イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:トスカーナ州 > ヴォルテッラ

1刑務所となっているメディチ要塞です。


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監視カメラがあちこちにあります。


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城壁内に戻ります。


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この先に刑務所の入り口があります。


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刑務所入り口に行こうとしましたが、監視カメラの視線を感じたので止めました。


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Porta a Selciを潜って城壁内に戻るました。通りの右側はサン・ピエトロ・イン・セルチ修道院教会の修道院だった建物です。


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サン・ピエトロ・イン・セルチ教会前を通ります。


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もう夕方です。


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エトルリア博物館が見えてきました。


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エトルリア博物館を通り過ぎます。


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Museo Diocesanoとなっている旧サンタゴスティーノ教会前を通り過ぎます。


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9月20日広場です。


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サンタントニオ祈禱所横を通り過ぎます。


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人通りが多くなってきました。


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メディチ要塞が不気味だったので、この辺の雰囲気が妙に気楽させてくれました。


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歩き過ぎで流石に疲れました。


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タバッキでバスの切符を買いました。


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バスの切符入手が難しいコムーネがあるので、困ることがあります。その辺はヴォルテッラは問題なし。


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市立美術館前です。


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プリオーリ広場です。


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2泊3日のヴォルテッラでしたが、この広場に何度来たことか。


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ホテルに戻る前にバスターミナルに行きます。


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バスターミナルで、翌朝のバスの乗り場と発車時間を確認しました。


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観るべき所には大体行きました。


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ホテルに戻りました。


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(ヴォルテッラ編 おわり)

1サン・ピエトロ・イン・セルチ教会の続きです。


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内部の礼拝堂を見て回ってます。


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ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530-チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1597)の「聖母戴冠と聖人たち」


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フランチェスコ・ブリーナ(フィレンツェ、1540-1586)の「無原罪の御宿りの寓意」


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コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1575以前生まれ‐ヴォルテッラ、1630)の「天上の聖母子と聖人たち」


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稀にしか扉が開かないと思いますので、扉が開いていればすぐに拝見すべき教会です。


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サン・ピエトロ・イン・セルチ教会を出れば、門と要塞が見えます。


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Porta a Selciです。


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メディチ要塞の監視塔です。


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ヴォルテッラの市壁には7つの門が設けられていました、この門はそのうちの一つです。


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城壁の一部としてエトルリア時代に築かれた門が前身です。当時はPorta del Soleと呼ばれていました。門は東にあったので、太陽が昇ることに因んで名付けられたそうです。


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門から通じる道はシエナに向かっていました。Porta del Soleは重要な防衛地と見做されて、13世紀に門外に掘が設けられて、堀の上は跳ね橋があったそうです。


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門外


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1342年、フィレンツェのポデスタで、アテネ公グアルティエーリ6世・ディ・ブリエンヌ(1304/1305-1356)は、防衛力強化を目的に市壁と門の改造補強工事と要塞建設に着手しましたが、その一環としてPorta del Soleは再建されると共に門横に監視塔が追加されました。
この時に築かれた要塞はRocca Vecchiaと呼ばれてます。


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城壁外の市壁


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門の外は公園になってます。


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1470年、ヴォルテッラで明礬が発見されました。明礬は培染剤、皮革鞣し剤として非常に重要で、それらを使用した産業を主業種にしていたフィレンツェにとっては、ヴォルテッラは完全な支配下に置くべき町となったのです。


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1472年、フィレンツェの支配者ロレンツォ・イル・マニーフィコ(フィレンツェ、1449-1492)は、傭兵隊長ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに率いられたフィレンツェ軍7千人をヴォルテッラに派遣して、ヴォルテッラを征服したのです。
その翌年の1473年、要塞を拡充教会したのです。拡大された要塞はRocca Nuovaと呼ばれてます。Rocca VecchiaとRocca Nuovaはメディチ要塞と呼ばれるようになりました。
また、古いPorta del Soleは埋められ、新たに門が設けられました。新しい門はPorta a Selciと呼ばれるようになりました。


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メディチ家要塞の大部分は今も昔も刑務所として使用されてます。


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城壁外のPorta a Selci


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現在、刑期5年以上の重罪犯を収容する刑務所になってます。


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メディチ要塞の見学は特別な日を除いて許可されてません。


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ヴォルテッラ刑務所のレストランも有名です。


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一部の受刑者がヴォルテッラのレストランで働いているそうです。


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(つづく)

1アントニオ・グラムシ通りです。


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メディチ家要塞方向に進みます。


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サンタントニオ・アバーテ祈禱所前を通り過ぎます。


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この時間、祈祷所は開いてません。


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9月20日広場を通り過ぎます。


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Museo Diocesanoの開館時間は過ぎました。


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城壁が見えます。


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Museo Diocesanoが置かれている旧サンタゴスティーノ教会です。


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Via Don Minzoniに入りました。


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エトルリア博物館が見えてきました。


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博物館の開館時間が過ぎました。


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更にメディチ家要塞方向に進みます。


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Via Don Minzoniに向けて教会が建ってます。


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サン・ピエトロ・イン・セルチ教会です。
この場所には現教会の前身であるサン・ピエトロ・ヴェッキオ教会がありました。


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ウンフレード・グイスカルドの息子であるアベラルド・グイスカルド侯爵(将軍)は引退してヴォルテッラに住みました。グイスカルド将軍によって12世紀に建設されたのがサン・ピエトロ・ヴェッキオ教会でした。


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1472年、ヴォルテッラはウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの率いられたフィレンツェ軍に敗れましたが、その際、サン・ピエトロ・ヴェッキオ教会は砲撃され破壊されてしまいました。
教会の再建が決まり、15世紀末から16世紀初頭に建設されたのがサン・ピエトロ・イン・セルチです。また、バロック様式のファサードはダニエーレ・ダ・ヴォルテッラの甥レオナルド・リッチャレッリ(ヴォルテッラ、1564-1570消息)の設計によって16世紀後半に建設されました。


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ファサード壁龕の聖リーノ


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聖ジュスト


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ポータル上ルネッタの彫刻


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教会の先は修道院の建物です。


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写真右が修道院の建物です。


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入口扉


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単廊式、バロック様式の内部です。


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主祭壇


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碑文


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名の知られた画家の作品が数点あります。


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ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530-チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1597)の「受胎告知と聖人たち」


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楕円形内の聖母子を除く部分は、ジュゼッペ・アッリーギ(ヴォルテッラ、1646-1706)の「聖リーノと聖ジュスト」


29
(つづく)

1拝観します。


2
中に入りました。


3
初めて拝観した時、歴史あるファサードとの著しい違いに驚きました。


4
1259年に着工されたロマネスク様式は殆ど認められません。16世紀と17世紀に行われた改修の痕跡もありません。


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1826年から1828年に行われた修復、改造工事の結果、新古典様式の内部となりました。


6
外観と内部がアンバランスで戸惑います。


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主祭壇


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祭壇画や彫刻などを見て回ります。


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ヴィンチェンツォ・メウッチ(フィレンツェ、1694-1766)の「カルメロの聖母と聖人たち」


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詳細不知


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右翼廊礼拝堂


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知の聖体容器


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聖母子とその周囲の聖人たちの制作された時代、制作者が異なります。


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15世紀の逸名画家による「リスカットの聖母」とジュゼッペ・アッリーギ(ヴォルテッラ、1646-1706)の「聖人たち」(17世紀末)


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カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「聖家族」


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ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530c-チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1597c)の「守護天使」


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ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1469-1529)の「聖母子のタベルナコロ」


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古い作品がありません。


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カウンターファサード


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外に出ました。


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(つづく)

1サン・フランチェスコ門です。


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門を潜って城壁外に出ました。


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城壁兼用住居


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城壁外に出てもやることがありません。


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サン・フランチェスコ教会の拝観後に門に行くのは習慣みたいなものです。


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サン・フランチェスコ教会を通り過ぎます。


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サン・リーノ教会も通り過ぎます。


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道を進めばサン・クリストフォロ祈禱所に出ます。


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サン・クリストフォロ祈禱所に入ってみたのは単に気分の問題。


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サン・クリストフォロ祈禱所から外に出ました。


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この通りを歩くのは、この旅で何度目?


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同じ場所に来てしまうのは、チェントロ・ストーリコが狭いからでしょう。


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サン・ミケーレ教会に向かいます。


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サン・ミケーレ教会は城壁内のほぼ中央にあります。


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サン・ミケーレ教会です。


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サン・ミケーレ教会の存在が987年8月14日付司教勅書に初めて言及されたそうです。


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現在のロマネスク様式の建物は、1259年以降に着工された二代目となるものです。


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ファサード上部は、1259年に着工されたオリジナルのものではありません。17世紀に上部だけ再建されたとされてます。


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鐘楼


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ポータル上ルネッタの「聖母子」の彫刻


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現在、ルネッタ上にある彫刻は20世紀に作成された複製です。経時劣化のため、複製品に置き換えられました。


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オリジナルの聖母子の彫刻
シエナ派逸名彫刻家による作品で、現在ヴォルテッラのMuseo Diocesanoで展示されてます。なお、シエナ派ではなく、ピサ派の逸名彫刻家作説もあるようです。


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ポータルの柱頭は13世紀のオリジナルです。


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教会が開いている時間でもファサード側の扉が閉まっていることがあります。


28
その場合、サイドポータル、または旧修道院の入り口経由で中に入ることが出来ます。


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外観と比べると、中に入ると少しがっかりするかも。


30
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


2
Cappella della Croce di Giornoの続きです。


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キリストの神殿奉献


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エレナの奇跡


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奇跡の木を認識するシバの女王


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アダムの墓に木を植えるセト


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内陣に戻りました。


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コジモ・ダッディ(ヴォルテッラ、1575以前生まれ‐1630c)の「磔刑」(16世紀末)


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墓が幾つかあります。


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カウンターファサード


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扉上の紋章


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外に出ました。


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サン・フランチェスコ広場です。


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キオストロの入り口


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サン・フランチェスコ教会はこれで終わりです。


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サン・フランチェスコ門


30
(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


2
Cappella della Croce di Giornoの続きです。


3
チェン二・ディ・フランチェスコ・ディ・セル・チェンニによって1410年頃に描かれたフレスコ画です。


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受胎告知


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嬰児虐殺


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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ホスローの斬首と十字架を背負ってエルサレムに入るヘラクレイオス


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コスロエの崇拝とヘラクレイオスの幻視


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十字架を盗むコスロエ


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十字架の建設


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聖痕を受ける聖フランチェスコ


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(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


2
Cappella della Croce di Giornoです。


3
礼拝堂は教会本体に隣接しており、内陣側面のドアで繋がってます。


4
1315年、Mone de’Tedecinghiによって建設された礼拝堂は、2つの区画からなる構造をしており、後陣は多角形の天井で覆われてます。
サン・フランチェスコ教会は元々グイディ家の多額な寄進によって建設されましたが、この礼拝堂も初めからグイディ家と深い繋がりがありましたが、1786年にグイディ家の個人礼拝堂となり、現在に至ってます。


5
礼拝堂内陣はリブ付き十字形の天井で覆われてます。


6
壁がフレスコ画で覆われてます。フレスコ画の制作者は、四福音書記者を除いて、チェン二・ディ・フランチェスコ・ディ・セル・チェンニ(フィレンツェ、1369-1415)で、1410年頃に制作しました。
四福音書記者だけは、ヤコポ・ダ・フィレンツェによって1410年頃に描かれました。


7
ヤコポ・ダ・フィレンツェの「四福音書記者」(1410c)


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聖ルカ


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聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)


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聖マッテオ


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聖マルコ


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礼拝堂祭壇


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祭壇画は1788年に差し替えられました。


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現在の祭壇画は、ヴィンチェンツォ・タマーニ(サン・ジミニャーノ、1492-1530)の「磔刑」


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1786年に差し替えられた理由が分かりませんが、1786年に礼拝堂を所有することになったグイディ家の希望による可能性が高そうです。


12
差し替えられる以前の礼拝堂祭壇画はこの作品でした。
ロッソ・フィオレンティーノの「十字架降下」です。


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ヴォルテッラの市立絵画館にあります。


18
前述のように四福音書記者を除く壁のフレスコ画は、チェン二・ディ・フランチェスコ・ディ・セル・チェンニ(フィレンツェ、1369-1415)が1410年頃に描いたものです。


19
フレスコ画のテーマは、この当時、流行していた「黄金伝説」となってます。


20
「黄金伝説」は、ヤコポ・ダ・ヴァラッツェ(ヴァラッツェ、1230c-ジェノヴァ、1297)が1260年代から書き始め、死ぬまで書き継いだものです。


21
「黄金伝説」は、教会のフレスコ画のテーマとして流行していました。「黄金伝説」が分からないとフレスコ画の意味が分からないと思います。


22
少し後になりますが、ピエロ・デッラ・フランチェスカがアレッツォのサン・フランチェスコ聖堂に1452年から1458年頃に描いた有名なフレスコ画「聖十字架の秘密」も「黄金伝説」によります。


23
チェン二・ディ・フランチェスコ・ディ・セル・チェンニがこの礼拝堂に描いた作品は、アーニョロ・ガッディの強い影響を受けていると言われてます。


24
アーニョロ・ガッディの強い影響を受けたと言うよりも、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にアーニョロ・ガッディが描いた「黄金伝説」を何度も観てから制作したと言う説が有力とされてます。


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(つづく)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


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内部の礼拝堂を見て回ってます。


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詳細不知の「修道士たち」


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礼拝堂ではありません。


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ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530c-1597c)の「ピエタ」


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次の礼拝堂です。


9
アレッサンドロ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1655-リヴォルノ、1723)の「マントを着てメッシーナ海峡を渡るパオラの聖フランチェスコ」(1711)


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Cappella della Croce di Giornoです。
この礼拝堂が見所ですが、後で詳しく取り上げます。


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後陣です。


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主祭壇


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主祭壇の、バロック様式のタベルナコロ(16世紀)


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主祭壇画


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15世紀のトスカーナの逸名画家による「聖セバスティアーノの聖母子」


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後陣左の礼拝堂


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後陣右の礼拝堂


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左側壁の礼拝堂に移ります。


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ヴィンチェンツォ・メウッチ(フィレンツェ、1694-1766)の「天上の聖母子と聖人たち」(1750)


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次はテラコッタのピエタです。


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ザッキア・ザッキ・ダ・ヴォルテッラの「ピエタ」


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ザッキア・ザッキ・ダ・ヴォルテッラは、彫刻家・画家のザッカリア・ザッキ(1473-1544)の父のようです。


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詳細不知


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詳細不知
(つづく)

1サン・リーノ教会を出て西方向に進みます。


2
直ぐにサン・フランチェスコ門が見えてきます。


3
サン・フランチェスコ門の手前右にサン・フランチェスコ広場があります。


4
広場に面して建っているのがサン・フランチェスコ修道院教会の複合施設です。


5
教会は今でも聖別されてますが、修道院だった建物は個人所有となっておりアパートに転用されているようです。


6
聖フランチェスコは1224年頃(特定されてません)にヴォルテッラに訪れ説教をしましたが、説教の数年後には托鉢修道会 Frati Minoriの修道士たちが定住するようになり、当時町外れだった、現在複合施設が建っている場所が与えられました。


7
修道士たちの生活に感銘を受けた大勢の人たちがこの場所に集まるようになり、やがて修道院教会の建設が決まりました。トスカーナの有力貴族グイディ家が費用の大部分を負担して13世紀にサン・フランチェスコ修道院教会が完成しました。
その後、数世紀にわたって拡大、改造を繰り返しましたが、シンプルさを追求したフランチェスコ会修道院教会の典型的に構造は維持されたままでした。


10
グイディ家出身のヴォルテッラ司教を始めとして、同家の修道院教会への支援は長く続きました。


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旧修道院の建物


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ファサードを見ます。


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丸窓


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ポータル上ルネッタの聖母子の浮彫


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教会内部に入りました。


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翼廊がない、単廊式、ゴシック様式の内部です。


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Frati Minoriの典型的な教会構造をしています。


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祭壇画などを見て回ります。


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右側の礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・バルドゥッチ(フィレンツェ、1560c-ナポリ、1631)の「ご誕生」


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次の礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(フィエーゾレ、1535-フィレンツェ、1591)の「聖母と四聖人とアダムとイヴ」(1585)


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30
(つづく)

1引き続きサン・リーノ教会です。


2
次は左右の壁上部ルネッタに描かれた絵画です。
コジモ・ダッディ(ヴォルテッラ、1575?-1630)によって1618年に制作されました。テーマは「聖母とキリストの物語」となっており、全部で12場面からなってます。
「博士たちとの問答」の場面で、コジモ・ダッディの自画像が描かれており、その自画像でダッディが手にした紙に1618とあることで、制作された年が特定されてます。


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受胎告知


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ご訪問


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ご誕生


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キリストの神殿奉献


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博士たちとの問答


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画面右端にコジモ・ダッディの自画像が描かれてます。


20
コジモ・ダッディの自画像
1618制作と書かれた紙を手にしてます。


16
聖母の神殿奉献


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14
アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚


15


12
ゲッセマネ園の祈り


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10
キリストの鞭打ち


11


8
荊刑のキリスト


9


6
カルヴァリオへの道


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3
磔刑


4


5


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カウンターファサード


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外に出ます。


31
外に出ました。
(つづく)


1引き続きサン・リーノ教会です。


2
内部の祭壇画などを見て回ってます。


3
後陣右側壁の祭壇画です。


4
チェーザレ・ダンディーニ(フィレンツェ、1596-1657)の「聖母の誕生」


5


6


7
次は天井のフレスコ画です。


8
壁一面に描かれてます。


9
天井のフレスコ画は、コジモ・ダッディ(ヴォルテッラ、1575?-1630)によるものです。


10
フレスコ画のテーマは「聖リーノ(リヌス)の生涯の物語」です。


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22
コジモ・ダッディ(ヴォルテッラ、1575?-1630)の「聖リーノ」
右側壁にあります。


28
後陣にある祭壇画です。


29
コジモ・ダッディ(ヴォルテッラ、1575?-1630)の「ご訪問」


30
(つづく)

1サン・クリストフォロ祈禱所から次の目的地に向かいます。


2
次はサン・リーノ教会です。


3
サン・リーノ通りを少し進むと右手に教会が見えてきます。


4
サン・リーノ教会です。


5
教会が建っている場所には、第2代教皇聖リーノ(リヌス)(ヴォルテッラ?、10-ローマ、76 教皇在位:67?-76)の住居があったとされてます。ヴォルテッラで生まれたのかについては確実なことが分かりませんが、ヴォルテッラで活動していたことは確実です。


6
人文主義者、神学者、文学者で歴史家として名高いベアート・ラッファエッロ(ラッファエーレ)・マッフェイ(ローマ、1451-ヴォルテッラ、1522)によって1480年に建設された修道院教会の複合施設です。16世紀に女子修道院になりました。


7
1781年、トスカーナ大公の命によって閉鎖されました。
1819年に教会だけは再聖別されましたが、修道院は閉鎖されたままで現在に至ってます。


8
ファサードにある銘板


9
簡素なファサード


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1513年に建設されたポータル


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中に入りました。


12
左側壁


13
右側壁


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左右の側壁のルネッタ、天井のフレスコ画、後陣が見所です。


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天井


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後陣から見ていきます。


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後陣


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主祭壇


21
主祭壇画に注目です。


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フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「玉座の聖母子と聖人たち」(1597)


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後陣天井


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後陣左側壁に墓があります。


27
シルヴィオ・コシーニ(ポッジボンジ、1495c-ミラノ、1549c)の「ベアート・ラッファエッロ・マッフェイの墓のモニュメント」(1529c)


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30


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32
(つづく)

1友人との楽しい昼食中にかなり雨が降りました。


2
気温が下がりました。


3
ほろ酔いにはやや寒い空気がぴったりでした。


4
サン・クリストフォロ祈祷所に向かいます。


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Palazzo Arrighiが見えてきました。


6
Palazzo Arrighiです。


9
15世紀に建設されたPalazzo Arrighiです。Arrighi家の住居でした。


8
Palazzo Arrighiの隣に祈祷所があります。


7
写真左がサン・クリストフォロ祈禱所(オラトリオ)(礼拝堂)です。


15
アッリーギ家の個人礼拝堂として16世紀初めに建設されました。


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18世紀に屋根の一部が崩落したので、修復されると共に改造されたようです。


18
ヴォルテッラには、このようなオラトリオが幾つもあります。


16
大体開いています。


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拝観します。


10
中に入りました。


12
人がほとんどいません。


11


26


13
主祭壇


14
主祭壇にある「聖母子」のフレスコ画


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ヴィンチェンツォ・タマーニ(サン・ジミニャーノ、1492-1530)の「聖母子」(1523)


21
マリオット・ディ・アンドレアのフレスコ画説もあります。


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22
天井フレスコ画は、ジュゼッペ・アッリーギの作品と言われてます。ジュゼッペ・アッリーギの「聖ジュゼッペの生涯」のフレスコ画が天井にあったそうですが、18世紀に天井が崩落して、残っているのは後陣天井だけとされてます。


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詳細不知の「聖クリストフォロ」


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外に出ました。
(つづく)

1フィオレンティーナ門から城壁内に戻りました。


2
サン・ミケーレ教会です。


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待ち合わせまで少し時間があるので、拝観します。


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午後にゆっくり拝観するので、適当に見て歩きました。


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バスターミナルからの景観


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ドゥオーモ


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バスターミナルからの景観


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プリオーリ広場です。


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プリオーリ宮


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待ち合わせは午後1時でした。


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まだ時間が少しあります。


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雲行きが少し怪しくなってきました。


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ドゥオーモ


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洗礼堂で時間潰し。


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(つづく)

1エトルリア博物館は好みではありません。


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エトルリア博物館近くのお店のショーウインドー


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この時間、Museo Diocesanoは開館してません。


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友人と昼食の予定でした。


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マッテオッティ通りです。


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友人とは洗礼堂付近で待ち合わせでした。


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待ち合わせ時間まで少しあったのでぶらぶら歩き


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フィオレンティーナ門に行ってみることに


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見晴らしの良い場所に出ました。


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Piazetta dell Ortinoです。


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フィオレンティーナ門に向かいます。


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グアルナッチ通りに出ます。


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門が見えてきました。


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フィオレンティーナ門です。


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エトルリア時代に築かれたPorta Dianaに代わって構築された門で、当初はPorta Sant’Agnoloと呼ばれていました。また、サン・ミケーレ教会近くにあるので、Porta San Micheleとの呼ばれていたそうです。


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ヴォルテッラがフィレンツェの支配下に置かれるようになると、フィオレンティーナ門と呼称されるようになったそうです。


21
フィオレンティーナ門は堅固な要塞として造られたそうです。1530年のヴォルテッラ包囲戦で、門の上にあった塔などが破壊され、16世紀中頃に現在の姿に近い状態に改造されました。


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門を潜ります。


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城壁外に出ました。


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メディチ家の紋章は修復前でした。


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紋章の修復後の写真


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城壁内に戻ります。


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30
(つづく)

1Via Don Minzoniです。


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Via Don Minzoniに面して建っているPalazzo Desideri- Tangassiです。


3
Palazzo Desideri- TangassiにMuseo Etruscoが置かれてます。
正式名称は寄贈者の名前を取ってグアルナッチ・エトルリア博物館となってます。
聖職者で裕福な貴族だったマリオ・グアルナッチ(ヴォルテッラ、1701-1785)は、考古学に関する研究者、収集家でしたが、1761年に自分の収集物をヴォルテッラ当局に寄贈しました。それらは直ぐに一般公開されましたが、当初はグアルナッチの私邸が博物館として使用されました。
一方、1776年にヴォルテッラ近郊のエトルリア墓地から多くの貴重なものが発見され、それらの発掘物は1777年にヴォルテッラ当局に寄贈されました。
グアルナッチの収集物とエトルリア墓地からの発掘物を合わせて、グアルナッチ・エトルリア博物館として市庁舎など数か所で分散して展示されるようになりました。
1877年、展示物全てがPalazzo Desideri- Tangassiに移され、現在に至ってます。


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入口


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中に入りました。


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エトルリア、ギリシャ、ローマなどの遺跡発掘物が展示の大半を占めます。


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展示は多岐にわたり、厖大です。


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壺の展示はこの種の博物館の定番というべきものです。


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個人的には退屈で、時間潰しです。


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ローマ時代のモザイク


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ローマ時代の碑文


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部屋の天井フレスコ画


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ギリシャ時代のもの


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石棺


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エトルリア人の石棺上蓋


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石棺の彫刻


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外に出ました。
(つづく)

1引き続きサンタントニオ祈禱所です。


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数は少ないですが、美術的に見る価値がある祈祷所です。


3
貴重な三連祭壇画です。


4
プリアーモ・デッラ・クェルチャ(シエナ、1400c-1467)の「聖アントニオ・アバーテと聖人たちの三連祭壇画」(1442)


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聖アントニオ・アバーテ


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聖バルトロメオ


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聖ベネデット


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聖ルッカ


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聖ロレンツォ


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バルダッサッレ・フランチェスキー二(ヴォルテッラ、1611-フィレンツェ、1689)の「聖母被昇天」(1631)


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コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1540-ヴォルテッラ、1630)の「キリストとヴェロニカ」(1610c)


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18世紀のギリシャの逸名画家による「ロザリオの聖母と聖ドメニコ」


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この作品は元々当祈祷所にあったものではなく、ヴォルテッラ近郊のピエーヴェ・デッラ・ネーラにあったものです。


30
外に出ます。


31
(つづく)

1次はサンタントニオ祈祷所(オラトリオ)です。


2
通りの先に鐘楼が見えてますが、サンタントニオ祈禱所の鐘楼でしょう。


3
ソット通りとアントニオ・グラムシ通りが交わる、9月20日広場に面して建っているサンタントニオ祈祷所です。


4
左側壁がアントニオ・グラムシ通りに面してます。


5
右側壁が面してるのがソット通りです。


6
ヴィエンヌの聖アントニオ騎士団として知られるアントニヌス修道会によって11世紀初めに建設されたと言われてますが、その年代は定かではないとされてます。当初はタベルナコロ程度の小さなものと考えられてます。オラトリオの初めての存在記録は13世紀となってます。
このような小さな礼拝堂や祈祷所は、15世紀頃までヴォルテッラで幾つもあったようです。


7
その後、幾度となく修復工事が行われましたが、経時劣化が進んだことにより、建物が再建されることになりました。再建工事は15世紀中頃に行われ、1470年に奉献式が執り行われた建物が現在目にすることが出来るサンタントニオ祈禱所です。
18世紀末にアントニヌス修道会は解散させられ、祈祷所はドゥオーモの管理下に置かれるようになり現在に至ってます。


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鐘楼


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中に入ります。


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中に入りました。


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左側壁


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右側壁


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天井


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後陣


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フレスコ画が一度も描かれたことがないと言われてます。


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祭壇に彩釉テラコッタが置かれてます。


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ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1469-1529)の「聖母被昇天と聖人たち」(1520)
デッラ・ロッビア一族の作品とされていましたが、2014年にジョヴァンニ・デッラ・ロッビアの作品と特定されました。


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右側壁にある「受胎告知」です。


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二人の画家によって制作され、その制作された時代が異なります。


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「受胎告知される聖母」は、ジュゼッペ・アッリーギ(ヴォルテッラ、1642-1702)によって17世紀末に制作されました。
それ以外の部分はコジモ・ダッディ(フィレンツェ、1540-ヴォルテッラ、1630)によって1559年に制作されました。


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コジモ・ダッディの「受胎告知」でしたが、「受胎告知される聖母」の部分が何らかの理由で痛みが出て、ジュゼッペ・アッリーギがその部分を描き、組み込んだとされてます。


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詳細不知のテラコッタ


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墓石
(つづく)

2マドンナ・デイ・ガベリエーリ礼拝堂の内部です。


1
ジュゼッペ・アッリーギ(ヴォルテッラ、1642-1702)の祭壇画


3
外に出ます。


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外に出ました。


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サン・フェリーチェの上門から城壁沿いの道に出ます。


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城壁沿いの道を歩きます。


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暫く歩くと視界が開けます。


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ヴォルテッラの旧市街が丘上にあることがよく分かります。


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糸杉がなさそうです。


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先に行っても同じ景観だろうと思いました。


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城壁内に戻ります。


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次はサン・フィリッポ・ネリ祈祷所です。


15
煉瓦造りのサン・フィリッポ・ネリ祈祷所です。


16
サント・ステファノ騎士団の騎士で、後にヴォルテッラ・ドゥオーモの司祭を務めたベネデット・グアルナッチが自己資金と少額の寄付によって1690年に建設されたそうです。単廊式のサン・フィリッポ・ネリ祈祷所です。


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しかし、聖別されてから程なくして資金難によって閉鎖されてしまいました。グアルナッチの死後、閉鎖と再開を何度も繰り返したそうです。
19世紀前半、建物は若者たちの学校として使用されました。
第一次世界大戦後、聖別されて主に日曜日のミサが行われました。しかし、それも数年間に終わり、閉鎖されてから聖別されることはなく、現在に至ってます。現在、建物は演劇協会の倉庫として使用されているようです。


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左側壁


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ファサード


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サン・フィリッポ通りです。


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聖母子のタベルナコロ


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ドゥオーモに来てしまいました。扉が開いていたので、折角なので拝観することに。


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祭壇画などを見て回りました。


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外に出ました。
(つづく)

1サン・ジュスト教会前の美術館は休館でした。


2
城壁内に戻ります。


3
道の突き当りにサン・フランチェスコ門があります。


4
サン・フランチェスコ門です。


5
サン・リーノ通りを右に折れてサン・フェリーチェ門に向かいます。


6
右折すればすぐに教会のような建物が見えます。


7
教会のような建物の左にあるのがサン・フェリーチェ門です。
サン・フェリーチェ門は旧市街の南西側の出入り口になります。実は、この門の下方にもう一つ門があります。そのため、この門はサン・フェリーチェの上門と呼ばれてます。
また、教会のような建物はマドンナ・デイ・ガベリエーリ礼拝堂です。フェリーチェの上門横にあるので、サン・フェリーチェ礼拝堂(祈祷所)とも呼ばれているようです。


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16世紀に造られたサン・フェリーチェの上門です。


9
マドンナ・デイ・ガベリエーリ礼拝堂の横を下ります。


10
礼拝堂の下にサン・フェリーチェの下門があります。
門に向かって右側に泉があります。


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サン・フェリーチェの泉です。


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水利のために造られた人工の泉(池)です。


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1319年に掘られました。


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1319年に造られたことを示す碑文です。


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12世紀に築かれたサン・フェリーチェの下門です。


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上門に戻ります。


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階段を上ります。


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次はマドンナ・デイ・ガベリエーリ礼拝堂の拝観です。


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マドンナ・デイ・ガベリエーリ礼拝堂の建っている場所には、9世紀頃とされる祠があり、この近くの住民の信仰を集めていましたが、それが前身とされてます。
祠は建物の中に置かれ、礼拝堂となりましたが、建物が経時劣化によって危険になったので、1701年に再建されました。


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中に入りました。


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祭壇


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左側壁


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右側壁


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伝説の祠


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信者席


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祭壇画


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ジュゼッペ・アッリーギ(ヴォルテッラ、1642-1702)の「聖母子と聖フェリーチェ」


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31
(つづく)

1引き続きサン・ジュスト教会です。


2
後陣


3
鐘楼


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右翼廊


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何であるか、私には分かりません。


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以前の建物の4本の柱


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ファサードを見ます。


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拝観します。


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三廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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天井の装飾


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左右の側廊にそれぞれ4つの礼拝堂があります。
16世紀から17世紀にかけて制作された祭壇画がこの教会の美術的な見所と言えるでしょう。


19
コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1540c-ヴォルテッラ、1630c)の「ご訪問」(1590c)


20
「聖母子」の周囲に描かれた「聖人たち」は、チェーザレ・ダンディーニ(フィレンツェ、1596-1657)


21
この「聖母子」がちょっと複雑です。
元々は、トスカーナの逸名画家によるネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1418-1492)作の複製画があったのですが、何らかの理由によって取り外され、現在はネーリ・ディ・ビッチ作品の写真に置き換えれられてます。


22
ピエール・ダンディーニ(フィレンツェ、1646-1712)の「聖オルソラの殉教」


23
ジャンドメニコ・フェッレッティ(フィレンツェ、1692-1768)の「聖フランチェスコ・サヴェリオの説教」(1726)


24
ジュゼッペ・アッリーギ(ヴォルテッラ、1642-1702)の「包囲されたヴォルテッラの人々にヴォルテッラの城壁からパンを投げ入れる聖ジュスト」


25
ジュゼッペ・アッリーギ(ヴォルテッラ、1642-1702)の「聖アッティーニアと聖グレチニアーナの殉教」


26
拝観を終わりました。


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ファサード前の広場


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教会からの景観


30
(つづく)

1サント・ステファノ祈禱所の内部です。


6
ここではChiesa 教会となってます。


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拝観を終わります。


8
外に出ました。


9
この近くに住んでいる住民のための素朴な信仰の場というのが、よく分かりました。


10
サント・ステファノ旧教会と祈祷所はこれで終わりです。


11
次はサン・ジュスト教会です。


12
写真右上に写っているのがサン・ジュスト教会です。


13
丘の上に建っているのでよく目立ちます。


14
ヴォルテッラの城壁から1㎞以上離れてます。


15
ヴォルテッラの守護聖人は聖ジュストと聖クレメンテですが、その二人が葬られているのがサン・ジュスト教会です。そのため、この町では非常に重要な教会となってます。


16
この道をさらに進みます。


17
Borgo San Guistoにやってきました。


18
サン・ジュスト教会が見えてきました。


19
郊外に来たという感じがしました。


20
周囲を見渡したところ、教会以外に特に見所がなさそうです。


21
地元ではサン・ジュスト教会と呼ばれているのが一般的なようですが、正式名称はサンティ・ジュスト・エ・クレメンテ教会となってます。


22
また、サン・ジュスト・ヌオーヴォ教会とも呼ばれてます。


23
現在教会が建っている場所に近くに、紀元前から墓地があったそうです。4,5世紀頃、ほぼ現在地に墓地教会が建設されましたが、その教会が前身です。教会が建設された時期や教会名などの具体的なことは分からないようです。
また、前身とされる教会とは別の教会が近くにあったそうです。その教会名や建設された時期など具体的なことは不明とされてます。


24
6世紀、聖ジュストと聖クレメンテがヴォルテッラで亡くなりました。二人はヴォルテッラの守護聖人であり、恐らく兄弟だったと思われてます。
聖ジュストは、現在のサン・ジュスト教会の前身の教会に埋葬され、何時しかサン・ジュスト教会と呼ばれるようになったそうです。
聖クレメンテは、近くの別の教会に埋葬されました。その別の教会は何時しかサン・クレメンテ教会と呼ばれるようになったそうです。
サン・クレメンテ教会の建物が荒廃したので、12世紀に聖クレメンテの遺体が掘り起こされ、サン・ジュスト教会の聖ジュストの墓に埋葬されました。その後、サン・クレメンテ教会は廃棄されたそうです。
サン・ジュスト教会の横に崖がありましたが、1614年、崖崩れが起きて教会の建物の一部が巻き込まれ崩落してしまいました。その直後、建物の再建が決まり、1627年、最初の建物は解体され、1628年に再建工事が着工されたのです。
工事が難航しましたが、18世紀に一応の完成を見て、1775年に奉献式が執り行われました。その際、教会はサンティ・ジュスト・エ・クレメンテ教会と命名されたのです。


25
教会の銘板


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4本の柱があり、フランドルのナザールの作品である聖人のテラコッタ像が柱の上に置かれます。


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4本の柱は、10世紀のもので以前のサン・クレメンテ教会にあったものだそうです。


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柱の上のテラコッタ像


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左側壁


30
右側壁
(つづく)

1Porta all’Arcoを潜って城壁内に戻ります。


2


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プリオーリ広場です。


4
朝のプリオーリ宮です。


5
市域が小さいので、どうしても同じ場所に何度も来てしまいます。


6
この道を進めばサン・フランチェスコ門に出ます。


7
サン・フランチェスコ教会です。


8
拝観は後日行うことにして、先を急ぐことにしました。


9
サン・フランチェスコ教会を通り過ぎれば、直ぐに門が見えてきます。


10
サン・フランチェスコ門です。


11
町の繁栄と人口増に対応するために13世紀に市域が拡大され、新しい城壁が築かれましたが、その際にピサ方面に向かう道の城門として築かれたそうです。


12
サン・フランチェスコ教会が建設される以前にはピサーノ門、またはサント・ステファノ門とも呼ばれていました。サント・ステファノ門の名称の由来はこの門の先にサント・ステファノ教会があったからです。


15
門扉
門の壁にフレスコ画が残されてます。


13
ヴォルテッラの城門全てにフレスコ画があったとされていますが、現存するのはサン・フランチェスコ門だけです。


14
作品帰属等の詳細が分からないようです。


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城壁外に出ました。


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この辺はBorgo Santo Stefanoと呼ばれてます。


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この道を進めばピサに出ます。


20
道の右側に荒廃した建物らしきものがあります。


21
サント・ステファノ教会だった建物の残骸です。
11世紀に建設されたロマネスク様式の教会でした。13世紀に参事会教会に格付けされ、城壁外の中心教会として繁栄していました。
1784年、トスカーナ大公の命によって抑圧され、修道士たちは追放され、教会は閉鎖されました。


22-1
屋根が崩落して、教会跡は野原となってます。


23
旧サント・ステファノ教会の横に建っているのは、サント・ステファノ祈祷所です。


25
閉鎖された教会の代わりとして、この周辺の人々の信仰のために19世紀に建てられました。


24
中に入ります。


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中に入りました。


27
装飾が殆どない素朴な感じがします。


28
左右の壁に祭壇画があります。


29
詳細不知


30
詳細不知
(つづく)

1サンタッレサンドロ教会です。


2
後陣と鐘楼


3
拝観します。


4
中に入りました。


5
単廊式、ロマネスク様式の内部です。


6
右側壁


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木組みの天井


8
コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1555-ヴォルテッラ、1630)の「聖アッティニアと聖グレチニアーナ」


9
壮大な祭壇画の一部と言われてます。祭壇画の大部分の保存状態が悪く、この部分だけが残されたそうです。


10
聖アッティニア


11
聖グレチニアーナ


12


13
主祭壇


14
主祭壇に向かって左側にある「磔刑」


15
トスカーナの逸名アーティストによる「磔刑」(12世紀)


16


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詳細不知のステンドグラス


18
地元の逸名画家による「聖母子」のフレスコ画(15世紀)


19


20


21
詳細不知のステンドグラス


22
聖櫃(15世紀)
他の教会にあったものだそうです。


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24
外に出ます。


26
外に出ました。


27
城壁内に戻ります。


28
Porta all’Arcoです。


29


30
(つづく)

2翌朝です。


1
夜半に大雨が降りましたが、夜明け前に止んでくれました。


3
ヴォルテッラは、経済の発展、人口増によって市域が拡大されました。城壁が二重になっている箇所は今でも存在します。


4
眼下にサンタッレサンドロ教会が見えます。


5
徐々に天気が良くなってきました。


6
Fontana Monumentale dei Pontiです。


7
水が止められているようでした。


8
この辺は見所がなさそうです。


9


10
ドゥオーモです。


11
城壁内に戻りました。


12
サンタッレサンドロ(聖アレッサンドロ)教会に向かいます。


13
サン・ジョヴァンニの泉です。


15
門が見えてきました。


14
Porta all’Arcoです。


16
紀元前4,3世紀のエトルリア人によって建設されたのが起源のようです。


18
門を潜って城壁外に出ました。


17
門の碑文


19
門を潜ってから道を下ります。


20
道の先に教会があります。


21
サンタッレサンドロ教会です。


22
ローマ時代の異教の寺院がこの場所にありましたが、その遺跡の上に建てられたロマネスク様式の教会です。


23
1120年、第162代教皇カッリスト2世(1060c-1124 在位:1119-1124)によって奉献されました。


24
16世紀にファサードに柱廊が追加されたそうです。


25
柱廊


26
柱廊に入りました。


27
ポータル上ルネッタの彫刻


28
柱頭


29


30
(つづく)

1旧サンタゴスティーノ教会です。


2
サンタゴスティーノ教会の礼拝堂と思われます。


3
ジュゼッペ・アントニオ・ファッブリーニ(フィレンツェ、1748-1795)の「トレンティーノの聖二コラの回心」(18世紀)


4


5
ロッソ・フィオレンティーノ(フィレンツェ、1495-パリ、1540)の「聖母子と二聖人」(1521)


6


7
ジョヴァンニ・マリア・タッチ(ピオンビーノ、16世紀後半消息)の「ピエタのキリストを支える二天使」(1570)


8
ジョヴァンニ・マリア・タッチ(ピオンビーノ、16世紀後半消息)の「玉座の聖母子と二聖人」(1570)


9
教会の遺跡(11-12世紀)


10


11
聖皿


12
聖杯


13
聖杯(18世紀)


14
アントニオ・デル・ポッライオーロ(フィレンツェ、1429/1433-ローマ、1498)の「聖オッタビアーノ」(1470)


15
ネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1418-1492)に帰属する「玉座の聖母子と聖人たち」(15世紀)


16
ステファノ・ダントニオ・ヴァンニ(フィレンツェ、1405-1483)の「磔刑」(15世紀)


17


18


19
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362-1422)の「聖母子」(15世紀)


20
ウリッセ・ジョッキ(モンテ・サン・サヴィーノ、1570c-フィレンツェ、1631)の「救済の聖母」(1614)


21
バルダッサッレ・フランチェスキー二通称イル・ヴォルテッラーノ(ヴォルテッラ、1611-フィレンツェ、1689)の「聖母被昇天」(17世紀)


22
バルダッサッレ・フランチェスキー二通称イル・ヴォルテッラーノ(ヴォルテッラ、1611-フィレンツェ、1689)の「聖母被昇天」


23
バルダッサッレ・フランチェスキー二通称イル・ヴォルテッラーノ(ヴォルテッラ、1611-フィレンツェ、1689)の「聖母の浄化」(1630)


24
シモンディオ・サリンベーニ(シエナ、1597-1643)に帰属する「ご訪問」(17世紀)


25
シエナ派逸名画家による「聖フランチェスコと信者」(1390c)


26
外に出ました。


27
陽が落ちて暗くなっていました。


28
この日の町歩きはこのぐらいにしました。


29
ホテルに戻ります。


30
(つづく)

1引き続き旧サンタゴスティーノ教会に設けられているMuseo Diocesanoです。


2
シエナ派逸名画家による「聖母子と二聖人」(1490-1510)


3
ジャンボローニャ(フランス、1529-フィレンツェ、1608)の「磔刑像」
ヴォルテッラのドゥオーモにありました。


4
制作者情報不明の「磔刑像」(16世紀)


5
制作者情報不明の「磔刑像」(14世紀)


6
シエナ派逸名彫刻家作「聖母子」(13世紀)


7
絵画の「聖母子」は逸名画家によって15世紀に制作された作品です。スタッコ彫刻の「聖人たち」は、ジュゼッペ・マッツゥオーリ(ヴォルテッラ、1644-ローマ、1725)によって1706年に制作されたそうです。


8
アラバスター製の「キリストの洗礼」(17世紀)


9
コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1540-1630)の「羊飼いの礼拝」(1603)


10
コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1540-1630)の「ご訪問」(16世紀)


11
ベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニ(シエナ、1436-1518)の「受胎告知と聖人たち」(1466)


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プレデッラ


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交唱唱歌集(1299)


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交唱唱歌集(1299)


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交唱唱歌集(1257)


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アラバスター製の磔刑、燭台


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ドメニコ・ディ・ミケリーノ(フィレンツェ、1417-1491)に帰属する「玉座の聖母子と聖人たち」(15世紀)


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ネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1418-1492)の「玉座の聖母子」(15世紀後半)


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バルトロ・ディ・フレディ(シエナ、1330-1410)の「聖母子」(14世紀)


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ニッコロ・ディ・セーニャ(シエナ、?-1348c 1331から記録)に帰属する「聖母子」(14世紀)


29
「サン・ピエリーノの磔刑」


30
13世紀に制作された「磔刑像」に、18世紀に制作された「嘆き」を組み合わされたものです。「磔刑像」と「嘆き」の制作者はいずれも不明です。
(つづく)

2ドゥオーモを後にしました。


1
次はサンタゴスティーノ教会です。


3
9月20日広場はもう直ぐです。


4
9月20日広場です。


5
9月20日広場の端にサンタゴスティーノ教会があります。


6
13世紀、サンタゴスティーノ修道会(アウグスティヌス修道会)の修道士たちが行進してヴォルテッラ城壁内に入り、現在教会の建物が建っている場所が与えられ、定住しました。
その直後から修道院教会の建設が始められ、切妻型の屋根を持ち単廊式の教会が13世紀中頃には完成しました。


7
1349年の文書に、サンタゴスティーノ修道会によるサンティ・ジャコモ・エ・ジョヴァンニ病院が修道院教会横の広場に隣接して建設されたという記録があり、それがサンタゴスティーノ修道院教会の存在を示す最初の記録だそうです。


8
18世紀前半、内部は三廊式に改造されましたが、その際、ファサードも改築され現在の外観となったそうです。
1784年、神聖ローマ帝国皇帝でトスカーナ大公だったピオトロ・レオポルド2世(ウィーン、1747-1792)によって修道院教会活動の縮小、停止が命じられ、1785年、サンタゴスティーノ会修道士たちの大半がヴォルテッラを去りました。
数名の修道士が残り、細々と活動していましたが、1807年にすべての活動が停止され、教会は聖別されなくなりました。


9
20世紀初頭、考古学者で美術史家コッラード・リッチ(ラヴェンナ,1858-ローマ、1934)は、ヴォルテッラに教区美術館(Museo Diocesano)を設ける発議を行い、当時のマウリツィオ・カヴァッリーニ司教の二人の尽力によって、廃教会となっていた旧サンタゴスティーノ教会に教区美術館が開館されたのです。


10
1944年、第二次世界大戦の爆撃によって旧教会の建物は大きな被害を受けてしまい、Museo Diocesanoは休館となりました。戦後に修復され、1956年に漸く再オープンされました。
しかし、建物荒廃によって1980年代に再び閉鎖されました。修復工事後の1992年に再開館されましたが、建物が危険、抜本的な修復工事が必要とされ、2012年に閉館されてしまいました。
大掛かりな建物の修復と共に、博物館としての内装が一新されて、2017年に新Museo Diocesanoが快感して現在に至ってます。


12
ファサードのポータル上ルネッタの装飾


13
ファサードの壁龕にある彫刻


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Museo Diocesanoの入り口です。


11
教会内部


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教会内部が美術館ではなかった時代


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Museo Diocesanoとして教会内部が使用されるようになりました。


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天井


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これが非常に目立ちます。


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ベネデット・ブリオーニ(フィレンツェ、1461c-1521)の「ヴォルテッラの聖リーノ像」


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壁に残されたフレスコ画


28
これがMuseo Diocesanoにあるとは驚きです。


29
ドゥオーモの鐘楼横で撮った写真です。一般的にMuseoにあるのが本物でしょう、という事はこちらはコピー?


26
主祭壇


27
フランチェスコ・ヴァルダムブリーノ(シエナ、1375-1435)の「聖母子」(15世紀前半)
ヴォルテッラのドゥオーモにありました。


18
Alessanndoro Riccobaldiの墓


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詳細不知


21
(つづく)

1引き続きドゥオーモの洗礼堂です。


5
洗礼堂ポータルは、二コラ・ピサーノ(プーリア、1210/1220-1278/1287)派(恐らく工房にいた弟子)によって制作されたと言われてます。


2
八角形の内部


4



3
6つの壁龕に彫刻があったと推定されてますが、現存していないようです。


6
ジョヴァンニ・ヴァッカによって制作された洗礼盤(1759)


7
ジョヴァンニ・ヴァッカの洗礼盤は三代目の洗礼盤と推定されてます。


8
洗礼盤上の彫刻は、ジョヴァンニ・アントニオ・サイベイ(カッラーラ、1706-1784)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ像」(1771)


9


10
以前使用されていた洗礼盤(二代目となる)は、アンドレア・サンソヴィーノ(モンテ・サン・サヴィーノ、1467c-1529)によって1502年に制作されたそうです。


15
私はこちらの洗礼盤の方がお気に入りです。


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サンソヴィーノの洗礼盤の彫刻


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洗礼盤の後方に祭壇があります。


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ミーノ・ダ・フィエーゾレ(ポッピ、1429-フィレンツェ、1484)の設計によって、ミーノの工房で働いていたAlessandro Balsimelli da Settignanoによって15世紀後半に制作された祭壇です。


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祭壇の装飾


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祭壇画は、ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530c-1597c)の「聖母被昇天」


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外に出ました。


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ドゥオーモはこれで終わりです。
(つづく)

1右側廊


2
左側廊


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詳細不知


4
司教の墓です。


5
墓下部の装飾


6
アリストドモ・コストーリ(フィレンツェ、1803-1871)の「フィレンツェのフランチェスコ・ガエターノ・インコントリ司教の墓」(1840)


7
フィレンツェは大司教区なので、司教ではなく大司教?


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9


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フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「磔刑」


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どうも見たことがあるような?


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思い出しました、Cappella Serguidiです。


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内部は大体見終わったようです。


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出口に向かいます。


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外に出ました。


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次はサン・ジョヴァンニ洗礼堂です。


20
勿論、ドゥオーモの洗礼堂です。


22
この場所にはローマ神殿があったそうで、その跡地に最初の洗礼堂が建設されたのは7世紀頃とされてます。
現在の洗礼堂は13世後半に建設されたそうで、洗礼堂ファサード横の碑文に1283年完成と刻まれてます。


25
ロマネスク様式ですが、後に一部初期ルネサンス様式に改造されました。


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ファサードの装飾


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ファサードの柱頭


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中に入ります。


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中に入りました。


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左側壁


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右側壁


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八角形の天井


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祭壇、出入口、6つの壁龕からなる八角形の構造をしています。
(つづく)

1Cappella dell Addolorataです。


2
17世紀の格子です。


3
格子の先にプレセーペとフレスコ画があります。


4
格子の先を見る前に、この祭壇画を観ます。


6
イタリアの逸名画家による「聖家族と聖フランチェスコ」(17世紀)


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格子の先はこうなってます。


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アンドレア・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1435-1525)の「幼きキリストへの崇拝」


9
プレセーペ後方のフレスコ画は、ベノッツォ・ゴッツォーリ(フィレンツェ、1420-ピストイア、1497)の「マギの行列」


10
制作されたのは,1473年、1479年の二説があるようです。地元では1479年とされているようです。


11
ベノッツォ・ゴッツォーリは、1459年にこれと同じ主題の「マギの行列」のフレスコ画をフィレンツェのメディチ・リカルディ宮殿に制作しました。


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一旦聖具室に戻りました。


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内陣に戻りました。


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(つづく)

1次の礼拝堂です。


2
Cappella di San Sebastianoです。


3
サン・セバスティアーノ礼拝堂祭壇画は、フランチェスコ・クンジ(ボルゴ・サン・セポルクロ、1560c-1597?)の「聖セバスティアーノの殉教」(1587)


4


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詳細不知の「聖母子と聖人たち」


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聖具室です。


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絵画や彫刻が並んでます。


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詳細不知


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聖具室祭壇


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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木製の「この人を見よ」(16世紀)


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アンドレア・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1435-1525)に帰属する「マギの礼拝」


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23
聖具室を経由してCappella dell Addolorataに入りました。


24
Cappella dell Addolorataの祭壇
(つづく)

1ドゥオーモ内部の各礼拝堂を観て回りました。


2
次はCappella di Immacolata Concezioneです。


3
無原罪の御宿り礼拝堂


4
礼拝堂祭壇画は、ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530c-1597c)の「無原罪の御宿り」(1590)


5


6


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10
次はCappella della Madonna del Rosarioです。


8
複雑な祭壇画です。


9
何人かの芸術家によって制作されました。


11
上下の絵画の制作者、制作された時代が異なります。また、下部中央の彫刻、また祭壇画を取り囲む14の小作品も同様に、制作者、制作された時代が異なります。


12
先ず上部の受胎告知です。


13
フラ・バルトロメオ(フィレンツェ、1472-1517)とマリオット・アルベルティネッリ(フィレンツェ、1474-1515)の「受胎告知」(1497)


14
フラ・バルトロメオとマリオット・アルベルティネッリの二人は、コジモ・ロッセッリ(フィレンツェ、1439-1506以降没)に師事して、コジモの工房で修業しました。直ぐに親友となって、後に独立するのですが、共同で工房を立ち上げ、一緒に仕事をすることが多かったのです。


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下の部分です。


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詳細不知の「ロザリオの聖母」


20
ガエターノ・ピアットーリ(フェッラーラ、1703-ローマ、1774)の「シエナの聖カテリーナ」(1725)


21
ガエターノ・ピアットーリ(フェッラーラ、1703-ローマ、1774)の「聖ドメニコ」(1725)


24
ガエターノ・ピアットーリは主にフィレンツェで活動し、肖像画を数多く手がけました。


22
14の小品が取り囲んでます。


23
二人の画家が制作したそうです。


26
次は墓のモニュメントです。


25
ジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソーリ(フィレンツェ、1507-1563)の「マリオ・マッフェイ司教の墓」(1537c)


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30
(つづく)

1ドゥオーモ内の礼拝堂などを見て回ってます。


2
サン・パオロ礼拝堂です。


3
礼拝堂祭壇画はドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖パオロの回心」


4
ボローニャ派画家に注文した経緯が知りたいです。


5


6
サン・パオロ礼拝堂左側壁です。


7
マッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)の「聖パオロのダマスコからの出発」


8


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サン・パオロ礼拝堂右側壁です。


10
フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「聖パオロの殉教」


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サン・パオロ礼拝堂天井


13
天井の絵画は、ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ(サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ、1592-フィレンツェ、1636)によって1620年から1622年に制作されました。


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次の礼拝堂です。


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フランチェスコ・ヴァルダムブリーノ(シエナ、1375c-1435)の「聖母子」


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24
ヴォルテッラの聖ウーゴの墓です。


25
Raffaello di Andrea Cioliの「聖ウーゴの墓」(1523-27)


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聖ウーゴの墓の上にあります。(詳細不知)


28
聖ウーゴの墓の左側壁


29
詳細不知


30
(つづく)

1内部の芸術作品を観て回ってます。


2
次はCappella Serguidiです。


3
見所が多い礼拝堂として知られてます。


4
先ず礼拝堂主祭壇画です。


5
サンティ・ディ・ティート(ボルゴ・サン・セポルクロ、1536-フィレンツェ、1603)の「ラザロの蘇生」(1592)


6



7
礼拝堂祭壇


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礼拝堂天井


9
礼拝堂天井の絵画はレオナルド・リッチャレッリ(Leonardo Ricciarelli)(ヴォルテッラ、1509c-ローマ、1566)によって16世紀中頃にせいさくされました。


10
レオナルド・リッチャレッリという画家については存じ上げない方が多いかも知れませんが、彼の通称ならばよくご存知かもしれません。ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラがレオナルドの通称です。


11


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12
Cappella Serguidiの左側壁です。


13
ジョヴァンニ・バルドゥッチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1631)の「パンと魚の奇跡」


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15
Cappella Serguidiの右側壁です。


16
ジョヴァンニ・バルドゥッチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1631)の「寺院からの商人たちの追放」


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次は磔刑礼拝堂です。


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13世紀前半のトスカーナの逸名アーティストによる「磔刑」(1228c)


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28
(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


2
中央礼拝堂です。


3
中央礼拝堂後陣のオルガン上にフレスコ画があります。


8
ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530-チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1597)の「永遠なる父」


4


5
ミーノ・ダ・フィエーゾレ(ポッピ、1429c-フィレンツェ、1484)の「主祭壇」(1471)


6
ミーノ・ダ・フィエーゾレのチブリオ


7


9
次はサンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


10
サン・カルロ礼拝堂とも呼ばれてます。


11
祭壇画が秀作です。


12
二人の画家のうちの一人によって制作されたことは確実ですが、未だに特定できていないようです。


13
マッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)、またはヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリ(フィレンツェ、1551-1640)による「聖カルロ・ボッロメーオに顕現する聖母子」


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カミッロ・インコントリとグイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「光悦の聖マリア・マッダレーナ」(1634)


17
カミッロ・インコントリという画家については存じ上げません。


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フランチェスコ・ブリーニ(フィレンツェ、1540c-1586)の「無原罪の聖母」


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詳細不知の磔刑像


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M. Guarguagliniの「パオラの聖フランチェスコ」


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詳細不知


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M. Guarguagliniの作品でしょうか?


28
詳細不知の「最後の晩餐」


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カウンターファサード方向


30
(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


2
私にとっては芸術作品が多く、魅力的な教会です。


3
サン・ジュスト礼拝堂です。


4
サン・ジュスト礼拝堂の祭壇画は、ピエトロ・キャンディード(Pieter de Witte)(ブルージュ、1548-ミュンヘン、1628)の「天上の聖母と聖人たち」(1578)


11


5
ピエトロ・キャンディードは、ヴァザーリの協力者としてフィレンツェなどで活動した画家です。


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右側廊から見た左側廊方向


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右側廊


12
Cappella della Nativita di Mariaです。


13
Cappella della Nativita di Mariaの祭壇画は、フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「聖母の誕生」(1598)


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説教壇


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12世紀に制作されたそうです。


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次はサン・カルロ礼拝堂です。


24
Raffaello di Andrea Cioliの「聖オッタヴィアーノの墓」(1523-27)


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次は聖母の神殿奉献礼拝堂です。


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祭壇画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(フィレンツェ、1535-1591)の「聖母の神殿奉献」(1590)


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31
(つづく)

1ドゥオーモに戻ってきました。


2
ドゥオーモの扉が開いていたので安心しました。


30
プリオーリ宮の後方にドゥオーモがあります。


3
ヴォルテッラのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。
1957年、第260代教皇ピオ12世(ローマ、1876-カステル・ガンドルフォ、1958 教皇在位:1939-1958)によってBasilica Minoreに格付けされたので、正式名称はBasilica Minore e Cattedrale di Santa Maria Assuntaとなってます。


4
教会の歴史ですが、この場所に9世紀頃に建設されたサンタ・マリアに捧げられた小さな教会があったそうですが、それが前身です。
1117年の大地震によって小さな建物が倒壊したので、その上に新たに建設されたロマネスク様式の建物が現在の外観の原形となってます。1120年に奉献され、サンタ・マリア・アッスンタ教会と命名されました。
13世紀後半に拡張され、現在の大きさとなりました。


5
何世紀にもわたって司教座教会となってますが、司教座が置かれた正確な年が分からないようです。


6
鐘楼


9
初代の鐘楼は数度の落雷によって大きな被害を受けたので、1493年に再建された鐘楼が現在のものです。


10
高さ28mの鐘楼
鐘楼の横に有名な彫刻があります。


12
鐘楼の横にある彫刻


20
14世紀頃に制作されたそうです。


7
丘の高所に建設されたドゥオーモは目立ちます。


8
プリオーリ宮から見たドゥオーモです。


11
ファサードを見ます。


13
ポータルの大理石はヴォルテッラのローマ遺跡から持ち込まれたものです。


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ルネッタの装飾


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バラ窓


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毎日扉が開くので容易に拝観できます。


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拝観します。


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中に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、ロマネスク様式の内部です。バジリカ構造をしています。


24
16世紀の修復の際、一部後期ルネサンス様式に改造されました。


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身廊天井


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1842年から1843年に行われた大修復工事の際、柱や床などが新造されました。


28
新しく見えるのは19世紀の修復のためです。


29
(つづく)

1ミヌッチ・ソライーニ宮です。


2
コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1555-ヴォルテッラ、1630)の「聖母子と二聖人」


3


4


5
コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1555-ヴォルテッラ、1630)の「男(Persio Flacco)の肖像」


6


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8
トスカーナの逸名彫刻家作「コジモ2世の彫像」(17世紀前半)


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12
Maestro di Santo Spiritoの「玉座の聖母子と聖人たち」(15世紀末)


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父なる神


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メインパネル


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プレデッラ


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21
レオナルド・ダ・ピストイア(16世紀前半消息)の「聖母子と聖人たち」


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ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450-1523)の「玉座の聖母子と聖人たち」


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展示作品はこれで終わりです。


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外に出ました。
展示作品は少ないものの、ルカ・シニョレッリ、ドメニコ・ギルランダイオ、ロッソ・フィオレンティーノなどの傑作が楽しめる市立美術館でした。


29
ドゥオーモの拝観時間になったので、ドゥオーモに向かいます。


30
(つづく)

1ミヌッチ・ソライーニ宮です。


25
詳細不明(説明板無し)


26


27
詳細不明(説明板無し)


28


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フランドルの逸名画家作「十字架降下」(16世紀初頭)


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33
ドイツの逸名画家作「マギの礼拝」(16世紀初頭)


34


35
フランドルの逸名画家作「聖母子」(16世紀初頭)


36


80


37
ウンブリア、シエナの逸名画家作「十字架降下」(16世紀初頭)


38


39
逸名画家作「聖家族」(16世紀後半)


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41
フィレンツェの逸名画家作「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」(16世紀後半)


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44
ニコロ・チェルチニャーニ(ポマランチェ、1530/1535-1592)の「嘆き」


46


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バルダッサッレ・フランチェスキー二通称イル・ヴォルテッラーノ(ヴォルテッラ、1611-フィレンツェ、1689)の「聖母子と聖人たち」


49


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50
詳細不明(説明板無し)


51


52
詳細不明(説明板無し)


53
詳細不明(説明板無し)


54
詳細不明(説明板無し)


55
(つづく)

1引き続き市立絵画館です。


2
ピエル・カンディード(ブルージュ、1548-モナコ、1612)の「嘆き」


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5
ニコロ・チェルチニャーニ(ポマランチェ、1530/1535-1592)の「聖母戴冠と聖人たち」


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8
ニコロ・チェルチニャーニ(ポマランチェ、1530/1535-1592)の「受胎告知と聖人たち」


9


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11
四つの作品


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14


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17
ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ(フィレンツェ、1492-1544)の「聖ジュゼッペ」


18


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20


21
四つの作品


22


23
詳細不明(説明板無し)


24
(つづく)

1市立絵画館が設けられているミヌッチ・ソライーニ宮です。


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ドメニコ・ギルランダイオ(フィレンツェ、1449-1494)の「天上のキリストと聖人たち」


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ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450-1523)の「受胎告知」


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ロッソ・フィオレンティーノ(フィレンツェ、1495-フォンテンブロー、1540)の「十字架降下」(1521)


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ドナート・マスカーニ(フィレンツェ、1579-1639)の「聖母の誕生」


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ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラ(ヴォルテッラ、1509-ローマ、1566)の「La Giustizia」


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ピエル・カンディード(ブルージュ、1548-モナコ、1612)の「羊飼いの礼拝」


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(つづく)

1ミヌッチ・ソライーニ宮の中庭です。


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プリアーモ・デッラ・クェルチャ(1422-1467消息)の「聖母子と二聖人」


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プリアーモ・デッラ・クェルチャ(1422-1467消息)の「シエナの聖ベルナルディーノ」


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陶器類などの展示


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ピエル・フランチェスコ・フィオレンティーノ(フィレンツェ、1444-1494以降没)の「ピエタのキリスト」


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ネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1418-1492)の「三聖人」


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詳細不明(説明板無し)


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ベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニ・グゥアスタ(シエナ、1436-1518)とマリオット・ディ・アンドレア・ダ・ヴォルテッラ(15世紀後半活動)の「ご誕生」
プレデッラはマリオットによって制作されました。


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プレデッラ


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ザッカリア・ザッキ(アレッツォ、1473-ローマ、1544)の「ピエタのキリスト」


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ベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニ・デル・グゥアスタ(シエナ、1436-1518)のプレデッラ


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何のプレデッラだったのか、分からないようです。


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ミヌッチ・ソライーニ宮のフレスコ画


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(つづく)

1ミヌッチ・ソライーニ宮の中庭です。


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アルヴァーロ・ピレツ・デヴォーラ(1411-1434消息)の「磔刑と聖母と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


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フランチェスコ・ネーリ・ダ・ヴォルテッラ(1338-1371消息)の「ピエタ」


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フィレンツェの逸名画家による「磔刑」(15世紀)


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アルヴァーロ・ピレツ・デヴォーラ(1411-1434消息)の「聖母子と四聖人の多翼祭壇画」


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プレデッラ


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フランチェスコ・ディ・ドメニコ・ヴァルダムブリーノの「受胎告知」(15世紀前半)


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金貨など


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ステファノ・ディ・アントニオ・ディ・ヴァンニ(フィレンツェ、1405-1483)の「聖母子と天使たち」


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プリアーモ・デッラ・クェルチャ(1422-1467消息)の「聖母子と二聖人」


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(つづく)

1引き続き市立絵画館です。


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タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c-1422)の「聖フランチェスコ協会の多翼祭壇画」(1411)


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クスピデの大天使聖ミケーレ


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クスピデの祈るキリスト


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クスピデの受胎告知される聖母


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中央パネル


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左パネル


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右パネル


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裾絵


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詳細不知(説明板無し)


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ヤコポ・ディ・ミケーレ通称ジェラ(1371-1398消息)の「聖母子と二聖人」


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チェン二・ディ・フランチェスコ・ディ・セル・チェンニ(1369-1415消息)の「聖母子と四聖人」


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(つづく)

1プリオーリ宮を後にしました。


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市立絵画館の開館時間が迫ってきました。


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ミヌッチ・ソライーニ宮があるサルティ通りに向かいます。


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趣ある歴史的建造物が建ち並んでます。


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このレストランは美味しいと思います。


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通りの先にミヌッチ・ソライーニ宮があります。


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ミヌッチ・ソライーニ宮が見えてきました。


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扉が開いてました。安心しました。


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19世紀、現在市立絵画館で展示されている有名作品の多くがプリオーリ宮に設置されるようになりました。
1905年、プリオーリ宮に市立絵画館が設置され、一般公開されるようになりました。第二次世界大戦中、一時閉鎖されていましたが、1948年に再オープンされました。
1981年、ミヌッチ・ソライーニ宮で美術特別展が開催され好評でした。翌1982年、特別展で出品された作品に加えて、プリオーリ宮の市立絵画館で展示されていた作品がミヌッチ・ソライーニ宮に移されて、新市立絵画館となったのです。


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市立絵画館の入り口です。


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ミヌッチ・ソライーニ宮の中庭


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中庭を囲む柱廊に展示されている作品です。


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柱廊で展示されている作品の詳細が分かりません。


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展示室に入ります。


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Maestro Toscanoの「彩色磔刑像」(13世紀)


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Maestro di Monterotondo(1320-1340消息)の「聖ウーゴと聖ジュスト」


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シエナ派逸名画家による「聖母子と磔刑」(14世紀)


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タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ1362c-1422)の「トレンティーノの聖二コラと聖ピエトロ」


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タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c-1422)の「聖母子」


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(つづく)

1ドゥオーモ広場にやってきました。


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洗礼堂です。


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ドゥオーモです。


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この時間、ドゥオーモは開いていません。


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拝観時間を確認しました。


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洗礼堂は開いていたので中に入りました。


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洗礼堂の内部


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洗礼堂はドゥオーモの一部なので、ドゥオーモの記事の中で詳しく触れることにします。


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ポマランチョの洗礼堂祭壇画


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洗礼堂の天井


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後で拝観します。


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プリオーリ広場を経由しないと絵画館に行けません。


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絵画館のオープンまで少し時間があるので、暫し時間潰しが必要です。


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突き当りがプリオーリ広場です。


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ポデスタの塔が組み込まれたプレトーリオ宮


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プリオーリ広場です。


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プリオーリ宮


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プリオーリ宮の中に入ります。


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外壁


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(つづく)

1ヴォルテッラはエトルリア人起源の町だそうです。


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アラバスター産業で大いに栄えました。


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中世の頃、町はヴォラテッラエと呼ばれていたそうです。


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12世紀頃、フィレンツェとの派遣争いが始まりました。


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絶え間ないフィレンツェとの闘いによって、ヴォルテッラは消耗して次第に衰退の道を歩くことになりました。


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遂に15世紀にフィレンツェの軍門に下り、フィレンツェから派遣された執政官によって治められるようになりました。


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ヴォルテッラの堅固な城塞はフィレンツェの監獄となり、この町はフィレンツェの凶悪犯、政治犯を閉じ込める煉獄として悪名高い町として恐れられることになりました。


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現在でも煉獄の町としての側面を持ってます。


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東の方向に進んでます。


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道の突き当りに門があります。


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14世紀から17世紀に建設された建物が並んでます。


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門が見えてきました。


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門にやってきました。


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町の東に設けられたPorta all’Arcoです。


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門を潜って城壁外に出ました。


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門の歴史は古く、最初に門が築かれたのはローマ時代に遡るそうです。


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その後、何度も再建。修復を繰り返したそうです。


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門の再建、修復は住民が主体となって行われましたが、それを示す記念碑があります。


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門の横にバスターミナルがあります。


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Porta all’Arco周囲の城壁は特に高く、堅固に造られてます。


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城壁内に戻ります。


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天気が良くなってきました。


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ドゥオーモに向かいました。


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この時間、ドゥオーモの扉は多分開いていませんが、洗礼堂は開いているはずです。


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洗礼堂は一見の価値があります。


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(つづく)

1ヴォルテッラは、台地の上に築かれた町なので見晴らしが良いことで知られてます。その見晴らしは城壁外に出ないと楽しめません。


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道の突き当りに門が見えてきました。


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町の北の出入り口に当たるポルタ・フィオレンティーナです。


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門を潜って城壁外に出ました。


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ポルタ・フィオレンティーナは初期キリスト教会のChiesa di Sant’Agoloの建物お一部を改造されて造られたそうです。


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ヴォルテッラの城壁は、今でもほぼ完全な形で残されてます。


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ローマ劇場に向かいます。


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城壁内の建物


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城壁外からの見晴らし


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この下にローマ劇場があります。


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眼下は考古学公園になってます。


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ローマ劇場です。


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ローマ劇場を含む、この辺の遺跡は1950年代に発見され、直ちに発掘が行われたそうです。


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ローマ劇場は、3世紀末頃には放棄され、劇場の隣に温泉施設が建設されました。写真は温泉施設の遺跡と言われてます。


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ローマ劇場は紀元前1世紀末頃に建設されたとされてます。


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劇場は約3500人の観客席があったそうです。


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写真右奥に写っているのはサン・ジュスト教会です。


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この日の翌日にサン・ジュスト教会に行きました。


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城壁内に戻ります。


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城壁内に戻りました。


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写真右に写っているホテルに泊まったことがありますが、私の好みではありませんでした。


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13世紀末から4世紀初めに建設されたCasa Torreです。


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(つづく)

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