イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: ルカ・シニョレッリの足跡を辿って

1
写真はフィレンツェです。


2
(その8)で述べたように、1490年11月16日、ロレンツォ・イル・マニーフィコ(フィレンツェ、1449-1492)は「Maestro Luca」宛の手紙を出しましたが、その手紙はルカ・シニョレッリへのフィレンツェ招待状と思われてます。


3
その書状による招待を受け入れて、ルカ・シニョレッリはフィレンツェへと旅立ったとされてます。


4
ジョルジョ・ヴァザーリの「ロレンツォ・イル・マニーフィコの肖像」


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ロレンツォとルカが出会ったことは間違いありませんが、記録が残されてません。


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Villa di Careggiです。


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ロレンツォ・イル・マニーフィコは、新プラトン主義アカデミーを主宰し、人文学者や芸術家と交流を深めました。


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当初、アカデミーはVilla le Fontanelle(現在ホテルになってます)で行われていましたが、手狭になったのでVilla di Careggiで行われるようになっていました。


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ルカ・シニョレッリはVilla di Careggiに滞在してアカデミーの人々と交流を深め、大きな刺激を受けると共に、画風にもさらに深みを増すようになりました。


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ルカ・シニョレッリの「パンの教育」
Villa di Careggiに滞在中に制作されたとされてます。第二次世界大戦のベルリン陥落の際、焼失してしまい、作品の白黒写真しか残されていません。


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ウフィッツィ美術館のルカ・シニョレッリ作品の展示室です。


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この作品はルカ・シニョレッリのフィレンツェ、またはVilla di Careggiに滞在中に制作されたとされてます。


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Villa Medicea di Castelloにありました。


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フィレンツェ大聖堂のファサードです。


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1491年1月5日、ファサードについての意見を聴取するため、フィレンツェにいた芸術家が集められました。
現在のファサードは1876年創建、1887年に完成しました。


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当日、ルカ・シニョレッリはその集会を欠席した記録が残されてます。既にフィレンツェを離れヴォルテッラに向かっていたかも知れません。



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写真はヴォルテッラです。


18
1491年2月以降、ルカ・シニョレッリがヴォルテッラにいたことは確実でしょう。


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完成後ドゥオーモに設置された「受胎告知」に関するルカ・シニョレッリへの支払い記録が残されてます。


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「受胎告知」の制作料が1491年2月6日、2月20日、3月9日、3月26日、3月28日、4月9日、4月17日、4月20日、5月1日、5月5日、5月13日にルカ・シニョレッリに支払いされた記録が残されてます。
11回の分割払いですから、ルカ・シニョレッリがヴォルテッラにいたことを示す証拠とされてます。


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1491年6月4日、ヴォルテッラ大聖堂の司祭とルカの「受胎告知」のパトロンが「受胎告知」が設置される前に祭壇を飾っていた古い祭壇画を売却しました。
なお、「受胎告知」の11回分割払いの理由は不明です。


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「受胎告知」は市立絵画館で展示されてます。


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ヴォルテッラの市立絵画館で展示されているルカ・シニョレッリの作品です。


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ルカ・シニョレッリのヴォルテッラ滞在中の1491年に制作されました。


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ルカ・シニョレッリの署名と1491と書かれてます。ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会のために制作されました。


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ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会です。


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現在、ロンドン・ナショナルギャラリーで展示されているルカ・シニョレッリの作品です。ルカのヴォルテッラ滞在中の1491年に制作されました。
ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会にありましたが、売却されたのです。



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写真はコルトーナです。


29
1491年8月25日、ルカ・シニョレッリはコルトーナの法務最高責任者に選出されました。このことから、既に、ヴォルテッラからコルトーナに戻っていたことが分かります。
(つづく)

1写真はコルトーナです。


2
1489年4月23日、コルトーナの裁判所における紛争解決の場で、ルカ・シニョレッリは立会人を務めました。


3
この頃から、ルカ・シニョレッリはコルトーナの権力者の一人となりましたが、それに驕ることなく公平、誠実な人柄と相まって人々から信頼を集めました。


4
1489年8月25日、ルカ・シニョレッリはコルトーナの法務最高責任者に選出されました。


5
法務最高責任者の任期中、大きな問題が生じなかったようです。



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写真はヴォルテッラです。


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1490年1月7日、ルカ・シニョレッリはヴォルテッラ政庁から「受胎告知」の正式注文を受けました。


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それに基づいて制作された作品です。


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1491年に完成した「受胎告知」はルカ・シニョレッリの署名と日付が入ってます。ヴォルテッラのドゥオーモに設置されました。


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この作品はドゥオーモから取り外され、ヴォルテッラのPinacotecaで展示されてます。


6
写真はコルトーナのサンタゴスティーノ修道院教会のキオストロです。


7
1490年2月26日、サンタゴスティーノ修道院食堂でルカ・シニョレッリの父エジーディオ・シニョレッリの遺言書が作成されました。
コルトーナの有力者、エジーディオの友人が出席して、遺言書の証人としての署名がなされました。


8
ルカ・シニョレッリは、父エジーディオの相続人の一人として遺言書に言及されました。


14
1490年9月3日、ルカ・シニョレッリが先に(1484年?)購入したサン・マルコ通りの不動産がコルトーナの土地登記簿に記載されました。


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1484年にルカ・シニョレッリは、サン・マルコ通りにブドウ畑、オリーブ畑、栗林に囲まれた邸宅を購入しましたが、登記簿に記載された物件がそれだとすると、登記に時間がかかり過ぎに思います。それとも1484年とは別の物件の登記だった?
この辺は不明です。



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写真はトスカーナのSelvapianaです。


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この辺はキャンティ地区と呼ばれる場所で、ワインの名産地です。


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ルカ・シニョレッリは、Selvapianaのブドウ畑等の不動産を所有したことについて、1490年10月21日と10月22日に、コルトーナのプリオーリと評議会に対して請願書を提出しました。


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具体的な請願の内容は不明のようです。



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写真はフィレンツェです。


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ルカ・シニョレッリの時代、芸術のパトロンとして名高いメディチ家から招聘を受けることは芸術家として名誉であり、金銭的にも重要でした。


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ジローラモ・マッキエッティ(フィレンツェ、1535-1592)の「ロレンツォ・イル・マニーフィコ(フィレンツェ、1449-1492)の肖像」


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この肖像画はフィレンツェ、ウフィッツィ美術館廊下で展示されてます。


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1490年11月16日、ロレンツォ・イル・マニーフィコは「Maestro Luca」宛に手紙を送りました。
1491年、ルカ・シニョレッリはヴィッラ・メディチに滞在していたので、その手紙のMaestro Lucaとはルカ・シニョレッリのことであり、ルカに対する招聘状だったと考えられてます。



25
写真はコルトーナです。


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1490年12月25日、ルカ・シニョレッリは、1491年1月と2月のプリオーリに選出されました。


27
1490年12月27日、ルカ・シニョレッリは息子アントニオを通じて「コルトーナから40マイル以上離れた遠方にいるので、1491年1月の2月のプリオーリ就任は困難」と伝えました。
1490年末、ロレンツォ・イル・マニーフィコからの手紙を受けて、ルカはフィレンツェにいたとされてます。
(つづく)

1写真はコルトーナです。


2
1487年1月1日、ルカ・シニョレッリは1487年1月と2月のプリオーリに就任しました。



3
写真はシエナです。


4
1487年10月15日、ルカ・シニョレッリはシエナにいました。


5
シエナのサンタゴスティーノ教会です。


6
1258年、アウグスティヌス会修道士によって1258年に創建されたサンタゴスティーノ修道院教会の複合施設です。


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サンタゴスティーノ教会のファサード


8
1487年10月15日、高位聖職者、修道士、信者など関係者がサンタゴスティーノ教会聖具室に参集しました。
その集会でエウストキアとアントニオのビーキ兄弟が教会内のテリアッチ礼拝堂の譲渡を受けて、同礼拝堂の床を埋め戻し改築することを誓約しました。以後、旧テリアッチ礼拝堂はビーキ礼拝堂と呼ばれるようになりました。
同席していたルカ・シニョレッリに対して、ビーキ礼拝堂の祭壇画、壁へのフレスコ画装飾が委嘱されました。


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ルカ・シニョレッリのPala Bichi

この時の委嘱に基づいて制作された多翼祭壇画です。
後にビーキ家は没落して教会への寄進が少なく教会にとって重荷になってしまいました。18世紀に教会内部の大改造工事が行われましたが、その際、ビーキ礼拝堂が廃されましたが、それを機に多翼祭壇画はパネル毎に分解されて売却されてしまいました。現在、売却されたパネルは各地の美術館で展示されてます。


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この時の委嘱に基づいて制作された、ルカ・シニョレッリのフレスコ画です。


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教会内部は18世紀に大改造工事が行われましたが、その際、シニョレッリのフレスコ画は塗りつぶされてしまいました。


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近年行われた修復の際、壁の下にあったルカ・シニョレッリのフレスコ画が発見されたのです。


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ルカ・シニョレッリのフレスコ画でさえ、塗りつぶされた時代があったのです。



14
写真はチッタ・ディ・カステッロです。


15
(その6)で触れたように、1486年12月23日、チッタ・ディ・カステッロのサンタ・マリア友愛会がルカ・シニョレッリに対して旗を注文しました。


16
その旗の制作費をルカ・シニョレッリに支払うために、1488年6月19日、サンタ・マリア友愛会の会員が自己所有の不動産を売却しました。会員の氏名が分かってますが、触れるのは冗長になるので省略します。


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1488年7月6日、チッタ・ディ・カステッロのコムーネは集会を開催し、絵画制作の優れた功績により、ルカ・シニョレッリとその息子、および子孫に対する、チッタ・ディ・カステッロの永久市民権が付与されました。
集会の後、祝宴が行われました。


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ルカ・シニョレッリは、祝宴で「永久市民権を得たことは大変名誉なことであり、コムーネのために尽力する」と挨拶しました。



19
写真はコルトーナです。


20
1488年頃、ルカ・シニョレッリはコルトーナとチッタ・ディ・カステッロを何度も往復する毎日を送っていました。


21
1488年8月25日、ルカ・シニョレッリは1488年9月と10月のプリオーリに選出されました。


22
1488年9月1日、ルカ・シニョレッリは、1488年9月と10月のコルトーナのプリオーリに就任しました。


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確実な記録が残されていない祭壇画を受注していました。



24
写真はチッタ・ディ・カステッロです。


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サン・ドメニコ教会前にサンタ・マリア友愛会の本部がありました。


26
前述のように、1486年12月23日、サンタ・マリア友愛会はルカ・シニョレッリに旗を注文しました。


27
その旗の代金をルカ・シニョレッリに支払うため、サンタ・マリア友愛会の会員が自己所有の不動産を売却しました。


28
(つづく)

3写真はスポレートです。


4
1485年1月10日、ルカ・シニョレッリはスポレートにいました。


5
サンタガタ教会です。聖別されなくなって久しい教会です。


6
サンタガタ女子修道院教会の複合施設はローマ遺跡の上に建設されました。サンタガタ教会の後陣はローマ劇場と接してます。


7
サンタガタ女子修道院だった建物です。


8
1485年1月10日、ルカ・シニョレッリは、サンタガタ女子修道院長から祭壇画制作依頼を受け、契約が締結されました。
スポレートを管轄する枢機卿、スポレート司教、公証人などが契約締結に立ち会いました。
制作料は60フローリンで、着手金、中間、完成時にそれぞれ20フローリンの支払いを受けることになっていました。


9
作品の図柄は予め指定されていて、「聖母子と大天使聖ミケーレ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖アガタ、聖クララ、殉教の聖アガタと聖ヤコポ」となっていました。
サンタガタ女子修道院教会の記録が失われ残っていませんが、作品は1486年に完成し、主祭壇に設置されたことは確かとされてます。
ルカ・シニョレッリの作品は、サンタガタ教会が聖別されなくなった時には既に教会になかったそうです。また、この図柄の作品は行方不明となってます。


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第213代教皇インノチェンツォ8世(ジェノヴァ、1432-ローマ、1492 在位:1484-1492)の肖像

1485年3月、マルチェッロ・ヴェヌーティ枢機卿は、サンタガタ教会祭壇画のルカ・シニョレッリとの契約書をインノチェンツォ8世に示して報告した記録が残されてます。



11
写真はコルトーナです。


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1485年2月22日、ルカ・シニョレッリは18人会議に召集されました。


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1485年6月26日、ルカ・シニョレッリがコルトーナで小麦粉の代金を支払いました。
どうしてこのような記録が残されているのでしょうか? 私には全く分かりません。小麦粉を買うのはごく普通の行為であり、代金を支払うのが当然、それにも拘らず、今日まで記録が残っている!!


14
1485年8月25日、ルカ・シニョレッリはコルトーナの最高法務責任者に就任しました。


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コルトーナの高位公職就任が相次ぎます。



1
写真はチッタ・ディ・カステッロです。


2
1486年12月23日、ルカ・シニョレッリはチッタ・ディ・カステッロにいました。


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チッタ・ディ・カステッロのサンタ・マリア友愛会からゴンファローネの制作依頼を受け、その契約締結の儀式が1486年12月23日に行われました。


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その当時、サンタ・マリア友愛会の本部がサン・ドメニコ教会向かいにあり、儀式はサン・ドメニコ教会前の広場で行われました。


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サン・ドメニコ教会です。


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制作料は金貨15枚でした。


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サン・ドメニコ教会の入り口


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サンタ・マリア友愛会の本部は写真左手前にあったそうです。また、通りはルカ・シニョレッリ通りと名付けられてます。


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この時、制作された作品がチッタ・ディ・カステッロの市立絵画館で展示されてます。


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ゴンファローネなので表裏両面に描かれてます。


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写真はコルトーナです。


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1486年12月25日、ルカ・シニョレッリは、1487年1月と2月のプリオーリに選出されました。
(つづく)

1
写真はコルトーナです。
画業、公職で多忙な毎日を送っていたに違いないルカ・シニョレッリの1483年の記録は一つだけでした。


2
1483年12月25日、ルカ・シニョレッリは息子の教育費支払いを行った記録が残されてます。


3
写真はペルージャです。


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ペルージャのサン・ロレンツォ大聖堂です。


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ドゥオーモのファサード


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ペルージャのサン・ロレンツォ大聖堂の内部


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サン・ロレンツォ大聖堂のサン・オノフリオ礼拝堂の主祭壇画がルカ・シニョレッリの作品です。その祭壇画の額縁に1484年と記されてます。そのため、その作品は1484年に制作されたと特定されてます。


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その祭壇画は、ドゥオーモ作品博物館で展示されてます。


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ルカ・シニョレッリの「サン・オノフリオの祭壇画」(1484)


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制作を依頼した時の契約書や制作費の支払い記録などは残されていないようです。


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コルトーナの城壁外の南斜面にカルチナイオ地区があります。


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カルチナイオ地区にあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会です。


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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のファサード側

カルチナイオ地区は石灰岩を産することから皮鞣し業が盛んでした。
1484年の復活祭の日曜日、皮鞣し用桶に描かれた聖母子が奇跡を起こしました。その聖母子は信仰を集め、直ぐに、その聖母子を主祭壇とする教会の建設が決まりました。
しかし、カルチナイオ地区は急峻な地形と強度が弱い石灰岩の土壌、下を流れる小川の存在から、教会の設計上、非常に困難と思われていました。
皮鞣し工場を所有する靴職人組合の代理を務めていたルカ・シニョレッリは、教会の設計を予てから知己のあった建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)に依頼することにしました。
1484年6月17日、ルカ・シニョレッリは、フランチェスコから設計図を貰うために、グッビオへの旅費を支払いました。このことにより、当時、フランチェスコはグッビオにいたことが分かります。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの設計によって1485年に創建され、16世紀第1四半世紀に一応の完成をみました。

フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニは、1475年から1477年にかけてウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公に仕える宮廷建築家でした。ウルビーノで互いに見知ったとされてます。


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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の主祭壇


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奇跡の聖母子


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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にはルカ・シニョレッリの作品がありませんが、ルカ・シニョレッリ派逸名画家による作品があります。
これは、そのうちの一つ「マギの礼拝」


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家作「無原罪の聖母と聖人たち」


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家作「受胎告知」


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1484年11月23日、ルカ・シニョレッリは土地を買いました。


28
その土地はサン・フランチェスコ修道院の横にありました。


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最近の研究によって、ルカ・シニョレッリが買った土地が特定されました。


27
その場所はサン・マルコ通り12番地と分かりました。
ブドウ畑、オリーブ畑、栗林に囲まれた、広い土地でした。


26
(つづく)

1写真はチッタ・ディ・カステッロです。


7
確証がありませんが、地元チッタ・ディ・カステッロでは地元におけるルカ・シニョレッリの最初の作品は1474年に遡ると言われてます。


2
市立絵画館となっているPalazzo Vitelliです。


3
市立絵画館で展示されているルカ・シニョレッリのフレスコ画断片


6
「聖母子と聖人たち」のフレスコ画における聖パオロ(1474)とされてます。


4
Torre del Vescovoにありました。


5
チッタ・ディ・カステッロのTorre del Vescovo


8
コルトーナに戻ります。


9
ルカ・シニョレッリは、1481年8月25日、コルトーナの評議員に選出されました。


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画家としての制作、工房の運営、コルトーナの公職と多忙だったことが分かります。


11
写真はローマです。


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ヴァティカン


13
1481年10月27日、ルカ・シニョレッリは、システィーナ礼拝堂における10枚のフレスコ画の契約を締結しました。


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システィーナ礼拝堂の注文を受けたことで、この当時、画家としてのルカ・シニョレッリの技量がかなりのものと評価されていたことが分かります。


15
写真はウルビーノです。


16
ウルビーノの宮廷画家ジョヴァンニ・サンティ(ラッファエッロの父)が、1482年、La Vita e La Gesta di Federico di Montefeltro Duca d’Urbinoの中で、ルカ・シニョレッリについて言及しました。


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ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂です。


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ヴァティカンの使徒宮殿 Palazzo Apostolicoです。


20
1482年1月17日、ルカ・シニョレッリは使徒宮殿に招聘され、5人の枢機卿、司祭の出席の下、第212代教皇シスト4世(1414-1484 教皇在位:1471-1484)の名に基づいてシスティーナ礼拝堂北壁のフレスコ画制作の見積を行い、制作するフレスコ画の内容大略、報酬などが決定されました。


18
それに基づきフレスコ画の制作が着手されました。


21
ルカ・シニョレッリと共にペルジーノ、ボッティチェリなども出席したと考えられてます。


22
写真はルチニャーノ(トスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネ)です。


23
1482年10月16日、ルカ・シニョレッリはサン・フランチェスコ教会の礼拝に召集を受け、ルチニャーノにいました。


24
写真はルチニャーノのサン・フランチェスコ教会です。

ルカ・シニョレッリは、ルチニャーノのサンタ・マリア・ディ・ルチニャーノ友愛会からサン・フランチェスコ教会のタベルナコロへのフレスコ画制作を依頼されていました。
ルチニャーノを訪れたルカ・シニョレッリは、18ドゥカート金貨の報酬でタベルナコロへのフレスコ画制作に関して1482年10月16日付で契約を締結しました。
契約では、契約締結日から10日以内に制作に着手し、1年以内に完成させると定められてます。
現在、ルチニャーノのMuseo Comunaleにルカ・シニョレッリの作品が2点ありますが、それらの制作された時期がこのタベルナコロ・フレスコ画のそれとは異なります。
従って、タベルナコロ・フレスコ画は既に失われて現存しないと考えられてます。


25
参考までにルチニャーノのMuseo Comunaleに展示されているルカ・シニョレッリの作品2点の写真を載せておきましょう。
「聖母子」(1494-96c)


26
ルカ・シニョレッリに帰属する「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1510-12)
(つづく)

17写真はウルビーノです。


18
年月を特定する記録が残されてませんが、ルカ・シニョレッリは、1475年頃ウルビーノにいたと考えられてます。
旅の前後にマルケを訪れ、ファブリアーノと何らかの接触があったと考えられてます。


11
写真はファブリアーノです。


12
ファブリアーノの同信会 Confraternita dei RaccomandatiからStendardoの注文を受けました。


13
その注文されたStendardoが残されており、ミラノのブレラ絵画館で展示されてます。


14
Stendardoなので表裏両面に描かれていますが、ブレラ絵画館では表と裏が別々に展示されてます。


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19
写真はロレートです。


20
ロレートの聖母の家の聖堂です。

ルカ・シニョレッリは、1477年から1480年にかけてロレートを訪れました。その間、ルカ・シニョレッリがコルトーナにいたことを示す記録が残されているので、コルトーナとロレート間を何回か往復したと考えれてます。


21
聖母の家の聖堂内にある「聖母の家」です。


22
聖母の家の聖堂のサン・ジョヴァンニ聖具室に描かれたルカ・シニョレッリのフレスコ画


23


24
聖具室内への立ち入りが禁止されてます。


25
フレスコ画が描かれたころは、ルカ・シニョレッリは師匠の模倣を脱して、独自の画風を確立したことが分かります。


26


1
写真はコルトーナです。


2
コルトーナのサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会です。


3
サン・ミケーレ・アルカンジェロ教会の後陣
後にルカ・シニョレッリはこの教会と幾度となくコンタクトがありました。

ルカ・シニョレッリは、サン・ミケーレ・アルカンジェロ教会のカウンタファサードのポータル上に設置される作品を制作しました。
この作品は現存していないと思われます。


4
ルカ・シニョレッリは、その制作費として、1478年5月1日と1478年7月22日の2回に分けて支払いを受けました。


5
コルトーナのPalazzo Comunale


8
ルカ・シニョレッリは、1479年9月6日、十八人評議会の評議員に選出されました。
この後、数々の公職を務めることになりました。


6
コルトーナのPalazzo Casaliです。


7
ルカ・シニョレッリは、1479年11月28日、Conservatori delli Ordinamenti del Comuneに就任しました。組織の管理者です。


9
1480年2月23日、ルカ・シニョレッリは、3月と4月のComuneのPriorに選出され、1480年3月1日、Priorに就任しました。
1480年3月27日と4月13日のプリオーリ会議を欠席した記録が残されてます。


10
1480年8月26日、最高法務責任者に選出されました。
(つづく)

1写真はアレッツォです。


4
ルカ・シニョレッリが1470年にコルトーナにいたことを示す記録があるので、1470年までにアレッツォからコルトーナに移住したことが分かります。
ピエロ・デッラ・フランチェスカの工房がアレッツォにありましたが、ルカ・シニョレッリはピエロの工房の一員として制作していたようです。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ工房による作品のうち、次の3つの作品がルカ・シニョレッリのものであるとの説が美術史家バーナード・ベレンソン(ブトリモニス、1865-フィエーゾレ、1959)によって提起されました。
ヴァザーリの「列伝」によれば、「師匠を模倣し、さらには凌駕しようと躍起になっていた。師匠の作風を忠実に模倣したため、ピエロとルカの区別は殆どつかなかった」と述べられてます。
このことは以下の3つの作品は観ればよく分かると思います。


2
ピエロ・デッラ・フランチェスカ工房(ルカ・シニョレッリ?)による「聖母子と三天使」(1470c)
オックスフォードのクライストチャーチ絵画館にあります。


3
ピエロ・デッラ・フランチェスカ工房(ルカ・シニョレッリ?)による「聖母子と天使」
ボストン美術館にあります。


5
ピエロ・デッラ・フランチェスカ派画家(ルカ・シニョレッリ?)の「聖母子」
ヴェネツィアのヴィットリオ・チーニ・コレクションにあります。


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以上の三作品は、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作風に近似してます。
1470年までにルカ・シニョレッリはアレッツォを離れ、生まれ故郷のコルトーナに戻りました。


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写真はコルトーナです。
コルトーナに戻ったルカ・シニョレッリの住居は分かってません。後にルカは、ブドウ畑、栗林に囲まれた邸宅を構えましたが、その場所はサン・フランチェスコ教会至近のサン・マルコ通り12番地と分かってます。


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1470年頃、ルカ・シニョレッリは結婚しましたが、結婚した場所、日時など詳しいことは不明です。しかし、妻の名前、子供の名前(四人の子宝に恵まれました)は分かってます。


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コルトーナのサン・フランチェスコ教会です。


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ルカ・シニョレッリが密接な関係を持った教会です。


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サン・フランチェスコ教会にルカの墓があります。


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1470年以前にルカ・シニョレッリはサン・フランチェスコ教会から仕事を依頼されました。


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現在のオルガン


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注文された仕事とはオルガンの絵付けです。
ルカが絵付けをしたオルガンは現存してません。


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ご参考に「オルガンの絵付け」例の写真を載せておきます。
オルガンには蓋があり、蓋の開閉時に絵が見えるように描かれるのが普通でした。つまり蓋の表裏両面に描かれるのが一般的でした。時にはオルガン下に裾絵が描かれることがありました。
写真はポルデノーネの作品です。

1470年10月7日、ルカ・シニョレッリはサン・フランチェスコ教会からオルガンの絵付け制作の支払いを受けました。


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コルトーナのドゥオーモです。


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1470年10月29日、ルカ・シニョレッリは大聖堂参事会に対して5リラを支払いました。支払い文書にfiancho pisonoと書かれています。(居眠りの大失敗? 罰金でしょうか?)


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ドゥオーモの内部


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次はコルトーナの城壁外にあるサン・ドメニコ教会です。


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サン・ドメニコ教会です。


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その存在が1258年の文書に初めて記載されたそうです。


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現在でもルカ・シニョレッリの作品があります。
ルカ・シニョレッリはGonfaloneの制作を行い(旗ですから表裏両面に描かれていたと思います)、その制作費として、1476年5月1日、同年7月28日、8月22日、8月26日、9月16日、9月27日、12月10日と7回に分けて支払いを受けた記録が残されてます。
このGonfaloneは現存していません。


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後陣


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後陣左礼拝堂の祭壇画がルカ・シニョレッリの作品です。


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ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たち」(1515)


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(つづく)

1写真はコルトーナのサンタゴスティーノ門です。

ルカ・シニョレッリ(本名ルカ・エジーディオ・ルカ・ディ・ヴェントゥーラ)は、1441年頃、または1445年頃、または1441年と1445年の間にコルトーナで生まれました。父のエジーディオ・ディ・ヴェントゥーラ・シニョレッリは、コルトーナの画家でした。しかし、私は父の作品を見たことがありません。
その生地ですが、コルトーナにおける具体的な場所については幾つかの説があるようです。


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サンタゴスティーノ門からコルトーナの中心地に通じるグエルファ通りです。通りの写真左にサンタゴスティーノ修道院教会があります。

生地の具体的な場所として、サンタゴスティーノ修道院教会近く説があります。


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サンタゴスティーノ修道院教会のキオストロ


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サンタゴスティーノ修道院だった建物


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1464年7月12日がルカ・シニョレッリの最初の確実な記録です。
生まれてから約20年ほどが空白の期間になります。


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写真はサンセポルクロです。

ルカ・シニョレッリの師匠はピエロ・デッラ・フランチェスカです。このことについては、ピエロ・デッラ・フランチェスカの数学上の弟子であるルカ・パチョーリ、ルカ・シニョレッリの甥ジョルジョ・ヴァザーリ、ウルビーノの宮廷画家ジョヴァンニ・サンティ(ラッファエッロの父)によって言及されています。


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ルカの弟子入りが何時だったのか、具体的には不明とされてます。


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アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂です。


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サン・フランチェスコ聖堂の中央礼拝堂です。ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画「真の十字架の物語」で有名です。


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ピエロ・デッラ・フランチェスカの「真の十字架の物語」は、1452年から1458年までと、1460年頃から1466年までの二期に分けられて制作されましたが、ルカは1462年頃にアレッツォに滞在中のピエロ・デッラ・フランチェスカに弟子入りしたとの有力説が存在します。


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ピエロの弟子ルカ・パチョーリの言及によれば、ボルゴ・サンセポルクロでピエロに弟子入りしたとされてます。ジョヴァンニ・サンティの言及からピエロに従ってウルビーノに赴いたと考えるのが自然でしょう。


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ピエロ・デッラ・フランチェスカの家です。


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ピエロ・デッラ・フランチェスカ財団となってます。


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この家はピエロの生家であり、ピエロが居住していました。ルカはこの家に住み込んで修行したと考えられてます。


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写真はアレッツォです。


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ジョルジョ・ヴァザーリの「列伝」によれば、「青年時代、師匠を模倣し、さらに師匠を凌駕しようと躍起になった。アレッツォで師匠と共に制作活動を行った後、アレッツォのヴァザーリ家の家に住むようになった。師匠の作風を非常に忠実に模倣したため、ピエロ・デッラ・フランチェスカとルカ・シニョレッリの区別は殆ど付かなかった」と書かれてます。


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写真はアレッツォのサンティッシマ・トリニタ教会です。


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1348年に創建されました。1734年にバロック様式に改造されました。


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サンティッシマ・トリニタ同信会の教会として創建されましたが、同同信会はピエロ・デッラ・フランチェスカに対してStendardo(旗)の注文を行い、その制作費が1464年7月12日と1465年12月10日の2回に分けてピエロに支払われました。
この作品について、ヴァザーリは、師匠であるピエロ・デッラ・フランチェスカがサンティッシマ・トリニタ同信会との窓口となっていたため、制作の契約と支払いは師匠経由となっていたもので、実際はルカ・シニョレッリが制作し、代金はルカに支払われたと記してます。


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サンティッシマ・トリニタ教会の内部


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ルカ・シニョレッリが描いたとされるStendardo(表裏両面が描かれています)には契約によってサンティッシマ・トリニタ同信会の紋章が描かれている筈ですが、そのような作品は現存しません。


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ルカ・シニョレッリの最初とされる作品は何らかの理由によって行方不明ということです。


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次のルカ・シニョレッリの記録は1470年になります。


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(つづく)

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