないとされてます。


2
少し前までは、カラヴァッジョがローマに到着したのは、1592年秋と言うのが定説でした。
しかし、カラヴァッジョの没後400年の2010年に、没後400年の新企画として各地に残る古文書の体系的調査が行われ、カラヴァッジョがローマに到着したのは1596年3月との資料が見つかったのです。


3
従来の定説ならば、カラヴァッジョの空白期間は、1588年から1592年までの約4年間でしたが、新発見の資料によれば、空白期間は1596年までの約8年間となったのです。
その空白期間における、画家の消息を伝えるものは、カラヴァッジョ(コムーネ)の土地取引などの記録、美術史家二人による画家の伝記とメモくらいしかありません。


4
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリの肖像」
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)は、作家、古物収集家、美術史家でした。


5
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ著「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」(1672)
ベッローリが出版した本の表紙です。


6
この本の中でカラヴァッジョについての伝記が描かれてます。
カラヴァッジョ編の挿絵です。


7
アンニーバレ・カラッチ編の挿絵


8
ルーベンス編の挿絵

この本の中で、ベッローリは古典主義を称賛しました。カラヴァッジョについては、現実を単に機械的に写実しただけと非難しました。


9
カラヴァッジョの死から62年後に出版された本なので、カラヴァッジョの伝記がどの程度信頼できるのか、不明ですが、ほぼ同世代のベッローリなので、ある程度信頼に足るのではないでしょうか。
カラヴァッジョ編の中で、ミラノでトラブルを起こしたので、ミラノからヴェネツィアに逃亡したと書かれてます。


10
後に、カラヴァッジョはローマで殺人を筆頭に数々の警察沙汰を犯しますが、その行状から考えるとミラノのトラブルは大いにあり得ると思います。


11
では、逃亡先のヴェネツィアで何をしていたのでしょうか。


12
画家を志して修業したカラヴァッジョなので、ティツィアーノ、ベッリーニ一族などの作品を観るために教会や宮殿を回ったことでしょう。
ベッローリによれば、ジョルジョーネの色彩に感銘を受けて影響を受けたそうです。


13
ジョルジョーネの傑作の一つ


14
カステルフランコ・ヴェネトのドゥオーモにあるジョルジョーネの作品


15
空白時代に、画家は度々カラヴァッジョに戻っていたようです。


16
1589年、画家は、メリージ家所有の土地の一部を売却した記録が残されてます。その後、数回にわたって土地の売り買いを行った記録も残されてます。


17
1590年、母ルチアが死去しました。イタリアでは母好きの息子が大半ですから、母の死の前後にカラヴァッジョに戻った可能性があります。


18
1592年、母が違う姉カテリーナ、実弟のジョヴァンニ・バッティスタの3人との間に、母ルチアの遺産分配が行われました。


19
1592年以降、画家はカラヴァッジョに戻ることは二度となかったようです。
遺産相続が終わると、画家はローマに向かったというのが、従来説でした。



作品巡り 5.ローマ、ボルゲーゼ美術館Ⅰ
20
ローマのボルゲーゼ美術館です。


21
カラヴァッジョの真作6点が展示されてます。この他に帰属が疑わしい1点の静物画があります。


22
カラヴァッジョの作品として、その帰属が疑わしい「静物画」です。
この作品は近頃展示されていないようです。


23
カラヴァッジョの作品が展示されているのは、第8展示室です。


24
第8展示室です。この日は、真作6点が揃っていました。


25
カラヴァッジョ作品を最も多く展示しているのは、このボルゲーゼ美術館です。それは、カラヴァッジョのパトロンであり、美術品の収集に熱心で、特にカラヴァッジョ作品に異常とも思える執念で収集したシピオーネ・カッファレッリ⁼ボルゲーゼ枢機卿(ローマ、1577-1633)によります。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「病めるバッカスの自画像」


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ここでは、制作された年として、従来の1592/1595となってますが、2010年の古文書調査結果を踏まえると1596/1597年制作説が有力とされてます。


28
この作品は、カラヴァッジョがカヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ,1640)の工房にいた時に描かれました。


29
カラヴァッジョが馬に蹴られて、その治療のため入院したのですが、退院後の本調子ではない顔色が優れない自分を鏡に映して描いたと言われてます。
ダルピーノは、カラヴァッジョよりも僅か3歳年長ですが、この当時、飛ぶ鳥も落とすほどの画家として有名でした。
入院期間中、ダルピーノは一度も見舞いに来なかったとカラヴァッジョが愚痴ってます。


30
ダルピーノがこの作品を所有していたのですが、どうしても欲しいとボルゲーゼ枢機卿は、一計を案じて取り上げたのです。


31
ダルピーノが銃を不法所持していたことを知ったボルゲーゼ枢機卿は、教皇庁に指示してダルピーノを逮捕させ、有罪判決を出させ、ダルピーノの収監中にダルピーノの財産を差し押さえて、その財産に含まれていたカラヴァッジョの作品を押収して自分のコレクションに加えたのです。
凄いですね、詐取ですね。


32
当時、カラヴァッジョは金欠だったので、モデルを雇う金がなく自分や友人をモデルにしていました。


33
カラヴァッジョの静物画は秀逸です。


34
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物籠を持つ少年」(1593/1595c)


35
この作品もダルピーノ工房にいる時に制作されました。
2010年の古文書調査結果によって、1596/1597年頃の制作説が有力となってきてます。


36
果物の描写技術が一段と向上したことが分かります。


37
この作品もカヴァリエール・ダルピーノが所持していました。


38
ボルゲーゼ枢機卿のコレクションに加えられた経緯は「病めるバッカスの自画像」と全く同じです。


39
警察権を悪用してはいけませんね。


40
(つづく)

足跡を辿って 3.ミラノ修業時代
1
絵画に関心を持っていたミケランジェロ少年は,1584年にカラヴァッジョを離れミラノに向かいました。


2
先妻の子を含めて、5人の子供がいた母ルチアにとっては、長男ミケランジェロのミラノ行きは口減らしの意味もあったと思われます。


3
フェルモ・メリージが仕えていた主家カラヴァッジョ侯爵の援助は限定的だったことでしょう。
ともあれ、長男ミケランジェロの旅立ちに当たって、母ルチアは僅かばかりあった土地の一部を売って、ミケランジェロの画家修業の足しにしたそうです。
出発に先立って、当然のことながら画家修業をする師匠が決まっていたと思われます。


4
ミケランジェロ少年が師事した画家はシモーネ・ペテルツァーノ(ベルガモまたはヴェネツィア、1535/1540-ミラノ、1599)でした。


5
シモーネ・ペテルツァーノの「自画像」(個人蔵、作品写真は外部サイトからの拝借)
ペテルツァーノを師匠に選んだ理由は、分からないとされてます。想像でしかありませんが、画家になると決心した時から、ロンバルディア各地の教会や修道院を訪れて、祭壇画、フレスコ画を見て回り、自分に相応しい師匠を選んだと思います。


6
師弟関係を結ぶに当たって、取り交わされた契約書が残されています。これは非常に驚くべきことの様に思えます。
1584年4月6日付でペテルツァーノとカラヴァッジョ間で締結された契約書によれば、4年間ペテルツァーノ工房に住み込みで修業し、その対価として24スクーディ支払うというものでした。1スクードは31.25グラムの銀貨。


7
1584年から1588年までの4年間、ペテルツァーノ工房で修業したと思いますが、その間のカラヴァッジョについては何一つ分からないとされてます。
私には、ペテルツァーノ工房があった場所さえも分かりません。


8
師匠のペテルツァーノは、油彩画よりもフレスコ画が得意にしていた画家でした。カラヴァッジョは、フレスコ画が不得意でしたから、ペテルツァーノを師匠に選んだのは不本意だったかも知れません。
カラヴァッジョの修行時代にペテルツァーノの制作に際して、下働きをした可能性があるとされてます。


9
ミラノ・スカラ座前からレオナルド・ダ・ヴィンチ像を望んだ後方にクポーラが見えます。


10
そのクーポラがあるのがサン・フェデーレ教会です。


11
サン・フェデーレ教会はカラヴァッジョ所縁と言われていました。


12
ミラノでも古い教会の一つです。


13
教会構造図における9番のCappella delle Deposizioneの祭壇画がシモーネ・ペテルツァーノの作品です。


14
Cappella delle Deposizioneです。


15
シモーネ・ペテルツァーノの「キリストの埋葬」


16
カラヴァッジョがペテルツァーノに弟子入りした直後に制作されたとされていました。そのため、師匠が制作する際に、カラヴァッジョが下働きした可能性があるとされてきました。


17
ところが、近年になって1573年から1578年頃に制作されたという説が有力とされるようになりました。そうなるとミケランジェロ少年は未だカラヴァッジョにいたので、下働き説はその根拠を失います。
これは教会の説明書の写真です。ここでも1573年から1578年頃に制作されたと書かれています。


18
入門した際の契約書以外に、カラヴァッジョの修行時代の記録は一切残されていません。


19
2012年7月5日、イタリアの通信社から「カラヴァッジョの修行時代の素描や習作約100点が発見された」との驚くべきニュースが発表されました。


20
発見された場所が何とスフォルツェスコ城だったということでした。ビックリでした。ここにあったとは、夢思わざりきでした。


21
城内にペテルツァーノの作品保管庫があって(初耳でした)、美術史家2名が調査と検討を行った結果、保管されていたペテルツァーノの作品の中から、カラヴァッジョの素描などが発見されたという事でした。


22
新発見の素描、調査・検討のプロセスは、アマゾンから電子書籍で発売されるとアナウンスがありました。
この発表後、暫くして電子書籍を買おうとしたのですが、全然見つからず不思議に思ってました。


23
かなり後から知ったのですが、通信社からのニュースは、ミラノ市にも予め全く知らされずに発表されたそうです。
このニュースに接して驚いたミラノ市は、世界中の素描専門の大家に対して、「発見された素描」についての意見を求めたそうです。


24
素描の大家たちの意見は、私は知らないのですが、2013年2月から3月にスフォルツェスコ城で開催されたペテルツァーノの素描展では、それに関して一切の言及がないままに、「新発見のカラヴァッジョの素描」の一部がペテルツァーノの素描作品として展示されていたのが、このニュースの全面的否定だったことを示したと思います。



作品巡り 4.ローマ、カピトリーニ美術館
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ローマのカピトリーニ美術館です。


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カピトリーニ美術館には、カラヴァッジョ作品が2点あります。


30
この日は、2点ともありました。
カラヴァッジョは人気が高く、世界のどこかでカラヴァッジョ展が開催されていることが多く、そのために貸し出されることが結構あって、2点とも揃っているのはラッキーでした。


31
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者ヨハネ)または解放されたイサク」(1602)


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)にしては、それを示すアトリビュートが全く描かれていないので、「解放されたイサク」説がやや優勢になっているようです。


33
カラヴァッジョの熱心なパトロンの一人だったチリアーコ・マッテイが注文して制作されました。


27
カラヴァッジョ自身による複製画が残されてますが、カピトリーニ美術館にある作品がオリジナルの第一作です。それだけ出来が良いとされてます。


28
顔の明暗表現と質感に注目です。


29
右足下に描かれた、これは、この作品を制作していたマッテイ宮殿が面するマッテイ広場にあった噴水がモチーフとされてます。


44
オリジナルのカピトリーニ版の複製がドーリア・パンフィーリ美術館にあります。


34
ドーリア・パンフィーリ美術館所蔵のミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ,1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)または解放されたイサク」(1602)


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師」(1595c)


36
制作の経緯が良く分かっていないそうです。
カピトリーノ美術館に所蔵されて公開されたのは、1750年でしたが、当時はカラヴァッジョの真作とはされておらず、その真贋については長い年月を経た多くの議論がありました。


37
ジプシー女と若者のモデルが異なるだけの同じ主題の作品がルーブル美術館にありますが、ルーブル美術館にある「女占い師」の方が出来が良かったことも、カピトリーニ美術館にある作品の真贋にも影響したようです。


38
カラヴァッジョの真作と認められるようになったのは20世紀になってからだそうです。


39
この主題は多くの画家に刺激を与えました。「女占い師」はシモン・ヴーエなどに描かれました。


40


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パリ、ルーブル美術館にあるミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師」(1595cまたは1596/1597)


42
モデルが違います。


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ルーブル美術館の若者のモデルは、カラヴァッジョの盟友マリオ・ミンニティの可能性が高いと言われてます。シチリア出身のミンニティは故郷に帰り画家として活動していましたが、後にカラヴァッジョがローマで殺人(過失致死説あり)を犯し、逃亡先のマルタから逃げてきたシチリアでカラヴァッジョに仕事を斡旋するなど色々と力になったのがミンニティでした。
(つづく)

足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅳ
1
ローマ通りを戻ります。


2
カラヴァッジョは巡礼地として有名ですが、その巡礼地は駅を挟んでコムーネの旧市街の反対側にあります。


3
ローマ通りに面して建つサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。修道院が併設された複合施設です。


4
複合施設は、その宗教機能が停止されてます。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョにとっては、重要な教会です。
1571年1月14日に、この教会で、画家の父フェルモ・メリージと母ルチア・アラトーリが結婚式を挙げたことで知られてます。
この結婚式にカラヴァッジョ侯爵フランチェスコ・スフォルツァが証人を務めていたようです。ルチア・アラトーリの父ジョヴァン・ジャコモ・アラトーリが侯爵家の土地測量官、行政管理者、管財人を務めていたからのようです。16歳の侯爵夫人コスタンツァ・コロンナも結婚式に出席していたことでしょう。
フェルモは二度目の結婚、ルチアは初婚でした。


101
シピオーネ・プルツォーネ(ガエータ、1544-ローマ、1598)の「カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの肖像」

カラヴァッジョ侯爵フランチェスコ・スフォルツァは、1583年に死去してしまったので、カラヴァッジョ侯爵夫人は侯爵家の財産を管理することになりました。コスタンツァは、粘り強く機知に富んだ若い未亡人でした。
画家カラヴァッジョの叔母マルゲリータ・アラトーリは、侯爵家の子供たちの乳母でした。コスタンツァは、幼いミケランジェロをよく見かけたと思われます。ミケランジェロはコスタンツァの子供たちの遊び相手だったでしょう。
このことが、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナが画家カラヴァッジョに対して終生変わらない支援を行うことになったと思われます。


5
駅方向に進みます。


6
鉄道駅です。


7
駅を通り越し、カラヴァッジョの旧市街から駅に向かう同じ道をさらに進みます。


8
突き当りに大きな教会が見えてきます。


9
教会に行く前にここで一休みしました。


10
巡礼地となっている聖母の聖域聖堂 Basilica Minore e Santuario di Santa Maria del Fonte presso Caravaggioです。


11
1432年5月26日、若い農婦ジャネッタ・デ・ヴェッキの前に聖母マリアが顕現し、顕現した場所に泉が湧き出す奇跡が起きました。
その日以来、奇跡が起きた泉が湧き出ている場所が聖母信仰の巡礼地となりました。
科学的にそのような事象が起きるわけがないのですが、それが信仰と言うもので、目くじらを立てては宗教にはなりません。

奇跡が起きてから、多くの信者が泉が湧き出す場所に詣でましたが、それから間もなくの同年の1432年にクレモナ司教(カラヴァッジョはクレモナ司教区に属してます)によって泉の上に礼拝堂が建設されました。
1516年、当時の教皇レオ10世によって聖域に指定されました。
ところが、16世紀半ばになると巡礼者が減少すると共に、礼拝堂の建物は荒廃してしまい、やがて取り壊されてしまいました。
1575年、当時のミラノ大司教の聖カルロ・ボッロメーオは、教会の再建を希望し、それに基づき1575年に創建、17世紀初めに完成したバロック様式に建物が現在の姿になってます。


12
現在でも泉は聖堂の下に湧き出していますが、その水は「カラヴァッジョの水」と言われ、写真手前の場所に地上に出るようにされており、巡礼者が訪れます。


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クーポラ


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ファサード


15
毎日、多くの巡礼者が訪れており、賑わってます。


16
ミケランジェロ少年は、叔父や親戚の働き手が工事に従事していたので、度々建設現場に訪れて工事を見ていたと思います。後に卓越した宗教画を描くための素地として、この奇跡は大いに資することになったことでしょう。


17
中に入ると、聖母顕現の奇跡を再現した彫刻が直ぐに目に入ります。


18
1932年に制作された「農婦に顕現する聖母」です。巡礼者が祈りを捧げてます。


19
聖堂内にはかなりの数の祭壇画があります。それらの大半が、ミケランジェロ少年がカラヴァッジョを離れてから制作されたものです。


20
カミッロ・プロカッチーニ(パルマ、1551-ミラノ、1629)の天井フレスコ画


21
カミッロ・プロカッチーニ(パルマ、1551-ミラノ、1629)の「農婦の前に顕現する聖母と聖カルロ・ボッロメーオと聖フェルモ」


22
多くの作品がこのような表示がされてます。


23
ジョヴァンニ・ステファノ・ダネーディ通称イル・モンタルト(トレヴィーリオ,1612-ミラノ、1640)の「農婦の前に顕現する聖母」


24
アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ、1453c-ミラノ,1523)の「キリストの埋葬」
ミケランジェロ少年が見た可能性が高い作品です。


25
クーポラ


26
ジャコモ・カヴェドーニ(サッスオーロ,1577-ボローニャ、1660)の「十字架降下」


27


28
ジョヴァンニ・バッティスタ・セッコ通称カラヴァッジーノ(カラヴァッジョ、1572-1625)の「聖アントニオ・アバーテ」


29
グイド・レーニ作品のコピー画


30
1710年に制作された作品です。


31
19世紀の作品


32
19世紀の作品


33
確実にミケランジェロ少年が見たと言えるのは、ベルゴニョーネの作品だけでしょう。


作品巡り 3.ローマ、コルシーニ美術館
34
ローマのコルシーニ宮です。


35
コルシーニ美術館の入り口です。中に入って直ぐ左手に切符売り場があります。


36
コルシーニ美術館には、カラヴァッジョの作品が1点あります。


37
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」(1602)
1604年に制作された説もあります。


38
コルシーニ・コレクションの作品リストに、この作品が初めて記載されたのは、1784年版の作品目録と言われてます。所蔵された経緯は不明とされてますが、購入説が有力です。購入した当初からカラヴァッジョの作品とされていました。


39
この作品をカラヴァッジョの真作と美術界に意見を発表したのは、美術史家のロベルト・ロンギで、1927年のことでしたが、異説が出されたものの、美術界がそれを是認し、現在ではカラヴァッジョの真筆とされてます。
2016年に国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」に出張展示されていました。


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静謐で憂いを帯びた表現に魅かれます。


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カラヴァッジョの作品が展示されている部屋の天井装飾


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(つづく)

足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅲ
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銀行です。


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地元出身画家の作品写真が銀行の窓にありました。


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画家所縁のものと言えば、これぐらいです。


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教区教会に向かいます。


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サンティ・フェルモ・エ・ルスティコ教区教会です。


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創建は1000年頃の、この町で最古の教会です。1200年頃に再建された建物が現在の外観の原形となってます。メリージ家から僅か300mくらいの距離に建ってます。


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高さ71mの鐘楼


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ファサードの中央扉上ルネッタのフレスコ画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・モリッジャ(カラヴァッジョ、1796-1876)の「聖母子と聖フェルモと聖ルスティコ」(1835)です。
画家カラヴァッジョの死後、225年後に制作されたフレスコ画です。


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後に画家になる少年カラヴァッジョは、ミサなどに度々中に入っていたことでしょう。


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17世紀に造られた主祭壇です。
後陣のフレスコ画は、ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574-ミラノ,1625)によるものです。
1584年にカラヴァッジョを離れ、ミラノで画家修業を始めたミケランジェロが後陣のフレスコ画を見たとは考えられません。


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身廊天井のフレスコ画は、ベルナルディーノ・カンピ(レッジョ・ネレッミア、1522-1591)が1571年に制作したものです。ミケランジェロ少年は見たと思います。


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サンティ・ピエトロ・エ・アンドレア礼拝堂です。


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このような説明書が各礼拝堂にあります。


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クリストフォロ・フェッラーリ・デ・ジュキス(カラヴァッジョ、?-1506)の「聖母子と聖アンドレアと聖ピエトロ」(1504)


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ミケランジェロ少年が見た作品です。


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フランチェスコ・プラータ(カラヴァッジョ、1485-1528?)の「十字架降下」(16世紀前半)


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ミケランジェロ少年が観たことでしょう。


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二コラ・モイエッタ(カラヴァッジョ、16世紀前半活動)の「ご誕生」(1529)


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ミケランジェロ少年が目にしたことでしょう。


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サンティ・ロッコ・エ・セバスティアーノ礼拝堂です。


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フェルモ・ギソーニ(カラヴァッジョ、1505-マントヴァ、1575)の「聖母子と聖フランチェスコと聖セバスティアーノ」


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ベルナルディーノ・カンピ(レッジョ・ネレッミア、1522-1591)の「最後の晩餐」(1571)


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ベルナルディーノ・カンピ(レッジョ・ネレッミア、1522-1591)の「弟子の足を洗うキリスト」(1571)


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この他にも、画家カラヴァッジョの死後に制作された作品がかなりあります。


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これら目にした作品に感銘を受けて画家を志したとは、私には到底思えません。後年のカラヴァッジョの言動から考えて、この程度で画家になれるのであれば、俺ならば簡単に画家で活躍できると寧ろ自信を深めたと思いたい。


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カラヴァッジョ(コムーネ)に隣接してトレヴィーリオと言う町があります。


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トレヴィーリオの市庁舎です。
ルネサンス期にトレヴィーリオ出身の画家がいたので、ミケランジェロ少年はトレヴィーリオに来て、それら画家たちの作品を観て、画家を志したのかも知れません。


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例えば、ベルナルド・ゼナーレ(トレヴィーリオ、1463/1468‐ミラノ、1526)やベルナルディーノ・ブティノーネ(トレヴィーリオ、1450c-1510c)などです。
祭壇画の質と言う点では、トレヴィーリオにある祭壇画の方がカラヴァッジョにあるそれらよりも遥かに勝るので、勉強になったと思われます。



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カラヴァッジョは巡礼地として有名です。次回は、その巡礼地を紹介します。



作品巡り 2.ローマ、ヴァティカン絵画館
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ヴァティカン絵画館に入館します。


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ヴァティカン絵画館には、カラヴァッジョの作品が1点だけあります。


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制作された当初から傑作と呼び声高かった作品です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの埋葬」(1604)


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この作品は、元々ヴァティカンにあったものではありません。


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通称ヌオーヴァ教会と言われる、オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂です。


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サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂内のヴィットリーチェ礼拝堂、通称ピエタ礼拝堂です。(礼拝堂の祭壇画はカラヴァッジョ作品のコピー画です)

1600年、この礼拝堂の所有者だったピエトロ・ヴィットリーチェが死去して、この礼拝堂に葬られました。1602年頃に、この礼拝堂の主祭壇画として、ピエトロの甥がカラヴァッジョに注文したのです。
1604年9月6日に、カラヴァッジョの作品が祭壇に設置されると直ぐに傑作と高評価されました。
ナポレオンのイタリア侵攻の際、戦利品簒奪の格好の目的とされて、フランスに持ち去られました。一時はルーブル美術館で展示されていたそうです。
ナポレオンの没落後、返還されることになりましたが、元に戻すことを強く希望したサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂の力及ばず、ヴェティカンの所有となりました。実はヴァティカンには傑作が多いとは言えないのです。


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現在、ピエタ礼拝堂にはオーストリアの画家Michele Koeck(1760-1825)のコピー画が置かれてます。
出来が宜しくないと思います。


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こちらはカラヴァッジョの作品の写真です。
信者だけではなく、多くの画家を魅了しました。「バリオーネ裁判」など、何かと確執があったジョヴァンニ・バリオーネでさえも、この作品を「カラヴァッジョ作品の中で最高の出来」と言ったそうです。


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こちらは、カラヴァッジョの作品に感銘を受けたルーベンスが制作した作品です。


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余談になりますが、ミラノのサン・マルコ教会にもカラヴァッジョ作品の複製画が置かれてます。


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ミラノのサン・マルコ教会ピエタ礼拝堂にあるカラヴァッジョ作品のコピー画です。
私には、この複製画の帰属等の詳細が分かりません。

(つづく)

足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅱ
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カラヴァッジョには、画家カラヴァッジョに関する博物館などがありませんが、将来的には旧サンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院の建物にオープンさせる計画があるようです。


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ジョヴァンニ23世通りです。


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モンタニェッタ庭園です。


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カラヴァッジョ町の旧城壁の門が見えてきました。


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Porta Nuovaと呼ばれてます。


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門の前に川が流れてます。堀の役目をしていた川?


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門を潜ります。


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門を潜って旧町域内に入りました。


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ペスト禍のミラノを避けて、カラヴァッジョに移住してきたメリージ一家ですが、父フェルモと祖父がその年(1577年)の秋に避難の甲斐もなくペストで死去してしまいました。フェルモ・メリージは、1577年10月20日に亡くなったようです。
働き手を失った母と、異母姉、ミケランジェロを含む5人の子供は困窮したに違いないと思います。父フェルモが仕えてきた主家のカラヴァッジョ侯爵家が未亡人と残された子供たちを援助したようですが、十分ではなかったようです。
しかし、コロンナ家出身のカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの画家カラヴァッジョに対する支持と支援は、終生変わりませんでした。
1584年、13歳になったミケランジェロは、画家を志してカラヴァッジョを離れミラノに行くことになります。


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ミケランジェロは、6歳から13歳までの約7年間、カラヴァッジョで生活したのです。


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画家を志したからには、カラヴァッジョの教会などを巡りながら、宗教画を見て、それらに啓発されたに違いないと思います。


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メリージ一家が住んでいた家が分かりましたが、画家カラヴァッジョに関する具体的なことは一切分かりませんでした。


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町役場に行けば、少しは分かるかもしれないと思いました。


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旧町域内の目抜き通りのローマ通りです。


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サンティ・フェルモ・エ・ルスティーチ教区教会の鐘楼が見えました。


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左折して町役場に向かいました。


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カラヴァッジョの町役場 Palazzo Comunaleです。


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13世紀後半に建設されたPalazzo Gallavresiは、カラヴァッジョ侯爵家の宮殿でした。第二次世界大戦後、個人所有の不動産だった宮殿をコムーネが買収して、修復改造を経て町役場として使用するようになりました。


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町役場内に非常に小さな絵画館が設けられてます。


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Palazzo Gallavresiの柱廊


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Museo Civicoです。


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二コラ・モイエッタ(カラヴァッジョ、16世紀前半活動)の「玉座の聖母子と聖人たち」(1521)
カラヴァッジョのサン・ベルナルディーノ教会にあった祭壇画です。
恐らく画家となるミケランジェロは、この作品を観たことでしょう。


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ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574-ミラノ,1625)の「聖人たちに顕現するキリスト」(1624-25)
画家カラヴァッジョの死後に制作された作品です。


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アンドレア・ランツァーニ(ミラノ、1641-1712)の「イサクの犠牲」
画家カラヴァッジョとは全く世代が異なる作品です。
二コラ・モイエッタの作品以外はミケランジェロが見るはずがない作品ばかりです。


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町役場の人から教えられた「メリージ一家の家」に向かいます。


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ローマ通りの外れにあります。


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タバッキの先にある建物がそうです。


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画家カラヴァッジョの肖像画があるので、直ぐに分かります。


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かなり朽ち果ててます。


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今はどうなっているでしょうか。



作品巡り 1.ローマ、ドーリア・パンフィーリ美術館
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ドーリア・パンフィーリ宮殿です。


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宮殿の中庭


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カラヴァッジョの作品が3点あります。


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このように3点の作品が展示されてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「悔悛のマグダラのマリア」(1593)

カラヴァッジョが没した地について、取り敢えず従来の定説であるポルト・エルコレと表示することにします。
ナポリのフェデリーコ2世大学の教授で、定年後に同大学の名誉教授を務めたヴィンチェンツォ・パチェッリ氏を中心とした研究グループの調査研究によって、教皇庁の暗黙の了解のもとに、マルタ騎士団によってパロ・ラツィアーレの要塞でカラヴァッジョが斬首されたことが明らかにされました。この辺の詳細については、(その33)で触れることにします。
カラヴァッジョが没した地は、パロ・ラツィアーレ(現在の自治区分ではラディスポリのコムーネに属する)です。


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注文主が不明で作品制作の経緯が分からないとされてます。足元に置かれた宝石類の静物画が描かれていて、果物籠に見られる卓越した技量に感嘆です。宝石類の横にある液体が入ったボトルが聖マリア・マッダレーナのアトリビュートである香油壺を示すのでしょう。
この作品は、ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)の死後の1627年に同枢機卿の遺産にあったことが確認されてます。
作品左上の斜光がカラヴァッジョ独特のものと思います。
なお、モデルは、カラヴァッジョが楽しんだ売春婦のアンナ・ビアンキーニ(ローマ、1579c-1604)だったことが知られてます。
1640年、アルドブランディーニ家のオリンピア・アルドブランディーニ(ローマ、1623-1681)がカミッロ・フランチェスコ・マリア・パンフィーリ枢機卿(ナポリ、1622-ローマ、1666)と結婚する際、この作品を持参したことで、パンフィーリ家の所有となり現在に至ってます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エジプトへの逃避途中の休息」(1597c)


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「エジプトへの逃避途中の休息」は、宗教画の定番ともいうべき画題ですが、聖ジュゼッペが掲げる楽譜を見ながら天使がヴァイオリン(多分)を演奏しており、このような着想の作品を観たことがない、非常に斬新な場面構成と思います。演奏している曲は、聖母への讃美歌と言われてます。
聖母マリアのモデルは、前述の売春婦アンナ・ビアンキーニだったと言われてます。
邸宅の壁に飾るために注文されたと思いますが、制作の経緯については諸説あり、その中の一つがピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿の注文による説です。しかし、同枢機卿の遺産目録には、この作品が無いので、同枢機卿の依頼主説は否定されています。
17世紀初めにパンフィーリ家がこの作品を買収しました。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」(1602)


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この作品は、カピトリーノ美術館にある「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の複製と言われてます。
カピトリーニ美術館にある作品は、ローマ貴族チリアーコ・マッテイ(ローマ、1545-1614)が息子ジョヴァンニ・バッティスタの名前に因んで注文したと言われてます。当時、カラヴァッジョは最初のパトロンであるデル・モンテ枢機卿の屋敷を出て、マッテイ家の邸宅に移っていました。
洗礼者ヨハネを示すアトリビュートが一切描かれていないため、近年、この作品の画題は「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」ではなく。「解放されたイサク」説が出されています。
ドーリア・パンフィーリ版は、カピトリーノ作品のカラヴァッジョ自身による複製ですが、その制作された経緯は分からないようです。また、ドーリア・パンフィーリ版以外にも10点の複製画の存在が確認されているそうです。

(つづく)

1私が初めてカラヴァッジョ作品を観たのは、1981年、ローマのバルベリーニ宮の絵画館でした。
当時、私は3か月間のヨーロッパ出張中でした。出張の相手先が色々と気を使ってくれて、週末にも各地を案内してくれて楽しかったのを覚えています。しかし、彼らは週末を犠牲にして、私の相手をしてくれた訳で、甘えてばかりではいけないと思い、自分一人で週末を過ごすことにしたのです。
そうして週末に訪れた都市の一つがローマでした。出張の相手先が予約していたホテルに宿泊したのですが、そのホテルはバルベリーニ広場を見下ろす場所に建っていました。
観光客が良く訪れる所にあちこち行き、歩き疲れてホテルに戻りました。ホテルで小休止していたのですが、折角来たからには有意義に過ごしたいと思い、ホテルのフロントに行き、近くでお勧めの場所を教えて欲しいと尋ねました。そうしたら、バルベリーニ宮の絵画館を勧められたのです。


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当時の私は、美術品が特に好きと言うわけでもなく、偶に訪れる美術館でも印象派の作品ばかりを見ていました。
イタリアの芸術家では、ルネサンスの三巨人くらいしか知りませんでした。日本の美術教育の欠陥を諸に受けていた訳です。ましてカラヴァッジョと言う画家については。


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第20室に入って、この作品を一目見るなり、衝撃を受けました。(当時、第20室にあったかどうかは定かではありません)


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カラヴァッジョと言う画家の作品であることが分かりました。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ホロフェルネスを斬首するユディト」(1602c)


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斬首されようとするホロフェルネス、眉間に皺を寄せて嫌悪感丸出しで斬首しようとするユディト、その横で首を入れる袋を持ちながら惨劇を目にする老婆の強烈な写実描写に衝撃を受けました。


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刃が首の半分まで入っているので、ビー玉のような眼は瞬殺されたことを示しているように見えます。


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画面から目を離すことが出来ませんでした。作品を凝視すること、30分ほど。
多少は目にしていた普通の宗教画とは全く違っていました。


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「ユディト」が強烈過ぎて、この時は「聖フランチェスコ」については、よく覚えてません。


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「ナルキッソス」は、実像と水辺に映る姿の完璧なシンメトリーに驚かされました。
かくして、カラヴァッジョへの興味が掻き立てられることになったのです。


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三か月の出張で、この後、ロンドンのナショナル・ギャラリーに行きました。カラヴァッジョ作品を求めて。


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ロンドンでは、3点のカラヴァッジョ作品を観ることが出来ました。
「エマオの晩餐」


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「トカゲに噛まれた少年」


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「サロメ」


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その時の三か月出張では、ウィーンにも行きました。この時の演目はモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」でした。


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ウィーンでは、美術史美術館にも行きました。カラヴァッジョ作品があるとは確実なことは分かりませんでしたが、多分あるだろうと期待していました。
4点のカラヴァッジョ作品がありました。今では真作が3点とされてます。


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「荊刑のキリスト」


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「ダヴィデ」


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「ロザリオの聖母」

その後、数多くのアメリカ、ヨーロッパ出張の折には、機会を見つけてはカラヴァッジョ作品を求めて各地の美術館を回りました。
今と違って、得られる情報には限度があったので、それこそ手探り状態で作品巡りを行ったのです。
私の現役生活が終わりに近づくにつれ、カラヴァッジョの足跡を辿る旅がしたいと思うようになりました。



足跡を辿って 1.ミラノ
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ミラノのサント・ステファノ聖堂です。


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以前から度々訪れていた教会ですが、カラヴァッジョの洗礼記録が発見されてからは、カラヴァッジョの足跡を辿る旅に置いて、最初に訪れるべき場所になりました。
私がカラヴァッジョ・ファンになった頃、カラヴァッジョの生地はカラヴァッジョ説が有力で、ミラノかも知れないとされていました。
しかし、この教会で1571年9月30日に洗礼を受けた記録が発見され、ミラノ生まれが確定したのです。乳児の死亡率が高かったので、生まれてから直ぐに洗礼を受ける習慣があったそうです。聖ミケーレの日の9月29日生まれが有力とされてます。
画家カラヴァッジョは、長男でしたが、その母は後妻であり、前妻が産んだ姉がいました。


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カラヴァッジョとは関係ありませんが、サント・ステファノ聖堂は、ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(フェルモ、1444‐ミラノ、1476)が1476年12月26日に暗殺されたことで有名です。


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サント・ステファノ聖堂の内部で暗殺されたのです。


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ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ公爵は、ルネサンスの女傑カテリーナ・スフォルツァ(ミラノ、1463c-フィレンツェ、1509)の父(父と言っても強姦しての父親です!)としても有名です。


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洗礼を受けたからには、聖堂近くでカラヴァッジョが生まれたことは確実です。


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という事で、教区付近をあちこち歩いてカラヴァッジョの生地を探しました。


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これは徒労に終わりました。全く見つからず、痕跡すらも分からない。
メリージ一家がカラヴァッジョに移住する1577年まで、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョはミラノで生活しました。
画家カラヴァッジョがミラノを離れるまでに、弟二人と妹が生まれました。メリージ家は、画家となるミケランジェロ、異母姉を含めて5人の子供がいたことになります。


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1577年、ミラノではペストが大流行してました。当時のミラノ大司教カルロ・ボッロメーオがペスト罹患者を支援、介護したことから、「サン・カルロのペスト」と呼ばれてます。



足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅰ
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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの父フェルモ・メリージは、カラヴァッジョ侯爵フランチェスコ1世・スフォルツァ・ディ・カラヴァッジョに仕える執事でしたが、建築家でもあり石工(煉瓦職人)も兼ねていたとされてます。
1577年、ペスト禍のミラノを避けて、フェルモ・メリージ一家はカラヴァッジョに避難、移住したそうです。
カラヴァッジョ駅に到着しました。カラヴァッジョには3回行きました。


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カラヴァッジョ駅の駅舎


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駅からカラヴァッジョの中心に向かう道


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中心に向かう途中にサン・ベルネルディーノ教会があります。


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修道院が併設されていました。


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別称サンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院でした。


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修道院だった建物は地元警察署として使用されてます。


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キオストロ
(つづく)

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