イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:エミリア・ロマーニャ州 > ルーゴ

P1480646写真右の建物はPavaglioneです。


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マドンナ・デル・カルミネ教会の左外壁沿いに進みます。


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ルーゴで最も格式が高い教会に向かいます。


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道路は清掃されて綺麗です。これが南イタリアに行くと違います。


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ルーゴで最も格式が高い教会はCollegiataです。聖堂参事会が管理する教会のことです。


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バラッカ通りです。


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大半の街では、最も格式が高い教会がドゥオーモと呼ばれてますが、ルーゴではドゥオーモと呼ばれている教会がないようです。


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尤も南イタリアに行くと、ドゥオーモと呼ばれている教会が複数存在する街が幾つかあるので、ドゥオーモと呼称する定義がよく分かりません。


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右折すれば参事会教会に出ます。


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参事会教会が見えてきました。


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サンティ・フランチェスコ・エ・イラーロ参事会教会です。
1233年、フランチェスコ会修道士が初めてルーゴに訪れましたが、その直後から当時の城壁外の現在地に修道院建設が開始され、1238年に完成したサン・フランチェスコ修道院教会の複合施設が前身です。
1438年、ルーゴの市当局はサン・フランチェスコ複合施設を城壁内に取り込むと共に、市壁の拡張を決定しましたが、それに伴い1471年に修道院回廊が追加されました。その回廊は、城塞に次いでルーゴに現存する最古の建物となってます。
18世紀中頃になると、建物の経時劣化が顕著となったので、建物の再建が決定されました。そうして、イーモラの建築家フランチェスコ・コジモ・カッシアーノ・モレッリ(イーモラ、1732‐1812)が起用され、1760年に最初の建物が取り壊され、モレッリの設計によって、その上に1762年から1772年に建設された2番目の建物が現在の姿となってます。


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残念ながら教会の扉が閉まっていました。しかし、修道院回廊は開いていました。


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回廊へと続く通路の壁にある浮彫(詳細不知)


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18世紀のもの


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修道院回廊に出ました。


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回廊から見た鐘楼


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回廊の壁に描かれたフレスコ画(15世紀)
回廊の壁はフレスコ画で覆われていたそうですが、現存するのはこの断片だけです。


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19世紀のもの


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回廊に囲まれたキオストロ


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キオストロにある古井戸


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修道院回廊から外に出ました。


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参事会教会の拝観もルーゴに来た目的の一つでしたが、教会の中に入れず残念でした。


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夕暮れを迎えていました。


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大体見終わったと思ったので、駅に向かいました。


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実はロッシーニ劇場に行くのを忘れていました。ロッシーニ劇場はルーゴで重要な見所の一つです。


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電車の時刻は予め調べていたので、発車まで時間がたっぷりあり、ブラブラ歩きで駅に向かいました。


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この道の先に駅があります。


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駅が見えてきました。


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ルーゴ駅です。
(ルーゴ編 おわり)

P1480596広場の突き当りにあるのは、サントノフリオ祈禱所です。


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一見、教会のファサードに見える建物があります。


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教会ではなく共同住宅です。


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次はマドンナ・デル・カルミネ教会です。


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マドンナ・デル・カルミネ教会です。ルーゴの守護聖人聖イラーロの聖遺物が納められてます。


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1480年、カルメル会の修道士によって建設された修道院と教会の複合施設が前身です。1526年に聖イラーロの聖遺物が納められたことからサンティラーロ教会と呼ばれるようになりました。


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1480年創建の建物が荒廃したので、18世紀に取り壊して、その上に新しい建物が建設されることになりました。地元の建築家フランチェスコ・アンブロージョ・ペトロッキの設計によって、1748年に着工、1772年に完成した建物が現在の姿となってます。2代目の建物にはマドンナ・デル・カルミネ教会と名付けられましたが、今でもサンティラーロ教会とも呼ばれてます。


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毎日開く教会なので拝観し易いと思います。


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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右側壁


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中央礼拝堂へと進みました。


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新古典様式の柱が目立ちます。


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柱頭の装飾


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こちらのオルガンは普通です。


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中央礼拝堂


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後陣の装飾


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後陣天井のフレスコ画は、ピッコーラ・オルシの「カルミネの聖母」
ピッコーラ・オルシという画家については全く知りません。


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主祭壇


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詳細不知の「聖母子」


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高名なオルガン制作者ガエターナ・アントニオ・カッリートによって制作されたオルガンです。


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ロッシーニが演奏したことで有名なオルガンです。


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主祭壇前から見たカウンターファサード方向


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16世紀の逸名画家作「受胎告知」


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教会内の聖人の彫刻が全部で12体あります。


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制作者など詳細不知です。


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詳細不知


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17世紀の逸名画家作「栄光の聖イラーロ」


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詳細不知の「聖イラーロ」


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サロモーネ・デ・グラッシの「カルミネの聖母」(14世紀末)
サロモーネは、ジョヴァンニーノ・ダ・グラッシ(ミラノ、1350c-1398)の息子です。父に師事したとされており、サロモーネの画風は父にそっくりです。ただ、父と違って、サロモーネの生涯がよく分かっていない謎の画家とされてます。


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グイドッチョ・ダ・イーモラ(イーモラまたはフェッラーラ、1425/1430‐イーモラ,1510)の「カルミネの聖母」(1481)


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「カルミネの聖母と聖イラーロ」のステンドグラス


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詳細不知


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外に出ました。
(つづく)

母が他界して暫く多忙です。落ち着くまでブログ更新を中断します。(2023年11月12日 追記)
P1480573引き続きエステンセ城塞です。


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緑の部分はかって堀であり、城塞の入り口前に跳ね橋があったそうです。


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名残の跳ね橋を思わせる通路を通ってエステンセ城塞内に入ります。


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城塞の入り口


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城塞の中庭
城塞はルーゴ市役所になってますが、その一部は博物館として公開されてます。


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銘板の数々


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絵画はなかったと思います。


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かって堀があった場所


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エステンセ城塞から外に出ます。


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次はPavaglioneです。


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Pavaglioneの中に入りました。
私の知る限りPavagolioneというイタリア語はないと思いますが、建設された当初はPadiglione(イタリア語でパビリオンという意味)と呼ばれましたが、建物の柱廊玄関が蚕の繭市場で有名となったので、「Padiglione de folicelli da seta(蚕のパビリオン)」と呼ばれ、次に「Paviglione」と呼ばれるようになり、やがて、恐らく18世紀後半頃から「Pavaglione」と呼ばれるようになったそうです。


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Pavaglioneは、各辺約100メートルの四柱廊(面積約1ヘクタール)から成ってます。


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四柱廊に囲まれた部分はマッツイーニ広場と呼ばれてます。


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元々、この場所はエステンセ城塞の一部でしたが、エステ家直系の最後のフェッラーラ公爵アルフォンゾ2世・デステ(フェッラーラ、1533-1597)の命によって、年に一度の見本市と週毎に開かれる市場を建設するために、1570年城塞の一部を解体しての工事が着工されました。
最初に建設されたロッジャは、民兵のための避難休息所、毎週の開市日に商人の避難休息所を提供することが目的でしたが、軍事機能が優先されました。
しかし、アルフォンゾ2世・デステ公爵が死去した翌年の1598年に、フェッラーラ公国は教皇領に戻りましたが、それに伴ってルーゴの軍事的機能が必要性が徐々に薄まると共に、ロッジャは商業的機能が優先されるようになりました。


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蚕と繭取引の増大に伴って、一つの柱廊ではスペース不足が深刻となりました。1780年、ルーゴ市議会は柱廊の増設を決定し、1784年に増設工事が完了して現在の姿になりました。
Pavaglioneは、今も完全に機能しています。


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1895年に設置された時計が柱廊玄関にあります。


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(つづく)

1次はRocca Estense エステンセ城塞です。


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ルーゴの要塞の起源についてはよく分かっていないそうですが、ラヴェンナ大司教区の修道院によって10世紀頃に今の場所の南に建設されたと推定されてます。


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最初の要塞は1037年の文書にCastrum(軍事防衛拠点の意味)と記載されたそうです。
1202年、ラヴェンナ大司教によってCastrumは増築され防衛機能が強化されました。しかし、その僅か16年後の1218年、ラヴェンナ大司教区の封建領主クニオ伯爵家は、クレモナ領主と同盟を結んで、ルーゴは彼らによって征服され、Castrumは破壊されてしまいました。
その後、ルーゴ要塞は13世紀に何度か再建、破壊を繰り返しました。1296年、クニオ伯爵家の居城であるルーゴ要塞は徹底的に破壊され、要塞があった場所は瓦礫だらけの平地となりました。
14世紀になると、ロマーニャ・ギベリン家、ボローニャ、ミラノのヴィスコンティ家と次々と支配者が変わりましたが、1376年にフェッラーラのエステ家の支配下に置かれ、現在の場所にRoccaが築かれました。しかし、エステ家の支配は長続きせず、ルーゴは混乱に巻き込まれました。
1437年、エステ家は教皇庁からルーゴを購入して、再び支配者となりました。エステ家の統治下、ルーゴはロマーニャにおけるエステ家支配地で最も重要な商業の中心地となりましたが、その防衛のためにエステンセ城塞は整備増強されました。現在の外観は、16世紀頃の姿が原形となってます。
1598年、エステ家直系が断絶すると、フェッラーラ公国は教皇庁領に組み入れられましたが、それと共にルーゴ防衛力の必要性は徐々に低下して、エステンセ城塞はその機能を失うことになりました。


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1830年代に司法事務所と郵便局を造るために改造された建物です。


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1860年、城塞は市庁舎に転用されることになりました。市庁舎になってからも、改造された建物に司法事務所と郵便局が置かれたままでしたが、19世紀末に移転して、改造された建物も市庁舎として使用されるようになり現在に至ってます。


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市庁舎の入り口


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城塞の外を一周します。


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城塞の北側に出ました。


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城塞の北側にガリバルディ広場があります。


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ガリバルディ広場


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ガリバルディ広場は駐車場になってます。


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城塞の東側です。


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東側はマッジョーレ広場と呼ばれてます。


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北東にある塔


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ガリバルディ将軍が演説したバルコニーがあります。


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1859年にガリバルディ将軍が演説したことを示す銘板


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城塞の南側に進みます。


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マッジョーレ広場から見た塔


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カヴール広場角にあるサン・ジミニャーノ・エ・サン・プロスぺロ銀行ルーゴ支店の建物です。同銀行の本店はヴェローナにあります。


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城塞の南側の西端です。


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マルティーニ広場です。


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写真右側の建物はPavagolioneです。


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(つづく)

1次はChiesa del Suffragio スッフラージョ教会です。suffragioとは、代祷、祈りという意味です。


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この場所に、12世紀の記録にその存在が記載されているサン・ジュゼッペ祈祷所がありましたが、それが前身とされてます。


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サン・ジュゼッペ祈祷所は1620年に解体され、その上に1620年から1628年に建設されたマドンナ・デッラ・ネーヴェ教会が二代目です。


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二代目の建物はは1719年から1721年に改造され、現在の姿となりましたが、その改造を機に教会の名称がスッフラージョッ教会に変更されました。


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ファサードの彫刻は、ジョヴァン・バッティスタ・バランティ・グラツィアーニ別称グラツィアーニ・ダ・ファエンツァ(ファエンツァ、1762-1835)とグラツィアーニ工房によって制作されました。


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グラツィアーニ・ダ・ファエンツァと彼の工房による作品です。


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教会内に入りました。


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三廊式、バロック様式の内部です。


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右側廊


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Presebiterio


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中央礼拝堂


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主祭壇画を観ます。


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主祭壇画は、ベネデット・ダル・ブオーノ(ルーゴ、1711-1775)の「聖家族と聖ミケーレ」


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詳細不知の「聖母子」


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右側廊


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後陣右礼拝堂


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バルトロメオ・スケドーニ(モデナ、1578-パルマ、1615)の「聖母戴冠」
画家として有名なバルトロメオ・スケドーニの珍しい彫刻です。


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右側廊から見た内陣中央方向


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後陣右礼拝堂の天井


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後陣右礼拝堂天井のフレスコ画(詳細不知)


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左側廊


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左側廊から見た内陣中央方向


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詳細不知の「聖母子と聖人たち」


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後陣左礼拝堂


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チェーザレ・ルイーナの「無原罪の御宿りと聖フランチェスコ」(1874)


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イグナツィオ・スターン(オーストリア、1679-ローマ、1748)の「聖ジュゼッペの死」


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イグナツィオ・スターン(オーストリア、1679-ローマ、1748)の「聖アンナの死」


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中央礼拝堂から見たカウンターファサード方向


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カウンターファサードにオルガンがあります。


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外に出ました。


34
(つづく)

1Piazza Trisiです。


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トリージ広場に面して建つのは18世紀に建設されたOratorio di Sant’Onofrioです。


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サントノフリオ祈祷所は平日には開いていないようです。(この日は平日でした)


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サントノフリオ祈祷所前から眺めたPiazza Trisiです。


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この辺が旧市街の中心です。


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18世紀後半に建設されたPavaglioneです。
古くからイタリアでは絹織物が大変好まれました。蚕、繭、絹織物の市場として、イタリアで最も栄えていた市場がルーゴのPavaglioneでした。しかし、19世紀後半になると東洋から輸入された絹織物に対して、コスト的に太刀打ち出来なくなって、ルーゴのPavaglioneは廃れてしまいました。


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通りの名称がこの辺でVia BaraccaからLargo Relenciniに変わります。


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ドゥオーモの後陣です。


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Rocca Estenseの方に進みました。


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Rocca Estenseが面したPiazza dei Martieriです。


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中世の頃、ルーゴはエステ家の支配下にありました。ルーゴの歴史的建造物の多くはエステ家治世の時代に建設されました。


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広場に中心に立つのは、1936年に制作されたフランチェスコ・バラッカのモニュメントです。
フランチェスコ・バラッカ(1888-1918)は、ルーゴ伯爵エンリコ・バラッカの息子で地元の英雄です。第一次世界大戦当時、イタリア空軍のエースパイロットでしたが、フランチェスコが操縦していた戦闘機が爆撃され不時着したのですが、その際、捕虜の身になることを恥じて拳銃で自決したのです。


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Pavaglioneは、バラッカ広場にも面してます。


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エステ家によって建設された城です。


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Rocca Estenseの建物は市役所として使用されてます。


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Pavaglioneは大きな建物です。中に入ることが出来ますが、入るのは後回しにしました。


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ローマ銀行です。


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Piazza Baraccaから見たPiazza dei Martieriです。


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写真左はChiesa del Suffragioです。


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この後、Chiesa del Suffragioの拝観をしたのですが、それについては(その3)で触れることにします。


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リベッタ通りです。


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ここから少し離れた場所にあるサン・ジャコモ教会とロッシーニの家に向かいます。


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サン・ジャコモ教会です。


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ロッシーニの家です。


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ロッシーニの家は、オペラ作曲家ジョアッキーノ・アントニオ・ロッシーニ博物館となってます。
作曲家ロッシーニ(ペーザロ、1792-パリ、1868)はルーゴと直接関係がありませんが、彼の父ジュゼッペ・ロッシーニがこの家を建設して。ジョアッキーノの生まれる前に住んでいました。
観光資源が少ないルーゴなので、有名なロッシーニ博物館にしたようです。


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ロッシーニ博物館の内部


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見るべきものが乏しいと思います。


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34
(つづく)

1この日、イーモラで3泊4日した時の中日でしたが、ルーゴへの日帰り遠足をしました。


2
ブリジゲッラの観光案内所に行った時に、ブリジゲッラ近郊のお勧めの街として紹介を受けたのが、バニャカヴァッロとルーゴでした。その際、二つの街の地図と観光案内書を貰ったのでした。中々、行く機会が無かったのですが、漸く、この日、ルーゴへの日帰り遠足が実現したというわけです。


3
イーモラ駅に向かいました。


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イーモラ駅です。イーモラはピアチェンツァからアンコーナを結ぶ幹線上にあります。


5
ルーゴに行くには、イーモラとラヴェンナを結ぶ支線上に駅があるので、鉄道利用が便利です。


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イーモラ始発ラヴェンナ行きの普通列車は空いていました。


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ルーゴ駅に定刻に到着しました。


8
ルーゴは、人口31,981人(2023年5月31日現在)のエミリア・ロマーニャ州ラヴェンナ県にあるコムーネです。同名の都市が他にあるので、区別するためにルーゴ・ディ・ロマーニャとも呼ばれてます。


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ルーゴ駅は有人駅です。


10
駅前広場


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Viale Rosini


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Viale Rosiniを進んで旧市街に向かいました。


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Viale RosiniとViale Manzoniとの交差点です。


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Viale Rosiniをさらに進みました。


15
Piazzale Carducciです。


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地図を持っていましたが、何時ものように地図を見ないで勘を頼りに街の中心を目指しました。


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教会が見えてきたので、勘が当たったようです。


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地図を見て、参事会教会の後陣と分かりました。


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ルーゴは多分独立した司教区になっていないと思ったので、参事会教会がドゥオーモでしょう。


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この時間は通常教会の扉が開いていることが稀なので、拝観を後にして先を急ぎました。


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イーモラは、この日の午前中大雨でしたが、ルーゴもかなりの降雨があったと思いました。


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人通りが非常に少なかった。


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写真右のバールで一休みしました。


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写真右は、サントノフリオ(聖オノフリオ)祈祷所(オラトリオ)だった建物で、現在は小学校になってます。


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Via Fratelli Cortesi


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Via Fratelli Cortesiの突き当りを右折してVia Baraccaに入りました。


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旧市街の中心はもうすぐです。


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古来ブドウ栽培が主産業のルーゴでしたが、中世から近世にかけて蚕の育成と絹織物で非常に栄えました。


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Rocca Estenseが見えてきました。


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写真左の建物はカルミネ教会です。


34
(つづく)

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