イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:トスカーナ州 > ピストイア

1大体見終わりました。


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ホテルに向かいました。


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預かって貰っていた荷物を受け取ります。


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ドゥオーモ広場はスキップです。


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チーノ通りです。


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荷物を引いて駅に向かいます。


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城壁です。


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城壁の外に出れば、駅は直ぐ傍です。


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駅に到着しました。


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列車に乗車して次の目的地に向かいました。


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次の目的地はプラートでした。
(ピストイア編 おわり)

1大体見終わったと思ったのですが、重要な教会に行くのを忘れていました。


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マドンナ通りを目指します。


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大きなクーポラが目印です。


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迷うことはありません。


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クーポラが見えてきました。


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マドンナ通りに入りました。


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マドンナ・デルミルタ聖堂です。


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サンタ・マリア・デルミルタ聖堂とも呼ばれてます。


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この場所にはサンタ・マリア・フォリスポルタエ教会がありました。サン・マリア・フォリスポルタエ教会の歴史は古く、創建は8世紀に遡ると伝えられてますが、12世紀に教会税の記述が初めて記録されたそうです。
15世紀になると、建物の荒廃が進み、廃教会同然になってしまいました。
1490年、サンタ・マリア・フォリスポルタエ教会の「授乳の聖母」のフレスコ画の聖母から透明な液体が滲みだし、信者から崇拝を集めました。


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そのことを聞いたロレンツォ・デ・メディチは荒廃したサンタ・マリア・フォリスポルタエ教会を取り壊し、その上に新しい建物を建設して、奇跡を産んだ「授乳の聖母」のフレスコ画を収容して聖域とするように指示しました。
直ぐにコンペが行われ、コンペの結果、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(フィレンツェ、1445-1516)が起用され、ジュリアーノの設計によって1495年に再建工事が着工されました。1568年に完成したルネサンス様式の建物が現在の外観となってます。
1568年、奉献式が行われ、Santuario di Madonna dell’Umiltaとなりました。
また、奇跡のフレスコ画は1579年にSantuarioに移され、主祭壇画として現在も見ることが出来ます。
1931年、Basilica Minoreに格付けされました。


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直径約25メートル、高さ約59メートルのクーポラは、トスカーナ大公コジモ1世がジョルジョ・ヴァザーリ(アレッツォ、1511-フィレンツェ、1574)に注文して建設させたものです。


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この後、直ぐに扉が開きました。


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八角形、ルネサンス様式の内部です。


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八角形のクーポラ


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天井の装飾


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主祭壇


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1490年、奇跡が起きた「授乳の聖母」のフレスコ画が主祭壇画です。


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ジョヴァンニ・トスカーニ(フィレンツェ、14世紀後半-1430)の作と伝えられる「授乳の聖母」(1382)


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各礼拝堂の祭壇画を観ます。


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ラッザーロ・バルディ(ピストイア、1624-ローマ、1703)の「エジプトへの逃避途中の休息」(1665)


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アレッサンドロ・フェイ(フィレンツェ、1543-1592)の「受胎告知」(1586)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(フィレンツェ、1535-1591)の「聖母被昇天」


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フランチェスコ・ヴァンニ(シエナ、1563-1610)の「マギの礼拝」(1605)


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ピエトロ・ソッリ(サン・グズメ、1556‐シエナ、1603)の「羊飼いの礼拝」(1603)


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フレスコ画もあります。


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(つづく)

1修復中の洗礼堂前を通り過ぎます。


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次はチェッポ病院です。


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Palazo Panciatichiです。


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Palazzo del Baliとも呼ばれてます。


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キオストロが有名です。


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キオストロは公開されてます。


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夕方近くなって人出が増えてきました。


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朝から動き過ぎで足腰が疲労気味でした。


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この通りの先にチェッポ病院があります。


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何となく嫌が感じが・・・・・


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タベルナコロを見ます。


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聖母子のタベルナコロ


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チェッポ病院にやってきました。


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予感的中です。病院の外壁が修復工事中です。これではお目当ての彩釉テラコッタを見ることが出来ません。


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1277年にCompagnia di Santa Maria、別称Compagnia del Ceppo dei Proveriによって設立された病院であることが1286年の文書に記載されているそうです。


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この時に観ることが出来た彩釉テラコッタはサイドドアのルネッタだけでした。


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ベネデット・ブリオーニ(フィレンツェ、1461-1521)の「聖母戴冠」(1512)


P1180670
病院の出入り口です。今も現役の病院です。


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修復中では仕方がないので、別の時の写真を載せましょう。


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ロッジャです。


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ロッジャの壁が彩釉テラコッタで装飾されてます。


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チェッポ病院の最大の見どころはロッジャの彩釉テラコッタと言えるでしょう。


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ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1468-1529/1530)と工房によって1525年に制作されました。


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(つづく)

1市立博物館の最終回です。


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主に近代画、現代画が展示されている展示室です。


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フランチェスコ・キアペッリ(ピストイア、1890-フィレンツェ、1947)の「黄色の服を着た女性」(1926)


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エンリコ・ポッラストリーニ(リヴォルノ、1817-フィレンツェ、1876)の「アレッサンドロ・デ・メディチ公爵の死」(1840)


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ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場でのロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)の暗殺」(1840)
この作品の前に紹介したエンリコ・ポッラストリーニの作品はメディチ家の衰退を象徴する2つの暗殺事件を描いてます。
1537年、ロレンザッチョは従兄弟でトスカーナの支配者アレッサンドロ・デ・メディチ公爵を暗殺しましたが、その報復として、ロレンザッチョは1548年にヴェネツィアで暗殺されてしまいました。ロレンザッチョの暗殺を命令したのは、長らくコジモ1世と信じられてきましたが、近年、研究が進んでカール5世の命令によって暗殺されたことが分かりました。


5
ジュリオ・ピアッティ(フィレンツェ、1816-1872)の「シチリア晩鐘戦争の発端」(1839)


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ピストイアの逸名画家による「サン・フランチェスコ広場」(18世紀)


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リッカルド・マーニ(イタリア、1886-アメリカ、1964)の「静物画」(1927)


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ニコラス・ディディエ・ボゲ(フランス、1755-ローマ、1839)の「人物がいる風景画」


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アンジョーロ・ロレンツィ(ピストイア、1908-1945)の「La Fontana」(1932)


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ピエトロ・ウリーヴィ(ピストイア、1806-1880)の「カストルッチョの剣を受け取るヴィットリオ・エマヌエーレ2世」


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展示作品数が多過ぎて作品全部の紹介が出来ません。


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ピストイアの逸名画家によって14世紀末に描かれたモノクロのフレスコ画


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ルイージ・マッツェイ(ピストイア、1882-1968)の「サン・ロレンツォ広場」(1932)


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この辺で終わりにしましょう。


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外に出ました。


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丹念に見て回ったので時間がかかりました。


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流石に疲れました。


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もう夕方です。


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市庁舎


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(つづく)

1フランチェスコ・グラツィアーニ通称チッチョ・ナポレターノ(ローマ、ナポリで17世紀後半活動)の「戦闘」(17世紀後半)


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フランチェスコ・グラツィアーニ通称チッチョ・ナポレターノ(ローマ、ナポリで17世紀後半活動)の「戦闘」(17世紀後半)


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フランチェスコ・グラツィアーニ通称チッチョ・ナポレターノ(ローマ、ナポリで17世紀後半活動)の「戦闘」(17世紀後半)


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ピストイアの逸名画家による「聖ヤコポ」(18世紀)


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ピストイアの逸名画家による「聖アットー」(17世紀)


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フランチェスコ・ディ・アレッサンドロ・レオンチーニ(ピストイア、1590-1647)の「聖イーヴォと信者たち」(1647)


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ニッコラ・モンティ(ピストイア、1781-1864)の「ジュリオ・ロマーノ作『寓意画』のコピー画」(1790-1810c)


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ルイージ・サバテッリ(フィレンツェ、1772-ミラノ、1850)の「ゼノビアを殺そうとするラダミスト」


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ルイージ・サバテッリ(フィレンツェ、1772-ミラノ、1850)の「ラダミスト」


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チェッコ・ブラヴォー(フィレンツェ、1601-インスブルック、1661)の「羊飼いとエルミニア」(1659c)


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アントニオ・ベルトーリ(フィレンツェ、1829-1842活動)の「フィレンツェ軍指揮者フランチェスコ・フェッルッチの死」(1838)


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フランチェスコ・ガンドルフィ(キアヴァーリ、1824-ジェノヴァ、1873)の「バリック少年団」(1845c)


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エッチングの展示室です。


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(つづく)

1フランチェスコ・モンティ(ブレーシャ、1646-パルマ?、1712/1713)の「戦闘」(17世紀末)


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フランチェスコ・モンティ(ブレーシャ、1646-パルマ?、1712/1713)の「戦闘」(17世紀末)


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ジュゼッペ・ガンバリーニ(ボローニャ、1680-1725)の「日常のシーン」(1710-20c)


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ジュゼッペ・ガンバリーニ(ボローニャ、1680-1725)の「二人の修道士へのお布施」(1710-20c)


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トスカーナの逸名画家による「祭壇」(17世紀末‐18世紀初頭)


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ジョヴァン・バッティスタ・ヴォルピー二通称スカラブリーノ(ピストイア、1489-1561?)の「聖母戴冠」(1529-30)


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メディチ家の紋章


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銘板


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セバスティアーノ・ヴィーニ(ペシーナ、1515c-ピストイア、1602)の「キリストの死」(1554)


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Maestro della Maesta Civica di Pistoiaの「玉座の聖母子と天使たちと聖人たち」(1345-50c)


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聖母子のタベルナコロ(1397-1428)


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市庁舎の建物の内部にあるタベルナコロです。


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(つづく)

1セラミック類の展示です。


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イタリアでは博物館、美術館の区別がなくてMuseoと表示されます。絵画などを主に展示しているとPinacotecaと呼ばれることが多いと思います。(pinacoteca=絵画館)


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時計も展示されてます。


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ボローニャの逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


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ボローニャ派逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


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ボローニャ派逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


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ボローニャ派逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


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フランドルの逸名画家による「海の風景」(1690-1700)


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フランドルの逸名画家による「海の風景」(1690-1700)


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(つづく)

1サン・マルコ派逸名画家による「聖アントニーノの施し」(1515c)


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サン・マルコ派とはヴェネツィア派のことでしょうか?


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サン・マルコ派逸名画家による「聖アントニーノの奇跡」(1515c)


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ピストイアの逸名画家による「聖ヤコポ」(18世紀)


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ルイージ・クレスピ通称ロ・スパーニョレット(ボローニャ、1708-1779)の「カヴァリエール・ランフレード・チェッレージの肖像」(1732)


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アンドレア・ミケロッツィの「マッダレーナ・ブルノッツィ・プッチーニの肖像」(1843c)


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ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「エロとレアンドロ」(1637)


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フィレンツェの逸名画家作「大天使聖ミケーレ」(17世紀第2四半世紀)


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逸名画家作「光悦の聖フランチェスコ」(17世紀)


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逸名画家作「嘲笑されたキリスト」(17世紀)


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ピストイアの逸名画家による「聖ヤコポ」(18世紀)


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アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407記録)に帰属する「受胎告知される聖母」(1370-80c)


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アレッサンドロ・ロージ(フィレンツェ、1627-1697)に帰属する「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1660-70c)


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アレッサンドロ・ロージ(フィレンツェ、1627-1697)に帰属する「聖セバスティアーノ」(1660-70c)


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ベネデット・ルーティ(フィレンツェ、1666-ローマ、1724)の「受胎告知」(1710-16)


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カルロ・サラチェーニ(ヴェネツィア、1579-1620)?の「聖母子」(1610c)


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ピストイアの逸名画家による「ピストイアの街を守護する聖ヤコポ」(17世紀)
(つづく)

1トスカーナの逸名画家による「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(17世紀前半)


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ジュスト・スステルマンス(アンヴェルサ、1597-フィレンツェ、1681)に帰属する「紳士の肖像」(1630-40c)


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テオドーロ・マッテイーニ(ピストイア、1753-ヴェネツィア、1831)の「シピオーネ・デ・リッチの肖像」


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トスカーナの逸名画家による「ジュゼッペ・プッチーニの肖像」(17世紀)


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トスカーナの逸名画家による「若い女性の肖像」(16世紀後半)


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トスカーナの逸名画家による「クリスティーナ・コルテージ・プッチーニと娘の肖像」(17世紀)


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フィレンツェの逸名画家による「若い女性の肖像」(17世紀中頃)


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ピエール・ダンディーニ(フィレンツェ、1646-1712)の「トンマーゾ・プッチーニの肖像」(1705)


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逸名画家による「カルロ・マラッタ作『教皇クレメンテ9世の肖像』の複製画」(1669c)


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二コラ・モンティ(ピストイア、1781-1864)の「ロレーヌのフェルディナンド3世の肖像」


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アントン・ラファエル・メングス(チェコ、1728-ローマ、1779)の「フランチェスコ・サヴェリオ枢機卿の肖像」(1773-74)


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ルイージ・クレスピ(ボローニャ、1708-1779)の「カヴァリエール・ランフレード・チェッレージの肖像」(1732)


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ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「イサベッラ・パッセリーニ・プッチーニの肖像」(18世紀後半)


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ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「手紙を持つ紳士の肖像」(18世紀後半)


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ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「フランチェスコ・ブルノッツィの肖像」(18世紀後半)


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ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「エリザベッタ・チェンティ・ブルノッツィの肖像」(18世紀後半)


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ジュゼッペ・チアランフィ(ピストイア、1838-フィレンツェ、1902)の「ジュゼッペ・ティーリの肖像」(1860-80c)


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ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「ニッコロ・プッチーニの肖像」(1843)


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ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「マッダレーナ・ブルノッツィ・プッチーニの肖像」(1843)


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ギルバート・スチュアート・ニュートン(カナダ、1795-ロンドン、1835)の「ニッコラ・モンティの肖像」(1817)


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ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「紳士の肖像」(1651c)


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アントニオ・プッチネッリ(カステルフランコ・ディ・ソット、1822-フィレンツェ、1897)の「女性の肖像」(1850-80c)


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逸名画家による「男の肖像」(1840c)
(つづく)

30ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(フィエゾレ、1537c-フィレンツェ、1591)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1570-80)


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ジョヴァンニ・マリア・ブッテーリ(フィレンツェ、1540/1550-1606)の「玉座の聖母子と四聖人(聖セバスティアーノ、聖ジョヴァンニ・グゥアルベルト、聖ロッコ、パドヴァの聖アントニオ)」(1596c)


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ジョヴァンニ・グイディの「聖母子と聖人たち」(1341)


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チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「若い男の肖像」(1592c)


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一部にグイド・レーニ作品説があるようです。


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マッティア・プレティ(タヴェルナ、1613-マルタ、ヴァレッタ、1699)?の「スザンナと長老たち」


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マッティア・プレティの帰属作品説もあります。


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ピストイアの逸名画家による「クリストファノ・アッローリ作『聖母子』のコピー画」(17世紀)


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申し訳ありません。


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逸名画家による「ベルナルディーノ・ルイーニの『アレッサンドリアの聖カテリーナ』のコピー画」(19世紀)


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(つづく)

1チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「コレッジョ作『アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚と聖セバスティアーノ』のコピー画」(1591-92c)


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Maestro di Francoforteの「聖母子と音楽天使たちの三連画」(1500-15c)


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聖バルトロメオと注文主


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裏面にも描かれてます。


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聖クリスティーナと注文主


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裏面


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ジョヴァンニ・ディ・バルトロメオ・クリスティアーニ(ピストイア、1366-1398消息)の「玉座の聖母子と音楽天使たち」(1390-1400c)


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ピストイアの逸名画家による「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」(16世紀前半)


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マーゾ・ダ・サン・フリアーノ(フィレンツェ、1531-1571)の周辺の逸名画家による「受胎告知と燭台を持つ天使」


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フラ・バルトロメオ(フィレンツェ、1473-1517)?の「聖アントニーノの死」(1515c)


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ルカ・ペンニ(フィレンツェ、1500-パリ、1556)周辺の画家による「ディアナとアクタイオン」(16世紀前半)


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(つづく)

1私一人の展示室でした。


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ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリ(フィレンツェ、1551-1640)の「ミーダスの判決」(1624)


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マッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)周辺の画家(Ambito)による「羊飼いの礼拝」(1630-40c)


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15
グレゴリオ・パガーニ(フィレンツェ、1558-1605)とマッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)の「カナの結婚」(1605-08)


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マッテオ・ロッセッリはグレゴリオ・パガーニの弟子でした。この作品は初めから師弟で描かれたものではなく、グレゴリオ・パガーニが受注して制作を始めましたが、直ぐに体調を崩して亡くなったので、弟子のマッテオ・ロッセッリが制作を引き継いで完成させたのです。


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ピストイアの逸名画家による「サン・フランチェスコ広場」(18世紀中頃)


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逸名画家による「ロザリオの聖母」(18世紀中頃)


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ポンぺオ・バトーニ(ルッカ、1708-ローマ、1787)の帰属作品説も有力です。


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画題ですが「シエナの聖カテリーナの神秘な結婚」でも良さそうです。


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逸名画家による「聖家族」(18世紀)


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(つづく)

1フランチェスコ・レオンチーニ(ピストイア、?-1647)の「聖イーヴォと信者たち」(1647)


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アレッシオ・ジェミニャーニ(ローマ、1567-1651)の「ピストイア包囲戦」(1643)


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ヤコポ・デル・ポー(ローマ、1652-ナポリ、1726)の「フェデリーコ・バロッチ作『エジプトへの逃避途中の休息』のコピー画」(1675-76c)


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アントン・ドメニコ・ガッビアーニ(フィレンツェ、1652-1726)の「キリストの神殿奉献」(1712-19)


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フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「ご訪問」(17世紀前半)


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入館者が少ない市立博物館です。


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フランチェスコ・ヴァンニ(シエナ、1563-1610)?の「聖チェチリア」(17世紀初頭)


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保護版に反射して良く見えません。


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エルコーレ・プロカッチーニ・イル・ヴェッキオ(ボローニャ、1515-ミラノ、1595)?の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(16世紀後半)


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ジョヴァンニ・マンノッツィ通称ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ(サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ、1592-フィレンツェ、1636)の「ピストイアの景観と天使」(1633)


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(つづく)

1展示室となっている部屋のフレスコ画です。


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アゴスティーノ・ロッケッティの「聖アガタ」(1690-1700c)


3
アゴスティーノ・ロッケッティという画家についてはよく分かりません。


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5
カルロ・サラチェーニ(ヴェネツィア、1579-1620)の作品説がある「聖母子」(17世紀初頭)


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カルロ・サラチェーニの帰属作品説もあります。


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ピストイアの逸名画家による「聖エウラリア」(17世紀)


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ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「ダナエ」(17世紀中頃)


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ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「エウロパの強奪」(17世紀中頃)


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カラヴァッジェスキ逸名画家による「聖ジローラモの幻視」(17世紀)


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ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)に帰属する「聖家族」(17世紀)


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ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)に帰属する「涙の聖ピエトロ」(17世紀)


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ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエッリエーリ(フォッソンブローネ、1589-ペーザロ、1657)周辺の画家による「サロメ」(17世紀前半)


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(つづく)

1ドメニコ・ディ・マルコ・ロッセルミーニ(ピストイア、1497-1529記録)の「聖バルトロメオ」(1530c)


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逸名彫刻家作「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(14世紀末)


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逸名彫刻家作「聖母子」(16世紀)


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逸名彫刻家作「受胎告知される聖母」(14世紀末‐15世紀初頭)


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二コラ・ピサーノ(プーリア、1220c-ピサ、1284c)に帰属する「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1270-75c)


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トスカーナの逸名彫刻家作「聖ヤコポの宣教」(12世紀)


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ピストイアの逸名画家による「授乳の聖母と四聖人(聖フランチェスコ、聖ヤコポ、聖アントニオ・アバーテ、聖バルトロメオ」(14世紀後半)


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ベネデット・ブリオーニ(フィレンツェ、1460-1521)の「キリストの復活」(1489)


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アゴスティーノ・ロッケッティの「キリストの復活」(1690-1700c)


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アゴスティーノ・ロッケッティの「磔刑」(1690-1700c)


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(つづく)

1ベルナルド・デッティ(ピストイア、1498-1566以降没)の「ぺルゴラの聖母」(1523)
ぺルゴラの聖ヤコポ祈祷所にあった祭壇画です。そのユニークな表現で有名な作品です。


2
ピストイアに来る最大の目的は、この作品を鑑賞することです。


3
繊細克明に描かれてますが、ややお年を召した、丸々と太った聖母がユニークです。


5
この聖母子表現のために、一旦受け取りを拒否されたそうですが、制作者の論理性ある説明によって納得され、無事祭壇を飾ることが出来たそうです。


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幼きキリストの腕にとまったハエの写実


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ジョヴァン・バッティスタ・ナルディーニ(フィエゾレ、1537c-フィレンツェ、1591)の「磔刑と聖人たちと天使たち」(1565-66)
ドゥオーモにあった聖体容器に描かれていたものです。


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天使


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聖マリア・マッダレーナ


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磔刑


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聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ?


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天使


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聖ヤコポ


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聖ピエトロ


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聖パオロ


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聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


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聖ゼーノ


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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物入れ


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ピストイアの逸名画家による「磔刑」(14世紀初頭)


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(つづく)

1フィレンツェ派逸名画家による「エジプトへの逃避途中の休息」(16世紀)


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ボッティチェリの強い影響を受けた画風ですね。


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ピストイアの逸名画家による「聖会話」(1530-40c)


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玉座の聖母子と四聖人(聖メルクリアーレ、聖ヤコポ、聖フィリッポ、聖ベネデット)


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玉座の聖母子


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Maestro della Croce 434とMaestro di Santa Maria Primeranaによる「聖フランチェスコとその生涯の物語」(1250-60c)


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聖セバスティアーノ像が二体並んでます。


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逸名彫刻家による「聖セバスティアーノ」(16世紀)


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アーニョロ・ディ・ポロ(フィレンツェ、1470-1528)に帰属する「聖セバスティアーノ」(1510-20c)


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アーニョロ・ディ・ポロ(フィレンツェ、1470-1528)の「救世主キリスト」(1498)


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(つづく)

1ベルナルド・シーニョラッチョ(ピストイア、1460-1540)の「聖会話(玉座の聖母子と四聖人)」(1496-97)


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聖モニカ、聖ロレンツォ


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玉座の聖母子


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トレンティーノの聖二コラ、聖アゴスティーノ


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2
第二室です。


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ピストイアの逸名画家による「磔刑」(16世紀前半)


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表裏両面に描かれてます。


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裏面


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ピストイアの逸名画家による「授乳の聖母と注文者」(16世紀前半)


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フラ・パオリーノ(ピストイア、1488-1547)の「受胎告知」(1525c)


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部屋の壁に描かれたフレスコ画です。


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ピストイアの逸名画家による「聖会話」(1437)


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玉座の聖母子と聖ヤコポと聖ゼーノ


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(つづく)

1ジュリーノ・ジュリーニ(ピストイア、1480-1531以降没)の「聖会話」(1505-10)
聖人たちのプレデッラが付いてます。


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玉座の聖母子


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玉座の台座


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プレデッラ
非常に横長の裾絵です。


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ジョヴァン・バッティスタ・ピストイエーゼ(ピストイア、1509-1535c消息)の「プレセピオ」(1520-30c)


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ドメニコ・ディ・マルコ・ロッセルミーニ(ピストイア、1497-1529記録)の「聖会話」(1530-35)


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聖バルトロメオ


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聖母子


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聖アントニオ・アバーテ


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ジョヴァン・バッティスタ・ヴォルピー二通称ロ・スカラブリーノ(ピストイア、1489-1561)の「聖会話」(1525c)


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ピストイアの紋章


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(つづく)

1市庁舎の一角にMuseo Civicoが設けられてます。


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ロレンツォ・クレディ(フィレンツェ、1459-1537)の「聖会話(玉座の聖母子と四聖人)」(1510-12)


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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聖マリア・マッダレーナ
画面に向かって左下に香油壺が描かれてます。


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聖マリア・マッダレーナのアトリビュートは香油壺です。


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10
聖ジローラモ


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アレッサンドリアの聖カテリーナ


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リドルフォ・デル・ギルランダイオ(フィレンツェ、1483-1561)の「聖会話」(1510-20c)


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聖セバスティアーノ


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聖グレゴリオ・マーニョ


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ジュリーノ・ジュリーニ(ピストイア、1480-1531記録)の「聖会話」(1529)


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ドメニコ・ディ・マルコ・ロッセルミーニ(ピストイア、1497-1529記録)の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


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31
(つづく)

1次は市立博物館です。


5
中庭から見上げた市庁舎の建物です。


6
中庭に置かれたもの(詳細不知)
市庁舎内に美術館が設けられたのは1922年でした。その当時の展示品は教会や貴族の館などから集められた祭壇画や彫刻が中心でした。1956年に寄贈品などを含めて近代画やセラミック類などが展示される博物館となり、規模が大きくなりました。1982年に市立博物館の再編が行われて、現在に至ってます。


7
階段を上ります。


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階段から見下ろした中庭


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32
博物館の見学中に市庁舎内の部屋に入れることがあって、博物館と市庁舎に見所を区別することが困難です。


10
展示室がある中二階へと進みます。


11
フレスコ画に向かって左側に博物館の入り口があります。なお、フレスコ画の詳細が分かりません。


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詳細不知


3
展示室に入りました。


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Maestro del 1310の「聖母子と四聖人」(1320c)


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四聖人は左から聖ヤコポ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖マリア・マッダレーナ、聖ベルナルドです。


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聖ヤコポ


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天使


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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天使


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聖母子


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天使


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聖マリア・マッダレーナ


22
天使


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聖ベルナルド


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ピストイアの逸名画家による「授乳の聖母と四聖人」


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両翼上部が切り取られてます。


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マリオット・ディ・ナルド(フィレンツェ、1388-1425活動記録)の「聖母子と四天使」


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マリオット・ディ・ナルド(フィレンツェ、1388-1425活動記録)とロッセッロ・ディ・ヤコポ・フランキ(フィレンツェ、1377c-1436)の「受胎告知と二聖人(バーリの聖二コラと聖ジュリアーノ)」


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31
(つづく)

1市庁舎の続きです。


3
市庁舎の一角に市立博物館があるので、博物館の展示と市庁舎内の美術作品巡りは同じように思います。


2


4
博物館の入館前に市庁舎を見て回りますが、公開されている部屋は非常に限定されてます。


5
大広間です。


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フレスコ画断片が残されてます。


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リッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1352/1360-1410c)の「聖母子と天使たち」(1389)


23
リッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1352/1360-1410c)の「聖母子と聖人たち」(1389)


10
逸名彫刻家による「聖アガタ」(16世紀)


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紋章(1478)


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紋章(1643)


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ヴェロッキオ派芸術家による「紋章」(1494)


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次はギベリーノの間です。


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モニュメント


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紋章


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柱の装飾


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詳細不知


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ベノッツォ・ゴッツォーリのフレスコ画(1497c)


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ベノッツォ・ゴッツォーリのシノピエが見えます。


21
フレスコ断片


22
詳細不知


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次はサンタガタ礼拝堂です。


25
二代目となるサンタガタ礼拝堂の祭壇(18世紀)


26
祭壇画(1709c)
制作者が分からないようです。


27
ベネデット・ダ・マイアーノ(フィレンツェ、1442-1497)の「聖母子のタベルナコロ」


28
ベネデット・ダ・マイアーノ派芸術家による「ピエタと聖母子」(1510c)


29
ジュゼッペ・二コラ・ナシーニ(カステル・デル・ピアーノ、1657-シエナ、1736)の「栄光の聖アガタ」(1709)


30
聖水盤(1490c)
(つづく)

1そろそろ市立博物館の開館時間です。


2
サン・マッテオ通りを通ってドゥオーモ広場に向かいました。


3
写真中央の建物はピストイアの地方銀行(日本の信用金庫に相当?)です。


4
1898年から1905年に建設されたネオ・ルネサンス様式の建物です。


5
この建物は元々商品取引所でした。


6
ドゥオーモ広場に戻りました。


7
広場に面して市庁舎が建ってます。市立博物館は市庁舎の建物の一角に設けられてます。


8
市庁舎 Palazo Comunaleです。


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市庁舎はアンツィアーニ宮、またはジャーノ宮とも呼ばれてます。


10
1294年にピストイアのポデスタに就任したジャーノ・デッラ・バック(フィレンツェ、13世紀後半生まれ‐フランス、1306)は、評議会 Consiglio degli Anianiと裁判所を兼ねた建物建設を決め、1294年に創建され、14世紀前半に完成した建物が現在の市庁舎の前身です。
アンツィアーニ宮と呼ばれるのは評議会に由来します。また、別名のジャーノ宮は建設を決めたポデスタのジャーノ・デッラ・バックの名前に由来します。


11
1339年に拡張工事が行われましたが、その後幾度となく拡張、改造、修復が繰り返されました。
1399年に市庁舎内に刑務所が設けられました。17世紀末から18世紀初頭にかけて大改造が行われた後、19世紀前半にはロレーヌ家の要望によってさらに改造が加えられました。
19世紀末に建物の劣化が深刻になったので、大補強工事が行われることになりましたが、その際、元の構造に復元されることになりました。現在の外観は、その補強復元工事後の姿となってます。


12
外観を見ます。


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ファサードのメディチ家の紋章


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市庁舎とドゥオーモを結ぶ通路


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「聖母子」のタベルナコロ


21
「聖母子」の制作者などの詳細が分かりません。


15
ファサード下の柱廊


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建物の入口扉


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入口扉上の装飾


22
中に入ると中庭(第一)に出ます。


23
奇妙なブロンズ像が置かれてます。


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この街が産んだマリーノ・マリーニのブロンズ像です。


25
マリーノ・マリーニ(ピストイア、1901-ヴィアレッジョ、1980)の「ミラコロ」


27
第二中庭です。


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第二中庭の見どころは皆無です。


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第一中庭に戻ります。


30
(つづく)

1サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会、通称サン・ジョヴァンニ・フオルチヴィタス教会です。


2
白と緑の大理石の外壁です。


3
フオルチヴィタス教会の内部です。


4
翼廊がない単廊式、ロマネスク様式の内部です。


5
美術的に必見の作品が幾つかあることで知られてます。


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私が必見と思う作品の写真を並べます。


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主祭壇


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洗礼盤


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タッデオ・ガッディ(フィレンツェ、1300c-1366)の「フオルチヴィタス教会のポリッティコ」(1350-53)


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グリエルモ・ダ・ピサ(ピサ、1238c-1313c)の「説教壇」(1270)


21
説教壇の台座


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ジョヴァンニ・ディ・バルトロメオ・クリスティアーニ(ピストイア、1340c-1398c)の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの物語」(1370c)


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ルカ・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1400-1482)の「ご訪問」(1445c)


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ジョヴァンニ・ピサーノ(ピサ、1250c-1315c)の追随者による「聖水盤」


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30
(つづく)

1見どころが非常の多いサン・フランチェスコ教会でした。


2
ドゥオーモ方向に戻ります。


3
次はフオルチヴィタス教会です。


4
フオルチヴィタス教会も見所が豊富です。


5
この辺は、ピストイアの最初の城壁の外側に当たります。


6
写真左に写っているホテルは廃業した?


7
サン・ジョヴァンニ・フオルチヴィタス教会です。


8
教会の正式名称はサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会と言い、福音書記者聖ヨハネ(ジョヴァンニ)に献じる教会です。通称はサン・ジョヴァンニ・フオルチヴィタス教会です。
Fuorcivitasとは、fuori(外に)とcivita(市壁)を組み合わせた造語で、この教会がピストイアの最初の城壁の外側にあったからです。


9
1119年の文書にこの教会に関する記述があり、「ロンゴバルド時代(注:569-774年)に建設されたサン・ジョヴァンニ教会が殆ど廃墟同然の状態で、市壁の外に建っている」と記録されてます。
恐らく7世紀頃に建設されたという説が有力とされてます。


10
現在の建物は、1119年の文書記載から間もない頃に、最初の建物が取り壊され、その上に着工され、1300年頃に完成した、二代目の建物とされてます。


11
北側に当たるファサードは1323年に完成しました。東側の後陣は1344年に完成しました。


12
ファサードは道幅が狭い通りに面しているので、よく見えません。


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13
後陣も道幅が狭い通りに面しているので、よく見えません。


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後陣に鐘楼が付いてます。


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鐘楼


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後陣の下側


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外壁を見ます。


21
シエナ、プラート、カッラーラ産の白と緑の大理石が使用されてます。


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サイドポータル


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サイドポータル上のルネッタ


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聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


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柱頭


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31
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会の内部です。


2
修道院Capitoloの天井フレスコ画の続きです。


3
アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407消息)と協力者による「栄光の聖フランチェスコ」(1390-1400c)


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アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407消息)と協力者による「Presepe di Greccio」(1390-1400c)
グレッチョは、ラツィオ州リエーティ県にある、人口約1500人のコムーネで、フランチェスコ会修道院があることで知られてます。また、プレセーペ発祥の地としても有名です。


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アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407消息)と協力者による「聖アントニオの奇跡」(1390-1400c)


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アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407消息)と協力者による「キリストの復活」(1390-1400c)


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32
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


2
キオストロ回廊です。


3
回廊壁のルネッタのフレスコ画です。


4
総じて保存状態が非常に悪いのが特徴です。修復されているフレスコ画は数点にしか過ぎません。


5


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辛うじてフレスコ画断片が残ってます。


8
ジョヴァンニ・ディ・サン・ジョヴァンニ(サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ、1592-フィレンツェ、1636)の「パドヴァの聖アントニオの生涯」


9
アレッシオ・ジェミニャーニ(ローマ、1567-1651)の「フランチェスコ会に認可を与える教皇インノチェンツォ2世」


10
スルタンの前の聖フランチェスコ


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15
修道院の出入り口


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キオストロから見た修道院入り口


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フレスコ画で覆われているCapitoloです。


19
アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407消息)と協力者によって1390年から1400年頃に制作されたフレスコ画です。


20
キリストの変容


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23
磔刑


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25


30
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会の内部です。


2
Maestro del 1310の「磔刑」(1310c)


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7


4
ナンニ・ディ・ヤコポ(1390c-1430c活動)に帰属する「ピエタのキリスト」(1390c)


8
ナンニ・ディ・ヤコポ(1390c-1430c活動)に帰属するフレスコ画


5
ナンニ・ディ・ヤコポ(1390c-1430c活動)に帰属する「玉座の聖母子とフランチェスコ会聖人とドメニコ会聖人」(1390c)


6


9
サーノ・ディ・ジョルジョ(ピストイア、14-15世紀)とピストイアの画家による「マギの礼拝」


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13
ピストイアの逸名画家による「磔刑」(1390c)


14
ピストイアの逸名画家による「玉座の聖母子」(1390c)


15
ピストイアの逸名画家による「聖人たちと聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1390c)


16
次は修道院です。


17
キオストロ


18
キオストロ回廊


19
回廊の壁にフレスコ画があります。


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回廊の壁に墓が並んでます。


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紋章も並んでます。


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30
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会の内部です。


2
聖具室のフレスコ画です。


3


4
ジョヴァンニ・クリスティアーニ(ピストイア、1340c-1398c)と工房によって1390年頃に描かれたフレスコ画です。


5


6
「磔刑」


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「ご誕生」


8
「嘆き」


9
アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407活動記録)と協力者による「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1390c)


10


11


12


13
内陣に戻ります。


14
カウンターファサードのステンドグラス


20
エリザベッタ・シラーニ(ボローニャ、1638-1665)の「玉座の聖母子と聖フランチェスコとアレッサンドリアの聖カテリーナ」(1650)


15


19
聖母子とその周囲の聖人たちと天使たちの制作者が異なります。


16
「グラツィエの聖母と聖人たちと天使たち」
逸名画家によって1390年頃に制作された「グラツィエの聖母」
フランチェスコ・モランディーニ通称イル・ポッピ(ポッピ、1544-1597)に帰属する「聖人たちと天使たち」


17
「グラツィエの聖母」


18


21
フランチェスコ・モランディーニ通称イル・ポッピ(ポッピ、1544-1597)の「キリストの神殿奉献」(1584)


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23


24
ジョヴァンニ・クリスティアーニ(ピストイア、1340c-1398c)の「聖母子」(1390c)


25


26


27
天井


28


29
シルヴェストロ・スキエッティー二の「ご誕生」(1609)
この画家は全く知りません。


30
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会の内部です。


2
次は後陣右の第二礼拝堂のガッテスキ礼拝堂です。


3
ガッテスキ礼拝堂の壁もフレスコ画で覆われてます。


4
ガッテスキ礼拝堂のフレスコ画は、ボナッコルソ・ディ・チーノ(フィレンツェで14世紀前半活動)によって、1340年から1350年頃に描かれました。


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フレスコ画のテーマは「聖ドンニーノと聖ロレンツォの物語」です。


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一旦本堂から出て聖具室に行きます。


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聖具室です。聖具室の壁もフレスコ画で覆われてます。


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先ずは聖具室天井のフレスコ画です。


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聖具室天井のフレスコ画は、サーノ・ディ・ジョルジョ(ピストイアで14世紀後半から15世紀初頭に活動)とピストイアの協力者によって制作されたとされてます。


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(つづく)




1引き続きサン・フランチェスコ教会の内部です。


2
中央礼拝堂の左右の礼拝堂に移ります。


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初めに後陣右の礼拝堂です。


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後陣右礼拝堂のフレスコ画


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後陣右礼拝堂のフレスコ画はジョヴァンニ・クリスティアーニ(ピストイア、1340c-1398c)の帰属作品(1360-80c)と言われてます。


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フレスコ画のテーマは、パドヴァの聖アントニオとトロサの聖ルドヴィーコです。


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落剝が多く保存状態が悪い。


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次は後陣左の礼拝堂です。


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「聖フランチェスコとその物語」は20世紀に制作されたコピー画のようです。


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後陣左の礼拝堂のフレスコ画はMaestro della Cappella Bracciolini(シエナまたはピストイア出身の14世紀後半から15世紀前半に活動した画家)によって15世紀第一四半世紀に制作されたそうです。
なお、後陣左の礼拝堂はCappella Braccioliniと呼ばれてます。
フレスコ画のテーマは「聖母の物語」、「聖人の物語」となってます。


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「聖母の死」


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「聖ルイージの死」


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「聖アゴスティーノの勝利」


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「聖母の結婚」


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「聖ヤコポ」


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「聖アヴェラルド」


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「聖オノフリオ」


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「シトー会聖人修道士」


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「フランチェスコ会聖人修道士」
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


2
内部の祭壇画やフレスコ画を見て回ります。


3
次の礼拝堂です。


4
礼拝堂の祭壇画は、アウレリオ・ローミ(ピサ、1556-1624)の「エジプトへの逃避途中の休息」(1615c)です。


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次は中央礼拝堂です。


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礼拝堂の壁はフレスコ画で装飾されてます。


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Giovanni Zetiの「磔刑像」(1617)


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フレスコ画は、ボローニャ派の逸名画家、多分リッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1355c-1410)によって描かれたとされてます。


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フレスコ画のテーマは「聖フランチェスコの物語」となってます。


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先ほど、フレスコ画の制作者を多分リッポ・ディ・ダルマシオとされていると書きましたが、教会の記録からフレスコ画が制作されたのは1343年以前と推察されているのです。リッポ・ディ・ダルマシオは、ボローニャで1355年頃に生まれたとされているので、このフレスコ画の制作者としては矛盾が生じてしまいます。この辺のところは、古い作品についてはよくある事なので、深く考えない方が良いと思います。


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(つづく)

1次はサン・フランチェスコ教会です。


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サン・フランチェスコ教会です。


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聖フランチェスコ(アッシジ、1182-1226)がピストイアにやってきたのは1220年のことでした。やがてフランチェスコ会修道士たちがピストイアに定住するようになり、1232年にサンタ・クローチェ教会(場所が不明)が与えられました。


4
ファサードに隣接して写真右連なるのは修道院だった建物です。
1249年5月21日、司教座教会の参事会は、フランチェスコ会修道士たちに対して、サンタ・クローチェ教会の代わりに、現在サン・フランチェスコ教会が建っている場所にあったサンタ・マリア・アル・プラート教会を与えました。


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1289年8月25日付のピストイア当局の文書に、サンタ・マリア・アル・プラート教会の古い建物を取り壊して新しい建物の建設を認めたとの記録があるそうです。
1289年に新しい建物の工事着工が行われ、1374年まで工事が続きました。新しい建物の奉献を機にサン・フランチェスコ教会(修道院併設の複合施設)と命名されました。


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最終的に1707年に完成したロマネスク様式のファサードです。


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メインポータル上ルネッタのフレスコ画


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後陣と鐘楼


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左翼廊


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左側壁


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左側壁のサイドポータル


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1808年、ナポレオンによって抑圧され、修道士たちが追放されると共に宗教活動が禁止されてしまいました。ナポレオン失脚後の1819年に活動が再開されましたが、1808年以前の状態には戻らず、細々と活動が行われていました。
1866年、イタリア統一伴い、再び抑圧され、建物はピストイア市の所有となりました。1926年、建物はフランチェスコ会の会衆の管理に戻されましたが、2016年、会衆が属していた教区から立ち去り、空き教会となってしまいました。
そのため、2000年頃から滅多に開かない教会となっていましたが、最近になってミサが行われるようになったようです(司祭の所属は私には分かりません)。


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単廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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ルネサンス期に内部の修復改造が行われたので、ゴシック・ルネサンスの折衷様式の内部とも言えます。


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受胎告知礼拝堂、またはマラテスタ礼拝堂です。


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別々の場所にあったフレスコ画を剝がして、一つの祭壇画のようにしたように見えます。取って付けたような感じがします。


19
レオナルド・マラテスタ(ピストイア、1483から活動記録‐1518没)の「受胎告知される聖母」(1490-1500)
左に受胎告知する大天使があったと思います。


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バルトロメオ・ディ・ヤコポの「聖ジュリアーノ」(1424)
バルトロメオ・ディ・ヤコポはポントルモの父です。
「聖ジュリアーノ」と「受胎告知される聖母」が描かれた時期が異なります。


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アレッサンドロ・アッローリ(フィレンツェ、1535-1607)の「ラザロの蘇生」(1594)


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フランキー二の祭壇です。


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適当に詰め込んだように見える祭壇画です。


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ボナッコルソ・ディ・チーノ(14世紀中頃にフィレンツェで活動)の「聖十字架の物語」(14世紀)


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マーゾ・ディ・バンコ(フィレンツェ、?-1348)と弟子の「嘆き」(14世紀)
マーゾはジョとの弟子で、ジョットの強い影響を受けた画風でした。


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ピストイアの逸名画家による「聖フランチェスコ」(1390c)


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マーゾ・ディ・バンコ(フィレンツェ、?-1348)と弟子による「三聖人(聖アントニオ・アバーテ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖フランチェスコ」
(つづく)

1鐘楼が写ってます。


2
次はサンティ・プロスぺロ・エ・フィリッポ教会です。写真の通りの右先に教会が写ってます。


3
ベネデット会修道士によって12世紀に建設された、ロマネスク様式のサン・プロスペロ教会が前身です。1134年に文書にサン・プロスペロ教会の存在が初めて記録されているそうです。


4
1500年まで元の構造を維持していたそうですが、教会の建物は干し草室として使用されるようになり、非常に荒廃しました。


5
1565年、フィリッポ・ネリ会衆に教会が委託されるようになりました。1622年、ロスピリオージ家の資金によって、レオナルド・マルカッチが起用されて建物が大修復されました。


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1666年に教会はフィリッポ・ネリ会衆に与えられました。それを機に聖プロスぺロに加えて聖フィリッポ・ネリにも献じる教会となり、名称が現在のようになりました。


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1722年、カルロ・アゴスティーノ・ファブローニ枢機卿(ピストイア、1651-ローマ、1727)は自分が所有する蔵書を寄贈し、そのための図書館をこの教会に隣接して建設することにしました。フィレンツェの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の設計によって教会の建物の改造拡大と図書館の建設が行われました。


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教会の入り口


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教会内部


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ジョヴァンニ・ドメニコ・フェッレッティ(フィレンツェ、1692-1768)の後陣フレスコ画(1726)


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図書館の入り口


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図書館の一室


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ファブローニ枢機卿像


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ジャン・ドメニコ・ピアストリーニ(ローマ、1680-1740)の「カルロ・アゴスティーノ・ファブローニ枢機卿の肖像」


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次はサン・フランチェスコ教会に行きたいのですが、遠回りをしました。


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(つづく)

1カルミネ広場です。


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広場に面してサンタ・マリア・デル・カルミネ教会が建ってます。


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1291年、カルメル会修道士によって建設されたゴシック様式のサンタ・マリア・デル・カルミネ修道院教会の複合施設が前身です。


4
カルミネ教会は16世紀に拡大、改造されました。さらに1741年に後期バロック様式に改造修復され、現在の外観の礎となりました。
1803年、ナポレオンによって抑圧され、美術アカデミーが設立されました。また、1883年から貧者の避難所として使用されるようになりました。


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キオストロ


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教会ではありませんが、内部の保存状態が良いと思います。


6
観光客などに一般公開されてませんが、時々中に入ることが出来ます。


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後期バロック様式の華美な内部です。


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創建時の13世紀の装飾は、その痕跡さえも認めることが出来ません。


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礼拝堂や祭壇画などが残されてます。


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フランチェスコ・ルピチーニ(フィレンツェ、1590-スペイン、1656)の「マナの落下」(1625c)


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次の礼拝堂です。


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イグナツィオ・ハグフォード(ピサ、1703-フィレンツェ、1778)の「天上の聖母と聖人たち」(1741-45)


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次の礼拝堂です。


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ピエトロ・マルケジーニ通称ロルトラニーノ(ピストイア、1692-1757)の「聖母子と二聖人」(1740c)


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告解室


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ピエトロ・マルケジーニ通称ロルトラニーノ(ピストイア、1692-1757)の「聖家族と二聖人」


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ヴィンチェンツォ・メウッチ(フィレンツェ、1694-1766)の「ご誕生」(1741-45)


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トンマーゾ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1715-1797)の「フェーデ」


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トンマーゾ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1715-1797)の「スペランツァ」


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トンマーゾ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1715-1797)の「イサクの犠牲」(1741-45)


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適当に街歩き


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(つづく)

1サピエンツァ広場にやってきました。スピリト・サント広場に隣接しています。


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広場の見どころは2つの教会(2つとも旧教会)と図書館でしょう。


3
スピリト・サント教会の鐘楼の手前にサン・ミケーレ・イン・チョンチョ(Cioncio)教会が写ってます。


4
サン・ミケーレ・イン・チョンチョ教区教会です。


5
ピストイアで最も小さな教区の教区教会でした。Cioncioですが、中世の頃、ピストイアにおける有力ギルドの一つだった羊毛ギルドCionci、またはCiompiを指す可能性があるとされてます。


6
鐘楼はスピリト・サント教区のものです。


7
教会の歴史は古く、確実な記録がないものの1000年以上前のロンゴバルド時代に遡ると言われてます。現在の建物は12世紀末から13世紀初頭にかけて再建されたロマネスク様式のものです。


8
1722年、イエズス会に配慮すべきとの当時の司教の判断によって、この教会はイエズス会の聖イグナツィオ・デ・ロヨラ教会(スピリト・サント教会)の教区に組み入れられることになり、教区教会から格下げされてしまいました。
1796年、教会から礼拝所(聖職者が常駐しない)に格下げとなり、さらに19世紀初めには聖別されなくなってしまいました。
現在、この建物は文化的な催事場などとして使用されてます。


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ファサード


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後陣と鐘楼


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内部


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かってファサードにあった「聖ミケーレ像」〔13世紀初頭)


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サピエンツァ広場に面して建つサピエンツァ宮です。


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フィレンツェで活動した建築家ナンニ・ウンゲーロ(ハンガリー?、1480c-フィレンツェ、1546)の設計によって1530年に建設されました。


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ピストイア生まれで司教を務めたことがあるニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿(ピストイア、1419-ヴィテルボ,1473)は、1473年、ピア・カーサ・フォルテ・ディ・サピエンツァを設立し、貧しい人々のための学校と図書館を寄贈しました。最初、その場所は別の場所にありましたが、やがて、このサピエンツァ宮に移転して、現在に至ってます。


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現在、市立図書館になってます。


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ロッジャ


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ロッジャの柱頭


27
サピエンツァ広場にある、もう一つの教会、旧サン・ヤコポ・イン・カステッラーレ教会です。


28
サン・ヤコポ・イン・カステッラーレ修道院だった建物は文書館になってます。


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サピエンツァ広場を後にしました。


30
(つづく)

1引き続きスピリト・サント教会です。


2
内部の祭壇画などを見て回りました。


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5
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598-ローマ、1680)によって1668年に設計され、1670年にマッティア・デ・ロッシ(ローマ、1638-1695)によって制作された主祭壇です。


4
主祭壇画はピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1597-ローマ、1669)の「聖イグナツィオに顕現するキリスト」(1670)


6
主祭壇と主祭壇画は第238代教皇クレメンテ9世(ジュリオ・ロスピリオージ枢機卿)(ピストイア,1600-ローマ、1669 教皇在位:1667-1669)の指示によって制作されました。


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後陣天井


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ロレートの聖母礼拝堂


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オットー・ファッブローニの「ロレートの聖母」(1670c)


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ロレートの聖母礼拝堂側壁の祭壇画


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ピストイアの逸名画家作「無原罪の御宿り」(1710c)


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ロレートの聖母礼拝堂左側壁の祭壇画


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ピストイアの逸名画家作「羊飼いの礼拝」(1710c)


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次はバンキエーリ礼拝堂です。


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オッタヴィオ・ダンディーニ(フィレンツェ、1680c-1750)の「十字架降下」(1726以降)


19
オッタヴィオ・ダンディーニはイエズス会の修道士画家でした。


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オッタヴィオ・ダンディーニ(フィレンツェ、1680c-1750)の「光悦の聖フランチェスコ」(1726以降)


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オッタヴィオ・ダンディーニ(フィレンツェ、1680c-1750)の「メッシーナのマンテッロ縦断を祈願するパオラの聖フランチェスコ」(1726以降)


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詳細不知


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オルガン


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アンドレア・ヴァッカの「ジョヴァンニ・ヴィスコンティの記念碑」(1716)


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外に出ました。


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スピリト・サント広場はスピリト・サント修道院教会の中庭でした。修道院の建物を取り壊して広場にしました。駐車場として使用されていましたが、駐車場ではなく他の有効活用が具体化しつつあるようです。


28
スピリト・サント広場に立つ、チェーザレ・シギノルフィ(モデナ、1833-1902)の「ニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿の記念碑」(1863)です。


29
記念碑の台座

ニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿(ピストイア、1419-ヴィテルボ、1473)は、ピストイア司教を務めていたころ、ピストイアの貧しい人々の学校と図書館を寄贈しました。
19世紀の慈善活動家ニコロ・プッチーニがニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿の記念碑を造るために多額の金を遺贈しました。


30
(つづく)

1一旦ドゥオーモ広場を後にします。


2
スピリト・サント広場に向かいました。


3
スピリト・サント教会の鐘楼が見えてきました。


4
スピリト・サント広場の青空市は靴が専門です。


5
広場の名称の由来は、広場に面してスピリト・サント教会が建っているからです。


6
1641年、ピストイア出身の貴族ロスピリオージ家がこの地にイエズス会を立ち上げましたが、やがてジュリオ・ロスピリオージ枢機卿(後の第238代教皇クレメンテ9世:在位1667-1669)(ピストイア,1600-ローマ、1669)を中心とする同家が教会建設を熱心に進めました。


15
そうして1647年に創建され、1685年に完成し、1685年に奉献式が執り行われたバロック様式のサンティグナツィオ・ディ・ロヨラ教会が前身です。


7
しかし、1773年にイエズス会が抑圧されてしまい、教会は1774年にスピリト・サント会の所有となると共に、教会の名称もスピリト・サント教会と変更されました。
このような歴史があるため、サンティグナツィオ・ディ・ロヨラ教会とも呼ばれてます。


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1783年、スピリト・サント会が抑圧され、長い間、教会は次々と変遷する歴史を刻みましたが、1988年に宗教活動が正式に再開され現在に至ってます。
ファサードは未完成の荒壁になっていることから、バロック様式ながら古い建物と誤解を受けることがあるようです。


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鐘楼


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右側の外壁


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芸術的に見どころが豊富です。


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拝観します。


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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右側壁


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ジュリオ・ロスピリオージ枢機卿(後のクレメンテ9世)が内部装飾に尽力したとされてます。


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祭壇画などを見て回りました。


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ルドヴィーコ・ジミニャーニ(ローマ、1643-ザガローロ、1697)の「天上のキリスト、聖母、聖ジュゼッペと聖人たち」(1664/65)


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次の礼拝堂です。


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アンドレア・ポッツォ(トレント、1642-ウィーン、1709)と工房の「聖フランチェスコ・セヴェリオの説教」(1702)


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(つづく)

1プレトリオ宮の続きです。


3
中庭柱廊のフレスコ画です。


2
代々のポデスタを務めた人の紋章です。


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中庭にある、石で出来た中世の裁判官席です。


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二階(日本の)に向かう階段


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興味深い中庭でした。


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外に出ました。


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この時間は未だMuseo Civicoは開館してません。


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ドゥオーモ広場の建物を見ました。


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写真左に低い鐘楼があります。今は存在しない教会の鐘楼です。


25
旧サンタ・マリア・カヴァリエラ教会だった建物です。


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Palazzo Bracciolini Api


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Palazzo dei Vescovi


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建物の外壁に建物名が書かれています。


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22
(つづく)

1ドゥオーモ広場です。


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次はプレトリオ宮ですが、ドゥオーモ広場に面して建ってます。


2
写真右の建物がプレトリオ宮です。代々のポデスタ(行政長官)の公邸だったことからポデスタ宮とも呼ばれてます。


4
1367年から1389年に建設されたゴシック様式の建物です。14世紀の建築家チェッリーノ・ディ・ネーゼの設計及び工事監督によって建設されたという有力説があります。また、アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348/1349)の設計によるとの説もありますが、ピサーノの設計にするには、その死から工事開始まで長期間開きすぎているので、今ではピサーノ設計説は取り上げないのが普通となっているようです。


5
ドゥオーモ広場の説明板です。


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プレトリオ宮は裁判所として使用されてます。時々特別な催事場としても使用されてます。


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19世紀前半に裁判所として使用するために大規模な拡張工事が行われましたが、構造の多くは変更されず14世紀の姿を殆ど見ることが出来ると言われてます。


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ゴシック様式の窓


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ファサードの紋章


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中庭に入りました。


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中庭から見上げたプレトリオ宮


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中庭の壁に掲げられた彩釉テラコッタの紋章


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中庭の柱廊にフレスコ画があります。


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フレスコ画は15世紀に描かれました。


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代々のポデスタの紋章が追加されました。


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壁の紋章も代々のポデスタのものです。


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28(2)


29(1)


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(つづく)

1ドゥオーモの最終回になります。


2
芸術的に優れた作品が多く楽しめます。


3
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(フィレンツェ、1435-ヴェネツィア、1488)の「ニッコロ・フォルデリ枢機卿の記念碑」(1477)


4
地元ピストイア生まれのニッコロ・フォルデリ枢機卿(ピストイア、1419-ヴィテルボ、1473)が没したことを知ったピストイア総評議会は、1473年にヴェロッキオに記念碑の制作を依頼したのです。


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ロレンツォ・ロッティ通称イル・ロレンツェット(フィレンツェ、1490-ローマ、1541)の「ニッコロ・フォルデリ枢機卿像」(1511)


9
制作者不明の「バロンド・リッチャルディ司教の墓」(1348)


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洗礼盤です。


13
ベネデット・マイアーノ(マイアーノ、1442-フィレンツェ、1497)のデザインに基づきアンドレア・ディ・ピエトロ・フェッルッチ(フィエゾレ、1465-フィレンツェ、1526)が制作しました。


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ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「聖フィロメーナ」(1840)


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フィリッポ・タルキアーニ(フィレンツェ、1576-1645)の「ピエタ」(1618)


19
ブロンズィーノの追随者作「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1610c)


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聖ヤコポの銀の祭壇


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非常に貴重な作品とされてます。


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カウンターファサード


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外に出ます。


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(つづく)

1ドゥオーモの続きです。


2
カッラーラ派逸名彫刻家作「ゲラルド・ゲラルディ司教の墓」(1703)


3
ピストイア司教を務めていました。


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奇跡の聖母礼拝堂です。


8
シエナ派逸名画家による「奇跡の聖母」(14世紀)


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最後の審判礼拝堂に残るフレスコ画の一部です。


12
ジョヴァンニ・ダ・ポンテ(フィレンツェ、1385-1457)の「最後の審判」(1417-20c)


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14
フィレンツェの逸名画家作「聖ゼーノ」(1250c)


15
フィレンツェの逸名画家作「キリストと聖ヤコポと聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」(1250c)


16
エミリアの逸名画家作「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1250c)


28
磔刑礼拝堂です。


17
サンテ・ブルネッティの「磔刑像」(17世紀)


18


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21
サン・バルトロメオ礼拝堂です。


20
礼拝堂の祭壇画


22
マッテオ・ボネーキ(フィレンツェ、1669-1756)の「聖バルトロメオの殉教」


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サン・バルトロメオ礼拝堂祭壇下の彫刻


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(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


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この聖堂で最も有名な作品です。


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コッポ・ディ・マルコヴァルド(フィレンツェ、1225c-1280c)とサレルノ・ディ・コッポ(13世紀後半活動)の「聖ゼーノの磔刑像」(1274)


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サレルノ・ディ・コッポはコッポ・ディ・マルコヴァルドの息子です。


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コッポ・ディ・マルコヴァルドに注文されましたが、未完成でしたが息子のサレルノが仕事を引き継いで完成させました。キリストの部分はサレルノによって制作されたと言われてます。


6(1)
磔刑像の左右に「キリストの受難の物語」があります。


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サレルノ・ディ・コッポによって描かれたキリスト


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ユダの接吻


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キリストの鞭打ち


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十字架降下


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右上の大祭司の前のキリスト


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キリストの埋葬


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墓の前の敬虔な女性たち


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これも有名な作品です。


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アンドレア・デル・ヴェロッキオ(フィレンツェ、1435-ヴェネツィア、1488)とロレンツォ・ディ・クレディ(フィレンツェ、1459-1537)とヴェロッキオ工房の「玉座の聖母子と二聖人」(1475-83)
この作品が制作した当時、レオナルド・ダ・ヴィンチがヴェロッキオ工房にいた時期に重なっており、制作に参画した工房の一人としてレオナルドがいたかも知れないとされてます。


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玉座の聖母子


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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聖ゼーノ、またはアレッツォの聖ドナート


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詳細不知


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堂内にジョヴァンニ・バルドゥッチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1631)の「聖フェリーチェの物語」、「聖ヤコポの物語」のフレスコ画があります。


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麻痺者を治す聖フェリーチェ


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聖フェリーチェの遺体の移送


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聖フェリーチェの誕生


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聖フェリーチェの奇跡


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ジョヴァンニ・バルドゥッチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1631)の「聖ヤコポの物語」(1582)


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(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


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サン・ロッコ礼拝堂です。


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サン・ロッコ礼拝堂の祭壇画


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マッティア・プレティ(タヴェルナ、1613-マルタ、ヴァレッタ、1699)の「聖母戴冠と聖バロントと聖デジデリオ」(1664)


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サン・ロッコ礼拝堂の右側壁です。


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ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「十字架降下」(1848)


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サン・ロッコ礼拝堂の左側壁


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ルイージ・サバテッリ(フィレンツェ、1772-1850)の「律法の台を受け取るモーゼ」(1845)


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サン・ロッコ礼拝堂の天井フレスコ画


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ベネデット・ヴェーリ(フィレンツェ、1564-1639)の「キリストの昇天」(1600-10c)


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Presebiterio


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主祭壇画です。


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クリストファノ・アッローリ(フィレンツェ、1577-1621)の「キリストの復活」(1601-02)


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後陣のフレスコ画


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ドメニコ・クレスティ(クレスピ)通称イル・パッシニャーノ(パッシニャーノ、1559-フィレンツェ、1638)によって1602年に制作されたフレスコ画


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パッシニャーノのフレスコ画


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パッシニャーノのフレスコ画


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パッシニャーノのフレスコ画


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パッシニャーノのフレスコ画


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古いフレスコ画が残されてます。


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サレルノ・ディ・コッポ(フィレンツェ、1225-1276)の「聖母子」


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ジョヴァン・バッティスタ・パッジ(ジェノヴァ,1554-1627)の「聖母被昇天」(1590-1600)


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(つづく)

1ドゥオーモの続きです。


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クリプタに向かいます。


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クリプタに入りました。


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三廊式、ロマネスク様式の内部です。


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12世紀に建設されました。


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ピストイア司教の墓が幾つかあります。


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浮彫が置かれてます。


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グリエルモ(?-1162)様式の逸名彫刻家作「最後の晩餐とキリストの逮捕」(12世紀)
12世紀に制作された説教壇にあった浮彫です。その説教壇は1202年の火災によって大きな被害を受けたので、新しい説教壇が制作され置き換えられました。


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グリエルモ様式の逸名彫刻家作「ご訪問」(12世紀)
「最後の晩餐とキリストの逮捕」と同じ説教壇にあった浮彫です。


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グイド・ダ・シエナ(シエナ、1230-1290c)によって制作されました。
以前のPresebiterioにありました。


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グイド・ダ・シエナの作品


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グイド・ダ・シエナの作品


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12世紀の「磔刑」


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クリプタのフレスコ画


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1960年から1964年に行われた修復の際、クリプタから発見されたフレスコ画です。クリプタの壁にあったもので、それを剥離してクリプタ中央礼拝堂の天井に組み入れました。


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クリプタはこれで終わりです。


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本堂に戻りました。


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墓です。


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レオーネ・ストロッツィ(フィレンツェ、1637-ローマ、1703)の記念碑(墓)(1705)
ストロッツィ大司教はローマで死去しましたが、ピストイア司教を務めていたピストイアのドゥオーモに埋葬されました。


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(つづく)

1
引き続きドゥオーモです。


2
聖堂内部の美術品を見て回りました。


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墓です。


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シエナの逸名彫刻家による「チーノ・ダ・ピストイア(ピストイア、1265c o 1270c-1336)の記念碑」(1337c)


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説教壇(1600)


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後陣の礼拝堂


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クリストファノ・アッローリ(フィレンツェ、1577-1621)の祭壇画


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受胎告知? 聖霊降臨?


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ブラッチョリーニ礼拝堂です。


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Maestro di Cappella Braccioliniの「磔刑と聖人たち」(1400-10c)


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聖ヤコポ


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聖母


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聖マリア・マッダレーナ


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聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


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聖ジローラモ


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聖ジローラモのアトリビュート


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ジョヴァンニ・ディ・バルトロメオ・クリスティアーニ(ピストイア、1340c-1398c)の「聖トンマーゾの不信」(1388)


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聖ロレンツォ


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聖バルトロメオ
 

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32
(つづく)31


32
(つづく)

1拝観します。


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聖堂内に入りました。


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三廊式、ロマネスク様式の内部です。


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1598年から1614年にかけて一部バロック様式に改造されました。


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天井


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身廊天井


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左側廊


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左側廊天井


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右側廊


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写真右下に階段があり、それを下るとクリプタに出ます。


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見所豊富です。


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聖水盤を見ます。


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聖水盤(1250c)


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告解室(1656c)


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告解室の紋章


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告解室(1656c)


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告解室の紋章


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左側廊の礼拝堂などを見ます。


25
Arca di Sant’Atto(1337)
ジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ・ダ・シエナ(シエナ、?-1310cから活動記録‐1348没)と工房によって1337年に制作されましたが、劣化したので1606年に彫刻家レオナルド・マルカッチ(16世紀末‐17世紀前半活動)によって修復されました。


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ジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ・ダ・シエナの彫刻


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ジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ・ダ・シエナの彫刻


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ジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ・ダ・シエナの彫刻
以上の部分以外はレオナルド・マルカッチの作品です。


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レオナルド・マルカッチの彫刻
凡庸な作品です。


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レオナルド・マルカッチの彫刻


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レオナルド・マルカッチの彫刻
(つづく)

10洗礼堂の続きです。


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修復は外壁だけと思っていたら内部も修復工事が行われていました。


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次は鐘楼です。


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ファサードに向かって左横に鐘楼が建ってます。


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鐘楼は12世紀に建設されました。1274年から1275年にかけて行われた大改修工事の際、鐘楼も工事が行われ、ジョヴァンニ・ピサーノ(ピサ、1248c-1325c)も鐘楼の修復に関与したそうです。また、1298年の地震によって鐘楼も被害を受け、その修復にもジョヴァンニ・ピサーノが参画したと言われてます。


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高さが67mあります。


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三層構造の部分


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鐘楼が目立ちます。


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鐘楼は誰でも上ることが出来ます。有料です。


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中に入って拝観します。


30
(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


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柱廊のフレスコ画を見ます。


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私には制作者等を含めてフレスコ画の詳細が分かりません。


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ファサード左上はアンドレア・ヴァッカ(17-18世紀活動)の「聖ゼーノ像」(1721)


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ファサード右上はアンドレア・ヴァッカ(17‐18世紀活動〕の「聖ヤコポ像」(1721)


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次は洗礼堂です。


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この時、洗礼堂は修復工事中でした。これではどうにもなりませんが、別の時に撮った写真があるので、それを使います。


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ドゥオーモの洗礼堂はサン・ジョヴァンニ・イン・コンテと呼ばれてます。その理由は、この場所にサン・ジョヴァンニ・イン・コンテ教会があったからです。


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1301年または1303年に創建され(1301年説の方が有力)、1359-1366年に完成(1361年説が有力)したゴシック様式の洗礼堂です。


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高さが約40mとなってます。


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シエナ、プラート、カッラーラから産出した白と緑の大理石が使われてます。


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説教壇


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柱頭


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バラ窓


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ポータル


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中に入ります。


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洗礼堂の内部です。


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主祭壇(1622以前)


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アンドレア・ヴァッカ(17-18世紀活動)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1724)


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洗礼盤が有名です。


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13世紀の彫刻家ランフランコ・ダ・コモによって制作された洗礼盤(1226)
洗礼堂の創建よりも75年前に制作された訳は、この洗礼盤がサン・ジョヴァンニ・イン・コンテ教会のために制作され、同教会にあったからです。


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洗礼堂の天井
(つづく)

1ドゥオーモ広場にやってきました。


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広場は青空市の真っ最中でした。


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次はドゥオーモですが、ファサードの写真は青空市が終わってから撮ることにしました。


4
ピストイアのドゥオーモ、サン・ゼーノ大聖堂です。ピストイア司教区の司教座教会です。Basilica Minoreに格付けされてます。正式名称はBasilica Minore e Cattedrale di San Zenoとなってます。


5
確実な記録が残されていませんが、5世紀頃にはピストイアは独立した司教区となっており、San Martino di Tours (316-397)に捧げられたサン・マルティーノ司教座教会が存在したとされてます。その司教座教会が現在のドゥオーモが建っている場所か、サンタンドレア教区教会が建って理宇場所のどちらかとされてます。


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サンタンドレア教区教会です。ご参考までに写真を載せておきました。


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さて、サン・マルティーノ司教座教会ですが、ランゴバルド王国支配下の7世紀頃に奉献する聖人が聖マルティーノから聖ゼーノ(300-371)に変更され、以後、サン・ゼーノ司教座教会と呼ばれるようになりました。


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現在の建物は923年の文書に記載されているそうで、これが最古の記録とされてます。また、神聖ローマ帝国皇帝オットー三世(980-1002)の文書にピストイア司教座教会の存在の記録が残されています。


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923年と998年の記録が残されている建物は、1108年の火災によって消失してしまい、12世紀前半に再建され1145年に奉献された建物が現在のドゥオーモの原形とされてます。
1202年に火災によって大きな被害を受けて,1274年から1275年にかけて大修復工事が行われました。また、1298年の地震によって大被害を受けたので、その後改造修復工事が行われました。


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1379年から1449年にかけて工事が行われ、ファサードに柱廊玄関が追加されました。


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ファサード下の柱廊


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柱廊の彩釉テラコッタ装飾が有名です。


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アンドレア・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1435-1525)と工房によって1504年から1505年に制作されました。


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アンドレア・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1435-1525)の「聖母子と天使たち」(1504-05)


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柱廊の柱頭


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左側の入り口


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柱廊壁の碑文


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(つづく)

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