イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: ルカ・シニョレッリの作品を訪ねて

1写真はアンギアーリです。
1484年、ルカ・シニョレッリはアレッツォからボルゴ・サン・セポルクロに向かいましたが、その途中でアンギアーリに立ち寄りました。



52.パリ ルーブル美術館
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ルーブル美術館は、私にとって曰く言い難しの存在です。


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傑作秀作の宝庫なので必訪ですが、ナポレオン嫌いなのでイタリアからの略奪品の宝庫とも言えるのです。カラヴァッジョ作品を見るために何度も行きました。
例によって脱線してカラヴァッジョの作品です。


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カラヴァッジョの「聖母の死」


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カラヴァッジョの「女占い師」


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カラヴァッジョの「マルタ騎士団長アロフ・ド・ヴィニャクルの肖像」
本題のルカ・シニョレッリの作品に戻ります。


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ルカ・シニョレッリに帰属する「改悛の聖ジローラモ」


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一時期、ルカ・シニョレッリと一緒に仕事をすることが多かったバルトロメオ・デッラ・ガッタ(フィレンツェ、1448‐アレッツォ、1502)の作品説も有力でした。
この作品の出所や所有の経緯が明確になっていませんが、1913年にルーブル美術館の所有となりました。


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ルカ・シニョレッリの「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」


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縦33㎝横70㎝と言うサイズから明らかに祭壇画のプレデッラの一部と分かります。


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この裾絵のメインパネルですが、ペルージャのドゥオーモにあった「サントノフリオ(聖オノフリオ)の祭壇画」と言う説が定説となってます。


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ペルージャのドゥオーモです。
「サントノフリオの祭壇画」のメインパネルは聖堂内から隣接する大聖堂付属美術館に移されました。


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ペルージャのサン・ロレンツォ大聖堂付属美術館の入り口


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サントノフリオの祭壇画(メインパネル)です。


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祭壇画は1484年にサントノフリオ礼拝堂に設置されました。1608年にサントノフリオ礼拝堂が改修されましたが、それを機にドゥオーモ内の別の場所に移設されました。


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オリジナルの額縁は1648年までは残っていた記録が残されており、メインパネルとプレデッラは分離されていなかったと思われます。

プレデッラの「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」は、1824年にルイ18世のコレクションからルーブル美術館の所有となりました。


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ルカ・シニョレッリの「人物群像」


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「人物群像」は祭壇画の断片と思われてますが、元となった祭壇画については全く分かってません。
ギリシャ、ローマ時代の彫刻や古代美術に関する19世紀最大のイタリアの美術収集家と言われたジャンピエトロ・カンパーナ(ローマ、1808-1880)のコレクションがありましたが、1863年、その一部をルーブル美術館に売った中の一枚が「人物群像」です。


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ルカ・シニョレッリの「マギの礼拝」

この作品は、縦326㎝横243㎝の大サイズであり、祭壇画のメインパネルです。何処にあったのか、また所有の変遷も明らかになってます。


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チッタ・ディ・カステッロのサンタゴスティーノ教会です。
サンタゴスティーノ教会の主祭壇画として、ルカ・シニョレッリによって1493年から1494年に制作されたのが「マギの礼拝」です。完成した祭壇画は1494年に中央礼拝堂に設置されました。
1789年に地震によってサンタゴスティーノ教会の建物が大きな被害を受けたので、建物が再建されることになりました。現在の教会外観はその再建されたものです。
再建に際して、ルカ・シニョレッリの祭壇画はパネル毎に分解され、売りに出されました。
メインパネルの「マギの礼拝」は、教皇庁に売却されました。その後、前述のジャンピエトロ・カンパーナが手に入れ、1863年に他の作品と共にルーブル美術館に収蔵されました。
分解されたプレデッラですが、そのうちの一つである「受胎告知」がフィラデルフィア美術館にあります。


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ルカ・シニョレッリの「受胎告知」(フィラデルフィア美術館蔵)

「マギの礼拝」のプレデッラの一部です。



53.バーミンガム バーバー研究所美術館 Barber Institute of Fine Arts
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イギリス、バーミンガム大学のキャンパス内にあるハーバー美術研究所です。この建物はイギリスの美術史研究に特化した建物として、1939年にメアリー女王によって開所されました。


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バーミンガムjの広大な郊外の不動産業で財を成したヘンリー・バーバーの未亡人マーサ・バーバーは、記憶に残る形でバーミンガム市に恒久的な貢献を行うことに決め、1932年にバーバー研究所が設立され、その資産と共にバーミンガム大学に寄贈されました。
1933年、バーバー未亡人が亡くなり、その遺産全てが大学の芸術と音楽の研究に委ねられました。譲渡を受けたバーバー夫妻による資産は、研究所向けに最高品質の美術品のみを購入することに費やされました。
そうして購入された美術品がハーバー研究所の展示の核となってます。
ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリの「ニッコロ・ヴィテッリの肖像」

ニッコロ・ヴィテッリ(チッタ・ディ・カステッロ、1414‐1486)は、有名な傭兵隊長であり、チッタ・ディ・カステッロのシニョーリ(領主)でした。ニッコロの息子たちの肖像画描いており、そのうちカミッロとヴィテッロッツォの2点がフィレンツェのイ・タッティにあります。
ニッコロの肖像画は息子たちの肖像画を一緒に描かれたと思われることから、ニッコロの肖像画はニッコロの死後に描かれたという説が定説になってます。



54.スコットランド グラスゴー ポロックハウス Pollok House
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ポロック・ハウスは、1725年に建設されたスターリング=マクスウェル家の邸宅です。1966年、建物と広大な敷地や絵画などを所有していた同家によって、グラスゴー市に寄贈されました。


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ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリの「嘆き」

「嘆き」は、シエナのサンタゴスティーノ教会Cappella BichiにあったPala Bichiのプレデッラの一部です。


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シエナのサンタゴスティーノ教会です。


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Pala Bichiの現存するパネルと彫刻の配置図
「嘆き」はプレデッラ3枚の中央にあったと考えられてます。
Pala Bichiについては、既に何度も触れました。


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Cappella Bichiの壁に描かれたルカ・シニョレッリのフレスコ画
(つづく)

4写真はロレートのドゥオーモです。
ルカ・シニョレッリの時代、祭壇画について第三者による鑑定評価が必要になる場合があったようです。記録が残っていることに限っても、ルカは二回鑑定評価依頼を受けました。その一つは、ロレート大聖堂のオルガンの蓋に描かれた「受胎告知」の評価依頼でした。また、ルカの祭壇画制作契約において、第三者による鑑定評価を行わないとの条項が入っている契約が残されてます(但し、一例だけ)。



48.ハンガリー ブダペスト美術館 Budapest Museum Fine Arts
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ブダペスト美術館です。


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1900年から1906年に建設された新古典様式の建物に10万点以上の作品が展示されてます。
ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリの「聖ヤコブと生ける巡礼者と死んだ巡礼者」
滅多に採用されない主題の作品で、その出どころは「黄金伝説」と言われてます。スペインの有名な巡礼地サンチャゴ・コンポステーラへの巡礼者を慰労するために馬上の聖ヤコブが巡礼者の前に顕現し、生きた巡礼者と死んだ巡礼者を巡礼地コンポステーラまで15日間の旅程を一晩で運んだという主題です。
縦34㎝横26㎝の小パネルの作品で、そのサイズから祭壇画裾絵の土台部分だったと推察されて、その祭壇画のメインパネルを探す検討が長らく行われてきました。
聖ヤコブが描かれているメインパネルとしてブレラ絵画館所蔵の「聖母子と聖人たち」がそれではないかと提唱され、現在その可能性が高いとされてます。


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ミラノのブレラ絵画館


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ブレラ絵画館所有のルカ・シニョレッリの「玉座の聖母子とと聖人たち」(1508)

これはアルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会修道院にあったもので、現在フランチェスコ教会に戻されているとの説があります。


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アルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会


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アルチェヴィアのサン・フランチェスコ修道院教会のキオストロ

なお、「聖ヤコブと生ける巡礼者と死んだ巡礼者」は、1857年にローマのモンテ・ディ・ピエタ(慈善質屋)にありましたが、エステルハージ邸宅のコレクションに入りました。エステルハージ邸宅のコレクション約700点はブダペスト美術館のヨーロッパ絵画展示の中核を成してます。



49.ダブリン アイルランド国立美術館
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カラヴァッジョの有名な作品があるので、時々訪れてます。一回だけ展示されていないときがあって、無駄足となって大落胆しました。貸出中なのか修復中なのか、そのような説明もありませんでした。


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カラヴァッジョの「キリストの逮捕」
折角なので作品画像を載せておきましょう。


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カラヴァッジョの自画像が描かれてます。


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カラヴァッジョは余計です。ルカ・シニョレッリの作品に話を戻しましょう。
アイルランド国立美術館にルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリの「シモン家の饗宴」
有名なPala Bichiのプレデッラの一部です。世界中の美術館にPala Bichiのパネルが散らばっているので、これまでに何度も取り上げました。
復習の意味で再度取り上げます。


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残存しているパネルによるPala Bichiの配置図


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シエナのサンタゴスティーノ教会です。
右翼廊にBichi家の個人礼拝堂がありましたが、Pala Bichiはその礼拝堂の主祭壇画でした。


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シエナのサンタゴスティーノ教会は、1747年の地震によって壊滅的な被害を受けました。17世紀後半までにBichi家は窮乏してしまい、Bichi家礼拝堂は教会の重荷になっていました。そのため、地震後の建物の大修復、一部再建工事着工の際にPala Bichiはパネル毎に分解され売却されました。また、礼拝堂の壁にルカ・シニョレッリのフレスコ画がありましたが塗り潰されてしまいました。


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Bichi家礼拝堂のルカ・シニョレッリのフレスコ画
最近行われた修復工事の際にルカ・シニョレッリのフレスコ画が発見されました。

さて、アイルランド国立美術館の「シモン家の饗宴」ですが、1887年にクリスティーズのオークションでダブリン・ギャラリー(アイルランド国立美術館の前身)が落札しました。
それ以前の所有者は数度変わったようですが、詳細は不明です。



50.ミュンヘン アルテ・ピナコテーク
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バイエルンのルートヴィッヒ1世のラファエッロの「テンピの聖母」の収集に纏わる話によって、当時の美術品収集の実態が分かります。美術品は宝物なんですね。


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ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子のトンド」(1490年代?)
右に描かれた裸の男はスピナリオ像と言われてます。先に触れたPala Bichiにも描かれていました。


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この作品は1894年までフィレンツェのPalazzo Ginoriにありました。同年、本美術館が購入しました。


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フィレンツェのPalazzo Ginori
この建物は16世紀初頭にジノリ家の当主カルロ・ジノリによって建設されましたが、この作品はカルロの注文によって描かれたという説があります。



51.パリ シャリス ジャクマール・アンドレ美術館
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パリの北にあるフランスのシトー会のシャリス修道院です。過っての修道院だった建物は廃墟になってます。廃墟となった修道院の隣に18世紀前半に建てられたジャン・オーベールの城があります。


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1902年、銀行家の御曹司で、莫大な財産を美術品購入に注力したエドゥアール・アンドレの妻で未亡人となったネリー・ジャクマールは城を買い取りました。城の敷地内のすべての建物に夫妻で収集した美術品を収蔵したいと考えての城の取得でした。
エドゥアール・アンドレとネリー・ジャクマールの夫妻は毎年イタリアを訪れ、イタリアの美術品収集に努めました。エドゥアール・アンドレが亡くなって未亡人となったネリー・ジャクマールは、その生涯の残りの年月をイタリア美術品収集に捧げ、夫妻のコレクションはイタリア美術品のフランスで最も優れたものになりました。


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制作者不明の「ネリー・ジャクマールの肖像」
1912年、ネリー・ジャクマールは財産とコレクションのすべてをフランス国際研究所に寄贈するとの遺言残して没しました。


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ジャクマール・アンドレ美術館はそうしてできたパリの公立美術館です。


ルカ・シニョレッリの作品が2点あります。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖人(具体的には不明)」(1490年代?)


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この作品は、1888年にエドゥアール・アンドレがフィレンツェの画商でフィレンツェの美術研究所教授のエミリア・コンスタンティーニ(1842-1926)から購入したものです。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人 または聖家族」
(つづく)

1ルカ・シニョレッリが同業者の中で最も親密だったのはピントゥリッキオだったと思います。一緒に仕事をしたのは勿論のこと、ピントゥリッキオの息子の洗礼を行い名付け親になったことでも良く分かります。ルカ・シニョレッリがシエナに行けば、彼と会っていたようです。



45.オランダ アムステルダム国立美術館 Rijksmuseum Amsterdam
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オランダの国立美術館はハーグにあったそうです。1808年、侵攻してきたナポレオンによってアムステルダムに移転されました。
17世紀のオランダ絵画黄金時代の作品の宝庫です。17世紀のオランダ絵画界は非常に不思議に思えます。1640年から1660年の20年間に130万点以上の絵画が制作されました。何れも画家の技量は優秀で、その出来栄えは素晴らしい。しかし、その作品数は明らかに供給過剰であり、画業で生計を立てるのが難しかったと思われます。


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ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリの「ゲオルギウスと竜」(1490c-1510c)

制作の経緯が全く分からないばかりか、何処にあったのかさえも分からないようです。一般的にこのようなパネルはプレデッラである場合が結構あるのですが、本パネルの縦55㎝横77㎝と言うサイズはプレデッラにしては大き過ぎます。また、プレデッラとすれば「ゲオルギウスと竜」に関連する主題の同サイズのパネルが存在する筈ですが、それも無いのです。

このパネルは、19世紀にロンドンの収集家のコレクションにありましたが、オランダの実業家で美術収集家だったEdwin von Rath(1863-1940)に売れられました。エドウィンは特にイタリア美術品収集に力を入れましたが、自分の収集物がオランダの美術館に貢献することを望み、生前からアムステルダム国立美術館に貸し出していました。この作品はエドウィンの遺言によって1941年に同美術館に遺贈された作品の一つです。



46.ベルリン、絵画館 Gemaldegalerie
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絵画館は、ベルリン国立美術館の一部で、13世紀から18世紀のヨーロッパ美術品を展示しています。


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第二次世界大戦によって、この絵画館にあった貴重な作品が消失してしまいました。
ルカ・シニョレッリの作品が3点(4パネル)あります。
ルカ・シニョレッリの作品が3点あります。


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ルカ・シニョレッリの「老人の肖像」(1490c)
この作品は、19世紀初頭にフィレンツェのアルノ川左岸オルトラルノ地区のPalazzo Torrigianiにありました。
1894年にベルリン美術館がトッリジャーニ家から購入しました。


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フィレンツェのPalazzo Torrigianiです。
19世紀初頭に相続によってPalazzo Torrigianiを手に入れたトッリジャーニ家は、住居兼美術コレクションの展示場所にするために建物を改造しましたが、そのコレクションの中に「老人の肖像」がありました。


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しかし、「老人の肖像」はPalazzo Torrigianiが建設された当初から建物内にあったとの説があり、15世紀初頭に建築家バッチョ・ダーニョロに対して建物の建設を注文したロベルト・ナーシの肖像画説が出されました。
また、近年になって、この人物は人文主義者でメディチ家のプラトンアカデミーの主要メンバーだったクリストフォロ・ランディーノ(フィレンツェ、1424‐プラートヴェッキオ、1498)ではないか、との説が提唱され、有力とされてます。
クリストフォロ・ランディーノの肖像はドメニコ・ギルランダイオによって描かれてます。


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フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂トルナブオーニ礼拝堂に描かれたドメニコ・ギルランダイオのフレスコ画です。
画面左から二番目がクリストフォロ・ランディーノです。


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ルカ・シニョレッリの「ご訪問と聖家族と聖ジョヴァンニーノの家族」


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ルカ・シニョレッリの署名が入ってますが、制作年の記載がありません。
ベルリン美術館がローマの収集家から購入しましたが、それ以前の持ち主の変遷が不明です。
シエナの僭主パンドルフォ・ペトルッチ(シエナ、1452‐サン・クィリコ・ドルチャ1512)の相続人の1539年の財産目録に記載がある作品です。


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この作品があったシエナのPalazzo del Magnificoです。Palazzo del Magnificoはパンドルフォ・ペトルッチの住居でした。


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ルカ・シニョレッリはPalazzo del Magnificoにフレスコ画も描きました。これは剥離フレスコ画で、ロンドンのナショナルギャラリーにあります。


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ルカ・シニョレッリの「聖人たち」
二枚のパネルに描かれてます。この二枚は多翼祭壇画の一部です。


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シエナの聖カテリーナ、マグダラのマリア、聖ジローラモ


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聖アゴスティーノ、アレッサンドリアの聖カテリーナ、パドヴァの聖アントニオ


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2枚のパネルは有名なPala Bichiのものです。


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シエナのサンタゴスティーノ教会です。
サンタゴスティーノ教会ビキ家礼拝堂の主祭壇画がPala Bichiです。


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ビキ家礼拝堂に描かれたルカ・シニョレッリのフレスコ画



47.ルーマニア ブカレスト Museo Nazionale d’Arte Rumena
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1812年に創建され、1937年に完成したブカレスト王宮です。


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王宮だった建物に美術館になったのは1950年でした。7万点以上の美術品を所有しています。
ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリのプレデッラ
不完全なプレデッラで、左側に切り取られた部分があると推定されてます。


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海辺の聖アゴスティーノ


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アブラハムに現れる天使


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井戸に隠れる聖アタナシウス

このプレデッラのメインパネルですが、プレデッラに描かれた聖アゴスティーノと聖アタナシウスから、両聖人がメインパネルに描かれた、フィレンツェのウフィッツィ美術館の「三位一体」と言うのが定説になってます。


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ルカ・シニョレッリの「三位一体」


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ウフィッツィ美術館の作品説明板


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人気のないウフィッツィ美術館


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ウフィッツィ美術館にある「三位一体」はコルトーナのサンティッシマ・トリニタ教会修道院にありました。


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(つづく)

11480年代後半、ルカ・シニョレッリはフィレンツェのメディチ家の庇護を受けるようになりました。1490年代初頭、フィレンツェ、ヴォルテッラからコルトーナに戻ったルカ・シニョレッリは、ロレンツォ・イル・マニーフィコの支援を受けて、過ってフィレンツェのゲルフ派が所有していたコルトーナのポポロ宮の地下に工房を構えました。



43.ニューヨーク メトロポリタン美術館
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札束で世界中の美術品を買い集めた美術館です。


3
当たり前ですが、ルネサンスの三巨人、カラヴァッジョ、ルカ・シニョレッリなどの芸術家はアメリカと無縁です。
カラヴァッジョの作品を見るために時々訪れてます。
余計ですが、メトロポリタン美術館のカラヴァッジョ作品を載せておきましょう。


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カラヴァッジョの「聖ピエトロの否認」(1609-10c)


5
カラヴァッジョの「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1600-05c)
個人所有ですが、メトロポリタン美術館で展示されてます。


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カラヴァッジョの「音楽師たち」(1595c)


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カラヴァッジョの「リュート奏者」
個人所有ですがメトロポリタン美術館で展示されてます。
本題のルカ・シニョレッリの作品に話を戻しましょう。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子」


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この作品は、1507年4月10日付の公正証書に記された記述がその裏付けとされてます。
19世紀後半に記された、コルトーナのCasa Tommasiの所有作品リストに、この「聖母子」が記載されているそうです。1893年に売りに出され、所有者が2回変わりました。20世紀前半、ニューヨークの銀行家が20万ドルで手に入れ、1949年にその銀行家がメトロポリタン美術館に寄贈しました。


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コルトーナのサンタ・マルゲリータ教会です。
「1507年4月10日、ルカ・シニョレッリは、コルトーナのサンタ・マルゲリータ教会の薬局にて、コルトーナの市民などの証人、公証人である私の目の前で、ルカ・シニョレッリ夫妻の娘であるガブリエーラに対して、腕に子供を抱いた聖母マリアの半身像と精巧な金色の背景を持つ小さな絵画、及び約2フローリンの大きな金貨を与えました。」との内容の公正証書があります。
この公正証書に記された『腕に子供を抱いた聖母マリアの半身像と精巧な金色の背景を持つ小さな絵画』がメトロポリタン美術館で展示されている「聖母子」であるとの説が定説になってます。


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ルカ・シニョレッリの「聖母被昇天」

この作品は1480年代後半に制作され、その大部分は工房の助手の手になるものとされてます。


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「聖母被昇天」は、1860年にコルトーナのサンティッシマ・トリニタ修道院教会にあったという記録が残されてますが、それが最初の記録となってます。


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ところが、コルトーナのサンティッシマ・トリニタ修道院教会は1582年に創建されたので「聖母被昇天」は何処から移されたことが分かります。
「聖母被昇天」に描かれた大天使聖ミケーレから、この作品はコルトーナのサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会のために制作されたという説が提唱されました。


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コルトーナのサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会


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コルトーナのサン・ミケーレ・アルカンジェロ修道院は、ルカ・シニョレッリの息子アントニオの嫁Matthea Scaramucciaとの関係で、ルカ・シニョレッリが何かと関係がありました。



44.アメリカ ペンシルベニア州 フィラデルフィア美術館 Philadelphia Museum of Art
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所蔵作品の質、量に於いて世界有数の規模を持つ美術館です。


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アメリカと言う成り立ちの国の典型的とも言える美術館で、大半の展示作品は札束を積んで買い集めた金満家によるものです。ゴシック、ルネサンス、バロックなどは元々アメリカに存在しないのですから、それは当然です。

ルカ・シニョレッリの作品が4点あります。4点共にジョン・グレイヴァ・ジョンソンが収集し、フィラデルフィア美術館に遺贈されたものです。
ジョン・グレイヴァ・ジョンソン(フィラデルフィア、1841‐1917)は非常に成功を収めた弁護士でしたが、その趣味は美術収集でした。彼のコレクションのうち、1000点以上をフィラデルフィア美術館に遺贈するとの遺言を残しました。


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ルカ・シニョレッリの「若い男の肖像」

制作の経緯や誰の肖像画なのか不明となっている作品です。
この作品は、ドイツの美術史家ヴィルヘルム・フォン・ボーデ(1845‐1929)が所持していました。しかし、ボーデが所持する以前のことは不明のようです。ボーデによってルカの作品であると断定されました。
ボーデは、イタリア・ルネサンス、オランダ・フランドルのバロック芸術の専門家で、権威ある研究を数多く行い、その功績によって貴族に任じられ「フォン」と名乗るようになりました。
1904年、カイザー・フリードリヒ美術館を創設し、その初代学芸員を務めました。
1911年、ジョン・グレイヴァ・ジョンソンがこの作品をヴィルヘルム・フォン・ボーデから購入して、ジョンソンのコレクションの一つとなりました。


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ルカ・シニョレッリの「羊飼いの礼拝」

そのサイズ(縦36㎝横43㎝)と画題からプレデッラの一部であり、しかも、「羊飼いの礼拝」と対を成すプレデッラパネルは、ニューヘイブンのイェール大学美術館所蔵の「マギの礼拝」であるとの説が定説になってます。


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イェール大学美術館にある、ルカ・シニョレッリのプレデッラ「マギの礼拝」です。


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プレデッラの「羊飼いの礼拝」(フィラデルフィア美術館蔵)と「マギの礼拝」(イェール大学美術館蔵)の祭壇画のメインパネルとして提唱されているのが、ルカ・シニョレッリの「聖母子と四聖人」です。


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「聖母子と四聖人」はコルトーナのMuseo Diocesanoにあります。


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コルトーナのMuseo Diocesano


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コルトーナのサン・フランチェスコ教会

メインパネル「聖母子と四聖人」に描かれている四聖人がフランチェスコ会修道士聖人であることから、この祭壇画はコルトーナのサン・フランチェスコ教会のために描かれたという説が有力とされてます。


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コルトーナのサン・フランチェスコ教会内部

フィラデルフィア美術館の「羊飼いの礼拝」のプレデッラ・パネルの所有者の変遷は不明です。ジョン・グレイヴァ・ジョンソンが記したコレクション目録によれば、1911年にフィレンツェの美術収集家、画商でもあったLuigi Grassiから購入しました。


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ルカ・シニョレッリの「受胎告知」

この「受胎告知」は明らかに祭壇画のプレデッラの一部と考えられてます。
その祭壇画ですが、メインパネルはルーブル美術館にある「マギの礼拝」であろうというのが定説になってます。


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ルーブル美術館にある、ルカ・シニョレッリの「マギの礼拝」

この作品はナポレオンのイタリア侵攻の際、フランスに略奪されたものなので、その制作に関する経緯は明らかになってます。


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チッタ・ディ・カステッロのサンタゴスティーノ教会です。


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ルカ・シニョレッリの祭壇画「マギの礼拝」は、チッタ・ディ・カステッロのサンタゴスティーノ教会の主祭壇画として1493年から1494年に制作されました。

ジョン・グレイヴァ・ジョンソンが記したコレクション目録に、プレデッラパネル「受胎告知」を1910年にパリのゴルーベフ伯爵から購入したと記されてます。尚、それ以前の所有者は不明です。
この「受胎告知」は滅多に展示されないようです。


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ルカ・シニョレッリ(フランチェスコ・シニョレッリ?)の「聖マリア・マッダレーナ」
甥のフランチェスコ・シニョレッリの作品である可能性が高いとされてます。
制作された経緯が全くの不明です。
ジョン・グレイヴァ・ジョンソンのコレクション目録には、1902年にオランダの画家レオ・ナルダスから購入と記されてます。
(つづく)

1ルカ・シニョレッリは、過って1441年生まれとされていた時代がありました。今では1441年から1445年の間に生まれたというのが定説になってます。


2
生まれたのはコルトーナであることは確実ですが、コルトーナの具体的な場所は分からないようです。サンタゴスティーノ修道院近くだったという説があります。


39.Boston Museum of Fine Arts
3
ボストン美術館です。
50万点以上の所蔵作品を誇り、見るのが大変です。


6
日本美術については、質と量の両面で日本国内の美術館よりも勝り、色々と考えさせられる美術館です。
ルカ・シニョレッリの作品が2点あるとされてますが、私は「そうかなあ?」と思います。


4
ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」
作品目録には載ってますが、私は観たことがありません。近頃、展示されたことがないと思います。


5
ルカ・シニョレッリの「聖母子と天使」
ヴァザーリの記述によれば、ルカ・シニョレッリの画風は師匠のピエロ・デッラ・フランチェスカの模倣で、師匠を越えようと躍起になっていたそうで、独自の画風を確立する以前に描かれたとされてます。
ボストン美術館側はルカ・シニョレッリの作品としていますが、今でもこの作品をピエロ・デッラ・フランチェスカ派逸名画家の作品としている美術史家が少なからずいるようです。
この作品は個人のコレクターの許を転々としていましたが、20世紀初頭にミラノのガッレリア・ペーザロの所有となりました。1922年、ボストン美術館がミラノのガッレリア・ペーザロから37,985ドルで購入しましたが、その時はピエロ・デッラ・フランチェスカの作品として売買されたそうです。


40.デトロイト美術館 Detroit Institute of Arts
7
古代エジプトから現代美術までの幅広い展示が特徴です。


8
カラヴァッジョの作品があるので、時々訪れてます。


11
カラヴァッジョの「聖マルタと聖マリア・マッダレーナ」(1598c)
余計ですがカラヴァッジョの作品写真を載せておきましょう。

ルカ・シニョレッリの作品に戻ります。
同じ裾絵と思われる2枚のパネルがあります。


9
ルカ・シニョレッリの「使徒たちとキリスト」


10
ルカ・シニョレッリの「我に触れるな」

2枚のパネルは同じサイズです。
何処にあったのか、何の祭壇画の裾絵だったのか、明らかになってません。しかし、有力とされる2つの説があって、そのどちらかであるというのが定説のようです。


12
そのうちの一つは、コルトーナのジェズ教会にあったとされてます。しかし、そのメインパネルは不明です。
写真左がコルトーナのMuseo Diocesano、右の建物がジェズ教会です。


13
コルトーナのジェズ教会


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コルトーナの旧サン・ヴィンチェンツォ教会です。


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ルカ・シニョレッリの「聖トンマーゾの不信」
「聖トンマーゾの不信」は、コルトーナのサン・ヴィンチェンツォ修道院教会にありましたが、1995年の火災によって消失しまい、白黒写真しか残ってません。
デトロイト美術館の裾絵2点は、この祭壇画の裾絵だったというのが、もう一つの有力説です。
なお、教会は火災による内部の損傷が激しく、修復する価値なしとの判断をされたようで、聖別されなくなったようです。

裾絵2点の初めての存在確認記録は、「1900年にコルトーナの個人収集家が保有していた」でした。その後、フィレンツェの画商エリア・ヴォルピが手に入れ、1916年に画家、美術評論家のウォルター・パックに売りました。1929年、デトロイト美術館がパックから購入しました。



41.アメリカ、ミズーリ州カンザスシティ Nelson-Atkins Museum Art
16
カンザスシティにあるネルソン=アトキンス美術館です。


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この美術館は資産家二人、新聞で財を成したネルソン氏と投資家の未亡人アトキンスが寄贈した莫大な資産を元手に、美術品を買い集めて無から出発したところに特徴があります。当時世界恐慌のために多くのコレクターが保有する美術品を安価で売りに出したことが大いに幸いしました。
時代を問わず、また地域を問わず買い集めた作品ばかりで、幅広いのですが、その反面コンセプトに欠ける点が残念です。例えば、フィレンツェのウフィッツィ美術館・パラティーナ美術館やシエナの国立美術館、ボローニャの国立美術館などと比べると、その点が良く分かります。
ともあれ、ネルソン・アトキンス美術館はアメリカだけでなく世界的に最も大きな美術館の一つなのです。


19
カラヴァッジョの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」
この作品があるので、観るために時々訪れてます。
本題のルカ・シニョレッリ作品に戻ります。


18
ルカ・シニョレッリの「エジプトへの逃避と博士たちと問答するキリスト」
イタリアの政治家で美術品収集家、美術商でもあったアレッサンドロ・コンティーニ・ボナコッシ(アンコーナ、1878‐フィレンツェ、1955)から1950年に美術館財団がこの作品を購入しました。

このパネルのサイズ(縦22㎝横68㎝)から明らかに祭壇画の裾絵の1パネルと考えられます。メインパネルと他の裾絵パネルについては、定説がほぼ確立されているのです。


21
「エジプトへの逃避と博士たちと問答するキリスト」のメインパネルとして可能性が高いとされている、ルカ・シニョレッリの「聖母被昇天」です。


20
「聖母被昇天」はコルトーナ、ドゥオーモの主祭壇画でした。


23
「聖母被昇天」のメインパネルは、現在コルトーナ・ドゥオーモ向かいにあるMuseo Diocesanoにあります。


22
Museo Diocesanoの作品表示板
なお、他のプレデッラパネルは「幼児虐殺」と「聖母の結婚」です。それぞれ別のオークションで販売され、個人所有となってます。



42.アメリカ、コネチカット州ニューヘイブンのイェール大学美術館 Yale Univarsity Art Gallery
26
画家のジョン・トランブル(1756-1843)が1832年に100点の作品をイェール大学に寄贈したことが発端となって設立された美術館です。
その後、多くの芸術家がトランブルの行為を是として寄贈しました。また、卒業生や篤志家が名門大学である同大学への寄贈、寄付が相次いだのも美術館の質を高目ることに資しました。


27
ルカ・シニョレッリの作品がありますが、例によってプレデッラの1パネルです。


25
ルカ・シニョレッリの「マギの礼拝」
「マギの礼拝」のパネルサイズ(縦36㎝横43㎝)、作品の構成や色彩などからフィラデルフィア美術館にある「羊飼いの礼拝」が同じ祭壇画の裾絵であるとの説が定説になってます。


28
フィラデルフィア美術館にある、ルカ・シニョレッリの「羊飼いの礼拝」


29
写真はコルトーナの司教館です。
この「マギの礼拝」は、アメリカの新聞編集者、米国副領事、美術評論家、美術収集家のジェームズ・ジャクソン・ジャーヴス(アメリカ、1818‐スイス、1888)がコルトーナの司教館から購入したものだと言いました。これはジャーヴスの主張であり、その真偽は不明とされてます。
1855年頃、ジャーヴスは美術品収集のためにフィレンツェに移住し、アメリカの副領事を務めながら収集に邁進しました。しかし、かなり悪辣な方法で収集したようで、悪評が立ちました。ジャーヴスはやがて金欠に陥り、その収集品の一部をアメリカの美術館に売ろうとしましたが、彼の悪評が災いして購入を拒否しました。ところがイェール大学だけがジャーヴスの収集品を担保にして、借金に応じたのです。1871年、ジャーヴスは破産し、担保になっていた美術品のうち、10世紀から17世紀のイタリア美術品119点を相場よりも安値でイェール大学が購入しました。
その119点の作品の一つがルカ・シニョレッリの「マギの礼拝」という訳です。


30
ルカ・シニョレッリの「聖母子と四聖人」
さて、プレデッラの「マギの礼拝」の祭壇画ですが、現在コルトーナのMuseo Diocesanoにある、「聖母子と四聖人」であるとの説が有力とされてます。


31
「聖母子と四聖人」が何処にあった祭壇画なのか不明とされてますが、描かれている四聖人がいずれもフランチェスコ会の聖人であることから、コルトーナのサン・フランチェスコ教会にあったという説が説得力があるとされてます。


32
写真はコルトーナのサン・フランチェスコ教会です。
(つづく)

1写真はアレッツォです。
ルカ・シニョレッリの師匠ピエロ・デッラ・フランチェスカは、1460年代、恐らく1462年から1467年頃までアレッツォにいました。アレッツォのサン・フランチェスコ教会の「真の十字架の物語」フレスコ画制作の第二段階を描くためでした。その時代にルカはピエロに弟子入りしたと言われてます。


35.アメリカ、アトランタ High Museum of Art
4
アトランタのHigh Museum of Artです。


5
広くて、展示作品が膨大なので見るのが大変です。
ルカ・シニョレッリの作品が2パネルあります。同じ祭壇画の裾絵2点です。


2
ルカ・シニョレッリの「バーリの聖二コラの誕生」
プレデッラの場合、多くは工房によって制作されました。これらのプレデッラもその例外ではありません。


3
ルカ・シニョレッリの「アデオダトゥスを救出するバーリの聖二コラ」

これらのプレデッラについては記録が残されていました。
コルトーナのサン・ニッコロ教会にあった、行列行進の際に使用される旗のプレデッラでした。旗だけの使用の場合、プレデッラは不必要でしたが、この旗は教会の主祭壇画として兼用されていたので、プレデッラ付きとなりました。
サン・ニッコロ教会は、それを支えるサン・ベルナルディーノ・ダ・シエナ信徒会の活動が衰退し、常勤の聖職者がいない礼拝堂に格下げとなりました。それに伴い、1784年、行列行進の旗はコルトーナのジェズ教会に移されましたが、その時の記録に聖二コラの物語を描いた3枚のプレデッラの存在が記載されているのです。
1792年、祭壇画(旗)がジェズ教会からサン・ニッコロ礼拝堂に戻されました。メインパネル(両面に描かれた)とプレデッラが分解分離された具体的な年は不明です。


6
コルトーナのサン・ニッコロ教会


9
サン・ニッコロ教会の主祭壇


10
ルカ・シニョレッリの「死せるキリストと聖人たち」

以前はこちらの画面を見ることが出来ても、裏面を見るのが難しかったのですが、2013年頃だったと思いますが、電動で旗が動くように改造されました。それ以降、この教会はMuseoの扱いになりました。


8
電動で旗が動いたところ


7
裏面のルカ・シニョレッリの「聖母子と聖ピエトロと聖パオロ」


11
3枚のプレデッラは売却されたようです。(その詳細は不明)

High Museum of Art所蔵のプレデッラ2枚は、アレッサンドロ・コンティーニ=ボナコッシ伯爵(アンコーナ、1878‐フィレンツェ、1955)が保有していました。アレッサンドロは政治家、切手収集家、美術品収集家・美術商で、ナチス・ドイツのゲーリングの美術収集のために美術品を調達したことでも有名です。
アメリカの実業家で、慈善家、美術品収集家だったサミュエル・ヘンリー・クレス(1863‐1955)が1937年、このプレデッラ2枚をアレッサンドロから購入しました。
1961年、サミュエルの遺族がこのプレデッラ2枚を含む美術品をHigh Museum of Artに寄贈しました。

もう1枚のプレデッラ「3騎士を救出する聖二コラ」は、ドイツ、マイニンゲンのザクセン=マイニンゲン公国の公爵宮殿にあったことが知られてます。その後、売りに出され所有者が何度か変わったようです。
2020年、この「3騎士を救出する聖二コラ」はドイツ、ケルンのオークションに出品され、87,700ユーロで落札されました。さらに2022年1月のニューヨークのサザビーズでオークションにかけられ、176,400ドルで落札されました。



36.アメリカ ボルチモア The Walters Art Museum
13
アメリカのメリーランド州ボルチモアにあるThe Walters Art Museumです。


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約22,000点のコレクションを誇り、見るのが大変です。見たい作品の展示場所を探すことさえ難しい美術館です。
ルカ・シニョレッリの作品が1点ありますが、パネルの一部なので鑑賞に値するのか、その辺が微妙です。


12
ルカ・シニョレッリの「受胎告知する大天使ガブリエーレ」

この作品の制作の経緯は全く不明です。
大きな祭壇画の「受胎告知」の一部なのか、オルガンの蓋絵のように「受胎告知する大天使ガブリエーレ」と「受胎告知される聖母」が二枚のパネルに別々に描かれたものの、大天使の一部なのか、全く分からないのです。


31
ヴォルテッラの市立絵画館で展示されている、ルカ・シニョレッリの「受胎告知」(1491)

美術史家の多くは、ボルチモアのThe Walters Art Museumの「受胎告知する大天使ガブリエーレ」はヴォルテッラ市立絵画館で展示されている「受胎告知」に形式が近似しているということで、1491年前後に制作されたという説を提唱しています。
「受胎告知する大天使ガブリエーレ」は、個人のコレクター数人に所有された後、1922年にThe Walters Art Museumの創設者ヘンリー・ウォルターズが手に入れました。

さて、対となる「受胎告知される聖母」の切り取られた部分ですが、ベルギーのジークラッベ城にあったそうですが、売りに出され個人蔵を転々とした後、2010年にニューヨークのサザビーズに競売に掛けられ、74,500ドルで落札されましたが、落札者が明らかにされていないようです。



37.アメリカオハイオ州トレド Toledo Museum of Art
15
アメリカ、オハイオ州トレド市にあるToledo Museum of Artです。
ここに同じ祭壇画からの2枚のパネル絵があります。


16
ルカ・シニョレッリの2つのパネルが並べて展示されてます。


17
Pala Bichiという有名な多翼祭壇画の1パネルですが、私にはこれらのパネルの意味するところが分かりません。


18
2枚のパネルは、何時しかアメリアに渡り、20世紀初頭にリッチモンドのクック・コレクションにあったことが確認されてます。1955年、Toledo Museum of Artが買収して現在に至ってます。


19
Pala Bichiの現存するパネルの配置に関する提唱図
メインパネルは恐らく「聖母子」だったという有力説があります。


20
写真はシエナのサンタゴスティーノ教会です。Pala Bichiはサンタゴスティーノ教会の右翼廊にあったBichi家の個人礼拝堂にありました。
1487年10月15日、Bichi家は同家の個人礼拝堂建設を引き受けるとの契約を締結しました。契約には礼拝堂の壁にフレスコ装飾を行うこと、祭壇画を設置することなどが記載されてます。
その契約に基づき、Bichi家がルカ・シニョレッリに発注しました。ルカ・シニョレッリの仕事が1494年7月25日に終了したことを記す公正証書が残されてます。
Bichi家は17世紀までに没落し、同家の個人礼拝堂(サン・クリストフォロ礼拝堂)は教会の重荷になっていたようです。
1747年、サンタゴスティーノ教会は火災によって壊滅的な被害を受けました。火災後、大規模な改造修復工事が行われましたが、その際Bichi家礼拝堂は廃止され、ルカ・シニョレッリのフレスコ画は塗りつぶされ、Pala Bichiは分解されパネル毎に売りに出されました。
こうして多翼祭壇画のパネルはベルリン、ダブリン、グラスゴーなどの美術館に散在しています。



38.アメリカ、サンディエゴのSan Diego Museum of Art
23
アメリカのカリフォルニア州サンディエゴ市にあるSan Diego Museum of Artです。


24
建物の見事なファサードが印象的です。
スペイン美術の展示に強みがある美術館ですが、イタリア美術品も充実してます。
ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


21
ルカ・シニョレッリの「聖母戴冠」
一見して祭壇画のルネッタと分かります。


22
このルネッタは、ルカ・シニョレッリがアルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会のフィリッピーニ家の個人礼拝堂のために制作した祭壇画の一部と特定されてます。


25
アルチェヴィアは、人口4,265人(2025年10月31日現在)のマルケ州アンコーナ県にあるコムーネです。


26
アルチェヴィアのサン・フランチェスコ修道院教会のキオストロ


27
サン・フランチェスコ教会の内部

1508年に制作された祭壇画は、ナポレオンに接収されました。その際、ルネッタ、メインパネル、プレデッラに分解されましたが、フランス人が持って行ったのはメインパネルだけで、ルネッタとプレデッラはフィリッピーニ家で保管されました。
メインパネルはミラノのブレラ絵画館に所有されてます。現在、メインパネルはアルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会に戻されたという話がありますが、私は未確認です。
フィリッピーニ家で保管されていたルネッタとプレデッラは、ローマの骨董商に売却されました。ルネッタは、その後数度売買が繰り返され、所有者が変わりました。1979年、ルネッタの「聖母戴冠」はクリスティーズに出品され、個人コレクターの所有となりましたが、その人から1985年にサンディエゴ美術館が50万ドルで購入しました。


28
アルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会のルカ・シニョレッリの祭壇画メインパネル


29
裾絵は既に述べたようにアルテンブルクにリンデナウ美術館にあるものが、この祭壇画のプレデッラであるとの説が有力です。


30
ミラノのブレラ絵画館
(つづく)

1写真はアレッツォです。
ルカ・シニョレッリが初めて工房を構えたのがアレッツォです。ルカへの画料支払いがピエロ・デッラ・フランチェスカ経由だったことから、ピエロの工房における親方だった可能性がありそうです。


32.アメリカ、ワシントンDC National Gallery of Art
2
世界一の金持国アメリカのNational Gallery of Artですから、有名作品が揃ってます。札束で持ってきた作品が多く、地元アメリカ出身の芸術家による作品が少ないのが特徴でしょう。


3
展示は膨大で見るのが大変です。
ルカ・シニョレッリの作品が3点あります。


4
ルカ・シニョレッリの「磔刑」
この作品は、マテーリカのサンタゴスティーノ教会の主祭壇画の一部です。


7
マテーリカは、人口9,034人(2025年9月30日現在)のマルケ州マチェラータ県にあるコムーネです。


8
マテーリカのサンタゴスティーノ教会です。
1504年5月25日付で祭壇画制作の契約が締結され、1505年9月3日に納品された記録が残されてます。ルカ・シニョレッリは、その画料としてコルトーナの家二軒を受け取る契約になっていて、実行されました。
1789年の地震によって、教会の建物は大きな被害を受けるとともに、ルカの祭壇画も画材の木材が破断したそうです。被害を受けた祭壇画の状態の良い部分が剝ぎ取られて別々に売却されました。現存するのはその部分画13点となっており、ロンドンのナショナルギャラリーなどの美術館や個人の収集家によって保有されてます。
部分画「磔刑」はロンドンの画商、ロンドンのチャールズ・J・ロビンソン卿のコレクション、リッチモンドのフランシス・クック卿のコレクションを経て、1948年にワシントンのナショナルギャラリーの所有となりました。


9
マテーリカのサンタゴスティーノ教会の主祭壇画の主要部分
以上で「磔刑」を終わります。



5
ルカ・シニョレッリの「聖母の結婚」
縦22㎝ 横48㎝の小さな板に描かれてます。そのサイズから明らかに祭壇画の裾絵の一部と考えられてます。
その祭壇画ですが、ヴォルテッラのドゥオーモのサンタ・マリア修道会礼拝堂の主祭壇画「受胎告知」が有力とされてます。


10
ヴォルテッラのドゥオーモ


11
ヴォルテッラのドゥオーモにあった、ルカ・シニョレッリの「受胎告知」


12
「受胎告知」はヴォルテッラの市立絵画館で展示されてます。


13
ヴォルテッラの市立絵画館

さて、ワシントンDCのナショナルギャラリーの「聖母の結婚」と対になる裾絵として、リッチモンドのVirginia Museum of Fine Arts所蔵の「聖母の神殿奉献」が定説となってます。


14
ルカ・シニョレッリの「聖母の神殿奉献」
この作品は現在展示されていないようです。
ワシントンDCのナショナルギャラリー所蔵の「聖母の結婚」とリッチモンドのヴァージニア美術館所蔵の「聖母の神殿奉献」は、実は所有者が同じでしたが、20世紀初めに別々のコレクターに売却されたのです。


15
写真はリッチモンドのVirginia Museum of Fine Artsです。

ワシントンDCのナショナルギャラリーに戻ります。


6
ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たち」


16
写真はアレッツォのPalazzo Albergottiです。
アレッツォの名門貴族アルベルゴッティ家の邸宅です。
ワシントンDCのナショナルギャラリー所蔵の「聖母子と聖人たち」は、アルベルゴッティ家のコレクションにあったことが確認されてます。同家からフィレンツェのロンバルディ・バルディのコレクションに売却されました。その後、数度所有者が変わりました。1961年、当時所有していたホノルル・アカデミーからナショナルギャラリーに移管され、現在に至ってます。


17
写真はアレッツォのドゥオーモです。

「聖母子と聖人たち」は、アレッツォ・ドゥオーモのアルベルゴッティ礼拝堂の祭壇を飾っていたか、または同家邸宅横にあったサン・マルコ・ア・ムレッロ教会(取り壊されて、その痕跡さえ存在しない)に寄贈された、のどちらかと言われてます。
ルカ・シニョレッリの時代、聖会話形式の祭壇画に裾絵が付いていることが多く、この祭壇画にもプレデッラがあった可能性があります。
この「聖母子と聖人たち」の裾絵として、アレッツォのMuseo Diocesanoにある「聖母マリアの生涯の物語」が提唱されてます。
それらを紹介しておきましょう。


18
写真右端の建物がアレッツォの司教館です。司教館にMuseo Diocesanoが置かれてます。


19
Museo Diocesanoで展示されているルカ・シニョレッリの裾絵


20
聖母の結婚


21
聖母の神殿奉献


22
聖母の誕生

しかし、アレッツォのMuseo Diocesanoにある「聖母の生涯の物語」の裾絵については、予てから提唱されている説があって、それが多数意見となってます。


23
アレッツォのMuseo Diocesanoにある裾絵「聖母の生涯の物語」のメインパネルとして提唱されている作品


24
この作品はアレッツォのサンタ・マルゲリータ修道院の修道女から注文されました。


25
アレッツォの中世近代美術館にあります。


33.アメリカ、マサチューセッツ州ウィリアムズタウン Sterling and Francine Clark Art Insitute
28
アメリカ、マサチューセッツ州ウィリアムズタウンにあるSterling and Francine Clark Art Insituteです。
ここにルカ・シニョレッリの作品があります。


26
ルカ・シニョレッリの「アレッサンドリアの聖カテリーナの殉教」

有名なPala Bichiの裾絵の一部です。


29
シエナのサンタゴスティーノ教会です。


31
サンタゴスティーノ教会の内部です。

サンタゴスティーノ教会は、1747年に火災に遭い、大きな被害を受けてしまいました。火災後、大修復工事が行われ、内部は新古典様式に改造されました。
Bichi家の個人礼拝堂は、ルカ・シニョレッリのフレスコ画で壁が装飾され、ルカの祭壇画が礼拝堂を飾っていました。しかし、火災の随分前にBichi家は没落してしまい、Bichi家の個人礼拝堂は教会にとって重荷になっていました。
火災後の修復改造工事の際、Bichi礼拝堂のルカのフレスコ画は塗りつぶされ、ルカの祭壇画は分解されてパネル毎売却されました。


27
Pala Bichi
この他にも現存するパネルがありますが、個人蔵などの理由により写真がありません。


30
Cappella Bichiのルカ・シニョレッリのフレスコ画
(つづく)

29.セッティニャーノ(フィレンツェの分離集落 Frazione)
1
フィレンツェを流れるアルノ川です。


2
セッティニャーノは、フィレンツェ中心部の北東方向、中心部から約4km離れたところにあるフィレンツェの分離集落です。カンポ・ディ・マルテ地区にあり、1911年まではフィエーゾレに属していましたが、1911年にフィレンツェ市に組み入れられました。


3
セッティニャーノをフィレンツェ編で触れるべきでしたが、その時は忘れてしまいました。ということでセッティニャーノを独立させた形で触れる羽目となってしまいました。不手際をお詫びします。


4
セッティニャーノのVilla I Tattiです。ザティ家によって1563年以前に建設されました。
1900年、イギリス人バーナード・ベレンソンとその妻メアリー・ピアソール・スミスがこのVillaに住むようになり、大変気に入ったので1906年に購入しました。それ以降、Villa I Tattiはフィレンツェやその周辺のアングロサクソン人社会の中心地となったそうです。


5
1936年、ベレンソン夫妻はVillaから立ち去ることになり、Villa I Tattiと美術品など全てがハーバード大学に継承されるようになりました。


6
Villa I Tattiの庭園

歴史家で美術収集家だったパオロ・ジョヴィオが収集した美術品がありました。1551年に記録されたパオロ・ジョヴィオのコモ湖畔邸宅における美術品所有リストが残されており、その中に394点の肖像画が含まれていました。パオロの肖像画コレクションは当時から有名でした。
1909年、パオロ・ジョヴィオのコレクションは、ロンドンでベレンソン夫妻によって買収され、Villa I Tattiに移されました。
このコレクションもハーバード大学に継承され一般公開されてます。
そのコレクションの肖像画の中にルカ・シニョレッリの作品が2点あるのです。


7
ルカ・シニョレッリの「ヴィテッロッツォ・ヴィテッリの肖像」
Vitellozzo Vitelli(チッタ・ディ・カステッロ、1458-セニガッリア、1502)は、チッタ・ディ・カステッロの領主で傭兵隊長のニッコロ・ヴィテッリの息子です。ニッコロ・ヴィテッリには5人の息子がいましたが、いずれも傭兵隊長を務めました。
ヴィテッロッツォはチェーザレ・ボルジアに対する陰謀が露見して、セニガッリアで絞殺されました。


8
ルカ・シニョレッリの「カミッロ・ヴィテッリ(チッタ・ディ・カステッロ、1459-チルチェッロ、1496)の肖像」
カミッロもチッタ・ディ・カステッロの僭主ニッコロ・ヴィテッリの息子で傭兵隊長を務めました。馬上槍試合の先駆者として名を馳せましたが、カミッロは傭兵隊長として出陣した際に戦闘中に戦死したそうです。


9
写真はチッタ・ディ・カステッロです。
ルカ・シニョレッリがチッタ・ディ・カステッロで工房を構えて活動していた1490年代、その当時、チッタ・ディ・カステッロを支配していたのは僭主のニッコロ・ヴィテッリと彼の息子たちでした。ルカ・シニョレッリは恐らくヴィテッリ一族の成人男子全員の肖像画を描いたと考えられてます。
現存するのは、パオロ・ジョヴィオのコレクションの2点とバーミンガムにある1点だけのようです。


10
写真右端の建物はチッタ・ディ・カステッロのPalazzo Vitelliです。ヴィテッリ一族の邸宅でした。



30.ルチニャーノ
12
写真はルチニャーノです。


11
ルチニャーノは、人口3,402人(2025年9月30日現在)のトスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネで、「イタリアの最も美しい村」にリストアップされてます。


14
ルチニャーノのサン・フランチェスコ広場です。


15
サン・フランチェスコ広場に面して建つPalazzo Comunaleです。
建物内にMuseo Comunaleが置かれてます。
Museoにルカ・シニョレッリの作品が展示されてます。


18
ルカ・シニョレッリの「聖母子」


20
「聖母子」はPalazzo Comunaleに隣接するサン・フランチェスコ教会にありました。
ヴァザーリによれば、サン・フランチェスコ教会の戸棚の扉に描かれたそうです。


17
ルカ・シニョレッリ、またはシニョレッリ工房による「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


19
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」は、サン・フランチェスコ教会の聖遺物箱を収容する木製キャビネットに描かれたという説が有力です。


16
ルチニャーノのサン・フランチェスコ教会


13
サン・フランチェスコ教会の内部
古いフレスコ画が残されてます。
次はイタリア以外にあるルカ・シニョレッリの作品です。



31.ドイツ、アルテンブルク
21
アルテンブルクは、ドイツのデューリンゲン州にある人口3万2千人の小都市です。


22
アルテンブルクにあるリンデナウ美術館です。
ザクセン州首相で、弁護士、天文学者、美術品収集家であったベルンハルト・フォン・リンデナウ男爵(1779-1854)が収集した美術品を展示するために1876年に設立されたのがリンデナウ美術館です。
ルカ・シニョレッリの多翼祭壇画から分解された端絵4パネルと裾絵5パネルが展示されてます。


23
端絵の4パネル


24
シエナの聖ベルナルディーノ


25
アッシジの聖キアラ


27
トゥールーズの聖ルイ


26
ハンガリーの聖エリザベッタ


28
裾絵の園のキリスト


29
キリストの鞭打ち


30
磔刑


31
遺体の搬送


32
キリストの復活

さて、これらのパネルですが、リンデナウ男爵が1848年と1853年にローマで購入したそうです。これらのパネルがあった多翼祭壇画ですが、アルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会のためにルカ・シニョレッリが1508年に制作したもの、との説があります。
そのメインパネルは、ブレラ絵画館所有で、現在、アルチェヴィアに戻された説がある(これが本当かどうかですが、私は最近アルチェヴィアに行ってないので分かりません)「聖母子と聖人たち」です。


33
ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たち」(ミラノ、ブレラ絵画館所有)
(つづく)

27.ウルビーノ
1
ウルビーノは、人口13,857人(2025年4月30日現在)のマルケ州ペーザロ=ウルビーノ県の県都です。


2
イタリア・ルネサンスの最も重要な中心地の一つです。


4
卓越した傭兵隊長だったフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公爵(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)の時代が最も繁栄していました。


3
ラッファエッロの生地です。


5
ドゥオーモ



マルケ国立美術館:
6
ドゥカーレ宮殿にマルケ国立美術館があります。


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ドゥカーレ宮殿の中庭


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美術館の入り口


9
第23展示室です。


10
ルカ・シニョレッリの作品があります。二点あるように展示されてます。普通のStendardoは二枚のキャンバス画を表裏に縫い合わせて一枚の旗にするのが普通ですが、ウルビーノのStendardoは旗の左右の端にルカ・シニョレッリの作品が縫い合わされていたそうです。旗の真ん中の部分は失われたそうです。


11
ルカ・シニョレッリの「磔刑」(1504)


14
ウルビーノのサント・スピリト教会にありました。


12
ルカ・シニョレッリの「聖霊降臨」(1504)
「聖霊降臨」はルカの作品ではなく、シニョレッリ工房作であるとの説が一部にあります。


13
このStendardoは、1494年6月にサント・スピリト修道会がウルビーノのサント・スピリト教会のために、制作費20フローリンで注文しました。
1858年以前にサント・スピリト教会から取り外され、アルバーニ宮殿に設置されました。


1
ウルビーノのアルバーニ宮殿(現在はウルビーノ大学)
ルカ・シニョレッリのStendardoは、1903年にこの建物からマルケ国立美術館に移されました。


15
幾つかの傑作がマルケ国立美術館の目玉です。


16
ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品


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ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品


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ラッファエッロ作品の展示室


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ラッファエッロの作品


20
ラッファエッロの作品



28.アルチェーヴィア
21
アルチェーヴィアは、人口4,285人(2025年4月30日現在)のマルケ州アンコーナ県にあるコムーネです。
アルチェーヴィアに行くにはセニガッリアからバス利用が比較的便利です。


22
中心地に2つの要塞があることから、中世の頃にはロッカ・コントラーダと呼ばれていました。
現在のコムーネ名は、ラテン語の「arces」と「via」に由来し、「要塞化された場所」を意味します。


23
2つの要塞の一つ、Castello di Castiglioniです。


24
Castello di Loretello



①サン・メダルド参事会教会:
25
アルチェーヴィアのドゥオーモであるサン・メダルド参事会教会 Collegiata di San Medardoです。


26
1208年の文書に教会の存在が初めて記録されたそうです。1585年、Collegiataに昇格しました。


27
この教会の主祭壇画がルカ・シニョレッリの多翼祭壇画です。


28
ルカ・シニョレッリの「アルチェーヴィアの多翼祭壇画」(1507c)
聖母子の玉座にルカの名前と1507と記されてます。


29
29枚のパネルから成る多翼祭壇画です。1枚の欠損もなく、29枚のパネル全てがそろってます。
ナポレオンのイタリア侵攻の際、この多翼祭壇画は接収されブレラ絵画館の所有になりましたが、ブレラの所有権の下に、作品が元に戻されたようです。


30


31


3
ルカ・シニョレッリの「キリストの洗礼」(1509)


②サン・フランチェスコ教会
4
アルチェヴィアのサン・フランチェスコ修道院教会のキオストロ


6
ミラノ、ブレラ絵画館で展示されている、ルカ・シニョレッリの「玉座の聖母子と聖人たち」です。


8
この作品は、アルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会フィリッピーニ家の個人礼拝堂のために描かれた祭壇画のメインパネルです。
建物が経時劣化、荒廃したので、18世紀前半に再建されましたが、再建された教会の内部に合わせるために、礼拝堂の祭壇はバロック様式に改められました。その際、ルカ・シニョレッリの祭壇画は分解され、メインパネルだけが祭壇に飾られ、それ以外のパネルはフィリッピーニ家に引き取られ保管されました。


7
さて、メインパネルですが、1811年までフランチェスコ教会フィリッピーニ礼拝堂にありましたが、フランス軍に接収されました。フランスに運ばれる作品リストから外れ、ブレラ絵画館での展示が決まり、ブレラ絵画館の所有作品として一時的に展示されました。1815年、この作品は、ミラノ近郊のフィジーノ・トレンノのピエーヴェ美術館に移されました。
その後、この作品は粗雑な扱いを受けて、ピエーヴェ美術館で忘れ去られた存在になってしまいましたが、1891年に再発見され、ブレラ絵画館に戻されました。修復後にブレラ絵画館に戻され、一般公開されるようになりました。
メインパネル以外のパネルは、フィリッピーニ家にありましたが、その後、ローマの骨董商に売却されました。サンディエゴ美術館所蔵の「父なる神と聖母戴冠」は、この祭壇画のルネッタです。
ローマの骨董商から数度所有者が変わりましたが、1979年にクリスティーズで競売に掛けられた後、1985年にサンディエゴ美術館が50万ドルで購入しました。現在、ルネッタは同美術館で一般公開されてます。
ルネッタ以外のパネルですが、一部は個人蔵となっており、それらの詳細が不明です。その他のパネルは行方不明となってます。


5
ブレラ絵画館所有のメインパネルですが、同美術館保有のまま、アルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会に戻されたという説があるようです。

イタリア国外の美術館で展示されているルカ・シニョレッリの作品については、私が分かる範囲でできるだけ触れたいと思います。
(つづく)

25.ヴェネツィア
1
イタリア観光地で人気第一がヴェネツィアでしょう。


2
難点は人が多過ぎ。そのうちの一人が私ですから、不平は言うまいと自分自身に言い聞かせてます。


3



カ・ドーロ、ジョルジョ・フランケッティ美術館:
11
カ・ドーロが見えてきました。


12


13
カ・ドーロは美術館として一般公開されてます。


4
美術館の入り口


9
ジョルジョ・フランケッティ男爵の肖像

ジョルジョ・フランケッティは、大資産家の美術コレクターでした。彼の収集物が展示の大半を占めてます。


15
カ・ドーロ地上階
ここが大きな見所ですが、アクア・アルタの際には閉鎖されます。


5
ルカ・シニョレッリの作品(但しAmbito di)が1点あります。


6


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Ambito di Luca Signorelliの「キリストの鞭打ち」


8
ルカ・シニョレッリの甥フランチェスコ・シニョレッリの作品説があります。
フランケッティ男爵がフィレンツェの収集家から購入したものです。
 

14


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ミラノ、ブレラ絵画館の「鞭打ち」に似ています。


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カ・ドーロからの眺め


ヴェネツィアには、この他にチーニ財団の「ヴィラマリーナの聖母」があるのですが、作品帰属について色々議論があるので、ここでは取り上げないことにします。
22
ジョルジョ・チーニ財団の「ヴィラマリーナの聖母」
ピエロ・デッラ・フランチェスカ派逸名画家の作品ですが、ルカ・シニョレッリの作品説もあります。




26.スポレート
18
スポレートは、人口36,004人(2025年4月30日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。


21
見所が豊富な街として知られてます。


19
ドゥオーモ


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ドゥオーモに描かれた、遺作となったフィリッポ・リッピのフレスコ画(彼の墓がドゥオーモにあります)



サンタガタ修道院教会:
22
サンタガタ修道院教会の複合施設です。


23
写真右がサンタガタ教会です。


24
サンタガタ教会ファサード下の柱廊


25
サンタガタ修道院教会の複合施設は、修道女のためにローマ時代の遺跡の上に11世紀に建設されました。


26
19世紀初頭、ナポレオンのイタリア侵攻に伴う抑圧令によって、修道女は追放されるとともに複合施設は閉鎖されました。
修道院だった建物は刑務所に転用されるなどの過程を経て、現在は国立考古学博物館になってます。


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ローマ劇場の一部に建設されたサンタガタ教会の後陣


27
スポレートにルカ・シニョレッリの作品はありません。
サンタガタ教会の主祭壇画はルカ・シニョレッリの作品でしたが、複合施設が聖別されなくなってから作品が行方不明なのです。
作品自体については、制作依頼契約書、制作費支払い記録が残されているので確実であり、ルカ・シニョレッリの作品がサンタガタ教会の主祭壇にあった記述もあるのです。
マルチェッロ・ヴェヌーティ枢機卿とルカ・シニョレッリとの1485年1月10日付の契約書によれば、「腕に幼きキリストを抱く聖母、大天使聖ミケーレ、洗礼者聖ジョヴァンニ、跪く聖アガタと聖クララ、そして殉教の聖アガタと聖ヤコポ」を描くこと、制作費は60フローリンで、着手金20フローリン、製作途中に20フローリン、完成後引き渡し時に20フローリンを支払うことになっていました。
当時のスポレート司教フランチェスコ・デ・エルリスによる3度にわたるルカ・シニョレッリへの支払い文書があります。


29
女子修道院だった建物


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建物内に残るフレスコ画
(つづく)

24.サンセポルクロ
1
サンセポルクロは、人口15,182人(2025年4月30日現在)のトスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネです。


2
見所が多い街として有名です。


3
何と言っても、サンセポルクロと言えばピエロ・デッラ・フランチェスカ(ボルゴ・サンセポルクロ、1412-1492)に尽きると思います。
写真はサン・フランチェスコ教会です。


5
ピエロ・デッラ・フランチェスカの「キリストの洗礼」がサン・フランチェスコ教会にありました。


6
ドゥオーモ


4
ピエロ・デッラ・フランチェスカの数学上の弟子ルカ・パチョーリ像


①サンタントニオ・アバーテ教会
7
サンタントニオ・アバーテ教会です。


8
Compagnia di Sant’Antonio Abateによって1345年から1366年にかけて建設されました。


21
ファサードのルネッタ上の彫刻


9
この教会の主祭壇画がルカ・シニョレッリの作品です。


10
教会の案内板には「ルカ・シニョレッリの作品がある」とは全く書かれていません。


11
サイド・ポータルから中に入ります。


12
主祭壇にルカ・シニョレッリの作品がありました。


13
ルカ・シニョレッリの主祭壇画は、Stendardo(旗)になっていて、表裏両面に描かれているのです。


14
後陣への立ち入りが禁止されているので、裏面を見ることが出来ません。


15
では、裏面を見るのはどうしたら良いか?


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ルカ・シニョレッリの「磔刑」(1502-05c)


17
1505年5月22日、ボルゴ・サン・セポルクロのサンタント二オ・アバーテ同信会はサンタント二オ・アバーテ修道院長に対して、旗の制作を適切な値段で注文する権限を与えました。その時には、既にルカ・シニョレッリとは話が付いていたものと思われます。
5月22日以降に権限を与えられた修道院長は正式にルカ・シニョレッリに注文したとされてます。
両面に描かれたキャンバスを旗として縫い上げて一つにするための糸の支払い記録が1506年12月8日付であるので、それ以前に完成したと思われてます。
旗として使用されないときには教会の祭壇画として使用するために、額縁が1532年から1533年にかけて制作された記録が残されてます。
ルネッタの「父なる神」は、1561年に額縁の金メッキと併せてラファエッリーノ・デル・コッレに注文され制作されました。


18


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ルカ・シニョレッリの「聖アントニオと聖エリージョと注文者」(1502‐05c)
こちらがStendardoの裏面です。
旗なので、キャンバスに描かれてます。


20
ルネッタは、ラッファエッリーノ・デル・コッレ(ボルゴ・サンセポルクロ、1495-1566)の「父なる神と二天使」


22
実は、ルカ・シニョレッリのStendardoは、不定期に取り外されて市立美術館で展示されることがあり、その時は裏面も観ることが出来るのです。
以前は、この旗は市立美術館で常設展示されていました。


➁市立美術館
23
サンセポルクロのMuseo Civicoです。


24
Museo Civicoにはルカ・シニョレッリの作品がありませんが、前述のようにサンタントニオ・アバーテ教会のルカのStendardoが取り外されて市立美術館で展示されることがあるのです。
ということで、Museo Civicoに敢えて触れることにします。


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ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品が展示されてます。


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28


29
真ん中の欠落した部分にあったのが、ピエロ・デッラ・フランチェスカの「キリストの洗礼」です。


30
(つづく)

23.アレッツォ
1
アレッツォは、人口96,526人(2025年4月30日現在)のトスカーナ州アレッツォ県の県都です。


3
中世の美術でもアレッツォは有名です。


2
パリオでも有名です。


4
美術ファンにとって必訪のサン・ドメニコ教会


5
珠玉の作品があるドゥオーモ



①国立中世近代美術館 Museo Nazionale d'Arte Medievale e Moderna
6
Palazzo Bruni Ciocchiです。


8
ブルーノ家の邸宅として建築家ベルナルド・ロッセリーノ(セッティニャーノ?、1407/1410‐フィレンツェ、1464)の設計によって15世紀中頃に建設されました。


7
1972年、この建物に国立中世近代美術館がオープンしました。


9
ルカ・シニョレッリの作品が2点あります。
実は、この他にフォイアーノ・デッラ・キアーナのサンティ・マルティーノ・エ・レオナルド参事会教会のルカ・シニョレッリと工房の「聖母戴冠と聖人たち」(1522-23)のプレデッラの一部「聖マルティーノの遺体の搬送」と「狂牛病から悪霊を除く聖マルティーノ」が保管されている筈ですが、私の知る限り展示されたことがないと思います。このプレデッラの一部が1978年に盗まれ、行方不明となってますが、その時に盗まれなかった、プレデッラの残りの2パネルが、盗難防止が十分な場所に保管されるべきということで、同年にアレッツォの国立中世近代美術館に移されました。


10


11
ルカ・シニョレッリと工房による「天上の聖母子と聖人たち」(1518-19)


12
この作品は、1518年3月にアレッツォのサンタ・マルゲリータ修道院の修道女たちによって注文され、1519年8月に完成し、その時70フローリンの制作費の最終支払いが行われました。支払いですが、一般的に注文時(契約締結時)に着手金を、中間時に、それに完成時と分割払いが多かったようです。


13
また、ルカ・シニョレッリが活躍していた時代、祭壇画はプレデッラ付きが多かったのですが、この作品もプレデッラが付いていたと考えられてます。
そのプレデッラですが、アレッツォのMuseo Diocesanoにある「聖母マリアの物語(聖母誕生、神殿奉献、聖母の結婚)」がそれであると考えられてきました。(Museo Diocesanoについては後述)しかし、近年になって別説が唱えられてます。


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次の作品です。


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ルカ・シニョレッリと工房による「天上の聖母子と父なる神と聖人たちと予言者たち」(1519-23)


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この作品が完成し、ルカ・シニョレッリがコルトーナからアレッツォに運んできた時の、ジョルジョ・ヴァザーリの記述で有名です。
アレッツォのサン・ジローラモ同信会から1519年9月19日に制作費100フローリンで発注されました。同日付で締結された契約書にプレデッラの内容まで書かれてます。


20
伝統的にルカ・シニョレッリの最後の作品と言われてますが、フォイアーノ・デッラ・キアーナのサンティ・マルティーノ・エ・レオナルド参事会教会の「聖母戴冠と聖人たち」が記録に残る最後の作品であるとも言われてます。


21


22
18世紀に入ると、サン・ジローラモ同信会の会員減少とサン・ジローラモ修道院教会の修道士の減少によって、活動が不活発となり、建物が徐々に荒廃しました。18世紀末、ナポレオンのイタリア侵攻に伴う抑圧令によって修道院教会は閉鎖されました。ナポレオンの失脚後、一時的に活動が再開されたものの、修道士の大半が戻らず活動が停止されました。
この祭壇画は1815年にサン・ジローラモ教会から取り外され、アレッツォのサンタ・クローチェ教会に移されました。1819年、祭壇画はサンタ・クローチェ教会からアレッツォのサント・スピリト教会に移されました。1849年、サント・スピリト教会にあった、この祭壇画は売りに出され、メインパネルだけがアレッツォの市立美術館(国立中世近代美術館の前身)の所有となりました。
その際のプレデッラの所有については良く分かりませんが、所有者が何度も変わったようです。1886年から1887年にかけて、このプレデッラを所有していたドイツの美術史家で収集家でもあったジャン・パウル・リヒターがアレッツォのサン・ジローラモ同信会から注文された祭壇画のプレデッラと特定したのです。
リヒターは、プレデッラを美術品収集家のルートヴィヒ・モンドに売却しました。モンドの遺言によって、1924年に、このプレデッラを含むモンド所有の美術品がナショナルギャラリーに遺贈されたのです。


12
この祭壇画のプレデッラです。所有者が何度も変わるうちに、プレデッラの右側が切り取られました。
(ロンドン、ナショナルギャラリー蔵)


24


23



②Museo Diocesano
14
アレッツォのドゥオーモの向かい側の写真です。


13
写真右端の建物は司教館です。ここにMuseo Diocesanoが置かれてます。


15
中々の展示を誇るMuseo Diocesanですが、不人気のようで入館者を見かけることが滅多にありません。


16
ルカ・シニョレッリと工房によるプレデッラ
ルカの手は殆ど入ってなくて、工房によって制作されたとされてます。
このプラデッラは、長い間アレッツォのサンタ・マルゲリータ修道院の修道女たちから注文された祭壇画のプレデッラであると思われていました。今でも、その説は有力ですが、近年、ワシントンにある小さな祭壇画のプレデッラであるとの説が唱えられました。


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プレデッラの聖フランチェスコ


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聖母の誕生


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聖母の神殿奉献


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聖母の結婚


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シエナの聖ベルナルディーノ

メインパネルとプレデッラがアレッツォに存在するのが自然と思うので、私はこのプレデッラはサンタ・マルゲリータ修道院の修道女から注文された祭壇画説を支持したい。



③サン・フランチェスコ聖堂
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サン・フランチェスコ聖堂はアレッツォ観光の人気スポットです。


26
美術館の扱いがされてます。地元の人にとっては信仰の場なので無料で中に入ることが出来ます。


27
サン・フランチェスコ聖堂にはルカ・シニョレッリの作品がありません。しかし、長らく(最近まで)ルカ・シニョレッリの帰属作品とされていたフレスコ画があります。


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ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画が有名です。


29


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こちらが長らくルカ・シニョレッリの帰属作品されていた「受胎告知」です。ルカ・シニョレッリの最初期の作品とされていました。


31
研究が進んで、今ではマッテオ・ラッポーリ(アレッツォ、1450-1506)の作品説が定説となってます。


32
私はルカ・シニョレッリの帰属作品と信じて鑑賞していた時がありました。
(つづく)

21.ベルガモ
11
ベルガモは、人口120,483人(2025年4月30日現在)のロンバルディア州ベルガモ県の県都です。


12
丘上に築かれたチッタ・アルタと丘下のチッタ・バッサから街は構成されてます。


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チッタ・バッサとチッタ・アルタを結ぶケーブルカー


14
1428年にヴェネツィア領に組み込まれ、ロンバルディアと接するヴェネツィア共和国西端の街として栄えました。
非常に見どころが豊富です。



カッラーラ美術館:
15
美術収集家で、裕福な貴族ジャコモ・カッラーラ伯爵(ベルガモ、1714-1796)が収集した美術作品が展示されてます。


16
個人が収集した作品のための美術館としては、その質と数においてイタリアでは最高の位置されるものの一つです。
ルカ・シニョレッリはベルガモとは直接の関係がなかったと思われます。
カッラーラ伯爵が収集したルカ・シニョレッリの作品が3点あります。


4
展示される作品や展示室が時々変更されてます。


3


1
ルカ・シニョレッリの「聖セバスティアーノ」「聖ロッコ」(1515-20c)


2
祭壇画の台座に描かれたという説が有力となってますが、その祭壇画に関しては全く分からないとされてます。
制作者がルカ・シニョレッリと工房となってますが、親方ルカが台座を描くことは滅多になかったことから、これはシニョレッリ工房(フランチェスコ・シニョレッリの可能性が高い)の作品とされることが一般的です。
1892年、美術史家・収集家ジョヴァンニ・モレッリの遺言によって寄贈されました。


6
この時は展示室が変わっていました。


5


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9


10
ルカ・シニョレッリの「聖母子」(1510-15c)
制作された経緯が全くの不明です。「聖セバスティアーノ」と「聖ロッコ」と同じく、美術史家・収集家のジョヴァンニ・モレッリが所蔵していました。

美術館は長らく修復工事が行われて閉館していました。再開館後、この作品を見たことがありません。


17
ヴェネツィア派画家たちの作品が充実してます。


18
モローニの肖像画が揃ってます。



22.フォイアーノ・デッラ・キアーナ
19
フォイアーノ・デッラ・キアーナは、人口9,065人(2025年4月30日現在)のトスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネです。


20
レオナルド・ダ・ヴィンチなどルネサンス期の芸術家所縁の地です。


21
Palazzo Comunale


22
市の塔



サンティ・マルティーノ・エ・レオナルド参事会教会:
23
この地にサン・レオナルド教会がありましたが、経時劣化のために取り壊され、その上に1512年から創建され、1514年に身廊、後陣が完成し、1514年にCollegiataに昇格しました。昇格を機に聖マルティーノと聖レオナルドに捧げるようになり、教会名が現在の様に変更されました。
ファサードが1563年に完成しました。1796年に現在の姿に改造されました。


24
サンティ・マルティーノ・エ・レオナルド参事会教会にルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


25
単廊式、ルネサンス様式の内部です。


26
左第二礼拝堂


27
左第二礼拝堂の祭壇画はルカ・シニョレッリの作品です。
ご覧のようにプレデッラ部分が空になってます。この祭壇画にはプレデッラがありましたが、1978年にその一部が盗難にあい、今でも行方不明です。盗難を免れた、残りの裾絵パネルは、盗難防止のためにアレッツォの国立中世近代美術館に移されました。しかし、私の知る限り、同美術館で展示されたことがないと思います。


28
ルカ・シニョレッリの「聖母戴冠と聖人たち」(1523)


29
最晩年の作品です。
1522年3月24日に制作費90ドゥカートで発注され、1523年6月14日に最終支払いが行われました。
最晩年の作品は工房が主体となって制作されましたが、この作品も例外ではなく、制作の大部分は工房によると考えられてます。


30
美術的に見所が幾つかある教会です。


31
左側壁の礼拝堂にルカの作品があります。
(つづく)

19.ピエンツァ
1
ピエンツァは、人口1,914人のトスカーナ州シエナ県にあるコムーネです。


2
第210代教皇ピオ2世(コルシニャーノ、1405-アンコーナ、1464 教皇在位:1458-1464)によって築かれた町です。旅の途中で通った、生まれ故郷であるコルシニャーノがあまりにも寂れていたので立派にしたいと考えたそうです。


3
ピエンツァの城壁外にあるサンティ・ヴィトー・エ・モデスト教区教会です。この教会はピエンツァの城壁外にありましたが、ピオ2世の時代、コルシニャーノのドゥオーモに相当していました。つまり、当時、コルシニャーノの中心はこの教会とその周囲だったのです。
新しく築かれた街は、ピオ2世に因んでピエンツァと名付けられたのです。


4
ピエンツァのドゥオーモ


司教区美術館 Museo Diocesano:
5
ドゥオーモのファサードに向かって左側にPalazzo Vescovileが建ってます。


6
教皇ピオ2世が、教皇に謁見するためにピエンツァを訪れる司教などの高位聖職者のための宿泊設備として15世紀に建設されました。


7
Palazzo Vescovileに司教美術館が置かれてます。


8
Palazzo Vescovileの中庭


9
ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


10
Museo Diocesanoは階上に設けられてます。


11
ルカ・シニョレッリの「慈悲の聖母」(1490c)
この作品はピエンツァのサン・フランチェスコ教会にありました。


10
ピエンツァのサン・フランチェスコ教会


11
サン・フランチェスコ教会の内部


12
聖セバスティアーノとシエナの聖ベルナルディーノが描かれてます。


13
制作に纏わる詳細が不明のようです。


14
ピエトロ・ロレンツェッティを始めとする傑作が展示されてます。


15
ピエンツァはただ小さなコムーネなので、長逗留はお勧めできません。(一泊でも退屈?)


29




20.モントーネ
16
モントーネは、人口1,548人(2025年4月30日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。


17
チッタ・ディ・カステッロ、ウンブリティデに隣接してます。


18
ルカ・シニョレッリにとって、何かと関係があったチッタ・ディ・カステッロ、ウンブリティデに隣接しているモントーネですから、モントーネからの制作依頼は当然でしょう。


19
モントーネのドゥオーモ、グレゴリオ・マーニョ参事会教会です。


20
Torre Comunale

現在、モントーネにはルカ・シニョレッリの作品が1つもありません。ルカ作品の複製画があるだけです。しかし、その複製画の本物がありました。


コムナーレ美術館:
21
サン・フランチェスコ修道院教会の複合施設です。


27
教会のメインポータル


22
複合施設のキオストロ


23
複合施設にコムナーレ美術館が設けられてます。


26
サン・フランチェスコ教会のフレスコ画や絵画が展示されてます。


24
ルカ・シニョレッリの「聖会話」(1515)

この作品はモントーネのサン・フランチェスコ教会の主祭壇画として注文され、その後、約200年に渡って主祭壇を飾っていました。その後、行方不明となっていましたが、19世紀中頃に発見されました。作品の状態は非常に悪かったそうで修復されたのですが、1901年に売却されました。
現在、この作品はロンドン・ナショナル・ギャラリーの所有となっており、同ギャラリーで公開されてます。
この作品の複製画が制作され、モントーネのコムナーレ美術館で展示されてます。(写真は本物作品)


25
このフレスコ画はルカ・シニョレッリと関係ありません。


28
(つづく)

17.トリノ
1
見所豊富なトリノです。


2
富裕層が多い街として知られてます。


サバウダ美術館:
3
サバウダ美術館は質の高い作品が多い美術館として有名です。


4
サヴォイア家の収集物が展示の中心です。


5


6
ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


7
ルカ・シニョレッリの「幼きキリストへの崇拝」(1497-98c)
この作品の制作された経緯が分からないようです。19世紀初頭にコルトーナのCasa Tommasi(現在高級B&Bとして使用)にあったことが初めての記録です。コルトーナにあったことからコルトーナの教会、同信会からの注文によって描かれたとの説があります。
1928年、金持ちの美術収集家リッカルド・グアリーノからサバウダ美術館に寄贈されました。


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余計です。


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18.カスティリオーン・フィオレンティーノ
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カスティリオーン・フィオレンティーノは、人口12,812人(2025年4月30日現在)のトスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネです。


14
カスティリオーン・フィオレンティーノは、アレッツォ、コルトーナに隣接し、アレッツォとコルトーナの中間にあります。
その位置関係から、カスティリオーン・フィオレンティーノにはルカ・シニョレッリ作品が幾つかあったとされてますが、現在観ることが出来る作品は1点だけです。シニョレッリとしては珍しい「聖母子」の彫刻があったそうです。


①教区美術館 Museo Diocesano
15サン・ジュリアーノ教区教会です。
13世紀に建設され,1452年に再建されました。19世紀末に聖別されなくなり、その建物は2006年に教区美術館として使用されるようになりました。


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教会の礼拝堂などに作品が展示されてます。


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サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


18
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂の左側壁にルカ・シニョレッリのフレスコ画が展示されてます。
ご覧のように剥離フレスコ画となってます。制作された時は礼拝堂のアーチ状の壁に描かれていましたが、1629年に行われた礼拝堂の修復の際、フレスコ画が剥離分離され、フレスコ画の主要部分だった「嘆き」だけが残されました。それ以外の部分は失われてしまいました。


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ルカ・シニョレッリの「嘆き」(1505-07)


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家、ルカ・シニョレッリの影響を受けた画家の作品がMuseo Comunaleにあるので触れておきます。

➁コムナーレ絵画館 Pinacoteca Comunale
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サンタンジェロ・アル・カッセーロ教会です。
1191年の文書に、この教会の存在が初めて記録されたそうです。1785年、建物は病院に転用されました。


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教会と修道院だった建物に幾つかの市立博物館が置かれてます。そのうちの一つが絵画館です。


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教会の内部です。


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Museo Diocesanoに近似した展示


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ルカ・シニョレッリの強い影響を受けたコルトーナの逸名画家作「聖母子と聖アンナ」(1510c)


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家作「慈悲の聖母」(1490-1510c)


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25
(つづく)

15.プラート
1
プラートは、人口198,533人(2025年4月30日現在)のトスカーナ州フィレンツェ県にあるコムーネです。


2
フィレンツェと密接な関係を持ち、古くから繊維産業で栄えてきました。私のプラートの印象は中国人が多いことです。



プレトリオ宮市立美術館:
3
プラートのプレトリオ宮です。


5
13世紀に建設された建物のすぐ横に14世紀に建物が建てられましたが、その2つの建物を繋ぎ合わせ一つに改造したのがプレトリオ宮です。2つの建物は色が違うので今でも分かるようになってます。


4
1912年に市立美術館が置かれ、現在に至ってます。


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ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリと工房による「聖母子と聖人たちのトンド」(1515c)


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私には、制作の経緯など、このトンドに関することが分かりません。


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プラートと言えば、私ならフィリッポ・リッピとルクレツィアを思い出します。修道士と女子修道院の寄宿生との禁断の恋ですから。


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リッピ父子の作品が幾つかあります。



16.ナポリ
13
ルカ・シニョレッリがナポリと何らかの関係を有したという話は聞いたことがありません。


14
それでもルカ・シニョレッリの作品がナポリに1点あるのです。


カポディモンテ美術館:
15
カポディモンテ美術館の入り口です。


16
ナポリの美術はカポディモンテ美術館とカラヴァッジョなしでは語れません。しかし、それらはナポリにとって全くの僥倖とも言えるでしょう。
ファルネーゼ家が断絶しなければ、更にカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡しなければ、ナポリ美術は悲惨だったかもしれません。


17
カポディモンテ美術館で展示されている傑作の殆どはファルネーゼ・コレクションです。


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ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。


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ルカ・シニョレッリの「幼きキリストへの崇拝」(1493-98)


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この作品はチッタ・ディ・カステッロのサンタゴスティーノ教会フェリアーニ礼拝堂があったことが同教会の1627年の記録に記載されてます。


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チッタ・ディ・カステッロのサンタゴスティーノ教会です。


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1493年、チッタ・ディ・カステッロの有力貴族フランチェスコ・フェリアーニは、サンタゴスティーノ教会内にフェリアーニ礼拝堂を建立しましたが、その祭壇画をルカ・シニョレッリに注文したとされてます。
1789年の地震によって、教会の建物が大きな被害を受け、現在の外観のように再建されましたが、その際、ルカ・シニョレッリの作品は売却されてしまいました。その後、売買が数度行われ、所有者が変わりましたが、19世紀にナポリ王宮の所蔵となりました。1939年にナポリ王宮からカポディモンテ美術館に移され現在に至ってます。


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裾絵があったかどうかは不明のようです。


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余計ですが、この作品も展示されてます。


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(つづく)

14.ミラノ
1
ミラノは言うまでもなくミラノです。→意味不明


2
ルカ・シニョレッリは、ミラノとは関係を持たなかったと思います。



ブレラ絵画館:
3
ミラノにルカ・シニョレッリの作品が4点(正確には3点)あります。


4
その4点はブレラ絵画館にあります。


5
ナポレオンはイタリア侵攻に当たって、予めイタリア美術品の簒奪リストを作成したそうです。それに基づいて作品が集められ、フランスに持っていくもの、イタリアに残すものを決め、イタリアに残された作品を展示するためにブレラ絵画館を作りました。


6
イタリア美術が大好きな私はナポレオンが大嫌いですが、傑作が集まっているブレラ絵画館に行かないではいられません。


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第5室です。


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ルカ・シニョレッリの作品が2点(定義によっては1点)が展示されてます。
実は、この2つの作品はStendardo(旗)として表裏両面に制作されたものを、表と裏に別々に展示されているのです。表が「聖母子」、裏が「キリストの鞭打ち」となってます。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子(授乳の聖母)」(1482-85c)


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ルカ・シニョレッリの「キリストの鞭打ち」(1482-85c)


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ファブリアーノのサンタ・マリア・デル・メルカト教会にありました。


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ルカ・シニョレッリの「玉座の聖母子と聖人たち」


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この作品は時々お蔵入りになっていて、鑑賞できない時があるようです。所有展示作品数に比べて、美術館の展示スペースが限られているので、展示作品の差し替えが頻繁に行われています。


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アルチェヴィアのサン・フランチェスコ教会にありました。


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四聖人は聖シモーネ、聖ボナヴェントゥーラ、聖フランチェスコ、聖ジローラモです。


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この他にもう1点あるのですが、近ごろ展示されていないようです。近年、私は観たことがありません。


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「聖クリスティーナの生涯の物語」(1515)
モントーネのサン・フランチェスコ教会のサンタ・クリスティーナ礼拝堂の祭壇画の裾絵です。メインパネルはロンドンのナショナルギャラリーにあります。
メインパネルはルカ・シニョレッリの作品ですが、この裾絵はルカの甥フランチェスコ・シニョレッリによって描かれた可能性が高いと言われてます。


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ブレラの見どころの一つ


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余計ですね、ルカ・シニョレッリとは無関係。


31
(つづく)

12.オルヴィエート
1
引き続きオルヴィエートです。



➁ドゥオーモの作品の博物館 Museo dell'Opera del Duomo
2
1297年、第193代教皇ボニファチオ8世(教皇在位:1295-1303)によって建設されたPalazzo Solianoです。


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Palazzo Solianoの奥の部分に博物館があります。


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博物館にルカ・シニョレッリの作品が2点あります。


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Museo dell’Opera del Duomoの入り口


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ルカ・シニョレッリの「聖マリア・マッダレーナ」(1504)


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この作品はドゥオーモのサン・ブリツィオ礼拝堂東奥に設けられた聖マリア・マッダレーナ礼拝堂の祭壇画でした。
その設置場所について、当時のプリオーリ宮内礼拝堂にするのか、ドゥオーモのサン・ブリツィオ礼拝堂にするのか、色々議論がありました。


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絵画下部に1504の表示があり、制作年を表してます。
その作品は、1653年に礼拝堂祭壇が改修されるまで、放置されていました。そのため、祭壇画は酷い状態に劣化していたそうです。その粗雑な扱いから、ルカ・シニョレッリ自身の関与が少なく、専ら助手によって制作されたという説が出てきました。


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この作品は2010年頃に修復されましたが、修復前はこのような状態でした。修復によって元の姿に戻されたと言われています。


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ルカ・シニョレッリの「自画像とCamerlengoニッコロ・ダーニョロ・フランキの肖像」(1503?)


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Camerlengoとは、教皇が空位の場合、教皇庁の財産を管理し、事務を一時的に取り仕切る役職です。枢機卿がCamerlengoになります。


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この作品はタイルに描かれてますが、こちらはタイルの裏面です。裏面にルカとニッコロの名前が刻まれてます。


13.モンテプルチャーノ
20
モンテプルチャーノは、人口13,099人(2025年3月31日現在)のトスカーナ州シエナ県にあるコムーネです。
ヴァザーリは、ルカ・シニョレッリがコルトーナからモンテプルチャーノに幾つかの作品を送ったと記述してます。


21
モンテプルチャーノに、ルカ・シニョレッリの作品が1点あります。



モンテプルチャーノ市立博物館:
22
ルカ・シニョレッリの作品が市立博物館にあります。


23
14世紀に建設されたPalazo Neri Orselliです。この建物にMuseo Civicoが置かれてます。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子」(1493-95)


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モンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会の主祭壇を飾っていました。


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この「聖母子」にはプレデッラがありました。


1
これがモンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会にあった裾絵です。


5
1831年にモンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会からウフィッツィ美術館に移されました。


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裾絵はウフィッツィ美術館で展示されてます。


2
裾絵の受胎告知


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羊飼いの礼拝


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マギの礼拝


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余計ですが、モンテプルチャーノのMuseo Civicoには見逃せない作品があります。


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カラヴァッジョの帰属作品「シピオーネ・カッファレッリ・ボルゲーゼの肖像」


32
モンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会です。


33
かなり傷んでいる教会の説明板


34
主祭壇画が空です。ここにルカ・シニョレッリの「聖母子」があったのです。取り外されMuseo Civicoに移されましたが、代わりの作品がなく空のままです。


35
(つづく)

12.オルヴィエート
1
引き続きオルヴィエートです。


2
オルヴィエート大聖堂



①オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂
3
オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂の続きです。


4
床上の壁にフレスコ画が描かれてます。ルカ・シニョレッリと工房によって1500年から1502年にかけて制作されました。


5
中央の円に詩人などが描かれてます。


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Empedocles


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ダンテ


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Stazio


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Claudiaro


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Statius


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Empedocle


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Ovidio


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サン・ブリツィオ礼拝堂の外に出ました。


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サン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画によってルカ・シニョレッリの名声が更に高まりました。


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31
(つづく)

12.オルヴィエート
1
引き続きオルヴィエートです。


①オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂
2
サン・ブリツィオ礼拝堂の続きです。


3
ルカ・シニョレッリの「肉体の復活」(1500-02)


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ルカ・シニョレッリの「地獄の呪い」(1500-02)


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サン・ブリツィオ礼拝堂の中にある聖体礼拝堂です。


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ルカ・シニョレッリの「聖ファウスティヌスと聖バレンティウスと共に死せるキリストへの哀悼」(1502)


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聖マリア・マッダレーナ左に描かれたモノクロ部分に注目です。


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1502年、ルカの息子アントニオが当時流行していたペストに罹って死にましたが、息子死を悼んでモノクロ部分が挿入されたと言われてます。


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ルカ・シニョレッリの「天国への昇天と地獄への召喚」(1500-02)


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この祭壇画はルカ・シニョレッリの作品ではありませんが、物事には序が付き物なので触れておきましょう。


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ドメニコ・マリア・ムラトーリ(ブドリオ、1661-ローマ、1744)の「聖人たち」(1724)


31
(つづく)

12.オルヴィエート
1
引き続きオルヴィエートです。


2
オルヴィエートのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。


3



①オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂
4
サン・ブリツィオ礼拝堂の祭壇


5
「円形天井の下」のフレスコ画を見ます。


6
ルカ・シニョレッリの「黙示録」(1500-02)

1499年4月5日付で、サン・ブリツィオ礼拝堂の天井フレスコ画の契約を結び、1500年4月23日に円形天井のフレスコ画が完成しました。
円形天井フレスコ画を完成した数日後に、ルカ・シニョレッリは制作料575ドゥカートで「円形天井から下」のフレスコ画制作を委託され、契約しました。(こちらの契約書は残されていないようです)
2026年3月13日追記:誤りです、以下のように訂正します。お詫びします。
「1500年4月23日、ルカ・シニョレッリは、新礼拝堂に参集した聖職者、市民代表者、信者代表者などの関係者を前に、用意してきた図柄を示しながら、天井下から地面までのフレスコ画装飾を提案しました。提案が認められ、契約の運びとなりました。
1500年4月27日、オルヴィエート大聖堂の聖具室で、新礼拝堂の天井下から地面までのフレスコ画装飾に関する契約が締結されました。同日、図柄、制作費575ドゥカートなどに関する契約補足書が作成されました。
1500年4月27日付の契約書と補足書は、オルヴィエート・ドゥオーモ付属博物館で保存されてます。」

「円形天井から下」のフレスコ画は1502年に完成し、1504年まで画料の支払いが続きました。


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ルカ・シニョレッリの「反キリストの説教と行為」(1500-02)


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「反キリストの説教と行為」は、左端に描かれた、黒い服を着た二人の男で有名です。


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左が「ルカ・シニョレッリの自画像」、右は「ベアート・アンジェリコの肖像画」


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ルカ・シニョレッリの「天国に選ばれた人々」(1500-02)


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(つづく)

12.オルヴィエート
1
オルヴィエートは、人口19,166人(2025年3月31日現在)のウンブリア州テルニ県にあるコムーネです。


2
凝灰岩で出来た台地に築かれた街です。


3
オルヴィエートは、強力な軍事力を背景に領土を拡張し、13世紀から14世紀に最も繁栄を築きました。教皇庁との強固な関係を構築して、1202年にオルヴィエートのサンタンドレア教会で第176代教皇インノチェンツォ3世によって第4次十字軍の布告が行われ、1281年には第189代教皇マッテオ4世がサンタンドレ教会で教皇即位を行うなど、コムーネの地位安定を図りました。
1450年、オルヴィエートは教皇領となりました。


4
ルカ・シニョレッリは、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院のフレスコ画制作中にオルヴィエート大聖堂のフレスコ画制作の打診を受けたのです。
仕事の依頼先に関しては、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院よりもオルヴィエート大聖堂の方が遥かに格上であり、画家として得られるであろう知名度、名誉、金銭という点でもオルヴィエート大聖堂の話は魅力的でした。


5
かくして、ルカ・シニョレッリは、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院のフレスコ画制作を中断し、オルヴィエートに移動して1449年4月5日付でオルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂天井のフレスコ画制作の契約を結んだのです。


①オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂
6
オルヴィエートのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。


7
第191代教皇ニッコロ4世(教皇在位:1288-1292)の命によって1290年に創建されました。


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美術的に非常に見所豊富な教会です。


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右側廊に面してサン・ブリツィオ礼拝堂があります。


10
サン・ブリツィオ礼拝堂(当初は新礼拝堂と呼ばれていました)は、1396年に建設が開始され、1425年に完成しました。
第208代教皇ニッコロ5世(教皇在位:1447-1455)は、1447年、自分に仕えるベアート・アンジェリコ(ヴィッキオ、1395c-ローマ、1455)に対して、サン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画装飾を命じました。ベアート・アンジェリコは、当時弟子だったベノッツォ・ゴッツォーリ(スカンディッチ、1420-ピストイア、1497)などを引き連れてフレスコ画制作に従事しました。
ベアート・アンジェリコと弟子たちは、15週間オルヴィエートに滞在してフレスコ画制作に従事しましたが、仕えるニッコロ5世からローマでの新しい仕事を命じられ、1447年9月にローマへと旅立ちました。1449年、サン・ブリツィオ礼拝堂へのベアート・アンジェリコの仕事はキャンセルされました。
サン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画装飾は、その後、40年ほど凍結されたままになっていましたが、アントニオ・デル・マッサーロ通称イル・パストゥーラ(ヴィテルボ、1450c-1516)に話を持ち掛けたものの成約に至らず、次いでペルジーノに対して10年越しで交渉したものの画料で折り合いませんでした。
当時、画料に対して期日までに仕上げて、出来栄えも良く評判が良かったルカ・シニョレッリにフレスコ画制作の仕事が持ち込まれたのです。


11
丸天井のフレスコ画は、ベアート・アンジェリコと弟子たちに一部が制作されたままになっていました。ルカ・シニョレッリとの契約では、丸天井フレスコ画の完成のみとなっていました。1500年4月23日に丸天井のフレスコ画装飾が完成しました。
完成の数日後、今度は「丸天井から下」のフレスコ画制作がルカ・シニョレッリに依頼され、575ドゥカートの画料で新たに契約が締結されました。
1502年にサン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画装飾が完成し、画料の支払いは1504年まで続いた記録が残されてます。
ルカ・シニョレッリは、期日を守り、その出来栄えも秀逸ということで、このサン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画制作によって、その名声を揺るぎないものとしました。
ルカの最高傑作は、このドゥオーモの「最後の審判」を描いたフレスコ画連作です。大規模な構図で表現した最初の画家となりました。


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丸天井のフレスコ画は二つに分けられます。


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ベアート・アンジェリコと弟子たちのフレスコ画は、ルカ・シニョレッリ作品に影響するので取り上げることにします。


14
ベアート・アンジェリコとベノッツォ・ゴッツォーリなどの弟子たちによる「審判者キリスト」(1447)


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ベアート・アンジェリコとベノッツォ・ゴッツォーリなどの弟子たちによる「預言者たち」(1447)


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ベアート・アンジェリコとベノッツォ・ゴッツォーリなどの弟子たちによる「使徒たち」(1447)


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ベアート・アンジェリコとベノッツォ・ゴッツォーリなどの弟子たちによる「天使たち」(1447)


23
以上がベアート・アンジェリコとベノッツォ・ゴッツォーリなどの弟子たちによるフレスコ画(1447)でした。


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25
ルカ・シニョレッリと工房による「教会博士たち」(1499-1502)


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ルカ・シニョレッリと工房による「聖人たち」(1499-1502)


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ルカ・シニョレッリと工房による「聖女たち」(1499-1502)


31
(つづく)

メディチ家の庇護を受けてフィレンツェ、ヴォルテッラなどで活動していたルカ・シニョレッリでしたが、1492年のロレンツォ・イル・マニーフィコの死、1494年のロレンツォの息子ピエル・イル・ファトゥオのフィレンツェからの追放があっては最早メディチ家の庇護が期待できないと判断してフィレンツェ領を離れました。
その後、一旦ロレートに赴き、聖なる家の聖堂の聖具室のフレスコ画制作を完成させました。


11.アシャーノ
1
アシャーノ Ascianoは、人口6,786人(2025年3月31日現在)のトスカーナ州シエナ兼にあるコムーネです。


2
シエナ派作品を始めとして美術的に見どころ豊富なアシャーノです。


3
この日の予定は、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院に行くことでした。


4
FSの駅名アシャーノ、モンテ・オリヴェート・マッジョーレに騙されてはいけません。


5
騙されたのは私で、止せば良いのに徒歩でモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院に行くことにしました。


6
モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院は、行政的にはアシャーノにあるのですが、アシャーノの分離集落 Frazioneであるキウスレ Chiusureの郊外にあるのです。


7
うんざりするぐらいの遠くに修道院があるのです。


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キウスレを通り過ぎます。



モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院:
9
ここから中に入ります。


10
こちらはモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院教会複合施設のCattedrale della Nativita di Maria di Monte Oliveto Maggioreです。


11
複合施設のキオストロです。キオストロを囲んで回廊が設けられてます。


12
回廊の壁にフレスコ画の装飾が施されてます。
1496年頃、ルカ・シニョレッリは、サン・ベネデット修道会のサリヴェターナ会の当時の総長(アイロルディ修道院長)からフレスコ画制作を注文されたのです。
1497年から1498年にかけて、工房の弟子(特にジローラモ・ジェンガ)と共に滞在してフレスコ画制作に励みました。しかし、シニョレッリの有能で迅速な仕事ぶりと、画料に比べて優れた出来栄えの作品が高く評価されて、オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂の制作を依頼されたのです。
そのため、シニョレッリはモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院回廊のフレスコ画制作を途中で放棄して、オルヴィエートへと去ったのです。
修道院回廊のフレスコ画のテーマは、「聖ベネデットの生涯の物語」で、全部で38場面から成ります。(生涯の物語原作は35場面)
ルカ・シニョレッリが制作したのは、回廊西側の壁に描かれた「物語」の第21場面から第29場面の9つの場面になります。第29場面は、後に入り口ドアを拡大するために、現存する部分を除き破壊されてしまいました。
シニョレッリが放棄した後、フレスコ画制作はソドマ(ヴェルチェッリ、1477-シエナ、1549)に引き継がれ、1505年に回廊フレスコ画が完成しました。
回廊西側のフレスコ画は、第20場面から第30場面となってます。第20場面は例外で、バルトロメオ・ネローニ通称イル・リッチョ(シエナ,1505-1571)によって、1536年のカール5世の当修道院訪問後に追加制作されました。(第20場面にカール5世が描かれてます)

回廊のフレスコ画鑑賞は東の入り口から物語の第1場面から場面の順番通りに南側の壁、西側の壁、北側の壁へと進むのが良いと思います。
最初に制作に着手したシニョレッリが第1場面からではなく途中の21場面から第29場面の制作を手掛けた理由が私には分かりません。


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第21場面:フィオレンツォが悪魔に破壊された家の下で死亡したことを聖ベネデットに告げる修道士


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第22場面:モンテカッシーノの住民に福音を伝える聖ベネデット


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第23場面:崖の上から敵を追いかける聖ベネデット


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第24場面:壁が崩壊して転落した小さな修道士を蘇生させる聖ベネデット


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第25場面:修道院外で食事したことを修道士たちに伝える聖ベネデット


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第26場面:断食の誓いを破った修道士兄弟を叱る聖ベネデット


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第27場面:トティラの虚構を暴く聖ベネデット


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第28場面:トティラを認め、歓迎する聖ベネデット


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第29場面:子供を蘇生させる聖ベネデット
ドア拡大によって、フレスコ画下部が破壊されてしまいました。現存する部分はこれだけ。

後を引き継いだソドマのフレスコ画はどれも秀作です。
(つづく)

9.フィエーゾレ
1
フィエーゾレは、人口13,815人(2025年3月31日現在)のトスカーナ州フィレンツェ県にあるコムーネで、フィレンツェに隣接してます。


2
ルカ・シニョレッリがフィエーゾレに行った記録は残されていないようです。



ルカ・シニョレッリの作品がバンディーニ美術館にあります。

3
フィエーゾレのドゥオーモです。


4
ドゥオーモの横に1913年に建設された小さな建物がバンディーニ美術館です。


10
聖職者(司祭でした)で、美術収集家、学者でもあった「アンジェロ・マリア・バンディーニ(フィレンツェ、1726-フィエーゾレ、1803)の肖像」(制作者不明)
1795年、バンディーニは自分の収集した美術館を展示、一般公開するために、フィエーゾレのサンタンサーノ教会内に小規模な美術館を開館させました。それがバンディーニ美術館の前身です。
しかし、教会の建物が経時劣化によって危険になったので、現在の建物に美術館が移転したのです。


6
バンディーニ美術館で展示されているルカ・シニョレッリと工房による「聖母子と聖ジローラモと聖ベネデット」(1492-1500)


7
この作品は何処かで観たことがあるでしょう。実は、作品を訪ねての(その13)コルシーニ美術館で紹介した「聖母子と聖ジローラモと聖ベネデット」(1492)のコピー画です。


5
フィレンツェのコルシーニ美術館で展示されている、ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖ジローラモと聖ベネデット」(1492)です。

バンディーニ美術館の作品にはルカ・シニョレッリの署名があるので、ルカ自身によるコピー画です。バンディーニ美術館版は工房の手がかなり入っているとされてます。


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フィエーゾレのポッジョ城です。
ルカ・シニョレッリの作品(バンディーニ美術館版)は、バンディーニ美術館で展示される前にはポッジョ城にあったのです。
1469年、フィレンツェの古い有力貴族であるアレッサンドリア伯爵家が荒廃したポッジョ城を購入し、邸宅に大改造して、フィエーゾレに居住したのです。
アレッサンドリア伯爵家がフィレンツェでルカ・シニョレッリにコピー画を注文したと考えられてます。


9



10.ヴォルテッラ
11
ヴォルテッラは、人口9,391人(2025年3月31日現在)のトスカーナ州ピサ県にあるコムーネです。
メディチ家お抱えとなったルカ・シニョレッリは、祭壇画制作のために1490年から1491年にかけてヴォルテッラに滞在したことが分かってます。


①ヴォルテッラ市立絵画館
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ミヌッチ・ソライーニ宮です。


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この建物に市立絵画館が置かれてます。


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ミヌッチ・ソライーニ宮の中庭
市立絵画館にルカ・シニョレッリの作品が二点あります。以前はこの他に「聖ジローラモ」のフレスコ画断片がありました。


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ルカ・シニョレッリの「受胎告知」(1491)


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「受胎告知」はヴォルテッラのドゥオーモにあるサンタ・マリア修道会の礼拝堂にありました。


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1731年、ドゥオーモの鐘楼への落雷の影響で、「受胎告知」のパネルは3つに分解してしまい、修復されたことが作品の碑文に記されてます。


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ルカ・シニョレッリの「玉座の聖母子と聖人たち」(1490-91)


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ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会にありました。


21
サン・フランチェスコ教会の主祭壇画として制作され、1879年まで同教会の主祭壇にありましたが、同年にプッブリコ宮に移されました。1905年に市立絵画館に移され現在に至ってます。


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展示作品数が限られてますが、質の高い作品ばかりです。
この他にルカ・シニョレッリの「聖ジローラモ」の剥離フレスコ画断片があった筈ですが、近ごろ見たことがありません。このフレスコ画はヴォルテッラの支配者ビンダッチョ・ディ・フランチェスコ・ベニンセーニのために描かれたもので、プリオーリ宮の階段にありました。1960年に階段から外されましたが、その際フレスコ画下部が失われた状態で同年市立絵画館に移されました。


➁ドゥオーモ
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サンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。


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現在ルカ・シニョレッリの作品がありませんが、市立絵画館で展示されている「受胎告知」はドゥオーモにありました。


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珠玉の作品が幾つかあって、美術ファンにとっては必訪でしょう。


③サン・フランチェスコ教会
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サン・フランチェスコ教会です。


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今でも珠玉の作品が数点あります。


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過ってルカ・シニョレッリの作品が二点ありました。そのうちの一つは、現在ヴォルテッラ市立絵画館で展示されている「玉座の聖母子と聖人たち」です。


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もう1点はこれです。
ルカ・シニョレッリの「割礼」(1491)

1882年、イギリス商人に売却され、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーの所有となってます。
サン・フランチェスコ教会割礼礼拝堂の祭壇を飾っていましたが、僅かな金額で売却されてしまいました。サンセポルクロ大聖堂にあった「キリストの洗礼」と同じ運命を辿ったのです。
なお、「割礼」ですが、ジョルジョ・ヴァザーリの記述によれば、「幼きキリスト」部分が痛みがあったので、その部分だけソドマによって描き直されたそうです。


32
(つづく)

8.フィレンツェ
P2820849
引き続きフィレンツェです。



➁パラティーナ美術館
1
ピッティ宮です。


2
パラティーナ美術館に入館します。


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傑作が展示されているSala di Prometeoです。


4
各部屋に置かれている案内シートが重要です。


5
作品を一瞥しただけで誰の作品なのか、作品主題が分かる人には、この案内シートは不要でしょう。


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写真右端のボッティチェリ作品の下にルカ・シニョレッリの作品があります。


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ルカ・シニョレッリの「聖家族とアレッサンドリアの聖カテリーナ」


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この部屋は有名作品ばかりが展示されてます。


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余計ですが、この写真を載せておきましょう。



③ホーン美術館
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14世紀に建設されたファニ家の邸宅に美術館があります。


14
イギリス人の美術コレクターであるハーバート・パーシー・ホーンがこの建物を所有し、長く住んでいました。


15
ハーバート・パーシー・ホーンが生存中の1894年に、自分のコレクションを一般公開するべく美術館としてオープンさせたのです。


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入口


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壁の装飾


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ルカ・シニョレッリの「アレッサンドリアの聖カテリーナ」


21
祭壇画裾絵のパネルですが、祭壇画の詳細が不明です。


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ホーン美術館のシンボルとなっているジョットの「聖ステファノ」


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中は写真不可となってます。多翼祭壇画の分解されたパネルの展示が多く、私個人としては面白みの欠ける美術館です。



④コルシーニ美術館
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アルノ川沿いコルシーニ通りに美術館があります。


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1555年に建設されたPalazzo Corsini al Parioneです。16世紀後半、コジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドの息子ドン・ジョヴァンニ・デ・メディチ(フィレンツェ、1567-1621)の住居でした。
1640年、コルシーニ家に売却され、今も同家の住居となってます。


25
見事な庭園ですが、ここに入るのはかなり難しいと思います。


26
フィレンツェで最も重要な個人美術コレクションであるGalleria Corsiniです。通常はコネがないと入館が難しいと思います。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖ジローラモと聖ベネデット」(1492)


28
カラヴァッジョ、ポントルモ、グエルチーノ、ジョヴァンニ・ベッリーニなどの作品があります。


29
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの「マッフェオ・バルベリーニ枢機卿(後の教皇ウルバーノ8世)の肖像」
この作品がここにあるのです。


30
(つづく)

8.フィレンツェ
1
引き続きフィレンツェです。


①ウフィッツィ美術館
2
ウフィッツィ美術館の続きです。


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ルカ・シニョレッリの「磔刑と聖マリア・マッダレーナ」(1502-03c)


8
この作品はフィレンツェの旧サン・ヴィンチェンツォ・ダンナレーナ修道院(アンナレーナ修道院)にありました。1810年に旧修道院からフィレンツェのアカデミア美術館に移されましたが、1814年にウフィッツィ美術館の所蔵となりました。1853年に再びアカデミア美術館に移されましたが、1919年にウフィッツィ美術館の所有となり、現在に至ってます。


7
「磔刑とマグダラのマリア」があった旧サンタレーナ修道院です。
修道院の創設者アンナレーナ・マラテスタ(?、1416‐フィレンツェ、1491)は、1440年のアンギアーリ戦いの英雄バルダッチョ・アンギアーリ(アンギアーリ、1400c‐フィレンツェ,1441)の妻でした。夫バルダッチョがフィレンツェで惨殺されると、悲しみのあまりコジモ・デ・メディチ所縁の家に閉じこもりました。アンナレーナはオッタヴィアーノ・ディ・ヴィエーリ・デ・メディチの養女だったので、コジモが少女時代のアンナレーナに寄贈した家でした。
その家が核となって、1454年に女子修道院が設立され、1474年に修道院教会の複合施設に拡大されました。アンナレーナは初代女子修道院長となりました。メディチ家の後援があって、修道女100人以上の大きな修道院となりました。


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オルトラルノ地区のサンタ・マリア通りに面した旧修道院の入り口
サン・ヴィンチェンツォ・ダンナレーナ修道院教会は1786年にフランス軍に接収され、閉鎖されました。


8
旧修道院の建物は劇場や映画館として使用されました。
さて、「磔刑とマグダラのマリア」に戻ります。


9
前述のようにアンナレーナは、メディチ家の養女だったので、この作品は、メディチ家がルカ・シニョレッリに注文して、アンナレーナ修道院に寄贈したものと考えられてます。
今となっては不思議なのですが、この作品は長らくアンドレア・デル・カスターニョ(フィレンツェ、1421c-1457)によって制作されたとされていました。ルカ・シニョレッリの作品と帰属が変更されたのは漸く1864年になってからでした。


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ルカ・シニョレッリの「肥沃と豊穣の寓意」(1500-02c)


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この作品の制作に関することは全くの不明となってます。
この作品はコルトーナのCasa Tommasiにありましたが、その所有者Girolamo Tommasiからウフィッツィ美術館が1894年に購入したものです。Girolamo Tommasiは美術品収集家で、他にルカ・シニョレッリの「バチェの聖母」も所有していました。
現在、Casa TommasiはB&Bとして使用されているようです。


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ルカ・シニョレッリの「三位一体と聖母子と聖人たち」(1510c)


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ルカ・シニョレッリと工房による「裾絵」
何の裾絵だったのか不明とされてますが、これの前に紹介した「三位一体と聖母子と聖人たち」の裾絵説がかなり有力視されてます。


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最後の晩餐


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園の祈り


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キリストの鞭打ち


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ルカ・シニョレッリの「聖母子」(1490c)


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この作品があったメディチ家のVilla di Castelloです。


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この他に非常設展示となっている作品が2つあるそうです。


29
(つづく)

8.フィレンツェ
1
フィレンツェを見尽くすには、何回足を運べば良いでしょうか。


2
1490年頃、ルカ・シニョレッリはフィレンツェに滞在していたことが分かってます。


3
メディチ家のVilla di Careggiです。
ロレンツォ・イル・マニーフィコの時代、コジモ時代の様にヨーロッパ1の富豪とは言えず、そのパトロネージには経済的弱体化が反映されて、イマイチともいえる状況でした。


4
それでもロレンツォの新プラトン主義の中心地の一つが、このVilla di Careggiでした。


5
多くの芸術家や学者などがVilla di Careggiに集まって意見交換などを通じて、互いに刺激し合ったのです。


6
1490年頃、ルカ・シニョレッリはロレンツォに招かれて、このVilla di Careggiに滞在したのです。
この時期、Villa di Careggiに出入りしていた芸術家として、ボッティチェリ、ペルジーノ、ドメニコ・ギルランダイオ、フィリッピーノ・リッピなどがいました。


7
滞在中のルカ・シニョレッリが描いたのが大型神話画「パンの勝利」でした。
この作品については既に「シエナ編」で触れました。第二次世界大戦のソ連軍のベルリン進軍による火災によって消失してしまいました。



①ウフィッツィ美術館
8
ウフィッツィ美術館は何時も混雑しています。


9
それでも比較的空いていることがあります。


28
ボッティチェリの展示室はいつも大盛況です。


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廊下から見えるアルノ川


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シニョレッリの展示室


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この時は第31室となっていました。
展示される作品や展示室が変わることが結構あるのです。


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ルカ・シニョレッリの「グエルファの聖家族」(1485-90c)


14
この大きなトンドは、フィレンツェのグエルファ党の宮殿 Palagio di Parte Guelfaの集会所のために描かれました。


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フィレンツェのPalagio di Parte Guelfa


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Palagio di Parte Guelfaは、フィレンツェの中心部、ベリッチェリア通りに建ってます。


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Palagio di Parte Guelfa内の集会所


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この作品は1802年にウフィッツィ美術館に移されました。


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第31室からの窓越しの景観


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次の展示室です。


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第32室もルカ・シニョレッリ作品だけの展示でした。


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モンテプルチャーノのネーリ・デッラ・ミゼリコルディア同信会の祭壇画裾絵(1492-96c)


21
モンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会から1831年にウフィッツィ美術館が取得しました。
この裾絵のメインパネルは、近年までモンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会の主祭壇にありましたが、現在はモンテプルチャーノ市立美術館で展示されてます。


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受胎告知


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ご誕生


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マギの礼拝


1
裾絵があった、モンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会です。


6
サンタ・ルチア教会の案内板にルカ・シニョレッリの「聖母子」があると書かれてます。


2
サンタ・ルチア教会の主祭壇
主祭壇画のルカ・シニョレッリの祭壇画が取り外されたままになっていて、空です。
ルカ・シニョレッリの時代、祭壇画はメインパネルに裾絵付きが多かったようです。メインパネルと裾絵が分離された理由や時期は不明です。


3
ルカ・シニョレッリの「聖母子」
祭壇画の裾絵がウフィッツィ美術館にあるのです。


4
モンテプルチャーノ市立美術館の説明版


5
モンテプルチャーノ市立美術館
(つづく)

1写真はチッタ・ディ・カステッロです。

システィーナ礼拝堂のフレスコ画制作によって、他派の画家たちから多くを学び、独自の画風を確立して円熟期を迎えたルカでした。高まる名声によって、あちこちから注文依頼を受けることになりました。
チッタ・ディ・カステッロに工房を構えながら、注文をさばくために各地を巡る多忙な生活を送っていました。
この時期に制作された作品は、イタリアに残されたものは少なく、海外に流失したようです。また、多翼祭壇画の中には、分解されてパネル毎に売られて各国の美術館で展示されているものがあります。


2
ルカ・シニョレッリの「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」(1485-90c)
ルーブル美術館で展示されていますが、制作された経緯など全く不明とされてます。


23
ルカ・シニョレッリの「パンの教育」(1490c)の白黒写真

この作品は、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコの注文によって制作されたことが分かってます。長い間、行方不明となっていましたが、再発見されてベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館で展示されていました。第二次世界大戦のベルリン陥落に伴う美術館火災に見舞われ、焼失してしまいました。


25
ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会です。


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美術的に今でも見所が多いサン・フランチェスコ教会です。


24
ルカ・シニョレッリの「割礼」(1490c)

「割礼」はロンドン・ナショナル・ギャラリーの所有作品です。ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会にありましたが、金に目がくらんだ修道士が秘かに祭壇から取り外し売却してしまったのです。


7.シエナ
5
見所が豊富過ぎるのがシエナの欠点でしょうか。

①サンタゴスティーノ教会
3
シエナのサンタゴスティーノ教会です。


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美術的に今なお必訪の教会として有名です。


4
サンタゴスティーノ教会におけるルカ・シニョレッリ作品は、何となく虐げられたような感じがします。


6
Cappella Bichiです。


7
礼拝堂天井のフレスコ画です。
ルカ・シニョレッリによって1488年頃から1491年頃にかけて制作されたフレスコ画です。


8
Cappella Bichiはビーチ家の個人礼拝堂でしたが、同家の没落によって個人礼拝堂ではなくなりました。
1747年、サンタゴスティーノ教会は火災に遭い、その修復の際、教会内部は新古典様式に改造されました。その時、ルカ・シニョレッリのフレスコ画は塗りつぶされてしまいました。
近年の修復の際、下の層にあったルカのフレスコ画の一部が20世紀後半に再発見されたのです。


9
Cappella Bichiの祭壇には、ルカ・シニョレッリの多翼祭壇画がありました。


10
ルカ・シニョレッリの「Pala Bichi」(1489-90)

現存するパネルを組み合わせて、多翼祭壇画を再構成したものです。多翼祭壇画の中央には聖母子のパネルがあったと考えられてますが、行方不明です。
多翼祭壇画の前には彫刻が置かれていたそうです。


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フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)の「聖クリストフォロ」


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多翼祭壇画の分解されたパネルは、トレド美術館、ベルリン国立美術館、グラスゴー美術館、アイルランド国立美術館などに分散されてます。


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裾絵の「アレッサンドリアの聖カテリーナの殉教」


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シモン家の饗宴


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嘆き


➁Palazzo del Magnifico
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ドゥオーモ近くにあるPalazzo del Magnificoは、現在ホテルになっているようです。


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ルカ・シニョレッリのフレスコ画が大広間にありましたが、1840年に剥されロンドン・ナショナル・ギャラリーの所有となりました。


22
酷いものです。
(つづく)

システィーナ礼拝堂のフレスコ画制作を終えて、ルカは恐らくチッタ・ディ・カステッロに戻ったと思われます。フレスコ画制作を通して、ペルジーノからウンブリア絵画やボッティチェリなどからフィレンツェ派の大きな刺激を受けて、ルカの画風は最新技術の高みへと成熟しました。

6.ペルージャ
1
ペルージャは、人口162,526人(2025年3月31日現在)のウンブリア州の州都でもあり、ペルージャ県の県都です。ウンブリア芸術の中心地です。


①ドゥオーモ付属博物館 Museo del Capitolo Cattedrale San Lorenzo
2
ペルージャのドゥオーモ、サン・ロレンツォ大司教座教会です。


3
ドゥオーモでの出入りは通常左側壁のサイド・ポータルが担います。


4


5
ドゥオーモ付属博物館があります。


6
ここから中に入ってキオストロに出ます。


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キオストロ


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博物館の入り口


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ルカ・シニョレッリの祭壇画が展示されている部屋


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第19室になります。


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ルカ・シニョレッリの「聖オノフリオの祭壇画」(1484)


12
当時のペルージャ司教ヤコポ・ヴァンヌッチ(コルトーナ、1416-コルチャーノ、1487)が同郷出身の画家ルカ・シニョレッリに依頼したものです。
ローマでの制作を通して、ウンブリア、フィレンツェ、ローマなどの技術を吸収しながら独自の画風を確立した、ルカの成熟期を象徴する作品として有名です。ルカ・シニョレッリの現存する作品のうち、最古の大祭壇画です。
ペルージャ大聖堂の右翼廊サントノフリオ(聖オノフリオ)礼拝堂の主祭壇画でした。オリジナルの額縁は現存しませんが、1648年の大聖堂記録が残されており、その記録には額縁に刻まれた碑文があり、その碑文に「サントノフリオ礼拝堂はペルージャ司教ヤコポ・ヴァンヌッチによって創建され、ルカ・シニョレッリの祭壇画はヤコポの甥でペルージャ司教ディオニジオ・ヴァンヌッチ(ヤコポの後継ペルージャ司教)によって1484年に設置された」と記されているそうです。


13
この祭壇画は1608年までサントノフリオ礼拝堂にありました。1608年に礼拝堂が改修されることになり、その際、取り外され大聖堂の別の場所に移設されました。1923年に大聖堂内部から付属美術館に移設され、現在に至ってます。


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➁ウンブリア国立美術館
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プリオーリ宮です。


21
プリオーリ宮に国立ウンブリア美術館があります。


23
第18室にルカ・シニョレッリの作品があります。


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ルカ・シニョレッリの作品です。


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部屋のフレスコ画も見所です。


25
ルカ・シニョレッリと工房による「パチァーノの祭壇画」(1517)


26
パチャーノ・ヴェッキオのパドヴァのサンタントニオ修道院にありました。


27
プレデッラが付いてます。


28
プレデッラの「シエナの聖ベルナルディーノ」


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教皇インノチェンツォ3世の夢 聖ロレンツォの殉教


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パチアーノのサンタントニオ修道院


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守銭奴の心


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聖アントニオ・アバーテの死


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マルカのベアート・ジャコモ



34
この祭壇画の額縁はかなり痛みがあるものの、オリジナルのもので、額縁にルカ・シニョレッリの名前と1517と記されてます。
メインパネルの一部とプレデッラはシニョレッリ工房で制作されたという説が有力です。
パチャーノ・ヴェッキオのサンタント二オ・ディ・パドヴァ修道院は、18世紀末にナポレオンの抑圧令によって修道士が追放され閉鎖されました。その後、ナポレオンの失脚後、活動が再開されたものの1818年に再び閉鎖となりました。建物が荒廃し、1864年に廃墟となり、その際、「パチャーノの祭壇画」は1865年にペルージャ市に売却されました。その後、国立ウンブリア美術館の所有となりましたが、同美術館に保管されたままで展示されるのは特別な機会に限られていたようです。2012年に修復され、その後は一般公開されるようになりました。
(つづく)

5.ローマ
1153
ルカ・シニョレッリはローマでは本領発揮とならなかったようです。

①システィーナ礼拝堂
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ヴァティカンは何時も混雑しています。


1
最も混雑しているのがシスティーナ礼拝堂でしょう。


2
システィーナ礼拝堂の描いたルカ・シニョレッリのフレスコ画を見ます。


3
礼拝堂の壁がフレスコ画で覆われてます。

1481年10月27日付の契約に基づいて、ルカ・シニョレッリはシスティーナ礼拝堂のフレスコ画制作に従事することになりました。
最初はペルジーノの助手として仕事を始めましたが、ペルジーノが去ると、当初ペルジーノに依頼されていた仕事はルカが引き継ぐことになりました。
1479年、ペルジーノがフレスコ画制作を開始しました。


4
ペルジーノの「モーゼのエジプトへの旅」


5
「エジプトへの旅」のうち、この部分をルカ・シニョレッリが担当したと言われてます。


6
左がルカ・シニョレッリの作品、右がボッティチェリの作品です。


7
ルカ・シニョレッリの「モーゼの遺言と死」
ペルジーノが構想し、バルトロメオ・デッラ・ガッタが手伝ったそうです。


8


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➁サンタンジェロ城博物館
10
サンタンジェロ城です。


11
サンタンジェロ城は博物館として一般公開されてます。


12
Sala dell’Adrianeoです。


13
絵画が展示されてます。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子と四聖人」(1515-20c)


15
ルカ・シニョレッリと工房によって、コルトーナのサン・ミケランジェロ修道院のベネデット会修道女のために1515年から1516年頃に描かれたという説が有力です。


16
この作品は、コルトーナの貴族トマージ家がサンタンジェロ修道院から買い取り、後にフィレンツェの画商エリア・ヴォルピに売却されました。
1928年にコンティーニ=ボナコッシ・コレクションの一部としてサンタンジェロ城に寄贈されました。


24
プレデッラが付いてます。
しかし、このプレデッラには問題があるのです。プレデッラのテーマは聖ジョヴァンニ・バッティスタの生涯となっており、コルトーナのサン・ミケランジェロ修道院のベネデット会修道女のために描かれたにしては、相応しくないのです。そのため、鋭意調査が行われ、その結果、このプレデッラは別の祭壇画から持ち込まれたことが分かりました。
オリジナルのプレデッラは、現在コルトーナのMuseo Diocesanoに収蔵されている「聖ベネデットの生涯の物語」である可能性が高いという説が有力です。


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初めに、現在サンタンジェロ博物館にあるルカ・シニョレッリの祭壇画の裾絵(他から持ち込まれたもの)を紹介します。
聖トンマーゾの不信


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聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生


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キリストの洗礼


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サロメ


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天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト


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23

次にコルトーナのMuseo Diocesanoに収蔵されているプラデッラ、ルカ・シニョレッリと弟子による「聖ベネデットの生涯」(1515‐16)を紹介します。


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下段が「聖ベネデットの生涯」です。


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72
コルトーナのMuseo Diocesanoです。


25


26
(つづく)

4.ロレート
1
ロレートは、人口13,066人(2025年3月31日現在)のマルケ州アンコーナ県にあるコムーネです。


2
聖なる家の聖堂の有名なロレートは、カトリックの重要な巡礼地の一つで、世界中から多くの巡礼者が訪れる宗教都市です。


3
フランチェスコ・メンゾッキ(フォルリ、1502-1574)の「天使たちに担がれて移動する聖なる家」(ロレート大聖堂付属美術館蔵)

聖母が生まれ育ち、やがて受胎告知を受けた「聖なる家」はナザレにありましたが、イスラム教徒などの迫害を受けて、13世紀末には存続が困難となりました。
1291年、天使たちが「聖なる家」を担いで運び、いくつかの土地を巡った末、やがてロレートに運び込まれました。


4
その伝説に基づいて建設されたのが聖なる家の聖堂です。


6
身廊中央通路の先に「聖なる家」があります。


5
大理石でできた聖なる家


7
1476年、ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレ(アルビッソラ・マリーナ、1434-ローマ,1507)はマチェラータとレカナーティの司教に任命されました。当時、ロレートはレカナーティ司教区に属しており、サンタ・マリア・ディ・ロレート教会(現在の聖なる家の聖堂)は、ジローラモの管理下にありました。」
1477年、第212代教皇シスト4世(1419-1484 教皇在位:1471-1484)は、ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレを枢機卿に任命しました。


8
サン・ジョヴァンニ聖具室です。聖なる家の聖堂には4つの聖具室があります。


9
1477年、新たに枢機卿となったジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレは、その記念としてサン・ジョヴァンニ聖具室の装飾に着手して、フレスコ画装飾をルカ・シニョレッリに依頼したのです。
また、1477年2月に聖母の聖堂の守護者に任命されたジローラモの紋章がアーチ天井の中央に描かれてます。


10
ルカ・シニョレッリは、ロレートに赴任し、1477年から1480年にかけてフレスコ画制作に従事したのです。
しかし、このフレスコ画の制作年については幾つかの異説があります。
ヴァザーリによれば、ロレートのフレスコ画はルカのシスティーナ礼拝堂フレスコ画よりも前に制作されたとしてますが、一部の美術史家や研究者は1480年代半ばから1480年代後半に制作されたとしています。


11
サン・ジョヴァンニ聖具室の銘板


12
当時、ルカ・シニョレッリは、師匠のピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を脱し、独自のスタイルを確立した気鋭の画家として名声を築きつつありました。


13
サン・ジョヴァンニ聖具室のフレスコ画によって、ルカ・シニョレッリはその地位を揺るぎないものにしたのです。


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ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の紋章


16
ベネデット・ダ・マイアーノ(マイアーノ、1442-フィレンツェ、1497)の「Lavado(洗面台)」(1480c)


14
サン・ジョヴァンニ聖具室は八角形をしています。


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八角形の聖具室の形に合わせて、天上から伸びる壁は8つに分かられてます。


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8つに分かられた壁は、天上の中心から天使が描かれ、天使の下は四福音書記者と四教会博士が交互に描かれてます。


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天使


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聖マルコ


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聖ジローラモ


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福音書記者と教会博士の下は、5組の二人の使徒、聖パオロの回心、聖トンマーゾの不信となってます。


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聖パオロの回心


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聖トンマーゾの不信


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(つづく)

2.チッタ・ディ・カステッロ
1
引き続きチッタ・ディ・カステッロです。


①市立絵画館
2
市立絵画館の続きです。


3
ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子と聖人たち」(1520-25)


4


5
以前は「サンタ・チェチリアの祭壇画」はこのように展示されていました。
これについての修復後の現在は(その5)に前述した通りです。また、裾絵が残されているので、いずれ修復されることを期待します。


6
ルカ・シニョレッリの「聖マリア・マッダレーナ」(1508-10)


7
ルカ・シニョレッリに帰属するサン・クレチェンティーノ・モッラ祈祷所のフレスコ画


8
サン・クレチェンティーノ・モッラ祈祷所の「磔刑」


9
サン・クレチェンティーノ・モッラ祈禱所の「鞭打ち」


➁大聖堂付属博物館
10
チッタ・ディ・カステッロのドゥオーモです。
1458年の地震によって大きな被害を受けました。ルカ・シニョレッリがチッタ・ディ・カステッロに居住していた時代、ドゥオーモから制作打診を受けたようです。しかし、地震被害深刻ということで建物が再建されることになりました。1494年創建、1527年に完成した建物が現在のドゥオーモですが、結局ルカへの注文はなされずに終わったようです。


P1720439
ドゥオーモのファサード右側に大聖堂付属美術館があります。


12
ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・カステッロの「聖母子と聖人たち」(1492)


13
ルカ・シニョレッリの影響が強いことが分かります。


14
この作品からジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・カステッロはルカ・シニョレッリの弟子だった可能性があるとされています。



3.ウンベルティデ
15
ウンベルティデ Umbertideは、人口16,230人(2025年3月31日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。チッタ・ディ・カステッロの南に位置して、隣接してます。


16
ルカ・シニョレッリがチッタ・ディ・カステッロで工房を構えていた時に、制作依頼があっても当然ですが、そのような話は伝わっていないようです。


17
ウンブリティデのサンタ・クローチェ教会からルカ・シニョレッリに制作依頼する件に関する1515年7月8日付の公正証書が残されているのです。その当時、ルカはコルトーナにいました。
作品が完成して1516年7月末にサンタ・クローチェ教会の主祭壇後方に設置された記録が残されてます。制作費支払いに関する証書は支払いの都度作成され、最後の支払いは1517年に行われました。


18
サンタ・クローチェ教会です。


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14世紀に建設されましたが、その後数度の改造、修復を経て、18世紀初めに改造された建物が現在の外観となってます。
第二次世界大戦後に聖別されなくなり、修復を経て1998年に美術館になりました。


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美術館の入り口です。


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美術館になってますが、中は殆ど教会のままです。


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中央礼拝堂


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主祭壇


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ルカ・シニョレッリの「十字架降下」(1516)
1516年7月に完成しました。
最初の額縁は何らかの理由で使用されなくなり、1611年に制作された額縁に作品が入れられてます。


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プレデッラ


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裾絵は恐らくフランチェスコ・シニョレッリによって制作されたという説が有力です。
裾絵のテーマは「聖十字架伝説」で、ルカの師匠ピエロ・デッラ・フランチェスカがアレッツォのサン・フランチェスコ教会に描いた有名なフレスコ画から借用したと考えられてます。


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34
(つづく)

2.チッタ・ディ・カステッロ
1
チッタ・ディ・カステッロは、人口37,830人(2025年3月31日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。


2
写真はアルノ川で、城壁の横をアルノ川(上流)が流れてます。


3
1470年頃、結婚したルカ・シニョレッリは、程なくして(1472年頃)チッタ・ディ・カステッロに工房を構えて定住したそうです。


4
写真はチッタ・ディ・カステッロのサン・ドメニコ教会です。


5
写真右端に写っているのがサン・ドメニコ教会ですが、教会横にルカ・シニョレッリ通りがあります。


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ルカ・シニョレッリ通りの表示


7
通りに面してルカ・シニョレッリ工房がありましたが、工房があった建物は現存してません。
ルカ・シニョレッリは、チッタ・ディ・カステッロで5つの祭壇画を制作したと言われてます。

ルカは、1479年にコルトーナの18人評議会の評議員に選出されたので、それ以前にチッタ・ディ・カステッロからコルトーナに引っ越ししたことが分かります。また、ロレートの聖母の家の聖堂フレスコ画制作のため、1477年からロレートに長期滞在したことが分かってます。


①チッタ・ディ・カステッロ市立絵画館
8
Palazzo Vitelliです。


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Palazzo Vitelliの庭園


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Palazzo Vitelliのスグラフィート装飾


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Palazzo Vitelliにコムナーレ絵画館が置かれてます。


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ルカ・シニョレッリの展示室


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ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「聖セバスティアーノの殉教」(1498)


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「聖セバスティアーノの殉教」は、チッタ・ディ・カステッロのサン・ドメニコ教会にありました。


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サン・ドメニコ教会


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ルカ・シニョレッリの作品は主祭壇にありましたが、取り外され絵画館で展示されるようになりました。


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サン・ドメニコ教会のメインポータル。滅多に開かない教会です。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たちのフレスコ画」における「聖パオロ」部分の剥離フレスコ(1474)


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Stendardo(旗)の表面 表裏両面に描かれてます。


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Stendardoの裏面


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ルカ・シニョレッリと弟子による「キリストの洗礼」(1498c)


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ルカ・シニョレッリと弟子による「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1498c)
チッタ・ディ・カステッロのサン・ジョヴァンニ・デコッラート教会(聖別されていない旧教会)にありました。


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次は2024年12月頃から新たに展示されるようになったルカ・シニョレッリの「サンタ・チェチリアの祭壇画」です。
チッタ・ディ・カステッロのサンタ・チェチリア修道院にあったもので、1516年に制作されました。
ナポレオンのイタリア侵攻の際、ナポレオンの側近で初代ルーブル美術館の館長ヴィヴァン・ドゥノンの命によって、この作品は接収対象となり、メインパネルと裾絵が額縁から取り外され別々になってしまいました。
しかし、メインパネルは縦3メートル、横2メートルの大きなものだったので、輸送上の困難さから接収が断念され、長い間放置されました。
裾絵は、第二次世界大戦中にドイツ軍によって接収され、1945年、オーストリアのリンツで発見されました。リンツにあったヒトラーの美術館に寄贈される予定でした。
その裾絵と端絵がこの美術館にあるので、そのうちに裾絵と端絵が修復されることを期待します。(修復前の祭壇画の写真は(その6)に掲載)


42
この祭壇画は1912年からチッタ・ディ・カステッロの市立美術館に所蔵されるようになりました。
長らく放置されている間に作品の劣化が進みました。また作品帰属もルカ・シニョレッリ派逸名画家の作品とされるようになり、それが信じられてきました。
修復作業の結果、アレッサンドリアの聖カテリーナが着ている服の裾にルカ(LV-CA)の名前と1516の表記があるのが発見され、ルカ・シニョレッリの真作とされたのです。
写真左が修復前、右が修復後の祭壇画です。


66
ルカ・シニョレッリの「サンタ・チェチリアの祭壇画」(1516)
(画面左下がアレッサンドリアの聖カテリーナ)


43
(つづく)

1.コルトーナ
1
引き続きコルトーナです。

④サン・ドメニコ教会
4
城壁外にあるサン・ドメニコ教会です。


2
1258年の文書に初めてその存在が記録されました。


3
現在の建物は、1412年創建、1438年に完成した二代目となるものです。


5
美術的に見どころが豊富な教会として知られてます。


6
ルネッタのフレスコ画「聖母子と聖人たち」は・ベアート・アンジェリコ(ヴェッキオ、1395c-ローマ、1455)によって1439年から1440年に制作されました。
経時劣化によって何が描かれているのか殆ど分からない状態でしたが、修復によって何とか蘇りました。


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単廊式の内部です。


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後陣


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後陣左礼拝堂にルカ・シニョレッリの祭壇画があります。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たちと寄進者」(1515)


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1515年、コルトーナの司教ジョヴァンニ・セルニーニのために描かれました。



12


⑤ドゥオーモ
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次はコルトーナのドゥオーモです。


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現在ルカ・シニョレッリの作品はありません。


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ドゥオーモの主祭壇画はこの作品でした。
ルカ・シニョレッリの「聖母被昇天」(1519-20)


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「聖母被昇天」はドゥオーモの向かいにあるMuseo Diocesanoに移されました。
シニョレッリ工房にいた弟子、またはシニョレッリの影響を受けた逸名画家による作品が二点あります。


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖トンマーゾの不信」


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「磔刑」


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ドゥオーモの中央礼拝堂


⑥サン・ニッコロ教会
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次はサン・ニッコロ教会です。


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15世紀に建設されたサン・ニッコロ教会です。


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ルカ・シニョレッリの作品があります。


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小さな教会の内部です。


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主祭壇画はルカ・シニョレッリの「Stendardo di San Niccolo」(1510)
Stendardoとは旗と言う意味で、表裏両面に描かれてます。
表はルカ・シニョレッリの「死せるキリストへの哀悼」


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Stendardoが電動によって、両面が見えるようになってます。


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裏面はルカ・シニョレッリの「聖母子と聖ピエトロと聖パオロ」


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コルトーナのサン・ニッコロ信徒会によって創建されたサン・ニッコロ教会ですが、1440年頃にシエナの聖ベルナルディーノの信奉者によって設立された信徒修道会が活動の中心となりました。ルカ・シニョレッリは、その信徒修道会の一員だったと言われてます。


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その信徒修道院が解散した後の1784年に、このStendarioはコルトーナのジェズ教会に移されましたが、1792年にサン・ニッコロ礼拝堂(この時、常勤の聖職者がいなかったので教会ではなく礼拝堂と呼ばれたようです)に戻されました。
1784年のジェズ教会の作品目録には、このStendarioに聖二コラの奇跡を描いたプレデッラが存在すると記されています。
Stendarioの裾絵は3枚の小パネルから成っており、そのうち2枚がアトランタのハイ美術館にあります。残りの1枚は個人蔵でしたが、2022年1月のニューヨークのサザビーズで競売に掛けられ落札されました。落札者はオープンになっていないようです。


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この両面画のStendarioには、信徒修道会教会の主祭壇画として、また行列の旗としての2つの役割がありました。


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ルカ・シニョレッリ工房によるフレスコ画「聖母子と8聖人」


33
ルカ・シニョレッリは、この修道会の一員だったため無償でこのフレスコ画を描いたそうです。


34
コルトーナを終わります。
(つづく)

P2160790引き続きコルトーナです。

➁エトルリア・アカデミー博物館
1
コルトーナの有力貴族カザーリ家の邸宅として13世紀に建設されたPalazzo Casaliです。
初代コルトーナ領主ダニエーレ・カザーリ(コルトーナ、1280c-1351)は、1325年にコルトーナ領主となり、カザーリ宮で政務を行いました。カザーリ家はそれ以降80年以上コルトーナを支配しましたが、政庁舎となったのでPalazzo Pretorioと呼ばれるようになりました。


2
この建物は1727年からエトルリア博物館として使用されるようになりました。


3
コルトーナはエトルリア人起源の町です。博物館の名称からエトルリア関係の考古学博物館と思われがちです。


4
考古学博物館としての一面が強調されがちですが、博物館の実態はMuseo Civocoです。


5
絵画の展示も充実しており、ルカ・シニョレッリ、シニョレッリ工房、シニョレッリの影響を受けた逸名画家(恐らくシニョレッリ工房で働いていた弟子)などの作品が展示されてます。


6
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「聖母子とコルトーナを守る聖人たちのトンド」(1512)


7
作品が何処にあったのか、分からないようです。しかし、1756年の記録にプリオーリ宮の評議会の間にあったことが記されているので、プリオーリ宮のために描かれたと思われてます。


8
左から聖ミケーレ、聖ヴィンチェンツォ


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聖マルゲリータ、聖マルコ


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コルトーナの町


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ルカ・シニョレッリとシニョレッリ工房による「羊飼いの礼拝」(1520c)


12


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子と二聖人」


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聖人は聖ロッコと聖オノフリオ


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フランチェスコ・シニョレッリ?の「聖母子と聖アンナと聖マッダレーナ・マリア」


16
フランチェスコ・シニョレッリはルカの甥です。


17
フランチェスコ・シニョレッリ?の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子と二聖人」


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二聖人はバーリの聖二コラとパドヴァの聖アントニオです。


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子」


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③サン・フランチェスコ教会
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この教会にはルカ・シニョレッリの作品がありません。


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13世紀に建設されました。


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外壁にあるルカ・シニョレッリの胸像


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ルカ・シニョレッリの墓があります。


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教会内部


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墓があることを示す銘板


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銘板近くのフレスコ断片(ルカ・シニョレッリの作品ではありません)
(つづく)

1.コルトーナ
1
引き続きコルトーナです。


①Museo Diocesano
2
教区博物館の続きです。


3
ルカ・シニョレッリ工房による「聖母子と四聖人」(1515c)


4
何処にあったのか不明ですが、1866年にジェズ教会にあったとの記録が残されてます。


5
4聖人は左から聖ミケーレ、パドヴァの聖アントニオ、シエナの聖ベルナルディーノ、バーリの聖二コラです。


6
ルカ・シニョレッリの筆が入っていると言われてます。


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ルカ・シニョレッリ工房による「羊飼いの礼拝」(1521-24)


8
コルトーナのジェズ教会上部教会にありました。


9
この頃ルカ・シニョレッリは体の不調から徐々に工房に制作を任せるようになったそうです。


10
Museo Diocesanoで展示されている9点の作品のうち、これが最も質が高いとされています。


11
ルカ・シニョレッリの「十字架降下」(1501-02)


13
裾絵の「園の祈り」


14
「最後の晩餐」


15
「キリストの逮捕」


16
「キリストの鞭打ち」


12
コルトーナのサンタ・マルゲリータ教会(前の建物)にありました。
教会の建物が再建される際、以前の建物にあった本作品は取り外され、コルトーナのドゥオーモに移されました。ドゥオーモに移される際、額縁は分解され、移されたのはメインパネルと裾絵だけでした。
この祭壇画の額縁の柱に聖人たちが描かれていました。左に大天使聖ミケーレ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖アントニオ・アバーテ、聖バジリオの四聖人、右の柱に上から聖ジローラモ、聖フランチェスコ、バーリの聖二コラ、聖ボナヴェントゥーラが描かれていました。
このうち、大天使聖ミケーレは2009年にロンドンのオークションで127,250ポンドで落札されました。聖フランチェスコとバーリの聖二コラの二聖人は、2016年7月にロンドンのオークションで98,500ポンドで落札されました。それ以外の柱に描かれた聖人たちは情報がありません。
メインパネルと裾絵は1945年にMuseo Diocesanoに移され現在に至ってます。


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ルカ・シニョレッリと弟子による「聖母子と四聖人」(1510-15c)


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制作者の工房と弟子との違いが分かりません。


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四聖人は左から聖フランチェスコ、トローサの聖ルドヴィーコ、聖ボナヴェントゥーラ、パドヴァの聖アントニオとなります。
何処にあったのか不明とされてますが、1866年にジェズ教会にあったことが初めて記録されました。また、四聖人がフランチェスコ会の聖人なので、コルトーナのサン・フランチェスコ修道院教会のために描かれたという説が極めて有力です。


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ルカ・シニョレッリ工房による「羊飼いの礼拝」(1522c)


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コルトーナのサン・フランチェスコ教会にありました。


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ルカ・シニョレッリとは関係ありませんが、コルトーナのMuseo Diocesanoで最も有名な作品に触れておきましょう。


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ベアート・アンジェリコ(フラ・アンジェリコ)の「受胎告知」です。


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これでMuseo Diocesanoを終わります。
(つづく)

1
,左がルカ・シニョレッリの自画像です。

欧米の美術館に行くとルカ・シニョレッリの作品を目にすることが多く、1980年の初め頃には私にとってお馴染みの画家の一人でしたが特に印象深くはありませんでした。
それから数年後、オルヴィエート大聖堂に訪れる機会があり、シニョレッリのフレスコ画を初めて観たのです。システィーナ礼拝堂のミケランジェロの力強い表現に似た、解剖学的で筆致に圧倒されました。感銘を受けたので、聖堂内で説明書を買い求めました。恥ずかしい限りですが、ミケランジェロがシニョレッリのフレスコ画を見て制作の参考にしたことが分かりました。それを知り、シニョレッリへの興味が俄かに掻き立てられて、シニョレッリの作品を熱心に観るようになりました。
かくして、シニョレッリの作品を求めてあちこちに行くことになったのです。


2
コルトーナの鉄道駅Camucia- Cortonaから見たコルトーナ旧市街です。

1.コルトーナ
ルカ・シニョレッリ所縁の土地と言えば、何と言ってもコルトーナでしょう。
コルトーナは、人口20,877人(2025年1月1日現在)のトスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネです。

ルカ・シニョレッリ(本名:ルカ・デジーディオ・ディ・ルカ・ディ・ヴェントゥーラ)は、1441年から1445年の間頃にコルトーナで生まれました。
ルカ・シニョレッリの甥ジョルジョ・ヴァザーリによると、ルカ・シニョレッリは82歳で死去したと記しました。
生地の具体的な場所は不明とされてます。サンタゴスティーノ修道院教会の近くに生まれた家があったと言う説もありますが、不確実です。
4
サンタゴスティーノ教会がある通り


3
サンタゴスティーノ修道院教会のキオストロ

ルカ・シニョレッリの父エジーディオ・ディ・ベントゥーラ・シニョレッリも画家でした。また、ジョルジョ・ヴァザーリはルカの甥でした。
ルカは、後にピエロ・デッラ・フランチェスカに師事するのですが、画家としての基本的な手ほどきは父から受けたようです。
ルカの師匠については、ピエロ・デッラ・フランチェスコの数学上の高弟ルカ・パチョーリが著した著作と、ルカの甥ジョルジョ・ヴァザーリの記述があるので、ピエロに師事したことは確実です。
5
ルカ・パチョーリの肖像


6
肖像画はナポリのカポディモンテ美術館にあります。

さて、ルカがピエロに師事した具体的な場所や時期など具体的なことは殆ど分かってません。1460年代にアレッツォ、という説が有力とされているようです。
また、ピエロの自宅があったボルゴ・サン・セポルクロで修業したことは確かとされてます。
ピエロ・デッラ・フランチェスカに師事したルカでしたが、通常の場合、初期の画風は師匠の影響を受けたものになることが多いのですが、ルカの画風もピエロそっくりでした。
7
この聖母子の制作者はピエロ・デッラ・フランチェスカ派の逸名画家とされてます。一時期、この作品はルカ・シニョレッリの初期作品説が出されました。(ヴェネツィアのジョルジョ・チーニ美術館蔵)

アレッツォで工房を設けましたが、ルカの作品の制作料がピエロ・デッラ・フランチェスカに支払われた記録が残っているので、ピエロの弟子のルカ・シニョレッリというのが世間的な一般的評価だったようです。
遅くとも1460年代までには故郷コルトーナに戻り、工房を設けて定住するようになりました。
1470年頃、結婚して2男2女の子供に恵まれました。
仕事を受ければ、ローマ、チッタ・ディ・カステッロ、ロレート、フィレンツェ、モンテ・オリヴェート、オルヴィエートなどに長期滞在して作品制作に励みました。
201
16世紀前半にルカの工房があった場所(コルトーナ)

ルカ・シニョレッリは、誠実で礼儀正しく、誰とでも親しく接する公平な人柄の人でした。その資質が認められ、1479年にコルトーナの評議会メンバーに選出され(コルトーナの評議会は18人で構成)、政治的に活動し数々の公職に就いて、没するまでその地位を保ちました。

1520年頃を境に体の不調に苦しみ、やがて手足の麻痺が認められるようになりました。それに伴い、徐々に工房の弟子に任せるようになると共に、その作風は古風で従来の繰り返しが多くなって後退するようになりました。

1523年、制作中に足場から転落し重傷を負い、10月16日コルトーナで没しました。フランチェスコ修道会の会員だったので、コルトーナのサン・フランチェスコ教会に埋葬されました。
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コルトーナのサン・フランチェスコ教会

コルトーナはルカ・シニョレッリの本拠地だったことで、重要な作品が揃ってます。

①教区博物館(Museo Diocesano)
教区博物館はドゥオーモ広場にあり、旧ジェズ教会と教会に隣接した建物に設けられてます。
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Museo Diocesanoの入り口


P2160969
第4展示室にルカ・シニョレッリとその工房による作品が展示されてます。


P2160970
9点の作品が展示されてます。


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ルカ・シニョレッリとシニョレッリ工房による「聖母被昇天」(1519-20)


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コルトーナのサンタ・マリア・アッスンタ司教座教会にありました。
この祭壇画にはプラデッラがありました。1664年までドゥオーモの主祭壇にありましたが、その年に額縁から取り外され、メインパネルは聖歌隊席の壁に掲げられました。その後、プラデッラは分解されて、売られたようです。プラデッラですが、博士たちとの問答(左背景にエジプトへの逃避)はカンザスシティ美術館で展示されてます。あと2つの裾絵、幼児虐殺(左背景に羊飼いの礼拝、右背景にマギの礼拝)と聖母の結婚(右背景に受胎告知)は個人蔵となっており、通常見ることが出来ません。


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「聖母被昇天」の裾絵の一部「博士たちとの問答」(カンザスシティ美術館蔵)


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「聖母被昇天」の聖母の伝統的な表現です。


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昇天した聖母が生きているかのように描くのが当時としては求められていました。


14
ルカ・シニョレッリとその協力者による「無原罪の御宿りの寓意」(1521-23)


15
コルトーナのジェズ教会の上部教会にありました。
協力者ですが、フランチェスコ・シニョレッリ説が有力です。


16



17
ジェズ教会は上部と下部の二重教会の構造をしていました。


18
ルカ・シニョレッリの「聖人たちの聖体拝領」(1512)


19
1786年までジェズ教会の主祭壇画でした。1786年に向かいに立っているドゥオーモに移され、1925年までドゥオーモにありました。
聖家族と聖オノフリオを描いたルネッタ、それに裾絵がありましたが、失われて現存していないようです。


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ユダの描写が秀逸です。


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ルカ・シニョレッリ工房の「キリストの神殿奉献」(1521)


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コルトーナのOratorio della Madonnuccia di Piazzoにありました。
このオラトリオはコルトーナのミゼリコルディア病院に付属していました。病院は現存してますが、オラトリオは破壊されました。
制作ですが、工房の助手だったマーゾ・パパチェロと特定されていた時代がありました。しかし、今ではフランチェスコ・シニョレッリの可能性があると言われてます。
1521年4月27日に注文されましたが、この時、ルカ・シニョレッリは老齢だったこともあって工房に任せていたようです。


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Oratorio della Madonnuccia di Piazzoは現存しないようです。


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「キリストの神殿奉献」には裾絵が付いていました。


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メインパネルとプレデッラを別々に展示するのは何故?
(つづく)

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